Holy night Children


 京都市内の歓楽街、河原町通り――正確には河原町三条〜四条河原町間――から少し離れたところに、Bar『Scaracrow』がある。
 立地条件から言えば、けして他の店に劣ることはないこの店は、しかしどこか普通の店とは異なり、一定の性格というか性質の人間が集うところだ。別に、私自身が客を選んでいるわけではない――客が店を選び、形作るのだから。
――カラン。
 入り口のドアを押し開いて、本日一人目の客が入って来た。開店は午後六時からだが、実際に客が来るのは八時を過ぎてからが常である。
「……いらっしゃいませ」
 客は――常連の一人であり、またこの店を訪れる客の典型のような男だった。
 漆黒のコートに身を包んだその男は、迷わずカウンターのいつもの席に落ち着いた。注文を訊くまでもなく、私はストレートの用意を始める。男は徐に懐から煙草を取り出すと、ゆっくりと息を吐いた。
 この男――数年前ぐらいからの常連ではあるが、私は彼の名前も職業も知らない。只、いつもふらりと現れてはストレートを何杯か空けて、そして帰っていくだけの客。
 この店の客は、大概がこういう人間ばかりだ。何も語らず、何も残さない。只、己と酒だけの世界に閉じ篭る。だからなのか、扉一枚向こうは聖夜に沸く今日であっても、開店前に私がカウンターの端に置いた掌大のクリスマスツリーくらいで、店内が普段と変わることはなかった。
 グラスに琥珀色の液体を注ぎながら、私は男を盗み見た。
 どちらかと言うと鋭く冷たい切れ長の目と、高く整った鼻梁。おそらく、あまり崩れることがないであろう無愛想な、それでいて人目を引かずにはいられない風貌だ。日曜だからか、いつものスーツではなく、ごくシンプルな普段着に包まれた肉体は、無駄なく鍛えられ均整がとれている。それは、180近くはあるだろう長身と相まって、異性には随分と好ましく映ることだろう。
 だが、誰もが羨み憧れるであろう容姿とは裏腹に、けして他人を寄せつけようとしない、いつも何処かで自ら一線を画す姿勢は、彼が常に孤独とともにあることを物語っている。おそらく、それが彼の強さであり、弱さなのかもしれない。
――と。
 不意に、静寂を突き破る電子音が辺りに響いた。
 男は私に目で詫びながら、外套のポケットから鈍銀色の携帯電話を取り出した。やれやれ、休日にも呼び出しとは、ご苦労なことである。
……おや?
 私は少しばかり自分の目を疑った。男が携帯のディスプレイをちらっと見た瞬間、彼の面に何とも言えない優しいものが横切ったからだ。
 この男にも、そんな表情をさせる相手がいるのか、と私は内心とても嬉しく思った。
 人は独りで生きるには、あまりに弱く寂しい存在だ。どんなつながりでもいい、傍にいて、そして出来れば共に笑い合える誰かがいるのなら、それだけでとても幸せなことなのだから。
 カウンターの上にそっとグラスを置いて、私はそんなことを考えるのだった。


