Style of usually


1、つまり結局は、他愛ない。

 十月も半ば過ぎになると、随分と景色が様変わりし、つい先日までの京都特有の連日の酷暑も感傷的な記憶の片鱗でしかなくなっていた。その古都の北に位置する、無愛想なコンクリートと化粧煉瓦の建物が林立する構内ですら、ゆっくりと生命的な温もりが感じられるようになっている。
 なるほど、この時期は時候でいうと仲秋。二十四節季でいうと、霜降にあたる。流石に霜はまだ早いにせよ、英彦(ひでひこ)の横を通り抜ける風は、蒼穹を駈けるこの季節のそれだった。
 もう数日もすれば、コートを出さなければならなくなるだろう。
 大気中の冷気をふんだんに取り込んだコンクリートの壁に凭れ、煙草を銜えながら軽く目を伏せる。
 つい先日から、到頭この私立文黎(ぶんれい)大学にも世間の新常識である、禁煙の動きが見られるようになり、食堂やロビーでの喫煙が憚れるようになってしまった。この様子では、遠からず構内の販売機撤廃も考慮される。学生時代から煙草を手放せない生活をしている英彦としては、取り敢えず自分の研究室と屋外で吸えればよしとはいえ、愛飲の銘柄のある身近な自販機を失うのはやはり惜しかった。
「――せんせぇ、緋川(ひかわ)先生ぇ!」
 女性特有の甲高い声に名を呼ばれて、仕方なしに眼球だけをそちらに向ける。髪を明るい茶に染めた学生が、ちょうど手前の校舎から走り寄って来るのが、紫煙でぼやけた視界に映った。
「こんなとこで、何してはるんですかぁ?」
 軽い口調ではあるが、不必要に伸ばした語尾には別種の重みが被さっていた。彼女の自分に発する問いには、最近殊に揶揄が内包されているような気がする。英彦自身、自覚があるだけにどうしようもないが、それでも気分のいいものではない。とはいえ、知らず漏らした嘆息と眉間の皺ですら、失笑を誘うこととなるため、もはや無視という最も消極的な対処法で応えるしかなかったが。
「センセ?」
象原(きさはら)。来週のレジュメはどうした?」
 我ながら稚拙な話題変換だと思いながら、学生時代より愛用している腕時計に目を遣る――二時十八分。
「発表内容によっては、単位は出せないからな」
「出来る限り努力します、です。ハイ」
 あと、二分。
「そうだろうな。俺も君と来年も同じ講義で顔を合わせたくはない」
 どうせ来年は来年で卒業論文の個人指導で顔を合わすことになるだろうが、とは内心で苦々しく零す。
「その時は何卒、鞠明(まりあ)ちゃんの顔に免じて情状酌量のほどを……」
「何故そこで有村(ありむら)が出てくるんだ」
 意識する以上に不機嫌も手伝って、黙殺的視線、と陰で囁かれる凄みのある冷眼で茶髪を見下ろす。
「さぁ、なんででしょう?」しかしそれも、けろりと返され「あ、ウチこれから、サークルに顔出さなあかんので……でわぁ」飄々とした笑みのまま、足早に逃げられてしまった。
 こんなふうに一部の学生に徒に茶化されて弄ばれる、それすらも最近になって日常化したことで。思わず再度、長息する。
――それにしても、遅い。
 次々と入り口から吐き出されていく学生の群れを横目に、携帯灰皿に煙草を押し付ける。ちらちらと掠める顔見知りの幾人かは、助教授の倍増した不機嫌と凶悪な気配を感じ取り、そそくさと彼の前を通り過ぎていく。
 新たにもう一本煙草を取り出して、火を点ける。大きく息を吐くと紫煙が辺りに拡散し、やがて虚空に消える。

“こんなとこで、何してはるんですか”

