あなたがおもうより、きっと


わたしがおもう、わたし
あなたがおもう、わたし


衣笠(きぬがさ)……町…西入ル…八、ってやっぱり此処やんな」
 彩づいた楓がゆるゆると舞う閑静な住宅街の一角で、有村鞠明はそう独りごちた。
 眼前には、彼女の身長より頭二つ分以上も丈がある重厚な鉄門が(そび)え立っている。また、その右の門扉には、達筆なのか、それとも単に適当に書いただけなのかよくはわからないが、とにかく威圧感を孕んだ表札が掛けられていた。
「でも、なぁ」
 『宮之園(みやのその)』と書かれたそれ、それが意味するのは。
「もしかして百夜さんが言っとたんは、こういうことやったんかなぁ……」
 手元のメモ用紙と表札を幾度も見比べた後、彼女は知らず口元に手を遣り、胡乱な声を漏らした。
「――どうしよう」

◆◆◆

「あれ、鞠明ちゃんやん。今日は先生いはらへんよ」
 予想に反して、向こう側から開かれたドア。そこから顔を出した象原百夜は、比較的度の低い近視用レンズの向こうで僅かに目を眇めた。昼休みの雑踏から切り離された研究棟の廊下に、彼女の毎度お馴染みの大阪弁が景気良く木霊する。
 研究室のドアに手を開けたまま、鞠明は小首を傾げた。午前中にその日の授業が終わったのをいいことに、先々週に借りた本を返しに来たのだが。
「出張ですか?」
 そんな話は聞いてへんかったけどなぁ、などと考えていると案の定、百夜は首を横に振り「ううん。一限の講義終わってから、速攻で帰ったみたいや」
 なんか論文がどうたら、とか言ってたで。ウチもレポートの所為で、昨日は徹夜やって――と百夜は欠伸を噛み潰す。
「ほんなら、もう今日は学校に来はらへんのですね。ちぇ、またこの本持って帰らんとあかんやん」
 胸に抱えていた書籍を一瞥して、肩を落とす。
「研究室に置いていこっかな。そやけど、借りたもんを無断で置いとくのも悪いし」
 口の中で呟きながら、百夜に言付けでも頼んでおこうか、そう考えもする。端から見て面白いくらいに百面相をしながら考え込む鞠明に、百夜はふと悪戯に口角を歪めた。
「そぉや。ちょっと、此処で待っとってな」そう言って一旦ドアの向こうに消え、ややあって再び顔を出すと、一枚のメモ用紙を鞠明の前に差し出す。
「これ、先生ん家の住所。先生んとこ、こっから近いから直接持ってったらええやん、な?」
「そやけど、お邪魔やないでしょうか?」
 せめて連絡くらい、でも連絡先知らんし、と尚も百面相。
「大丈夫やて、鞠明ちゃんなら。――あ、先生にウチが教えたんだけは黙っとってや」
 艶々したライトオレンジの唇の前に人差し指を立ててウインクする百夜に、鞠明は暫し逡巡したが、結局素直にメモ用紙を受け取り頷き返した。
「わかりました。――でも、ひとつ訊いてもええですか?」
「ん、なに?」
「何で、百夜さんは先生ん家の住所を知ってはるんです?」
 予想通りの反応を返してくれたことに、百夜は知らず満面の笑みを浮かべた。自分を見上げる眼が完全に子どもの好奇心のみなのは、少し残念だが。まぁそれも悪くない。
「まぁ所謂、企業秘密やな。蛇の道はなんたら、ってね……そうそう言い忘れるとこやったけど、その住所は絶対間違ってへんからな。現地に着いても心配せんでもええよ」

「って、百夜さんも言ってはったし。……よしっ、とにかく訊いてみよ!」
 無意味に拳を作って、鞠明は気合いの勢いのまま、えいっ、とばかりに呼び鈴に手を伸ばした。一拍置いてやや間延びした電子音が響き、今度は暫しの間の後に『はい』という年配の女性の声が応える。
 もしかして、先生のお母さん?
『どちら様ですか?』
「あ、あたし、有村と申します。あの、こちらが緋川英彦先生のお宅と聞いて伺ったんですけど」
『あら、英ちゃんのお客様? ちょっと待ってて下さいね。今呼びますから。――英ちゃ〜ん、お客様がお見えになってるわよ』
 えっ? と、一瞬、鞠明の思考が停止する。
 やがて重そうな門が開かれ、タートルネックセーターにジーンズというラフな格好の助教授殿が、心底驚いた顔で自分の名を呼んだ時――彼女はとうとう、思いっきり吹き出したのだった。

