助教授と珈琲


 ふんわりと辺りに広がる芳ばしい香りに、私立文黎大学社会学部、緋川英彦助教授は目を細めた。
――やはり、コーヒーはブルーマウンテンに限るな。
 他の研究室と比べると、どこか実用一辺倒の緋川研究室にコーヒーメーカーが置かれるようになって、早二週間が過ぎようとしている。
 それまでこの部屋の主である助教授が休息の友としていたのは、専らインスタントコーヒーであった。確かに味は落ちるが、便利で手軽だというのが何よりの利点と、考えられていたからである。
 そんな彼が態々手間暇のかかる豆挽き機を購入したのは、偏に彼の友人――ゼミ生の一人に言わせると、今のところは、ということらしいが――同大学の教育学部生涯学習学科ニ回生、有村鞠明の提案――助教授本人に言わせると『脅迫紛いの我侭』――からである。
 当初、豆は高いだの、休憩時間の合間では使う暇がないだのと愚痴っていた助教授ではあったが、いざ導入のこの二週間で彼が最もこの真新しい機器を利用している。
――モカやキリマンジェロも悪くはないが、ブルマンには敵うまい。
 先に暖めておいた自分用のカップに煎れたてのコーヒーを注ぎながら、助教授は鼻歌交じりに独り頷いた。
 コーヒーを味わうならブラックで、というのが常識ではあるが、彼は角砂糖と部屋の隅にある冷蔵庫から取り出した牛乳――ミルクやシロップではなく、牛乳――を加える。
 途端に、純粋な一色で満たされていたカップの世界に歪みが生じた。その螺旋状に渦なす色彩は、どこか混沌とした在り方を暗示しているようにも思える。
 助教授はそれを再び統一させるべく、ティースプーンを手に取ろうとして――ふと、皿やカップが乱雑に積み重ねられているステンレンスの籠に目を遣った。
 量販店で購入した安物の何の変哲もない食器類に混じって、一際目立つピンクのカップがそこにあった。側面に擬人化というデフォルメが成されたウサギの絵が付いているそれは、あまり色彩に富んでいるとはいえない室内で一種の異彩を放っている。
 助教授はスプーンを片手に、壁の時計を見上げた。――二時二十一分。
 暫しの間の後、助教授は片手で自分のコーヒーを混ぜながら、もう片方でピンクのカップを湯気の立つコーヒーで満たした。スプーンという媒介を通して合一を目指す世界が、やがて凪ぎ、生まれた別種の存在を享受する。まるで、それが真実であるかのように。
 そのまま助教授は自分のカップを持って、机上に伏せられた読みかけ学術雑誌を開き、

――そこに、ノック音が響いた。
「……どうぞ」


「失礼しまーす! ……あ、ええ匂いや」


2000.11.23.



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