 確かに以前の自分なら、こんなふうに人を待つなんて考えもしなかっただろう。否、例外を除けば今でもそうだ。
「――まぁなにしろ、俺の天敵らしいからな」


 だからこそ、こういう時間がある。


2、この世界にしか、逃げる道がなかったから。

 緋川英彦が29歳という若さで私立文黎大学社会学部の助教授になれたのは、偏に彼の勤勉さとそれ以上の幸運によるものだろう。国公立と比べ持ち上がり昇進のチャンスがある私立大学でも、二十代で助教授というのは異例であったし、況してや革新の回転が比較的緩やかな文系ともなると奇跡的と言える。
 ずば抜けた才能に恵まれていたわけでもなく、自己主張や売り込みに長けていたわけでもない。唯一やや恵まれていた容姿以外は、凡庸な、聊か面白みに欠ける人物。それが彼という人間だった。
 十八の春の上洛以来、彼の生活は常に大学を中心に回っていた。日々の講義、演習、そして研究。根暗の上に無愛想という冠を頂いていた彼にとって、人生で最も質的な知友に恵まれる学生時代でも、付き合いは精々同門のみ。見映えだけはする所為か、そっちの方面には不足することはなかったにせよ、彼の周囲に一定の人間が長時間存在することはまずありえない。他人に執着を感じない、固執しない。だから必要外に依存もしない。それが彼、緋川英彦のスタイルだった。
 本当に、それがすべてだった。望む、望まざるは関係なく、それが日常だったのだから。――そう、安寧な世界での十二回目の春、その時までは。

「……つまりテンニースの言う、自然的・有機的な人間結合であるゲマインシャフトから、人為的・機械的結合を指すゲゼルシャフトへの移行は、」
 空間を霞み模様が支配するような、四月末の午後。高学歴化に伴う学生獲得策の一計として建てられた新しい校舎の一室で、ちょうど助教授に就任して二年目の彼は社会学部一回生の専門必修講義を行っていた。
 授業が開始して二週間目ということで、まだまだ出席率も高く、私語や居眠りもない。尤も彼が学生に求めるリポートや定期試験はこの上もなく厳しかったので、出欠は取らない、私語、居眠りは見つけ次第即退室であろうとも、普段とそう変わりはなかった。教師には教える義務があるが、学生には学ぶ権利がある。よって講義に出ないのは自由だが、講義の邪魔をするのは他の学生の権利侵犯に値する、という彼の基本思想がそれを意味している。
 このような、大部分の講師なら先ず機嫌よく行えるような授業状態のまま、その日の講義も終了した。終わると同時に隣と喋り出す者、荷物片手に早々教室を後にする者――それぞれが一通り去った後で、英彦はゆっくりと黒板を消しにかかる。まだ日が浅い所為か質問に来る者もなく、また次の講義にはこの教室は使われないので、漸く消し終えた数分後の室内には彼一人が残っていた――ように思えた。
 研究室に帰ろうと、テキストと上着を手にふと振り返ったその先――そこに一人の女子学生の姿があった。
 教室の半分よりは後ろの窓際の端という、ある意味絶好のポジションで、彼女は机に突っ伏していた。陽光に染まった髪と肩先が、呼吸のリズムに合わせて微かに上下し、その隣に散らばった市販のレポート用紙が、数枚その下敷きとなっている。一見しただけで、先程の講義のノートではない。まさに、典型的な授業放棄のスタイル。
 そのまま放っておいたところで、英彦自身には何の関わりもないこと。精々、今日の講義内容を学期末試験に出すなら、脱落者が一人確定したという程度で。否、こういういい加減な人間ほど、試験前に講義ノートを入手して要領よくパスするかもしれないが……どちらにせよ、関係はない。さっさと研究室に帰ればいい。そう結論づけたのに――実際には、彼は彼女の頭に向かって「おい」と声をかけていた。
 瞬間後、自分が声をかけたという事実に茫然としている英彦に、彼女はびくりと大きく身じろいで、ぱっと顔を上げた。同時に大きく左右に首を振り、辺りを見回す。寝惚けているのか、状況が飲み込めていないのか――おそらくその両方だろうが――黒目がちの眼をしきりに瞬かせる。く、とその眼が合った瞬間、日本人の平均的なそれより随分黄みが勝っているな、と英彦は感覚的に思った。
「……私の講義で内職してた上に居眠りとは、大した度胸だな」
 晩春の陽光に透ける薄茶色の頭――近年の学生によく見られるような人口塗料で染めているのではなく、地毛らしい――に、レポート用紙をひらひらさせ言ってやる。なんとか落ち着いて声を出せたと、自身で確認しながら。
 自分の頭上で舞うそれを、彼女は認識したのと同時に、元々大きめの目を更に見開いた。
「――へっ? ……あ、うわぁ、す、すいません!」
 ひったくるように英彦の手からレポート用紙を取り戻し、大仰に頭を下げる。拍子にショートとセミロングの間くらいの長さ髪が、ふわりと中空に踊った。頭を上げると、大学生というより高校生か、ともすれば中学生にも見える、色白の童顔の頬が羞恥に染まっているのが窺える。"すいません"という言葉の発音が、その容姿に反してべたべたの大阪弁というのが少し妙な気がした。
 全体的に小作りな顔の中で一際目立つ(はしばみ)色の瞳に、表裏対象の自分が映っている。英彦は、そのことにひどく不可思議なものを感じ、暫し茫然と彼女の顔を見つめた。彼女はそれを無言の怒りと受け取ったらしく、レポート用紙を集めながら、双肩を窄ませてこちらの顔色を窺っている。
「じゅ……授業はもう終わったんですよねぇ……?」
 ややあって、気まずそうに上目遣いで訊ねる声に、英彦は我に返って頷いた。
「君は、全く聞いていなかったみたいだが」
「――すみません」
 レポート用紙をちらりと一瞥して、彼女は再び項垂れる。
「やりたいことがあるなら、別に出てきてもらわなくても結構だ。私は一向に構わない。出欠は取らないし、リポートと試験さえパスできれば単位は出す。……しかし、この講義は一応、社会学の基礎中の基礎だから、この後のことは保証できないからな」
 すぅっと目を細めて、わざと苦笑する。やっと自身のペースを取り戻せて来たと、内心安堵を零したが、皮肉を当てられた本人は予想に反してほんの少し微笑んだ。
「あ……でも、あたし社会学部じゃありません」
「社学じゃない? ――じゃあ、聴講生か」
 聴講生のくせに居眠りか、と言外に滲ませて呟く。
「教育学部の、生涯学習学科です。――あのぅ、寝るつもりはなかったんですけどぉ……」
 何か言い訳をしようと澱ませる声を無視して、英彦は片眉を上げた。
「生学? 言っておくが、生学の社会学概論と、この講義である社会科学概論とは違うぞ?」
 毎年この種の勘違いをして講義登録をする学生が数人いることは、事務職員でなくても周知のことだ。そういう連中に限って、後々抗議をけしかけてくるのだから。
「わかってます……単に、興味があって聴きに来ただけですから」
 下手な弁解は更なる叱責を呼ぶだけと判断したのか、彼女は大人しく首肯した。
「なるほど。――で、名前は?」
「え?」
「私の講義を態々聴きに来てくれてるんだ、次からは居眠り出来ないよう講義中に意見を求めることにしよう」
 押さえ込むように机上に手を突いて、僅かに口角を歪め提言する助教授に、哀れないち学生は顔色を失つつも覚悟を決めるより他なかった。
「……有村鞠明です」