◆◆◆

「――お前、いい加減にしろよ」
 膝の上に頬杖をついて、緋川英彦は憮然として唸った。
 渋めの茶色で統一された応接間はさりげなく豪華で、年代と趣味のよさを感じられる。インテリアに関しては全くの素人の鞠明の目にも、相当の価値はあると判断できる中央のふんわりとした大きめのソファー。そこに鞠明は小さく腰を下ろして、未だに治まらない笑いを顔の端で必死に堪えていた。
「だ、だって……英ちゃんって……、先生が英ちゃん……くくくっ」
 再び笑い出した彼女の目の端には、涙さえ浮かんでいる。
「うるせぇ」
 肩を震わせつづける彼女に、流石の英彦も拗ねるように顔を背けた。只でさえ、突然プライベートに飛び込んで来られ、正直度肝を抜かれている。三十男のすることでは無いと自覚しながも、今は余りにも分が悪かった。
「あらまぁ、仲がいいのね」
 まさにころころとした、品のいい笑い声と共に、正面の彫刻が成されたドアが開く。しゃっくりのように余韻を残す笑いを抑え、鞠明がそちらを向くと、物腰の柔らかな初老の女性が、美しく彩色されたカップを載せた銀盆を手に入って来た。声からして、先程インターホンに出たのは彼女らしい。
「煩くてすいません、琴江さん」
 塩らしく頭を下げる英彦、その台詞に違和感をふと感じた。
 てっきり、この女性は彼の母親だと思っていたが、違うのだろうか。笑い過ぎた所為で忘れていたが、例の表札の件もあることだし。実の母子なら名字が異なる筈はないし、さん付けで息子が母親を呼ぶのもおかしい。一番に考え得るのは、義理の関係だけど。まさか、考えたくないけれど……豪邸のマダムに若手研究者の――俗に言う関係?
 己が想像に取り付かれかけ、慌てて首を振る。と、再び軽やかな笑い声に現実に戻された。顔を上げると、完全に呆れた顔の英彦と、女性の柔らかい笑みにぶつかった。
「はじめまして。私は英ちゃんの大叔母で、宮之園琴江(ことえ)と申します」
 礼儀正しく頭を下げられ、鞠明は一気に顔面に血が上ったのを自覚した。――あたしのアホ、ちゃんとした親戚の人やんか。
「あ、あ、あ、あの、突然お邪魔してしまってすいません。あたしは、」
「有村さん、でしたわね? 下のお名前を伺ってもいいかしら」
「鞠明です。菊の花の鞠に、明るいと書きます」
 無理矢理な読み方ですけど、と虚空に指先で文字を書いて、なんとか笑みを返す。
「鞠明さん、ね。名前の通り可愛いらしい方ね。――英ちゃんにこんなお嬢さんがいたなんて、私知らなかったわ」
 どうして教えてくれなかったのかしらね、と琴江は英彦を横目に小さく笑った。その視線と、紅茶に咽ている鞠明を見遣り、英彦は嘆息を零した。
「――琴江さん、何か勘違いをされていませんか?」
「あら、照れてるの? 英ちゃん」
 にこにこと揶揄う琴江に、英彦は再び大きく溜息を吐き、
「言っておきますが、俺と鞠明は――」
「友達なんです」
 すかさず続けた鞠明に、英彦は一瞬考慮した後「……というより、天敵です」と首肯した。
「そうなの?」
 少し残念そうに、琴江は「なんやの、それ」とツッコミを入れている鞠明とそれを避ける英彦を見比べた。納得いかないという色が、隠すことなくその面に表れている。
「ふぅん、まぁいいわ。こういうのは、本人の問題だものね」両掌にカップを包み、とろりと笑む。
「ところで――ねぇ鞠明さん。貴女、本はお好きかしら?」
 そう訊ねる琴江の表情は、鞠明にふと数時間前に見た百夜のそれを思わせた。
「え? ……まぁ好きです」
 何か本人にとっては面白いことなのか、とは感じたが、その真意は読めず鞠明は戸惑いつつ頷く。
「この後の御予定は?」
「ありませんけど……」
「じゃあ、暫く私の相手をして下さる?」
 その台詞は疑問形として成り立っている筈が、しかし有無を言わせないという響きが篭っている。返答に困った鞠明は、ちらりと英彦の方を窺った。
 我関せずの振りをしていた英彦は、しかし結局突き刺さってくる訴えに堪りかね、軽く鞠明を睨みつつ口を開いた。が、
「英ちゃんは、確か学会に出す論文っていうお仕事があるのよね」さらりと先を越される。
「しかし、琴江さん――」
「学会に出すのを、お座なりにしていいの?」
 せっかく助教授になれたのにね、と薄く呟かれる。
「…………」
「あのぅ、でもお邪魔でしょうし……」
 敢え無く陥落した英彦には期待できないと判断した鞠明は、恐る恐る声を出す。
「私がお誘いしているのよ? 邪魔なんかじゃないわ、ねぇ英ちゃん?」
「…………」
 や、やっぱり、先生の大叔母さんだけあるかもしれへん。
「久しぶりに楽しい時間が過ごせそうね、鞠明さん」
 硬直している鞠明に、上品に、あくまでも上品に琴江は嫣然と微笑んだ。