 グリーンの液晶画面に映し出された表示を見て、緋川英彦は思わず脱力した。数日前に研究室の机上に放って置いた彼の携帯を彼女が弄っていた光景が、嫌でも思い出されたから。
 カウンターに背を向け、通話ボタンを押す。
「――はい」
『あっ、先生? あたしですー』
 今年度の授業が終了した先々日以来の明るい声が、スピーカーを通して響く。
「申し訳ありませんが、あたしさんという方は存じません」
『むう、何でそおゆうこと言うかなぁ。鞠明ですってば』
「生憎と私は、貴女の息子さんの教えにはそぐわないもので」
『神どころか仏だって信じてないくせに……。緋川先生のお友達の、有村鞠明ちゃんです』
 おそらく携帯片手に握り拳を振り回しているだろう鞠明を想像して、英彦は苦笑を漏らす。
「その歳で、自分にちゃん付けか。――確かお前、今日が誕生日なんだろ?」
 瞬間後向こうで息を呑む気配がし、すぐに弾んだ歓声が英彦の耳に届いた。
『憶えててくれたはったんですか! そうなんです、あたし今日から二十歳なんですよっ。これで、堂々と飲みに行けます!』
「未成年でも、飲んでたくせに。それにお前、二十歳になるって言うのはそれだけじゃねぇだろ?」
『えぇと、煙草も合法的に吸えます』
「お前なぁ……。もうちょっと、選挙権が行使できるとか、納税の義務があるとか、少年法の保護から外れるようになるとか、言えねぇのか」
『――でも先生って絶対、未成年のうちから煙草吸ってたでしょう?』
 妙に楽しげな鞠明の声に、ザザっと雑音が混じる。携帯から携帯に掛けるのは、あまり音がよくない。
「絶対、とは何だ。――まぁ、十四の時からだったか?」
『うっわぁ、不良ぅぅぅ! そのうち、肺癌になりますよ』
 きゃあきゃあ響く声に、思わず眉を顰める。
「うるせぇ。――で、一体何の用なんだ?」
『へへへ、誕生日だから"おめでとう"って言って下さい』
「……はぁ?」
『だから、先生に"おめでとう"って、言ってもらいたいなぁって』
 少し照れたような、そのくせ有無を言わせないという口調に、英彦は呆れて嘆息する。
「ンなことで、一々掛けてきたのかよ」
『いいじゃないですか。別に、減るもんじゃなし。それにプレゼントを強請ってるわけとちゃうんやし』
 ぶつぶつと煩い声。確かに彼女のこの程度の我が侭は、今に始まったことではない。
「プレゼントねぇ……。――鞠明、今からこっちに来れるか?」
『今から京都にですかぁ? んー、行けへんことはないと思いますけど……。今からやと、帰られへんようになるし』
 唐突な提案に、流石に戸惑いが伝わる。
「なら、琴江さんもいることだしうち家に泊まればいい。部屋だけは腐るほどあるからな、あの家は」
『泊めてくれはるんですか!? ――でも、何で?』
「プレゼント、とまでは言えないが、いいものを見せてやる」
『何です? いいもんって』
 好奇心に溢れんばかりに弾む、声。
「それは見てのお楽しみ。――あぁ、でも流石にこの時間じゃ親御さんが心配するか」
『確かに。……でも! 行きます、ぜぇったい行きますからね!!』
「はいはい、わかったから耳元でぎゃんぎゃん喚くな」
 そう苦笑しながら、ふと思う。コレは俗に言う、ナンパというヤツなのではないか。
『ほんなら、先生ん家に行けばええんですか?』
「いや、駅までなら迎えに行ってやる。京阪(けいはん)線か阪急(はんきゅう)線……JRか?」
『京阪の三条まで来てもらえませんか? 定期がそこまでなんです』
 少しすまなさそうに、けれどもこちらが断ることなど考えもしない言い方。
「それで、どれくらいかかる?」
『んと、四十分くらいかな』
「そうか。今、こっちは河原町なんだ。一旦車を取りに帰って、一時間半くらいか。……そうだな、十時に三条駅前でいいか?」
『おっけぇです。――それじゃあ、また後で!』
 そのまま切ろうとする鞠明に、やや慌て声を上げる。
「あ、ちょっと待て、言い忘れてた」
『何ですか?』
「いいか、くれぐれも防寒だけはしっかりして来いよ」
『へっ? そりゃあ、京都はこっちよりも冷えますけど……。あっ、わかったぁ、どっか連れてってくれるんですね!?』
 嬉しそうに又もや響く、歓声。
「わかればよろしい。じゃあ、十時にな」
『えっ、ちょっと、一体何処に連れてって――』
 まだ何か喚く声を無視し、電源ボタンを押す。そうすることで再び訪れた静寂の世界に、一瞬妙な違和感を覚えた。
「お勘定ですか?」
 電話の会話が聞こえていたのだろう、マスターが穏やかに尋ねた。
 カウンターに目を戻すと、手つかずのグラスがぽつんとある。今夜はもう、飲むわけにはいかない。
「すいません」
 スツールから腰を上げて、黒皮の財布を取り出す。
 マスターは気を悪くした様子もなく、寧ろ、穏やかな微笑を浮かべている。そして代金を受け取ると、ドアへ向かう英彦に静かに声を掛けた。
「……よいクリスマスを」
 英彦はその言葉に半分振り返ると、唇の端を少し上に曲げた。