 それが、彼らの発端だった。


3、だから、変化とも言えるかもしれない。

 どうせこれっきり、だろう。
 英彦のそんな考えは、次の週に見事に打ち砕かれることとなった。実際、受け持ちのゼミ生でもない学生のことを七日明けても覚えていたということ事態、彼にすれば奇跡に近い。しかし彼がそんな凡そ教育者らしからぬ教師であるように、鞠明もまた、ごく普通の女の子らしからぬ捻くれた根性の持ち主であったらしい。
 宣戦布告。最前列真正面の席でやたらと真剣にメモを執る様を見せつける、見覚えのある顔が視界に入った時、そんな単語がふと英彦の脳裏を掠めた。一応こちらとしても宣言通り意見を求めたが、それも見事に適確且つ論理的な応えが返されてしまう。どうやら、多少なりと予習をして来たようだ。
「あたし、これでもニ回生ですから」
 してやったりとでも思ったのか、彼女は講義が終わると同時に教壇の下にやって来て、そう言い遣った。言ったついでとばかりに嫌味に口角を歪めたが、英彦と違って地が愛嬌のある顔なので、実際の効果は半減してしまっている。然も、相手が英彦では意味がないも同然だろう。
「まぁ他学部とはいえ、同じ文系。しかも一回生向きに随分と噛み砕いた講義だからな」
「ですね」
「しかし、折角だ。ひとつ二回生の君に頼みたいことがあるんだが」
「なんですか?」
 癖なのか、僅かに首を傾げて問う。そんな仕草が童顔をますます幼く見せていることに、当の本人は気づいていないらしい。
「次回の講義の終わりに集める小リポートを、私の研究室まで持ってきて貰いたい。来週のこの後に会議が入ってしまって、一旦研究室まで帰る余裕がない。本当なら、ゼミの学生に頼もうと思っていたんだが――他学科なのに態々私の拙い講義を聴きに来てくれる優秀かつ勤勉な学生が、幸いにして来週も来てくれる様だし」
 ちらりと鞠明の方を見て、わざと唇の端を上げてみせる。先程の彼女のそれと同種といえ、その効果は比べ物にもならない。
「うわっあ、そおいう言い方って拒否権ないやん」
 唇を尖らせて、ぼそりと鞠明は呟く。
「頼まれてもらえるかな、生学二回生の有村君?」
 端から二人のやり取りを傍観していた数人の社会学部の一回生達は、鞠明に対して同情と憐れみの念、そして少なからず内包される好奇の視線を送る。
「――あぁっ、もう、わかりました! わかりましたよ、リポート集めて持ってけばええんですね!?」
 ぷいっとそっぽを向きながら、頬を膨らませて、忌々しげにそう噛みつく。そもそもが自らふっかけた喧嘩であったとは、最早次元外に思えた。
「悪いな、本当に。講義の受ける時間すら惜しい程に忙しい、生涯学習学科二回生の有村鞠明君に、こんな雑事を頼まなければならないなんて」
「一々学科回生とフルネームで、言わんといて下さい」
 形のいい眉と唇を歪ませて、ぎりっ、と鞠明は英彦を睨んだ。


