助教授の横顔


「なぁ、先生って何型?」
 たとえば、ひとつの非常識が日常化した場合、それは既にある種逆説的な現実を示しているのかもしれない。その場合、現実とは即ち真理であり、いかな懐疑主義とて抗い得ないものであろう。
「もしもーし、聞いてます?」
 そう、つまり午後一番の講義を終え、明日までに添削しなければならないレポートの山に向かう手前の、ほんの僅かな休息。その至福とも呼べるささやかな一時を、いっそ見事なまでに介入してくる非常識は、なにも今日や昨日に始まったものではない。殊に、毎度毎度のロジックの立たない唐突な問いには、呆れを通り越して習慣と化している。
「……一応訊いておくが、四角やら三角やらいう図形の話ではないよな?」
「ほほう、英ちゃんの赤血球っておもろい形やねんなー」
 少しは予想を外させてくれ――と、私立文黎大学社会学部の未だ若き助教授は、己が研究室の一角を陣取った、凡そ期待の対極にある面を見遣る。何やらけばけばしい装丁の冊子を手に、上機嫌で自分を映している琥珀色の眼。
「血液型なら、OのRhプラスだ」
「はぁん、大雑把のオーやな」
 それにしてもやっぱ関東人ってノリ悪いなー、と口を尖らせ、世間のO型を敵に回しかねない暴言を吐く小娘。それを諦観交じりに眺めつつ、馴染みのコーヒーメーカーにフィルターをセットする。このコーヒーが入るまでの、まさに小指の爪先ほどの時間だけが、安息の時というわけだ。
「そういうお前は、何型なんだ?」
 殆ど無意識で煙草を銜え、書類とレポートでごった返した机上を片手で漁りながら、もう一方で火を点ける。
「聞いて驚け、あたしはお茶目でユーモア溢れるB型ちゃん」
「成る程、馬鹿のビーな」
「ちょっとセンセ、それって世間のB型を敵に回しかねない暴言やで」
 勝ち誇るように人差し指の先を突きつけられ……いやそもそも、どうしてこうも自然なのだと、漸く見つけ出した書類を手にふと思案に暮れてしまう。
 いま一度、確認しよう。ここは我が神聖なる研究室であり、社会学部のいち教育機関である。そして現在は第四講時の真っ最中であり、言うまでもなく自分は出勤中である。そう、日本国憲法第二十七条一項にあるように、この弱冠三十一という助教授にも「勤労の権利を有し、義務を負う」という世間一般の通念が適応されている、筈だ。おそらく。
「んじゃあ、センセ何座?」
 四条大橋の東側にあり、出雲阿国から発展した歌舞伎で有名――それは南座(みなみざ)。かつて銀貨鋳造所があり、維新後は文化人の溜まり場になった――それは銀座。講談や落語で、真打の前に舞台に登場する――それは前座。
「言っとくけど、小麦粉の皮で包んだ一口サイズの中華料理は餃子やで」
 ……流石にそこまでボケられねぇよ、関西人さん。
 近頃どうも思考のベクトルが侵蝕されているような気がする、と紫煙を吐き出して胸の内で嘯く。変化を厭うほど愚かでも頑固でもないが、これほどまでに抵抗がないと、却って戸惑いを覚えずにいられない。
 俗な表現で簡潔に表わすには、あまりにもあからさまで陳腐な感情。幼稚園児が紡ぐような、単純でそれ故に真理を突いた平凡な叫び。――そんな、ごくありふれた、けれども唯一の変革。
 今だから、此処だから、君だから。そう表するには、まだまだ何もかもが浅すぎるけれど。
「大体、俺が十二星座なんかに興味があると思うか?」
 コーヒー2.5に対し牛乳1の割合で染まったカップの中身を、手にしたスプーンで掻き回しながら、そう半眼で呻く。
「あったら怖いやろなぁ、っていうか気色悪いなー」
 毎朝テレビで今日の運勢とか見とったら爆笑もんやけど、などと好き放題に言いやり、けらけら独りソファの上で転がっている姿はどう見ても子どものそれで。まったく、箸が転げても可笑しい年頃とは、よく言ったものだと苦笑する。
「そやから、ほら、誕生日教えてくれたらわかるやん」
「ああ? だから、さ……」
 つい調子に合わせて飛び出しそうになった言葉を、寸前で押さえ、手近なコーヒーで流し込む。
「さ?」