★★★

 車窓を過ぎる、光彩と暗影。
 夜も随分更けてきたとはいえ、古都の聖夜が静まるのはまだまだ先のことらしい。三条からかれこれ半時間以上こうして車に揺られているが、遠くに見える電飾が未だ視界から離れることはなかった。
 今、クリスマスイヴが自分の誕生日でよかった、と改めて思う。
 小さな頃は、サンタさんからのプレゼントがあるでしょ、と言う理由で両親から誕生日プレゼントを貰えなかったことに不満を感じていたし、他の子のように誕生日当日にお誕生会を開けないことも嫌で仕方がなかった。どうして後一日早く産んでくれなかったのかと、母親に文句を言ったこともあった。
 けれども今では、十一月の半ば頃から騒ぎ始める世の中が、まるで自分の誕生日を祝ってくれているような、そんな気がする。無論本当はそうではないと、わかっている。しかしそれでも自分の誕生日が、多くの人々が笑顔でいられる日というのはとてもいいものだ。
 それに――と、目線を窓から自分の右側に向ける。
 英彦が人の名前や顔を覚えるのが苦手だとは聞かないが、少なくとも積極的に知ろうとしないのは確かで。況してや、誕生日となると言うまでもない。そういうひとなのだ、この助教授殿は。そんな彼が自分の誕生日を憶えていてくれたのも、やはり暦の上で特別な日だからなのだろう。……本当にそれだけなのは、それはそれで『友達』として問題だけど。
「――なんだ?」
 あまりにまじまじと見過ぎた所為だろう、英彦が器用に片眉を上げて、横目で訝しげにこちらを窺っている。
「何処まで行くんやろ、と思って」
「もう少しだ」
 英彦はそっけなくそう言うと、再び視線を前に戻して大きくハンドルを切った。
 途端に全身を襲う遠心力に耐え、ふと自分たちが随分山の中に入って来ていることに気がつく。先程まで窓の外で煌々と自己主張していた電灯も、今はもう何処にも見当たらない。
 暗い山道。恐ろしく年代物のカローラの前照灯が照らす範囲以外は、前後もつかぬほどの闇。
 不意に背筋をぞくりとさせる何かが、内を掠めた。
 幼い頃、自分が眠りに落ちる前に電気を消されるのが嫌だった。そうすることで訪れる闇に、見慣れたはずの室内ごと、じわじわと侵食されていくような気がしたから。――けれども大きくなってから、闇よりも尚深くて怖いものがあることを知った。
 あのカーヴの向こうに、何もなかったらどうしよう。
 『何もない』ということ。圧倒的な、そして絶対的な虚無。底なしの欠落と、眩暈を催すほどの墜落感を、嫌でも思い出させるもの。
 自然と動悸が早くなる。息苦しさに、思わずシートの中で身動ぎする。
 視界を刺す、闇。
 聴覚を蔽う、闇。
 原始からの、遺伝子に植え込まれた恐怖。