 しかし結果とは、もしかするとそうそう偶発的なものではないのかもしれない。


「――うわぁ、そら災難やったなぁ」
 退屈の上に結論の出なかった会議から開放され、研究室のある廊下まで来た時、不意にそんな声が聴覚を刺激した。元々は教室として設計されたこの階の研究室は、近く新たに建設中の研究棟が出来次第の謂わば仮住まいの所為か、壁が非常に薄い。それは先達ての震災で崩壊しなかったのが奇跡とも言える代物で、防音性能など無いに等しかった。
「そやけど、それって緋川センセにしては、ごっつ珍しいことなんとちゃう? なぁ、(わたり)ぃ?」
「そうだよなぁ。なんつーか、先生は自分から人に話し掛けるタイプの人じゃないもんな」
「――そうなんですか?」
 その姿を視界に入れるまでもなく、英彦にはその三者が誰であるか容易に判断できた。
 くそっ、ただでさえ会議で疲れているのに。
 大体、会議というものの必要性は、一体どこにあるのだろうか。英彦は学内、学部会議の度にそう思う。
 単に、互いの意見の論じ合い、その結果を民主的な手法に基づいて決定を下すのなら、学内LANを利用すれば、ネット上でも十分に可能なわけで。その方が互いの時間節約にも、無駄な労力消費の削減にも、有益となる。まさか、今時パソコンのひとつも扱えない大学関係者などいる筈もない。
 そもそも、どうして自分の意見を他人の意見を聞いてからでないと言えない人間が、最高学府に籍を置いていられるのだろう。おまけに、いざ自分の意見を言うにしても、それを考えながら述べるというのは一体どういうことなのだろう。意見というものは、自分自身の意思表示の中でもその最たるものである。それを他人の前に提示する場面に於いて、己の中で予め筋立てをしておくことが、世間の常識ではないのだろうか。
「んー。そりゃぁ、助教授なんだから人付き合いとかで、いろいろ喋んなきゃならない時もあるだろうけど……。授業以外の雑談に関しては、俺らみたいなゼミの連中くらいとしかしないな」
「そうそう。たまぁに喋っても、ほんの気まぐれ程度やしねぇ。――ほら、先生って見かけはええ男やろ? そやから結構、ファンの子っておんねんけどなぁ。その子らが幾ら話し掛けても、上手く躱されてまうんやって。……まぁ、そこがまたええんや、ってその子らは言うとったけどな」
「そういえば、そういう感じの人たちが、確かにいてはりました。完全に無視されとったけど」
「わかんねぇなぁ。相手にしてもらえないのの何処がいいんだ?」
「さぁねー、ウチにもようわからんわ。でもまぁ、そーいうことから考えてみても、先生きっと、鞠明ちゃんのこと気に入ってはんのやわぁ。 ……実は、ロリコンの気があったりしてぇ」
「……あたしってそんなに子どもに見えます?」
「子どもって言うか、可愛いって感じや……あ、センセ……」
 しまった、という表情を浮かべる一人と、ぎょっ、として振り返る他二人に、英彦はどうしようもない疲れを感じて嘆息した。
「人の噂は、せめてもう少し音量を下げて、するべきじゃないのか?」