 期待と勝利に燦然と輝く、琥珀色の両眼。己の迂闊さに胸中で舌打ちしつつ、なんとかその詮索の光線から逃れようと、明後日の方向へと視線を泳がせた――その先に過ぎる、文字盤の長針。
「あ、もうすぐ五限だな、うん。レジュメのコピーをしておかないと」
「うわっ、めっちゃ不自然やし」
 ずっこいわ、それくらいでケチケチせんでもええやん……ぎゃあぎゃあ騒ぐ外部音声を聴覚の外へ押し遣りながら、手早く机上の書類とテキスト、チョークケース等々の講義用の一式を手にする。逃げるんじゃない、これは戦略的転進というヤツだと、第二次大戦末期の日本軍指令官のように自分に言い聞かせ、最後に椅子の背に掛けていた背広を手にし、一気に脱出口へと向かう――が。
「ふん、言うまで出したらへんもん」
 徐に進行を遮る、白い細腕。頭一つ分下方からひたと射抜く、常に無く眇められた淡色の眼光。
「正真正銘のガキか、お前は」
「三十代よりは子どもやもーん」
 全身で大の字を描いたまま、しかし強情に尖らせた唇だけは年相応に見えて……それがまた、溜め息の種になる。
 突破を考察するのはあまりにも容易で、況してや彼女の背後に構えたドアは内側から押すタイプなので、擦り抜けることだって造作も無いだろう。
――でも、その後が問題だよな。絶対、臍曲げそうだし。
 最終的に、今まで彼女の言が通らなかったことは一度としてなく、要は助教授自身の感情の問題で。そういうところで無意識に派生している変化を、妙に納得している自分がいることもまた確かだった。
――仕方ねぇなぁ。
「ところで鞠明サン、今晩お暇ですか?」
「へ? 別になんもないけど……」
 それがどうしたと、左に傾げられる首。その瞬間ふと肩の力が抜かれたのに、口角を歪める。
「晩飯に、しゃぶしゃぶ食いに行かないか? 四条大宮(しじょうおおみや)の、京都肉で有名な店――はい、行きたい子は手ぇ挙げて」
「はーい!」
 高々と天に向けられた右腕、その間に素早く身体を滑り込ませ、ついでに眼下にある麦藁の頭を軽く撫でる。
「じゃ、いい子で待ってるように」
「うん……って、まんまと逃げられたやんー!」
 背後で響いた絶叫は、しかし反動で閉じられた扉に掻き消され、ややあって助教授は冷えた廊下に吐息を落としたのだった。


◆◆◆


「先生は、水の宮って感じやな」
 引き上げた肉をひょいと口に運んで、眼前の少女と表する方が相応しい二十歳の小娘は、不意にそう呟くと小首を傾げた。
「何だそりゃ?」
 落ち着いた和室の藺草(いぐさ)の香りと中心の鍋から湧き上がる活気、独特のたれの風味が二人の間を支配している。
 同じ近畿圏の松阪牛や三田牛のようなネームバリューがない分、知る人ぞ知る良質黒毛和種の京都肉は、脂が満遍なく行き渡っている所為か非常に口当たりがいい。一時は俗に言うBSEこと牛海綿状脳症の影響で抵抗が生まれたとはいえ、肉の柔らかさを味わうにはさっと火を通すくらいが一番適している。やはりいい肉ほどレア状で味わうのが、通と言えよう。
「蠍座とか魚座とか……」
「まだ言ってるのか、お前」
 形良く盛られた肉を数枚ほど鍋の中に泳がせ、溜息交じりに視線を上げる。
「そもそも誕生日なんか知って、どうするんだ?」
 血液型ならまだしも生死に関わることでもなし、少なくとも自分は銀行預金の暗証番号を誕生日にするような愚行は犯していないぞ、と至極真面目に疑問を口にする。
「えっと、あたしが個人的に知りたいから、じゃあかんの?」
 まるでそういった反応は予想外とばかりに戸惑いを露にしつつ、それでも彼女の箸の先はしっかりと肉を掴んでいる。
「ってゆうかさ、自分はあたしの誕生日知ってるやから、教えてくれるのが道理ってもんやないの?」
「それはお前が勝手に言ってたから記憶しただけあって、何も俺が自発的に知り得た情報ではないだろうが」
 そう冷淡に事実を指摘しながら――鍋が(たけなわ)に近づくにつれ沸き出てくる灰汁を掬い、あくまで主役の肉の邪魔にならないよう生椎茸(しいたけ)などの野菜と京()を入れる。白菜や春菊は今の時期からすれば外れているが、やはり鍋ものには欠かせない一品だろう。
