冬の幻


――その眼に映る世界は、果たして美しいか――…


 盆地という地形的理由からか、京都の冬は非常に冷える。聞くところによると、同じ京都市内であっても京都市駅周辺の南区とここ、私立文黎大学のある北区とでは、二、三度以上も気温が違うらしい。今ひとつ効かない暖房に舌打ちしていると、「御所から北は同じ京都市でも違うのよ。今出川辺りが境界なんですって」今朝方そう応えてくれた大叔母、宮之園琴江の苦笑がふと思い出された。
 年明け気分も早々に、大学教職員、殊にゼミを受け持っている教員と教務担当の職員は皆、リポートと定期試験の課題提出、卒業論文の主査と副査、それから二月にある口頭試問に向けての準備等に追われている。助教授になって二年、まだまだ雑用に奔走させられる身ゆえ、これからは時間外無給労働の嵐だろうな、と徹夜明けでややぼんやりしている頭で、ぼやきを零しざるを得ない。
 先程まで猛烈な勢いで進めていたペンを止めて、一息吐きながら傍らの窓外に目を遣る。晴れてはいるが寒風吹き荒ぶ空の下、色とりどりの防寒具に身を包んだ学生の姿がうすらぼやけて見えた。室内の暖房の所為か、はたまた疲れ目の所為かと目を擦るが、よくよく見ると霙のような雪がちらついているらしい。道理で先程から冷えるわけだ、と思わず頷いた。
――と、ほとほととドアを叩く音が室内に響く。「どうぞ」と声をかけると同時に、勢いよく扉が開き、紺色のダッフルコートに身を包んだ鞠明が飛び込んで来た。
「先生! 雪やで、雪が降ってるぅ」
 相変わらずの、やたらとハイテンションな登場の仕方。もう毎度毎度のこととはいえ、徐々に遠慮容赦というものが失われている気がしてならない。
「そりゃ、冬だから雪ぐらい降るだろうが」
 きゃあきゃあとそのまま奥の窓辺に張り付く鞠明に、我ながら実に素っ気無く応じる。
「でも、クリスマス以来でしょ。今冬は暖冬やって天気予報でも言ってはったし」
 走ってでも来たのだろうか、少しばかり息が上がり、色白の頬と唇がほんのりと紅く彩づいている。その上の癖のない日向色の髪には融けた雪の粒が玉を成し、安価な蛍光灯の光を受けてきらきらと輝いていた。
「これ、積もるかなぁ? 積もったらええなぁ……」
 栗色の目を輝かせながら、鞠明は無邪気に笑う。完全に、子どものそれ。
「牡丹雪だから無理だろ。それにどうせ、こんな昼間には積もらない」
 雪国とまではいかなくとも、それなりの降雪・積雪を記録する土地生まれとしての経験から、知らずその言には自信が滲む。
「ちぇっ、雪だるま作りたいのにさ」
 唇を尖らせながら、鞠明はすとん、とその勢いのまま窓際のソファーに腰を下ろした。何かと手狭な緋川研究室で、既にそこは彼女の定位置と化している。
「――雪だるまねぇ。雪なんて、そんなにいいものか?」
 逆にこちらは立ち上がり、コーヒーメーカーにフィルターをセットしながら、首を捻る。自分としては、雪なぞ天災以外の何ものでもないと思う。温暖化からか年々寡雪になっているのは確かだが、それでも彼女のこの舞い上がりようには呆れすら通り越してしまう。
「だって、綺麗やないですか。雪が積もると周りの風景が一変して、音さえも凍ったみたいで、真っ白できらきらぁって……何か、空気そのものがいつもと違うみたいな感じになるでしょ」
 勝手知ったるとばかりに、マグカップをテーブルに出しながら、実にうきうきと弾んだ声が応える。
「ま、おかげで交通機関は混乱するし、歩きづらいし、下手すりゃ大学は休校になるしで、確かにいつもとは違うな」
「……そういうのとは違うと思うけど」
 芳ばしいコーヒーの香りに鼻をひくつかせながら、鞠明は苦笑と嘆息を零した。無理矢理わからせようとしなくなっただけ、付き合いが出来るようになったと褒めるべきか。
「そうそう、雪といえば――先生、雪に対して見られる人間の行動の違い、って知ってます?」
「なんだ、それは?」
 聞いたことがないな、呟いて見遣ると、やたら嬉しそうな笑顔にぶつかる。彼女に意味不明な話を振られるのは、いつものことだが、今回ばかりは珍しく興味深い。
「大したことないんですよ。――只ね、どうしても通らなければならない道に、一面に雪が綺麗に積もったとして……そしたら先生ならどうします?」
 小さく笑い、鞠明は上目でこちらに訊ねた。正直、何を期待されているのかわからない。
「どうするもこうするも、普通に歩いてくが?」
「真ん中を? 雪が下の土で汚れたとしても?」
「別に関係ないな、どうせいつかは汚れるんだ」
 冷やかに言い放って――なんだ、結局何の根拠もない例え話か――という落胆と、一瞬でも関心を抱いた己が愚かだったという後悔に、肩を落とす。当の鞠明は、こちらの応えに対して、逆にやっぱりと肩を竦めた。
「あたしはね、その雪が汚れないように他の道を考えたり、出来るだけ汚れる範囲が少ないように端を歩いたりしますね」
「つまり、俺は平気で綺麗なものを踏み躙れる奴、と言いたいわけか?」
 どうしても通らなければならない道に、ではなかったのかよ――と指摘して、興醒めの気配を濃厚に応える。
「――なんか先生、拗ねてません? そういう意味じゃないですよ、只、綺麗なもん完璧なもんに対して人はどう接するか、というだけですから」
「結局、同じことだろ」
 薄く笑って返すと、鞠明は頑是無い子供のように立ち上がって声を大にした。
「違います! どっちにしろ、人は雪を綺麗やと思ってる。綺麗なものを綺麗と感じる心は、誰でも同じです」
 一線に自分を睨み射る榛の眼につられ、少し目を細めて頷いてやる。
「……なるほど」
 この強さに自分は惹かれ、そして疎み嘲う。自分の眼前に立つ、この少女と呼んでも過言ではない小娘。こいつは、何が言いたいのだろうか。自分の何に対して、こうも熱く語っているのか。実はそちらの方が数倍も興味深い。
「でも結局ね、完全に綺麗なもの美しいものなんて、この世には存在しないんですよね」
「そうか?」
「そうですよ。一見して綺麗なものの裏には、見えない闇の部分がある。けれど、その瞬間瞬間が綺麗だからついついすべて綺麗だと思えてしまうんです。先生自身がさっき言ったでしょ? どうせいつかは汚れるんだから、って。その"いつか"は、きっと今現在でも、ってことなんですよね」
 そう言って鞠明は、珍しく内心の読めない微妙な笑みを浮かべる。なんとなく、それを見ていてはいけないような気がして……気がつくと、自然な仕草で彼女から目を逸らしていた。それでも強い眼は変わらずこちらを射ていて――それは、何かを嗤われているような、ともすれば見下し扱き下ろされているような、うそ寒さがあった。踏み込んではいけない、領域、そこに首を突っ込んだのは……