◆◆◆

 午後の陽が溢れんばかりに満ちているその部屋で、鞠明は息を呑んだ。
 四方の壁は天井近くまでの本棚で占められ、それぞれ整然と並んだ書籍の背で埋まっている。その数は、少なく見積もっても千冊以上はあるだろう。
 大っきい家やとは思とったけど、こんなすごい図書室があったんか。
「鞠明さん、こっちよ」
 呆然と立ち尽くす鞠明に、琴江が窓際のテーブルから声をかける。
「あ、はい!」
 閲覧用だろうか、座り心地の良い椅子とこれまた高そうなテーブルのセットは、まるでそれ自身が芸術作品であるかのようだ。どうやら、この家の家具は大概がその種のものらしい。
 漸く落ち着いて座ると同時に、琴江は向かいに腰を下ろし、
「ごめんなさいね、無理やり引き止めちゃって」先程の迫力とは打って変わって、申し訳なさそうに頭を垂れた。
「いいえっ! あたし、図書館とか本屋さんとか、そういう本が沢山あるとこ大好きなんで、とても嬉しいです」
 思わず力みつつそう答えると、琴江は惹き込まれるような微笑を浮かべた。
「――此処はね、私の夫の宝物だったの」ゆっくりの室内を見回して、目を細める。
「えと、旦那さんの?」
 ということは、先生の大叔父さん、やんな。
「そう、もう十七年前に亡くなったんだけどね。――鞠明さん、貴女お歳は?」
「十九……後一ヶ月程で二十歳になります」
「じゃあ、英ちゃんとは十一違うのね。――私と夫はね、二十三違ったの」
「にじゅうさん、ですか」
 その数字にぴんと来ず、鸚鵡返しに呟く。自分の人生以上に歳の離れた夫婦、理解しようとしても、感覚が追いつかない。
「今の人には、ちょっと考えられないかもしれないわね」
 こちらの混乱が伝わったのか、琴江はくすりと笑う。
「だけどね、それだけ歳が離れていても、私はあの人が好きだった。……私はね、兄弟の中で一番歳の離れた末っ子だったの。お父様――英ちゃんの曾祖父様ね――が随分高齢になってから生まれた所為で、一番上の兄様や二番目の兄様――この人が、英ちゃんのお祖父様――とは親子以上に歳が離れていたしね」
「すごいお家だったんですね」
 華族、貴族、といった今では歴史用語としか思えない単語が、脳裏に飛来する。
「よく、そういう末っ子は皆に疎ましがられるって言われるけど、私の場合は違ったのよ。皆、私をこれ以上ないってぐらいに可愛がってくれたわ。だからなのね、私はかなり我侭でこましゃくれた子だった」
「あたしも一人っ子なんで、よく我侭だって言われます」
 ゆったりとテーブルに両肘をついて微笑む琴江に、次第に緊張も解け余裕が浮かぶ。
「そうなの? でもきっと、私とは比べものにもならないんじゃないかしら。……私はね、本当に嫌な子だった。皆に散々可愛がられていたくせに、それを疎ましがってね。自由になりたい、なんて生意気に考えていたのよ」
「それは、今のあたしにも少しありますよ」
 照れながら、そう笑い返す。完全な理解は抱けなくとも、少なくとも部分的に共感は出来た。
「それだけ若いってことね、羨ましいわ。――でもその当時、女は結婚する相手さえ自分では決められない、っていうのが常識だったからね。だから私が年頃になる頃には、両親の元にそういうお話がたくさん舞い込むようになったの。あまり言いたくはないけど、緋川家ってね、地元では結構な家柄なのよ」
「それじゃ、先生ってお金持ちのお坊ちゃんだったんですか!?」
 あの助教授が、いいとこのぼんぼん! そう口に出さず叫んで驚愕すると、「英ちゃん家は分家だから。私もこの家に嫁いでから、よくは知らないわ。……でも、本家は今でもそれなりの家よ。あの頃でさえ、私のようなじゃじゃ馬でも引く手数多だったから」琴江は苦笑しつつ首を傾げた。
「は、あ。じゃあ、その旦那さんとはお見合いだったんですか?」