 ――ベキジャナイ。

 堕ちて……堕ちて……その先に、
「鞠明、着いたぞ」

 知らず伏せていた目を上げると、車は既に少し開けたところに停車していた。英彦がエンジンを切りながら、「降りろよ」と目で促している。
 気づかれないようにそっと安堵の吐息を吐き、少し無理をして笑顔を作って――うん、大丈夫。有村鞠明は、此処にいる。
 外に出た途端、ひんやりというレベルを通り越した夜気が全身を包み込み、慌ててコートの釦を嵌め、マフラーを巻き直す。そうやっているうちに一心地つき、やがて俄然旺盛な好奇心が覗き行動を開始し出す。
「こっちだ」
 そこは、少し離れた丘のようなところ。
「で、いいものって何なんです?」
 小さな子どものように傍に駆け寄りながらそう訊ねると、骨張った長い人差し指が天を指した。それにつられるまま、空を仰いで――息を呑む。
 濃紺の世界の中に、白くさえ見えるほどの星々が群がっている。使い古された"降ってくる音が聞こえるような"という表現が素直に頷けるほどの。
「――凄い」
 完全に圧倒され呑み込まれて、呆然と呟く。忘我というのは、こういうのを言うのだろうか。
「悪くは、無いだろ?」
「あたし、こんなに沢山の星って観たことない……」
 目を瞠ったまま立ち竦んでいると、トランクから断熱シートと毛布を持ち出した英彦が、揶揄うような声で「取り敢えず、落ち着け」
 お言葉に素直に従い膝を抱えて座ると、もう一枚の毛布を肩に掛けられる。
「寒くないか?」
 小さな子どものように頷き返すと、ほわほわと湯気の立つ紙コップが手渡された。
「何? ……あ、甘酒」
 辺りの空気に浸透する、柔らかな匂い。
「琴江さんが持たせてくれたんだ。――本当は紅茶の方がよかったんだけど」
「ん、あたしはこっち方がいいけど……あれ? 先生は飲まないの?」
 魔法瓶の蓋を閉めていた手が止まり、またもや片眉を上げられる。
「道路交通法、第六十五条 」
「甘酒ってお酒の内には入らんと思いますけど」
 けろりとそう言うと、今度は横目で睨んで来た。
「――一応、少々山道が続いただけで車酔いしてた、誰かさんの為を思ってのことなんだが」
 気づかれて、いた? 普段の嘘が下手だけれど、根本的な嘘には自信があったのに。
「お前、そんなに車に弱かったのか?」
 訊ねる口調は常のものではあるけれど、言葉の底で自分を気遣っていてくれている。心配してくれている慮ってくれている、そのことはとても嬉しい。でも。
「そんなこと、ありませんよ。只、ちょっとくねくねした道が続いてたから」
 だからこそ、微笑んでみせる。大丈夫だよ、ありがとう――の気持ちを込めて。けれど、これ以上は入ってこないで、という牽制をも含んで。
「それより、此処って京都ですよね? なんか信じられへんわぁ」
 わざと声を大にして、真砂を散らしたような寒空を見上げる。
「郊外に出れば、こういう場所は結構あるんだ。それに明後日は新月だし」
 どうやら、察しはいいようで。珍しく素直に話に乗って来てくれる。
「確か、満月やと太陽の光を反射するから見難くなるって、中学ん時の理科の先生が言ってました」
「ああ、その通りだ。そうだな……普通に星を観る場合は新月から三日月くらい、天体望遠鏡で月を観るなら半月からそれより少し大きいのが、一番いい」
「へぇ……。そういえば、冬は空気が澄んでるからいいんですよね?」
 紙コップの縁に口を近づけて、軽く息を吹きながら問う。猫舌だと一気に飲めないのが辛い。
「そう。ついでに言うと、十二月は冬の星座を観るには絶好の時期なんだ。おまけに、夏から秋のはくちょう座やぺガスス座を西の地平ぎりぎりに、春のやまねこ座や蟹座を東の地平に観ることが出来る」
「ほわぁ、なんか得した気分やなぁ。……でも、やっぱり此処でも暗めの星は見えませんね」
 なかなか口をつけられないので、諦めてコップを両手で包み込んだまま冷めるのを待つ。毛糸の手袋越しに伝わる温もりが、やんわりと心地よい。
「まぁな。それはしょうがないだろ、近代化の弊害というやつだ。――そうそう、もし本当に空気が澄み切っていたなら、京都でも極光が観えるんだぞ」
「えぇ? 極光ってオーロラのことでしょ? 北極とか南極とかで観れるの」