「ってゆーか、ちゃんとドアが閉まっとらんかったんやん」
 扉の傍でそう叫んだのは、社会学部三回生で社会学演習のゼミの学生、象原百夜(ゆや)
「しょっちゅうゴミが詰まって引っかかっるんだよな、そのドア」
 そう呟いて、縁なしの眼鏡を押し上げたのは、同じくゼミ生の、宗方(むなかた)弥。
「あたしが最後まで見てなかったのが、悪かったんですね」
 その言葉の割にあまり反省してなさそうな声は、本来ならこの場にいる筈のない、教育学部生涯学習学科二回生の、有村鞠明。
 あまりにも暢気なその三人の会話に、英彦は呆れて返す言葉もなく、自分の椅子に身体を預けた。ぎしり、と耳慣れた金属の悲鳴が、上着の向こうで響く。ネクタイに人差し指を引っ掛けて緩めながら、会議用のファイルを投げ出そうとして、お世辞にもあまり整頓されているとは言えない机の上に、キチンと四隅を揃えて置かれている紙束に気づいた。
「あ。リポート、机の上に置いときましたから」
 すかさず、鞠明の声が飛ぶ。
「あぁ。ありがとう」
「それじゃあ、あたし帰ります。……どうも、お邪魔しました」
 言葉と同時に、ぺこん、と頭を下げる。先日と同じように舞う髪に――あぁ、そうか、麦の穂に似ているのか、とぼんやりと英彦は思った。――もう随分昔、子どもの頃に見た一面の麦畑。自分より背の高い玉蜀黍(とうもろこし)や、まだソフトボール大の西瓜畑と並んで、梅雨に濡れ収穫寸前の重たそうに揺れる穂。その先を抓むように舞う淡い蛍火の中、実家の庭で鈴生りとなった枇杷(びわ)を手に、運動靴の裏を突く砂利の田舎道を真っ直ぐに。
「鞠明ちゃん、またおいでやぁ。――あ、そぉや。今度一緒に飲みに行かへん?」
「そうそう、他の連中と一緒でよければ来いよ」
「いいんですか? 部外者のあたしがいても」
「鞠明ちゃんやったら、大歓迎や」
「それやったら、お呼ばれしようかなぁ。――でも、あたし自宅からやから、あんまり遅くまではいられませんよ」
「へぇ、鞠明ちゃん、通いなんか。 ……あ、そやったら、ウチん()に泊まってったら?」
「えぇっ! でも悪いですよ」
「百夜のとこは、いろんな奴が根城にしてるから、構わんと思うぞ」
「そおそお、ってなんであんた弥が言うねん! まったく。――そやけど、ほんまに鞠明ちゃんがよかったら、泊まっていき。ウチん家、大学出て直ぐんとこやし」
「それに、先生も参加しはるし……」
 独り傍観者として、三者のやり取りを聞くともなしに聴覚の片隅に掠めさせていた英彦は、銜えていた煙草を危うく落としかけた。
「は? ちょっと待て、象原。俺が何時そんなことを言ったんだ?」
「えぇ? 前に言うたやないですか。ほら、四回生の先輩とウチらと先生で、一回飲みに行こうって。それが今度の土曜に河原町(かわらまち)で、って決まってぇ……」
「おい、なんだその今度の土曜って……」
「あれ? 百夜、お前、先生に言ってなかったのか?」
 レンズ越しに睨む弥に、そぉやったっけ? と首を傾げる百夜。
「聞いてない。大体それ自体に、俺は参加すると返事した覚えはない」
 英彦は憮然としながら、煙草に火を点けた。ようやく治まりかけていた苛々が、紫煙とともに再び湧き上がってくるような感覚。
「ンなこと言わはったかて、もう決まってしまいましたよ。――それに、先生、いつもウチらが誘っても来てくれはらへんでしょ? だから、偶にはええやないですか。他の先生やって、一緒に飲みに行くくらいしてはりますよ」
「他人(ひと)は他人、俺は俺だ。時間外労働は、会議だけで十分だ」
「何で『労働』になるんですか。……折角、可愛い鞠明ちゃんも参加してくれるって、言うてんのにぃ」
「……有村も参加するとは、はっきり言ってない」
「ほな、鞠明ちゃんが参加するんやったら、先生も来はるんですね? ――鞠明ちゃーん、そうゆうことやから、是非来て欲しいんや」
「何故、そうなるんだ」
 煩雑な机上に灰皿を引き寄せて、未だ長いままの煙草を捩じ込む。ストレスが喫煙量に即比例するという性質ではない筈だが、それでも今期の三回生を受け持って以来確実に増加傾向にある。心中で舌打ちを漏らし眉根を寄せたまま、知り合ってから多く見積もっても一時間強で、恐ろしく和やかな空気を作り上げている三人を見遣る、と。
「勿論、参加させていただきますよ、百夜先輩」
 先日以来の、幼すぎる不出来な笑みにぶつかった。