「英ちゃんのイケズー」
「その薄情者のおごりで食ってんのはどこの誰だよ」
「印税で儲けてんのやろ、ケチケチしなーい!」
 人間美味いものを喰えれば自然と機嫌もよくなるもので、少なくとも普段の三割増しほど高いテンションで騒ぐ彼女に、ついと半眼で睨む。
「あのなぁ、印税なんてそう入るもんじゃないんだぞ。そもそも発行部数の少ない学術書の、まして共著なんて、小遣い稼ぎにもならねぇよ」
 そう、あの魔の学期始めに見事に追い撃ちをかけてくれた、高塚教授の依頼原稿。それがついに形となって、世に出ることと相成ったのがつい先日。以来、一体何がお気に召したのか、この娘は何かと「印税」という言葉を口にする。
「でもゼロやないっちゅうことやろ? ――お肉の追加、頼もっと」
「……てめぇ」
 今はまだ懐で眠っている数名の福沢諭吉の、宵越しの確保数と、次の入荷日までの日数が脳裏を駆ける。この調子でいけば、少なくとも非常勤で勤めている女子大の月給分くらいは、軽く食い漁ってくれそうだ。ったく、冗談じゃねぇぞ。
「大体お前、さっきから肉ばっか取ってないか?」
「えー、しゃぶしゃぶの主役はお肉やん。椎茸ではしゃぶしゃぶ出来へんし」
 しゃぶというか、じゃぼって感じになるやん? とぬかしながら、その手の中にある皿にはしっかりと引き上げた肉を確保している。それも(ただ)すまでもなく、先程この自分が入れた筈の肉だ。
「まぁ湯に潜らせるという行為だけにしゃぶしゃぶの意義があるとは思わないけどな、俺は。――というか、なんでそこで春菊を入れるんだお前は」
「野菜食べぇゆうたんは先生やん。だから菊菜ちゃん投入」
 てい、という暢気な掛け声とともに、手近の皿から春菊の束を、これまた文字通り放り込むといった感で鍋に入れる手。そのあまりの粗雑さに、つい挙げた声も高くなる。
「ちょっと待て、鍋には順序ってもんがあるだろうが! 春菊はもう少し落ち着いてからだろ」
「ええやん、めんどいし。えーい、どんどん入れちゃえ」
 言って皿から直接流し入れようという暴挙を、寸でのところで取り押さえ、尚もしつこく食い下がろうとする箸を叩く。
「この馬鹿っ、そんな一度に入れたら湯の温度が下がるじゃねぇか!」
「ぶー頑固鍋奉行」
「お前がいい加減過ぎるんだ、馬鹿」
「バカバカ言う方がバカなんですー」
 子憎たらしく、それでいてこちらそっと窺うように、自分に向けられる笑顔。気づいているから、切り離せない影のような臆病さやそれをも凌駕する直向きさを。だからこそ惹かれているから、自分にはない物事の本質に対する鑑識眼やそれを支える器の大きさに。
――まったく、俺も大概だよな。
 これも惚れた弱みなんて言えるほど確かではなく、ただ以前は空虚だった筈のその場所に、ぴったりと填まり合うピースを見つけたような、そんな無邪気な喜びにも似た心地よさ。そうして弾き出された、微かな期待。
「……鞠明」
「すいませーん、お肉二人前追加、お願いしまーす」
「おい、コラ!」
 ついつい嵌りかけた思考の渦から現実に返りざま、思わず声高に叫んだこちらに、当の小娘は飄々と舌を出した。


◆◆◆


「色々考えてんけど、魚座っぽいよな自分」
 週休二日の週末、俗に言うハナキンともなれば、京阪間を結ぶ主要道路である国道1号線には延々黄みがかった尾灯の群れが続くこととなる。幾度か行き来しているうちにそれを思い知った宿老カローラは今、その年の割に威勢良く桂川(かつらがわ)沿いの堤防を走っていた。地図上では大阪街道、地元では旧街道や旧1号線などと呼ばれているこの裏道は、やっかいな対向車さえなければ、実に快適なドライブを演出してくれる。
「そんでもって昼間に言いかけた『……さ』ってさ、もしかして三月の言いかけなんとちゃう?」
 今年一番の台風が天気図に顔を見せた所為か、空はどこか虚ろで、それを包む大気も水分を含んで重かった。たらふく鍋を平らげた後の身を考慮して入れた冷房は、聊か劣化したカセットテープから流れるロックに凭れるように、ゆるゆると皮膚の表層を撫でている。真夏には到底間に合わないこの高燃費設備も、梅雨に入り始めた今時分には不思議としっくりとくる。