「本当に稀なことだけどな。実存の記録によると、一番新しいので1770年に遭ったそうだ。それは『赤気(せっき)』と呼ばれ、その名のとおり赤い極光だった。当時は不吉の現われだとかで、大騒ぎになったらしいが」
「オーロラって、青や緑だけじゃなかったんですね。知らんかった」
「ま、『オーロラ』は元々ローマ神話による曙の女神の名前だから」
 さらりと吐かれる台詞に、思わず感心半分呆れ半分の溜め息を零す。
「――なんか、先生って雑学マニアみたい」
「お前なぁ、せめて博識と言えよ。それに俺は一応、知識人と呼ばれる人種の一人なんだぜ」
「いちおう、ってとこに何か引っかかるけど……」
 唇を尖らせて笑い、漸く飲めるぐらいになった甘酒を口に含む。舌先を刺激する生姜の風味が、ふわりと口内に広がる。喉を潜ってゆく、その温もりが嬉しい。
「じゃあ、折角だから物知り緋川先生に、冬の夜空について教えてもらおうかな?」
「おいおい、別に観てるだけでいいじゃないか」
「今日は何の日ぃ?」
「……このままだと首が痛くなる、横になった方が楽だ」
 苦り顔で、それでも応えてくれるというのは――やっぱり珍しいことで。陰険・無愛想助教授殿には、実は面倒見が良くて、お人好しという一面もあるのかもしれない。
 忍び笑いを浮かべながら、言われた通りに甘酒のコップを脇に置いて寝転ぶ。視界一面に広がる、紺碧の天球。大きくて深くて美しいそれは、冷然な空気に呼応して輝きを増す。一瞬足りと同一ではなく、常変と呼ぶには穏やかな、呼吸のような盈虚。人が絶景に心奪われるというのは、つまり本来個にある呼吸のリズムが、圧倒的に支配されることなのだろう。
「まず、オリオン座はわかるだろ? 一等星のベテルギウスとリゲル、三ツ星の下のオリオン大星雲も有名だな。全天一の輝星シリウスを擁するおおいぬ座はその北東に、さらに東にあるプロキオンはこいぬ座の一等星。ベテルギウス、シリウス、プリキオンで冬の大三角。――ここまでは基本だな」
 並んで寝転ぶと、普段は身長差の所為で遠くに感じる英彦の顔が、ごく間近に見える。喋ることで唇から漏れる白い吐息が、すぐ傍にいるということを意識させる。
「冬の大三角からより天頂近くに、黄色の一等星があるだろ? それがふたご座のポルテックスだ。その西が橙色のアルデバランを擁するおうし座。おうし座と言えば、すばるだな。西洋ではプレセアスと呼ばれる散開星団のひとつだ。――それと、六つの星が見えるだろう? だから日本ではむつら星と呼ばれる場合もあるんだが、西洋では神話が関係して七つ星とされているらしい。文学関係に強いお前なら知っているかもしれないが、古事記や万葉集に出てくる『五百津之美須麻流之珠(いおつのみすまるのたま)』がすばるの語源だな。枕草子で清少納言が"星は昴、牽牛星(けんぎゅう)太白星(ゆうつつ)……"と書いたヤツもそうだし。因みに、同じくおうし座に属するヒアデスという散開星団もある。和名はつりがね星。ちょうどアルデバランと重なってV字型をしてる……けど、ちょっと観難いな」
 落ち着いた深い声で、すらすらと説明してくれる彼は妙に楽しそうで。自分の大好きな玩具について夢中になって話す子どものようで、何となく可愛いというか、幼い。――口に出しては、絶対に言えないけれど。
「――それから、おうし座の角の端にあたる二等星と、ぎょしゃ座の黄色い一等星カペラを含む四つ星とを結ぶと、五角形が出来る。中国では、これを『五車』と呼ぶらしい。で、五角形の東側の一辺を、ひたすら北へ延ばしていくと北極星に辿り着く。……後はうさぎ座なんかもあるんだが、ちょっとそこまでは期待できないな。……まぁ、こんなもんか」
 一息ついて、こちらを見遣る眼は穏やかで、そしてやっぱり子どもっぽく見える。
「おい、ちゃんと聞いてたのか? 受講態度は評価に加味するからな」
「ちゃぁんと聞いてましたよ。……先生、子どもの時に天体望遠鏡とか強請ったタイプ?」口調だけは相変わらずの助教授に、つい笑って茶化す。
「俺はな、計画的に小遣いを貯めるタイプだ」
 我が侭大王のお前と一緒にするな――そんな可愛くないことを言うけれど、でもショーウインドウに飾られた天体望遠鏡をじっと見つめている男の子の後ろ姿が、その向こうにぼんやりと視えるようで。敢えて、含み笑いを続ける。
「そういえば星座って、神話が関係するものが多いんですよね?」