 けれど結局自分は――何処へ、行きたかったのか。誰に、逢いたかったのか。


「――先生とあたしの関係って、何て呼べばええんでしょうね?」
 子どものそれのような白い頬を、ほやんと染めて、唐突に鞠明はそう呟いた。琥珀のような潤んだ瞳と濡れた唇が、妙に艶かしい。
 うんざりするような馬鹿騒ぎの後、英彦が危惧していた通り、衣笠(きぬがさ)に居を構える彼と同じ方向ということで、酔いつぶれた百夜を押し付けられた。結局彼女の下宿先に泊まることにしたらしい鞠明とともに、ようやく市バスに乗り込んだのがつい先程のこと。終バス近くの所為か、乗客が自分達だけなのを幸いに、すっかり正体をなくしている百夜を二人掛けの椅子に寝かせ漸く一息吐いたところに、今度はほろ酔いの鞠明が擦り寄って来たのだ。
「――有村、お前も酔ってるな」
「ふふふ。さぁ、どうなんでしょうね?」
 何が可笑しいのか、くすくす笑いつづける鞠明に、頭痛を覚える。彼女がその容貌に似合わずいける口だということは、飲み会が始まってすぐに判明したが、それを考慮したとしても、かなりの量のアルコールが彼女の喉を通ったことは確かだった。何度か英彦自身も注意を促したが、その度に「大丈夫ですよ。あたしん家、酒屋ですから」という全く答えになっていない返事で躱されてしまった。しかも更に、ある問題に気づいたのは先刻のことで。
「……有村、お前もしかして未成年なんじゃないのか?」
 つい、大学生という身分で捉えてしまっていたので当初は考えもしなかったが、現役で二回生ならば二十歳になっていない可能性もあるのだから。
「あやー、バレたかぁ。――せんせぇ、あたしの誕生日っていつか知ってはります?」
「……知るかよ」
 やっぱり……と頭を抱えつつも、彼女の関心が先程の問いから離れたことに、自分でも気がつかない深奥で安堵する。
「十二月の二十四日ですよ。イヴですよぅ、クリスマスイヴ!」
「なるほど、だから『マリア』なのか。やたらと色素が薄いから、そういう血が混じってるのかと思ったんだけどな」
「ちゃいますよぅ、純日本人ですぅ。……それに、イヴ生まれやから『鞠明』なんじゃなくて、お母さんが鞠子さんで、お父さんが明弘さんやからですー」
「それはまた安直だな」
「せんせぇなんか、名前の中に『ひ』が三つもあるくせにぃ」
「……うるせぇ」
「あ、怒った? 怒ってます? もしかして気にしてるぅ?」
 こいつ、酔うと絡むタイプだったのか。隣で、けらけらと笑う鞠明を横目に、英彦はもう何度目になるとも知れない溜息を吐く。
「んでぇ、せんせぇはどう思います?」
「……何がだ?」
「だぁかぁらぁ、あたしたちの関係!」
 その言い方は、かなり語弊があるのではないだろうか、という不安が脳裏を掠める。酒の場での戯言と言えばそれまでだが、言葉の選択次第で、近年殊に取り沙汰されている社会問題に引っ掛かりかねない。
「いち助教授と学生、じゃないのか?」
「うーん、そうじゃなくてぇ――そうやなぁ、例えば『戦友』とか?」
「はぁ? ――何に対しての、だ?」
 酔っ払いをまともに相手する必要などない、という内心の呟きとは裏腹に訊き返す。
「えぇと、ほんならぁ……『天敵』とか?」
「……それは、言えてるかもしれないな」
「なんでやねん!」
 思わず頷く英彦に、鞠明がすかさず裏手でつっこむ。酔っている所為か加減を知らない。
「お前が言い出したんだろうが」
 精神的な疲労を感じながら、しかしやはりというか、酔っ払いには何を言おうが聞くわけがない。
「――先生」
「あぁ?」
 今度はなんだ、と鞠明を見ると、彼女は意外にも真面目な顔で英彦を見上げていた。
「つまり総じて見ると、あたしたちって『友達』ですよね?」
「友達……という関係なのか?」
「そうですよ! うん、それに決定!! ――そやから、あたしのことは『鞠明』って呼んで下さいね」
 再び、にへら、と相好を崩してそう言い放つ。
「何故?」
「友達やから! ――あ、降りまーす」
 急にぴょんっと立ち上がると、鞠明は座席の前の停車ボタンを押しながら運転手にそう叫び「百夜さん! 着きましたよーっ。お家ですよぉっ」続いて百夜に声を掛ける。
「おい、有村……」
「『鞠明』ですよ! 緋川センセ。――それじゃぁ、おやすみなさーい」
 そして、軽い足取りで百夜を支えながらバスを降りる鞠明の背を、英彦は呆然と見送ることしか出来なかった。