「そもそも魚座というのは、三月なのか?」
 完成すれば京滋(けいじ)バイパスの延長となる、京都第二外環状道路の橋桁を横目に、取り敢えずそう返してやる。助手席の向こうにぼんやりと映るコンクリート塀の列は、作為めいたコンピュータグラフィックスのように、いやに薄っぺらく見えた。
「ほんとは二月の二十日から三月の二十日まで、やねんけど」
「……ふぅん」
「あ、その反応は当たりなんやろ? ――おお、これで二十日に絞れたな」
 指折りしつつ何やらぶつぶつと洩らしている助手席に、自然と溜め息がつい出る。
「なぁ、なんでそんな俺の誕生日なんかに拘るんだ?」
「それは、緋川センセがどうしても教えてくれないからデス」
 そういうのって、秘密にされればされるほど気になるやん、といつも調子で続けて、ふと彼女は視線を上げた。その眼の表層で、前方を行く車両の尾灯の赤と常夜灯の仄白い尾がゆらりと混じり、瞬きの度に踊るように弾ける。
 京阪間での京都最南端にである八幡市(やわたし)に入ると、それまで順調だった旧街道も込み合い見せ始める。若い二人の意向に忠実な白い老兵も、ちょうど桂川、宇治川(うじがわ)木津川(きづがわ)の三流が合流して大阪の主流である淀川(よどがわ)になる手前で信号に捕まり、敢え無くその足を止めた。愚図るエンジンを宥めるように、本体同様に草臥れかけたスピーカーが英国シンガーの寂声を口ずさむ。かつての大女優を悼み、社会の低俗さを嘆く、往年のヒットナンバーだ。
「よくさ、自己紹介のことをプロフィールっていう時があるやん? あれって、直訳したら『横顔』って意味やねんて」
 まぁそういうことは先生の方が詳しいやろうけどさ、と小さく笑う。
「ンで思ってんけど、その人の正面っていうのはあたし自身が知っていく部分で、それはあたしがどう見るかで色々変わってくる主観的な情報やろ。でも、どうしても目に見えへんその人を構成する客観的な情報、というか普遍的要素みたいなんがやっぱりあると思うんやん。……そやからさ、」
 前方の交通表示が緑の強い青を放ち、ややあって再び動き出した隊列に従って、二人の空間は日本三大八幡宮のひとつである岩清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)のある彼岸へと向かう。その先の男山(おとこやま)を左にして暫く行けば、そこはもう大阪府だ。
 一旦噤んだ横顔を窺うと、常のよりもずっと深淵な、それでいて柔らかな笑みが浮かんでいた。それはなんだか自分がひどく幼く感じるような、到底追いつけない広がりを感じさせる。
「そう思うからこそ、先生のそういう『横顔』の部分も知りたいなぁ……って。そしたらまた、もっと深く正面を見ていけるかもしれへんし」
 勿論、雑誌の相性占いで遊びたい気も捨て難いねんけどな、と今度こそいつもの調子で、彼女はふにゃりと相好を崩した。照れ交じりに薄く濡れた眼に、対向車の前哨灯が滑るように過ぎる。
「……だったら」
 両岸を繋ぐ御幸橋(ごこうばし)を渡り、ウインカーの示す先を茫洋と眺めつつ、残りの行程時間を予想する。目的地である彼女の自宅近くまで精々あと二十数分、順調に行けば十分切るかもしれない――その事実が、妙に寒々しい。
「ひとつ、条件がある」
 間隙を縫うのは、先程までの単調な暗路とは打って変わった、眩いばかりの電光と濃厚な陰翳のコントラスト。街道に対して平行に走っている京阪電鉄の車両が、電車特有の騒音と共に擦れ違う。
「――絶対に、笑うな」
「は?」
「だから、聞いても笑うな」
 不可解を顔面いっぱいに示す彼女に、一応は自覚しているその滑稽さに知らず目線を背ける。
「えっと、そんな笑えるような誕生日ってあるん?」
「言わなくていいなら、言わないからな」
「いや、うん、わかった約束します」
 まるで自分に言い聞かせるように何度か頷く頭を確認し、次いで細く息を継いだ。