「発端はね」
 そう言って、年齢を感じさせない目で琴江は虚空を見つめた。
「あの人は、その時もう四十を過ぎていて、でも一代でかなりの財を築いてた。戦争が終わって三年の、まだまだ世の中は混乱していた頃だったから、私の父にはそれがとても好ましく映ったのね。勿論、当時二十一歳だった私のことを考えてのことだったんでしょうけど」
 そこに『彼』がいるかのように、此処ではない遠い何処かを眺めながら語る琴江。その彼女の話に耳を傾けていると、何か神妙な空気が辺りを支配しているように思える。
「でもね、私は嫌じゃなかった。たぶん歳の離れた大人ばかりの中で育ったから、最初は兄に対するような気持ちで見ていたんでしょうね。――けれど、それがやがて恋に変わった」
「それって、すごく幸せなことですね」
「そうね。あの人との三十五年間、私は本当に幸せだったわ。まったくの子どもだった私を、あの人はとても大事にしてくれたから。息子が生まれて、私も人の親となったけれど、相変わらずいつまでも我侭で意地っ張りで……ほんと馬鹿ばっかりしてたの。そんな私を、あの人は変わらず包み込んでくれた。父親のように兄のように、そして夫として、ね」
「素敵な方だったんだ……」
 ほぅ、と吐息を吐くと、琴江は嬉しそうに頷く。
「えぇ、本当に私には勿体無いくらい。――この家もね、息子が成人して自立した後の私達二人のために、あの人が建てたものなの。この部屋もそう、あの人は本がとても好きだったから。私も嫌いじゃなかったけど、あの人ほどじゃなかったわね」
「だから、宝物なんですね」
「あの人が亡くなる直前に、枕もとの私に向かって言ったの。"琴江、君がいてくれて僕はとても幸せだった。残念ながら、僕は君より先に逝ってしまうことになるみたいだ。君を独り残していくのはとても辛いことだけれど、君は君で自由に生きなさい。この家も、君独りでは広すぎるだろう? だから何も大事にしなくていいよ、君が好きなように君の思う通りにするのが僕の望みだ"ってね。でも私は、この家を手離したくはなかった。あの人が亡くなった後、アメリカにいる息子があっちで同居しようって言ってくれたけれど、私は此処に残りたかった。――それが、私の望みだったから」
 そして、琴江はにこりと微笑む。
「それから五年……私はあの人が残してくれたお金を元に、あちこち旅行したり、お友達と出かけたりして過ごしていたけれど、やっぱり寂しかったのね。顔も見たことのない親戚の子が、近くの大学に通うことになったって聞いて、この家に下宿しないかって申し出たの」
「――それが、先生?」
「そう、当時十八歳だった英ちゃん。親戚一同挙って反対したけどね、私は私の思った通りにするって決めたから。ほんと、我侭よね私。それにね、家を空けることが多いから、誰かがいてくれた方が都合がよかったのよ。……でも、それだけじゃなかったのよね」
「どういうことですか?」
 首を傾げて訊ねる鞠明を、琴江は優しい目で見遣る。
「初めて英ちゃんと会った時ね、似てるって思ったの――あの人に。勿論、姿形は全然似ていないのよ。何て言うのかしら、根っこの部分が、って言うのかしらね」
「本質的な部分ってことですか?」
「どちらかと言うと、部分的な本質って感じね。なんだか余計にわからない感じがするけど。――でもね。英ちゃんって、ずっと何かを独りで抱え込んでいるでしょ。……あの人もそうだったのよね。結局、死ぬまで私に隠し通していたわ。多分それがあの人の強さであり、優しさだったのかもしれないけれど」
 今となっては誰にもわからないけどね、と琴江は笑う。鞠明は、その笑みが寂しさや哀しさではないことに、少し驚く。
 先生の眼に、時折、奥底に秘めた彼の闇に対する苦味が走るのを、あたしは知っている。