――その日を境に、彼女は確立された。


4、そうして、日常化したスタイル。

 鞠明が自分にとってどういう存在なのか、それは半年経った今以てしてもよくわからない。たとえば象原あたりが考えているような、俗にいう特別な感情といったものとも、また違うのかもしれない。
 そもそも、英彦には特別な感情というもの自体がよくわからない。無論彼とて、性的欲求は人並み程度にはあるし、現にそういう関係を持った女性はおそらく両手両足では足りないだろう。しかしそれも、自分でするよりは刹那の快楽を得やすいからというだけのことだ。感情が伴って、のことではない。多分、本当に女性を抱きたいと思ったことなど一度もないのかもしれない。それは初体験の十三の時から、今でも。もしかすると自分は、精神面では女嫌いなのではないだろうか、とも思う。
 学生の頃から、自分に好意を抱いてくれる異性には恵まれていた。その中の数人と男女の付き合い、というものを経験したし、その経過から結末も様々体験した。けれどいつも根底にあったのは、単なる性衝動の捌け口としての感情のみだった。だから敢えて、ただ快楽を求めるだけの、遊び慣れている女だけを選んだ。その方が後腐れがないし、合理的に快感を得られるからだ。そういう女と互いに貪り合って溺れるだけ溺れて、そして切れる。そんなことを繰り返した時期もあった。まるで女を性欲処理の道具のように、ともすれば便所のように扱っていた。……それは、今でも言えることかもしれないが。
 誰かに執着することを、心の何処かで怖れていた。破壊の予兆に怯えていた、喪失の予感に慄いていた。――遠い過去の感情から逃げるために。全てはそのために、情緒を凍らせた。誰も求めず、何も伝えずに。

 本当は、いつも、逃げ出したかった。
 どこかへ、逃げ出したかった。
 忘れたかった――存在を。

 多分自分にとって、鞠明はとても大切な存在なのだと思う。自分にはけして出来ない――したくても忘れてしまった、素直で真っ直ぐな感情をそのまま全身で表現すること。それを自然と行える彼女に、いつもどこかで敬いと驚き、そして軽い嫉妬の念を覚える。
 彼女の、天衣無縫の典型のような明るさに憧れる自分。それを守ってやりたい、時には慰めてやりたいとも思う自分。粉々に壊してしまいたいという願望を抱く自分。時にその姿が視界に入ることすら、その声を聴覚が捉えることすら、どうしようのなく苛立つ自分……きっと、俺は狂っている。それは『彼女』の所為ではなく、鞠明の所為でもない。緋川英彦に、俺という自我のある限り、けして終わることのない狂気に囚われている。
 そう遠くない未来、有村鞠明にとって、かつて自分が友達宣言をした他学部の助教授は全くの過去の遺物と化す。その契機は、おそらく自分。だから今は、今だけは、この居心地のいい位置にいたい。そう、思う。いつかは終わる、ほんのひと時の安らぎであったとしても。失楽はもう、目の前まで来ているのかもしれなくても。
 今考えてみても――あの時、どうして眠っている彼女を起こしたのか。そしてあの後――あの友達宣言から二日後の月曜日、偶々廊下で見かけた彼女にどうして「鞠明」と呼びかけたのか。英彦自身、全くわからない。そして、まさか以降半年も『友達』でいるとは。
 只、初めて名前を呼んだ時、少し驚いたように、けれどもとても嬉しそうな笑顔と返事が返って来たこと。それが、そんなことが何故か、喜ばしく思えたこと。そんな些細なことが結局は、