――ねぇ先生、貴方が子どもの時に観ていた空は綺麗だった?

「あぁ、ギリシア・ローマ関係が多いな」

――今みたいに、誰かと楽しそうに観ていた?

「冬の星座の中なら、オリオン座が有名なんじゃないか?」

――それとも、

「でも、あたしオリオン座の神話って何か好きになれへんなぁ」
 巨人の狩人オリオンは、キオス島のオイノピオン王と、島の野獣を追い払えばその褒美として娘のメロペを、という約束をする。ところが、オリオンが首尾よく野獣を追い出したのに、王は約束をたがえてしまう。怒ったオリオンは酒の勢いでメロペを陵辱する。王はそれを知ると、オリオンの両目を突き、彼を海岸に放り出した。その後オリオンは何とか光を取り戻し、クレタ島に渡って月の女神アルテミスの元で狩人となるが、他の女神と恋仲になってしまい、嫉妬に狂ったアルテミスに射殺されてしまう――そんな、よくあると言ってしまえばそれまでの話だけれど。
「確かオリオンは、他の生物よりも一際高い地位を欲して自分が強いことをあまりに自慢しすぎたために、神の怒りに触れて大地の女神ガイアの蠍に刺し殺された、って言うのもありましたよね?」
「そう、だから蠍座とオリオン座は決して空で出会うことはない。なぜならオリオンが蠍を恐れているから、だそうだ。――けれどよく言われるのは、オリオンが星座になったのはアルテミスが愛する者として配したからだとか、アトラスの娘であるプレイアス達にオリオンが恋して追い掛け回しているからだとか」
「……どっちにしろ、オリオンが傲慢不遜で女の敵というのは変わりないですね」
「お前がオリオンの神話をあまり好きになれないのは、そういう理由からだろう?」
 ひょいと眉を上げて問われ、苦笑する。
「それもありますけど……なんかオリオンの神話って、自業自得とかが多いでしょう? なにもそこまで、って感じで、逆にオリオンが可哀相にも思えるんです」
「カワイソウ、か」
 僅かに眉根を寄せて、呟かれた声は思ったより低い。
「――先生は、オリオンの神話についてどう思います?」
「俺は、」
 言いかけて、詰まったように黙った先生の顔に、一瞬、何かの気配が過ぎる。
「俺は寧ろ、オリオンが羨ましい、な」
 無表情に吐き出された、その言葉。
「どんな形にしろ、奴は罰を受けることが出来たんだ」
 それはまるで、涙を流すことも顔を歪めることもなく、泣いているようで。――そして、あたしは知っていたりする、そういう泣き方を。そしてそれに対する慰めなんて、無いということも。
「罪を贖う方法があるだけ、奴は幸せだった」
 すうっと、目を細めて空を見上げる先は、けれど空の何処でもない。それが、彼の言う『罪』を指している。
「……あたし、思うんですけど。『罪』ってカタチになるもので無くなることはなくって、だから『償う』ってことも出来なくて……でも『罪』を犯した時、またはそれを自覚した時に、ひとは誰でも『悪いこと』をしたって思うんやないでしょうか。それで苦しんだり悩んだりすることが、そのひとにとって何よりも重い『罰』になると、そう……思う」