「……だ、三月の」
「え? あの、聞こえへんねんけど」
 まるで計ったように通り過ぎ、只さえ聞き取り難い音声を軽々と飛ばしてくれた若草色の京阪車両。それもお前の所為だとばかり睨んでくる琥珀の眼に、いい加減自棄になって声を荒げる。
「だから、三日だ!」
 刹那、奇妙な沈黙が狭間に漂い――「ぶっ……!」
「あ、てめぇ笑ったな!」
「だって、そんなん、ひなまつりって」
「ああそうだ、どうせ俺は桃の節句に生まれた男だよっ」
「すっごい似合わんー」
「ほっとけ!」
 座席に凭れて肩を震わせる様を忌々しく見遣りながら、かつて同様の質問を投げかけ、散々笑いものにしてくれた高校時代の悪友の顔が脳裏に浮かぶ。今も昔もこの情報は格好の笑い話と化すようで、現在の隣人もまた、やたらと上機嫌で鼻歌を洩らしている。無論その曲名は態々思い起こすまでもなく――畜生、だから言いたくなかったんだ。
「念のため付言しておくが、言いふらしたりはするなよ。……特に、ウチのゼミの連中には」
「まー英ちゃんたら、私を信じてないのね」
 白々しく大叔母の口真似で否定しつつも、そこに浮かんでいる表情では限りなく信用に値しない。
「でもこれで、来年の三月三日はひなまつりやなくて、ひでまつりやなあ」
 あられと白酒と散らし寿司で盛大に祝ったげるわ、と未だ咽喉の奥を痙攣(けいれん)させながら、白い手がてしてしとこちらの肩を叩く。それに半睨みで対抗ながら――ふと、そんなふうに他愛無く語れる未来を、まんざらでもなく聞いていられる自分に気づいた。
 正直、研究や仕事以外でこれからを思い描く気などさらさらなくて。ただ以前なら確実に嫌気が差す筈の、半年以上も先のことを無責任に口にするという行動を認め、それを羨ましいとすら感じている己がいることもまた、否定は出来ない。そんな、けして劇的ではなく、ひたすらに毎日を呼吸し、日常を咀嚼(そしゃく)していく中で生まれた穏やかな昇華。
 そう、ひとつの非常識が日常化した場合、それは既にある種逆説的な現実を示しているのかもしれず……その場合、現実とは即ち真理であり、いかな懐疑主義とて抗い得ないものであるように。
「これまさに、実存は本質に先立つ、か」
 20世紀を代表する哲学家の言を嘯き、つい先程披露された論理を思い出しながら、取り留めなく思考を巡らせる。
 profileの訳語は確かに前述された通りで、その語源は『前に ・ 糸を紡ぐ』というものらしい。これが転じて形を描く、輪郭を取るなどの変化を見せ、やがて個人情報という意味合いで捉えられるようになったのだろう。
 予想よりも遥かに順調な流れに乗って、長いようでとても足りないこの道程の終わりが、徐々に視界を攻めて来る。幾度か通る内に覚えた近道に、ちょっとしたコツを要する曲がり角、やや凹凸の目立つ踏み切りを渡って、駅前から商店街や住宅地へ続く勾配を進む。いそいそと降りる準備を始めた隣席の気配に、今まで何故か乖離(かいり)していた夜気の感覚が、全身にじわりと滲んだ。
――そう、もう随分前からわかっていたのかもしれない。
 彼女という実存の自覚という前提が、感情から派生した関係という本質に先立ったように。
 気楽に未来を語ることは、自分には今でもやはり難しい。けれど、それをいつかのように厭う気がないのなら――まだまだ前へ、糸を紡ぐようにゆっくりと、形を描いていけるだろう。
「なぁ先生」
 我ながららしくない楽天的な結論に至り、知らず口角が緩まる。
「前々から思っててんけど……」
「ん?」
 珍しく遠慮がちな空気に目を遣ると、やたら真剣に固まった顔にぶつかった。
「先生の横顔って、笑ったらなんかすっごい悪人面やで」
 ちょっと気ぃつけた方がええんとちゃう?――あくまでも真面目な恋人の忠告に、思わずブレーキを踏み込んだ助教授の横顔には、本物の邪悪が走っていた。


その数秒後、自宅を目前にして放り出された小娘については、最早語るまでもない。


2000.12.31 / 2003.7.3.



目次へ