「――先生」

 気がつくと、焦げ茶色のアンサンブルに赤い格子縞のスカートという出で立ちの鞠明が、鞄を片手に立っていた。
「待っててくれはったんですね。すいません、遅うなって」
「まったくだ。どうせまた寝てたんだろ?」
 走ってきたのか少し息が荒い彼女に、薄い笑みを唇の端に浮かべて言う。
「ちゃいますもん。ちょっと質問があったから手間取ってただけです」
 赤い唇を尖らせて反論する鞠明に、そりゃまた珍しいと皮肉りながら、手にしていた書物を差し出す。
「ほら、約束してたヤツ」
「わぁ、ありがとうございます。けど、先生ってどんな本でも持ってはるんですねぇ。専門外の、しかも絶版物だってあったし」
 もしかしてお家が本屋さん、とか? 小首を傾げてそう問う彼女の、晩秋の陽に透ける琥珀色の水晶体が、一直線に自分を射る。
「これぐらい、大学図書館で資料請求すれば、ウチの大学に無くても取り寄せてくれるだろうが」
 それとも、そういう手間をしないで他人に頼るのが、最近の学生の遣り口か? そう切り返すと、案の定曖昧な笑みが返って来る。「だって、色々面倒くさいし。紹介状を書いて貰うにしても時間かかるでしょ?」
 呆れ半分、しかし数年前までは自分も学生だっただけに納得も禁じ得ず、つい苦笑を漏らす。全く大学という組織は、どれほどネットワークの導入が成されても、こういった実際上の面では中々進展が無いのだ。
 そんなことを考えながら、器用に片膝を立てて鞄に借り受けた本を直す鞠明を眺めていると――つと、視線が合った。
「あれ、先生、肩んとこに葉っぱがついてますよ」
 瞬間、鞠明の吐息が胸元にかかる。身長差の所為で上目遣いのまま眼が、ごく間近に接し――そして、離れる。その動きにつられて目を遣ると、飴細工のような細い指に、鮮やかに紅葉した葉が挟まれていた。
「誰かさんの所為で、結構待たされたからな。……身体も冷えたし、コーヒーでも飲みに行くか」
「えっ、奢ってくれるんですか?」
 手にした葉をくるくると弄んでいた鞠明は、その言葉に、にぱぁっと顔を綻ばせた。
「あぁ。――何しろ、スプーン一杯だからな」
「なんや、また研究室のインスタントコーヒーか」
 偶には喫茶店でもって気を利かしてくれてもいいのに、そう文句を垂れながら、しかし鞠明の足は既にそちらに向いている。現金なものだ、と笑いつつ英彦もその後を追おうとして――思わず足を止めた。
 赤を基調とする極彩色の風景の中に、鞠明が立っている。まるで、そのまま背景に飲み込まれそうな頼りなさで。気まぐれに吹く風が彼女の髪を、そしてその身までも攫っていくのではないのかと思えるほど。
「――鞠明」
「はい?」
 少し離れて、けれどもやはり真っ直ぐに、その眼は自分を映している。
「なんですか? 急に」
 けれども、それは……。
「いや、あんまり急ぐと落ち葉で滑るぞ」
「そんなドジ、しませんもん」
 ぷぅ、と頬を膨らました鞠明の元に歩を進め、漸く辿り着く。
「ね、先生」
「ん?」
「あたし思うんですけど、いっそのことコーヒーメーカー買いません?」


この世界にしか、逃げる道がなかったから。
それが、彼らの発端だった。

だから、変化とも言えるかもしれない。
その日を境に、彼女は確立された。

そうして、日常化したスタイル。

つまり結局は、他愛ない。
だからこそ、こういう時間がある。



2000.11.8/2002.3.23.



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