「あの人も英ちゃんも、決して誰かに助けを求めたり、何かで救いを得ようとしたりはしない。いつも独りで、私にはわからない何かと戦っているのよね」
 けれどきっと、それすらも彼は知られたくはないのだろう。
「――だからね、鞠明さん」
「はい」
 突然、改まって名を呼ばれたことに、すっかり忘れていた緊張がぶり返した。
「貴女は英ちゃんを『友達』と言った、英ちゃん自身もそう認めたわね。それが、私にはとても嬉しいの」
 そっと鞠明の手を取って、琴江は縋るような瞳で囁く。
「だから……貴女のできる限りでいいの、英ちゃんの傍にいてあげてね」
「――あたしには、何もできませんよ?」
 鞠明は少し目を伏せて、呟く。
「いいのよ、別に。何も知らなくても、何も聞けなくても。あの子のお友達でいてあげてくれれば、それでいいの」
「何だか小学生のお母さんみたいですね、琴江さんって」
 逸らしていた目を真っ直ぐ琴江に向けて、そして微笑む。
「……あたしなんかで良ければ、喜んで」
「ありがとう、鞠明さん」
 花が綻ぶような蕩けるような、琴絵の笑顔。――あぁ、この人は本当に先生のことを心配しているんやな。
「任せてください! 先生が嫌がろうが逃げようが、しつこく付きまとってやりますから」
「ふふっ、よろしくお願いね」
 そして、二人で顔を合わせて笑い合う。古紙の空気が漂う静謐な室内で、明るい笑い声が軽やかに響いた。
「――あら、もうこんな時間」
 一頻り笑った後、琴江はそう言って席を立った。つられて見遣ると、窓から射す陽は随分と傾き、柔らかな光は赤みを帯びている。
「ねぇ、鞠明さん。もしよろしければ、夕飯を召し上がっていかれたらどうかしら?」
 茜色の輝きを受けながら、琴江はゆるりと微笑する。
「でも、ご迷惑じゃないでしょうか?」
「いいのよ、偶にはお客様を呼んで楽しくお食事したいもの」
 窓に切り取られた向こう側に広がる、薄紅色の世界。天に浮かぶ朱色の綿雲が、群れを成して西へと流れていく。けして留まらずゆっくりと、しかし確実に。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 東側からは、徐々に迫り来る夜の気配と細い月。
「久しぶりに、腕に縒りをかけるから楽しみにしててね。――そうだわ! 英ちゃんにも手伝ってもらおうかしら」
「えぇっ、先生にですか!?」
 ぎょっと目を見開く。今日は何度も、この女性に度肝を抜かれている気がする。
「あら、知らなかったの? 英ちゃんって、顔に似合わずお料理は得意なのよ。もしかすると今時の女の子より、ずっと上手なんじゃないかしら」
「……何か、想像出来ひん」
 唇を尖らせてそう呟くと、今時の女の子代表は頬を引き攣らせる。その反応に、琴江は子どものように声を弾ませた。
「ふふふっ、それじゃあ、楽しみしていなさいな。――そうそう、此処の本は自由にしてもらっていいわ」
「え、でも……旦那さんの大切なものだったんでしょう?」
 言いながら、目はちらちらと本棚に注がれている。実を言うと先刻から、夕陽に照らされ僅かに見える背表紙の数々が、気になって仕方がなかった。
「いいのよ、本は読んでもらって初めてその価値があるんだから。よかったら、何冊か持って行っても構わないわよ」
「そんなの悪いです。――お借りする、ということにします」
「じゃあ、その本を返しに、また家へ来てくれるのね?」
 顔を輝かせて訊ねる琴江に――何か、この人って可愛い――つられて頬が緩ませながら、鞠頷き返した。
「はい、よろしければ」
 地上に堕ちる最後の光が鮮やかに過去と現在を映し、ゆるやかに世界を愛撫する。蕩けた時間と空間が、浮かんだ笑みにそっと見えない息吹を呼んだように。