 けれど、だけれども

――たとえ世界そのものが汚れていたとしても、

 淹れたてのコーヒーを、カップに注ぐ。やわらかな蒸気が、ゆるゆると立ち上る。
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「だからこそ、綺麗はこの世界に存在する。……そう思うよ、俺は」

 カツン、と硬質の陶器が机上を叩く。

「かも、しれませんね」

――だって少なくとも、自分にとってのキレイは。

 軽く伏せられた瞼に隠れた、その色に。


「そういえば、クリスマスの時の星は綺麗やったなぁ」
 二呼吸ほど置いて、鞠明はこちらに笑いかけた。その面にはもう先程の気配はなく、いつもの無邪気な、無垢で無知なそれに取って代わられている。只、コーヒーを混ぜるスプーンが発てた涼しい音だけが、何かが確実に過ぎ去っていったことを物語っていた。
「あんまり知られていないが、あそこは夏になれば流星が見られるんだ」
 不意に肩が抜けたように感じ、デスクの回転椅子を引き寄せ、彼女の斜め横の位置で落ち着く。
「へぇ、しし座流星群だけやないんや」
 流れ星も綺麗やろなぁ、と首を傾けて笑う様が、あまりにも“らし”すぎて。あざとささえ感じ、わざと話題に乗ることにした。
「あと、夏に綺麗なものと言えば蛍だな。宇治や長岡京の方に行けば、まだまだ結構いるんだぜ」
「ホタルっ! あたし、本物見たことないんですけどっ」
 再び勢い込まれ、手元のカップが波打つ。しかし窘めようという気は、不思議と起こらない。
「ふぅん、最近の子どもは可哀相だな。俺がガキの頃は、鬱陶しいくらい見かけたもんだけど」
「先生の子どもの頃って、何十年前?」
「失礼な奴だな……一瞬だけ、今度見せに連れて行ってやろうかと思ったけど、やっぱりやめておこう」
「えぇっ、ほんまに! ほんまに連れてってくれはるんですか!?」
 今度こそ直下型の震動を食らったテーブルは、しかし辛うじて横から伸ばされた手によって、被害を数滴の潦に留めた。ほっと息を吐いて――それでも顔を輝かせたままの犯人に、口角を歪める。
「さぁ? どうしようかな?」
「うわぁん、お願いします! 連れてって下さい」
 あまりにも使い古された、両手を合わせ拝むポーズ。しかし何故か、彼女には似合うような気がする。
「けどなぁ、さっきなんか失礼なことを言っていたようだし……」
「前言撤回しますぅ!」
「――あ、煙草がねぇや」
「買ってきます! ……だからぁ」
 ホっタル、ホっタル、と口ずさみながら、麦藁色の柔らかな髪が擦り寄る。
「わかったわかった。夏にな」
「うわぁい! ありがとう!!」
 満面の笑みを浮かべて、その場で万歳。こういった先の話をするのは、普段の考えに反するのに――その様が妙に微笑ましく思えて、擽ったさが否めない。

――自分にとって泣きたくなるほどキレイなもの、それは。

「その代わり、煙草代はお前もちな」
「うぅ、学生にたかるやなんて、極悪助教授や」
「……何か言ったか?」
「いいえ! 喜んで買いに行かせて頂きます」
「……まったく、よく言う」
 声を殺して笑いながら、カップ片手に再びデスクに向かおうとして――また、窓外に目を遣った。
「おい、鞠明」
「もしかして、まだ条件があるんですか? ……あっ」
 訝しげに振り向いた鞠明の顔が、ぱっと輝く。
「あれも、綺麗のひとつなんだろ?」

 いつの間にか止んだ雪時雨。
その相変わらず寒々とした空に、淡い虹が架かっていた。

……それは、とても

とてもキレイな、冬の幻。


「ね、先生。この世界には、まだまだあたしが知らない綺麗がたくさんあるんですね」
「どういう意味だ?」
「夏のホタル、楽しみやなぁと思って」

――たとえ、刹那の時でもいい。

醜く汚れきった自分の世界で

キレイな

とてもキレイな……存在を知ったんだ。


それが、冬の幻のように短く儚いものであったとしても

ほんの少しでも、世界中のキレイをそのキレイな眼に映してみたいから――…


2000.12.2/2002.3.28.



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