――だから、何かを、自分を責めても無駄。

「誰かを傷つけたり、大切なものを壊してしまったり……ひとは多分そういう存在なんだから、だから……」

――涙を知らない泣き方は、無駄なんだ。だから、

「カタチのある『罰』に拘ることはない、そう思う。――って、なんだか偉そうですね、あたし」
 誤魔化すように、少し笑ってみせる。本当はわかっている、あたしみたいな奴の、こういう言葉が、余計に拘らせているだろうということは。それでも、言葉にある力を信じたいから。だから。
「――鞠明は、すごいな」
 ぽつりと零された呟きに隣を窺うと、彼は少し驚いたような呆けたような、そんな微妙な表情で自分を見ていた。そして、ふっと笑う。
「えと、何が?」
「多分、自覚していないんだろうが」
 何が可笑しいのか、今度は珍しく声を漏らして笑ってる。
「……もしかして先生、またあたしのことめっちゃ阿呆やと思ってるんでしょ!?」
「いやいや、すごいって感心してるんだ」
「嘘やっ、絶対そう思ってる。だって、めちゃめちゃウケてるやないですか!」
 しつこく続く笑い声から大仰に顔を背け、むくれてみせる。どうやらクサイ台詞を言わされたかいがあったようで、実は嬉しい。
「鞠明、悪かったって」
「声震わせながら謝ったって、聞きません!」
 それにしても、笑い過ぎだ。もしかすると、本気で馬鹿にされてるのかも。そう考えると、段々自分でも馬鹿馬鹿しく、情けなく思えてくるではないか。
「――おい、鞠明」
 まったく、名前を連呼すれば許されるってもんじゃ――と声を大にしかけ、直前何かが鼻先を掠めた。それは、雨よりも軽くて、白い……
「雪や、すごーい!」
 認識できたと同時に立ち上がって、無意識に虚空へ手を翳す。闇に映り溶ける雪は、先程まで空で輝いていた星々が本当に降ってきたよう。
「夜の雪って、綺麗やな」
 満遍なく、しかし変則的に舞い降りてくる雪は、明かりもないのに一つ一つがきらきらと光って見える。
「――鞠明」
「んん?」
 改まった言い口に振り返ると、白銀の粉でデコレートされた黒ずくめがニヤリと口角を歪めて立っている。
「二十歳の誕生日、おめでとう」
「へ?」
 突然の祝福に対処出来ないでいると、ずい、と眼前に銀色の腕時計が翳された。僅かにくぐもった文字盤の内部で、全ての針が頂上で重なり、瞬間後、静かに秒針が身を倒してゆく。
「そして――メリークリスマス」
「メリークリスマス!」
 言い合って、二人して笑う。幼い、幼いということが無罪の証のような、子どものように。
「今年はホワイトクリスマスか」
「今頃、サンタクロースが大忙しですね」
 そう、ふわふわと舞う白い星の欠片は、遥か上空でトナカイが蹴散らした所為。
「……お前まさか、サンタクロースを信じてるなんて言うんじゃねぇだろな?」
 ったく、ホンといい性格してる助教授殿だ。その上オリオンも真っ青の、傲慢不遜。
 でも、だからこそ『あたし』なんかと友達をしていられるのだろうから。
「先生、あたしはサンタクロースを信じてるんじゃありません。――信じたいんです」

――そう、あたしはサンタクロースを信じたい。二十歳になった、今だから。

 意味がわからないのだろう、口を噤む彼に笑い返してやる。こちらだって、そうそう馬鹿にされっぱなしの鞠明さんではない。
「なぁんて、ちょっと意味深なこと言ってみたりして」
「……あのな、思わず本気で信じてるのかと思ったぞ」
「む、それはそれでなんだかな」
 けらけら笑って、ほんとに馬鹿みたいにはしゃいで。

 でも。本当にあたしは、サンタクロースを信じたい。
 すべての人の上に等しく降るこの雪のように、サンタが幸せを運んでくれることを。単純で身勝手な、けれど――そう、遠い何処かの星空を見上げている男の子にとっての天体望遠鏡のような、そんな贈り物を。

――今宵、あたしにプレゼントをくれたのは。
黒いずくめに仏頂面、その上意地悪で格好つけ、でも子どもなサンタクロースでした。


★★★

「おい、鞠明」
 サイドブレーキを切って、英彦は助手席に声を掛けた。
「着いたぞ、起きろ」
 冷えた身体に染み込んでくる暖房の熱と心地よい揺れに任せて、帰路の中腹辺りから彼女が瞼を閉じていたのは知っていた。どうやら、行きのような異変はなかったようで安堵したのも束の間――いざ帰宅となり、肩を揺らしても当分起きそうになく、心地良さそうな寝息が返って来るばかり。
「おいおい、まさかたったあれだけの甘酒が効いたんじゃねぇだろうな」
 仕方なく一旦外に出て、溜め息半分に、助手席のドアを開ける。
「ま〜り〜あ、起きろ!」
 少し強めに揺するが、やはり効果はない。
「ちっ、しょうがねぇな。……ンなとこで寝てたら風邪を引くだろうが」
 乱暴な言葉とは裏腹に、静かに彼女のシートベルトを外して、細心の注意を払いながら両腕に抱き上げる。――思ったより、随分と軽い。
「……ん…」
 急に外に出されて無意識に暖を取ろうとしたのか、鞠明は小さく呻くと彼のコートの襟に頬を摺り寄せ、ちょうど鎖骨の辺りに頭を落ち着かせた。間近にあるその寝顔は、あまりに幼くあどけない。
「ったく、結局まだまだ子どもじゃねぇか」
 悪態を吐きつつも、英彦は少し力を込めて抱きしめた。そうすることで、自分のそれよりもほんの少し高い、彼女の温度が伝わる。
「……あんまり、突き詰め過ぎるなよ子どもは」
 小さく言葉を落として、そっと彼女の額に唇を落とす。

「Good night, Holy night children……」


そして、すべての子どもたちに幸いを。

2000.11.26/2002.3.25.



目次へ