◆◆◆

『有村さんって、いい人やね』
『鞠明はほんま、誰とでも仲ようなるなぁ』

 闇を抱えて生きるのは、ある意味まだ楽なのかもしれない。確実に巣食われ、侵食され続けるのに比べれば。欠落、或いは虚無に比べれば。
 人当たりのいい微笑みは実のところ、とてつもない人見知りの裏返し。心の底にある、空虚な穴を知られないための自衛の手段。そして結局は、誰とでも親しく仲良くなれるわけでなく、誰もが何物にもなり得ないだけ。

"――あたしたちって、『友達』ですよね?"

 英彦が、自分のことをまるで『光』のように見ていることを、鞠明は知っている。実を言うとそれを感じる度に、彼女は密かに苦笑せざるを得ないから。そして同時に、そんな彼の眼に甘えている事実に自嘲する。――彼は知らない。自分が『友達』というカタチでしか、人と関わる方法を知らないということを。『友達』という安易なカタチで、自分を誤魔化しているに過ぎないということを。

『あのコって、ブリッコやし』

 八方美人と言われ、エエカッコシイと蔑まれようとも――それでも、いい子いい人を装って、時には調子に乗ったりしてでしか自分を確立できない。レゾンデートルを、他人との仮初めの関係とでしか表すことが出来ない。――それが、有村鞠明という人間。
 その理由は、単純且つ明瞭なこと。
 独りになるのが、怖かったから。独りにされることによって、自分の中にある虚無の中に吸い込まれていくことに、恐怖を覚えていたから。だから少なくとも表面上は、独りじゃないように、独りを感じないように、自分の中の無を忘れていられるように。曖昧で不明瞭な防衛方法を利用して、数多くの友達、恋愛というつながりで付き合った男の子、自分のことを好きだといってくれる人、誰よりも大事にしてくれた人――そして自らを騙し続けている。
 友達と一緒にいる時は、楽しい。切ない片思いや胸高鳴る告白や、幸せな両思いも楽しい。時に相談に乗ってくれ、慰めてくれる友人の存在も嬉しい。――けれども、それだけで。実のところ、本当は誰も心の底から信じてなどいないし、愛してもいない。だから、たとえ裏切られても貶されても、本当に傷つきはしない。
 しかしそれは、否それ故に、自分を本当に信じてくれている人、愛してくれている人の存在が時々酷く辛いものとなる。いっそのこと、誰もが自分のことを見捨ててくれたら……けれど、それにはきっと耐えられない。独りは嫌だから。誰よりも独りで、誰よりも独りを望んでいるのに、いつも誰かを求めている。根底にある欠落と虚無を、必死に埋めようとしている。……そんなことは不可能だと判っていても。日々繰り返される騙し騙しの人間関係に少しでも安楽を求めたくて、結局その事実に傷ついて苦しんでもがいている。
 とんでもない自己欺瞞(ぎまん)と自己満足。けれど、それがもう自分の一部となってしまっている。そして今日も明日も、にこやかな笑みの裏側で、独り虚無を抱えて(うずく)る。

……にゃあ。
 足首の辺りにふわふわした温もりを感じて、鞠明は慌てて飛び退き足元を見遣った。
 頭と背中が黒で鼻の下から腹にかけてが白い猫が、ちょこんと絨毯の上に座ってこちらを見上げている。ついつい本選びに夢中になっていたので、完全に不意を突かれてしまった。
「うわぁ、にゃんこやぁ!」
 歓声上げて、傍にしゃがみこむ。そっと頭を撫でると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。仔猫ではないがまだまだ若いのだろう、掌に感じる毛並みはしなやかで柔らかい。思い切って腕を伸ばすと、猫は甘えるように抱きついて来た。
「くぅぅ可愛いぃ。あんた此処の家の仔?」
 ゆっくりと頭から背にかけて撫でてやると、猫は小さな頭を鞠明の胸に預けて喉を鳴らした――と同時にノック音が響いて、今度に英彦がひょいと顔を出す。
「鞠明、お前そろそろ――…ゆず! お前こんなとこにいたのか」
 その声に、猫は素早く腕から離れると、英彦の足元に駆け寄る。
「ったく。飯時になると甘えてきやがって」
「ゆず、って言うんですか? そのにゃんこ」
 えらい変わった名前やな、と首を傾げながら、屈んで猫を抱き上げている英彦に訊ねる。
「いや、正式には『ゆずりは』だ」
「ゆずりはって、木の?」
「そう。近くの児童公園にある(ゆずりは)の木の下で拾ったから、ゆずりは」
 擦り寄るゆずりはの喉を擽りながら、実に簡潔に助教授は応えた。
「なんか、まんまじゃないですか」
「猫の名前で拘っても仕方ねぇだろ」
 当のゆずりはは、英彦の腕の中で丸くなって欠伸をしている。
「そういえば、論文は出来たんですか?」
「完成してはいないが、ひと段落ついたところ。……それより、借りる本は決まったのか? 琴江さんから許可は貰ったんだろ」
「一応、決まったんですけど――届かへんくて」
 背伸びをして指差す鞠明に、英彦は苦笑する。
「そうだろうと思ってた。――ほら、ちょっと持ってろ」
 腕のゆずりはをひょいと渡し、本棚に手を伸ばす。ゆずりはは少し迷惑そうに英彦を見たが、再び鞠明の胸に凭れて落ち着いた。
「此処の本棚には、ちょっとしたコツがいるんだ。やたらと背が高い上にぎっちり詰まってるだろ、だから無闇に引っ張り出そうとすると逆にひっくり返っちまう」
「……もしかして、そのために来てくれたんですか?」
 肩に登ろうとするゆずりはを押さえながら、少し微笑んで訊ねる。
「というか下敷きになると、お前なんか悪くて即死だぜ。――これでいいのか?」
「ありがとうございます! ……ちょっと、ゆずぅ擽ったいって」頭を下げたのを機会に、ゆずりはは肩先に這い上がり、首筋の舐めて来た。「もう! やめてってばぁ。――にゃんこって、誰にでもすぐに懐くんですねぇ」
「誰にでもってことはねぇだろ。……どうでもいいが、そのにゃんこって言い方は何なんだ?」
「だって『犬』『猫』って呼ぶより、『わんこ』『にゃんこ』って呼んだ方が可愛いじゃないですか」
「そういうもんかよ」
 馬鹿馬鹿しい、とばかりに首を捻られるが、それも毎度のこと。
「そうそう、うちはわんこを飼ってるんですよ。ほくと、っていうんです」
「もしかして、北斗七星の『ほくと』か?」
「ふっふっふ、かっこいいでしょ」
「――さぁ?……で、この一冊だけでいいのか?」
「えっと、あっちのもお願いします」
 てってって、とゆずりはを抱いたまま別の本棚に向かうと、背後から低い笑い声が届いた。
「先生、なに笑(わろ)てんの?」
「いや、何かお前って猫に似てるな、と思ったから」
「にゃんこに? 何処が」
 そりゃ、猫舌なんは確かやけど……、と首を傾げる。
「誰にでもすぐ懐くだろ、お前。おまけに、まわりに溶け込むのも早いし。――あぁ、都合がいい時に我侭なのもそうか」
「何かそれって、誉められてんのか貶されてんのか。――それに、あたしは誰にでも懐くなんて出来ませんよ」
「嘘つけ。……それとも、自覚していないのか?」
 そうして、英彦は少し眩しげに目を細める。
――あの、眼。
「自覚も何も、元々ちゃうんやもん」
――先生、貴方が思うより、あたしは。
「はいはい。ま、そういうのは天然が多いからな」
 あたしは、先生を利用している。彼が、あたしを誤解しているのをいいことに。

"英ちゃんの傍にいてあげてね"

 先生、貴方は知っている? こんなにも、貴方を心配してくれている人がいることを。
「もしかして、先生。あたしのこと、アホやと思ってるんとちゃいます?」
「おお、よくわかったな」
 貴方が思うより、きっと貴方はいろんな人に愛されてる。
「やっぱりぃぃ!!」

 貴方が思うより、きっとあたしはキレイじゃない。純粋じゃない。
 あたしは貴方を利用している。あたしの内の昏い虚無を埋める、小さな欠片として。それは不確かで、本当に頼りないひとつのピース。
 けれども存在という温もりだけは、ホンモノで。だから今はまだ、この温もりの中で微睡んでいたい。その願いは、もしかしたら。

 あたし自身がおもうよりも……

「――何ひとりでニヤニヤしてるんだ、気色悪ぃ」
「ふふふ、お手製の夕飯楽しみにしてるかんね、英ちゃん」


それは
――あなたがおもうより、きっと――…



2000.1.21/2003.3.24.



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