第三火曜日の悲劇


 衝動的と呼ぶには、あまりにもあざとい感覚の支配。そういう日も、ある。
「コーヒーでも飲む?」
 早春といっても過言でない気風での、薄手のシャツ。洗い晒しのそれは袖が長く、指に絡まって、完全に裾を引き摺る形となっている。時折、まるで気紛れのあどけない手癖のように裾先を爪が引く。その度、昇りかけた陽光に胸元のシルエットが映され、宣告するように、或いは断罪するように存在主張を繰り出していた。
 雨戸の(かまち)が壊れている――そう聞いたのは何時だったか。その代役とされた遮光用の厚手のカーテンに、遮蔽(しゃへい)の役を担うレースのカーテン、その向こうの素人目にも安価なガラス。それら隔壁の間隙から、一本の古木が覗いている。独身向け賃貸マンションの植木としては不似合いな、それ。よくよく見ると判る、痩身の桜の木。暦の上では今日から春、現実でも麗らかな三月下旬であるのに、ひとつの蕾すら見当たらない。花を咲かすことを忘れた……否、忘れざるを得なかった、そんな存在。
「ねぇ、どうする?」
 長過ぎる袖、壊れた雨戸、咲かない桜。
 知らず漏らした溜め息に似た嘆息は、ここ最近に覚えたもので。少なくとも、昨日や今日には必要でなかった筈。
「……いい」
 ベッドサイドに置かれた、煙草の箱。その中身は昨夜の内に、傍らのステンレス製の灰皿で残骸と化している。未開封の買い置きが上着のポケットにあった記憶は明白で――只、慢性的な億劫さが先立った怠慢が、今のこの状況を作り上げ、適合させているだけのこと。
「帰るから、いい」
 いっそ言い捨てられたなら、どんなに愉快だろうか。埒のないことを考え、身を屈めて昨日の着衣を拾い上げる。ごく日常的なその動作が妙に緩慢に思え、吐き気を感じるほどの嫌悪感が湧き上がる。この種の感覚は毎度のことで、もう幾度も繰り返した通過儀礼に過ぎないけれど。
「今日は祝日なのに、忙しいのね」
 唯一造り付けのクローゼットの前に架けられていた、上着のハンガーを外す手が、そう嗤った。
 了解という名の不文律に、基より甘える気は毛頭ない。それは寧ろ、脅迫と換言してもいいだろう。
 まさに、先のないゲーム。競うほどの情熱もなく、放棄するほどの冷然もない。惰性と呼ぶには聊か手の込んだ、けれど楽しむ余地は組していない、そんなゲーム。
 皺の寄ったネクタイを申し分け程度に引っ掛けて、そのまま玄関へ向かう。無造作に手櫛で払った髪が、いやに大きく耳朶を叩いた。ことあるごとにワイシャツのカラーの内に入り込む後ろ髪といい、そろそろ散髪に行かなければならないのかもしれない。
 途中、白茶けたフローリングの片隅に、黒いボール紙が重ねられているのが視界に入った。その隙間を縫うように、無干渉を主張する仏語の印字が、何故か不気味に思える。
「そうそう、コーヒーメーカー買ったのよ」
 上り框の手前で、つい、と凡そその使用目的を成していないであろうキッチンの、レース地のタペストリーが揺れた。覗かれた向こう、白木のカウンターには確かに真新しい機器が配されている。
「あたし独りだと、そんなに使い道ないんだけどね」
 先刻の他動詞とは、明らかに矛盾した言い草。十二分に滲ませた自覚という名の、嘲笑。
「なるほど、他人の財布で“買った”か」
「ちょっと玩具に変化が欲しかったの」
 ボール紙の山を蹴って、また、笑う。存外面白かった、とでも言いたいのか。
「こういうのがマズローのいう、所属・愛情欲求なのかしら――センセイ?」
 長過ぎる袖が、腕に巻きつき絡まる。自分を映す、胡桃大の褐色の眼は鈍い光を屈めている。
「――寧ろ、承認・自尊欲求だろう」言って、眼下に揺れる顎を掴まえた。
 ベッドサイドの灰皿、重なったボール紙、未使用のコーヒーメーカー。――あまりの滑稽さに、いっそ倦怠感すら浮かぶ。
 低い天井に響く、湿潤音と小さな抗議。粘着質ないきれが、逆に中枢の感情を凍結させる。只々互いの自己主張から来る惨めさが先立った、浅はかな行為。
 摩擦と嚥下(えんか)、緊縛と混濁、圧迫と排出と――後に残るのは、痛痒に似た朦朧とした違和感。
「ヤダ、痕がついっちゃったじゃない」
 柔い肌に浮く、真っ直ぐな痕跡。「だから、フローリングではやめてって言ってるのに」
 醸し出された感覚は、意外と濃密で。錯覚という都合のいい幻想すら、望みたくなる。もしかするとそれは、精巧にそして緻密に計算された強制的な慟哭なのか。
「……帰る」
 適当に身仕舞いを整えて、滑り落ちていたネクタイを握り込み、今度こそ上がり框を跨ぐ。
「あ、待って」
 慌てて羽織ったのか、余計に乱れた長過ぎる袖。それが懐に忍び込み、するりと嗤う。それを見て、ふと何かを埋めたい気になった。
「――あげる、ね」
 錆びついた、歪な何かを。ピントのずれた、不可視的なこの世界に。


◆◆◆


 咲かない桜は、それでも生きている。
「悲劇的、そう呼べば気が済む――か?」
 半透明の袋に根元を埋められた彼の、見上げた空は明るかった。
 込み上げてくる感情は、贖罪ではなく、拷問でもない。そこにある、変わらぬ明日が存在することの嫌悪感のみ。

 ダッテ、カワイソウ、デショウ

 煙草を吸おうとしてポケットに突っ込んだ指に、金属製のそれが引っかかる。煙草の箱とライターと、銀色のそれ。――独り笑って、それを半透明の山に投げ込んだ。
「もう一つくらいの悲劇、困らないだろ」
 銜えた媒体から滲む気体を吸い込んで、背を向ける。……悲劇には困らない。そんな存在は、何時も何処にだってあるのだから。
 悲劇的で、あればいい。そうすれば、少なくとも哀れんでくれるだろ? カワイソウだと、思ってくれるだろ? 咲かない花を思って、嘆いてくれるだろう?
 十数歩先のそこは、もう別の世界で。打ち捨てられた個は、灰塵のごとく埋没する。もはやこの社会に対しては、同情という名の認知を求める術もない。
――と、懐で小さな震動の主張があった。
「……はい」
『あ、先生! 鞠明でーす」
「何だ、こんな朝っぱらから」
 携帯電話の側面を指先で叩き、知らず口角を歪めた。そう今は、世間的には祝日の午前なのだと。
『もうお昼前ですよ? ――でも電話に出てくれはったてことは、先生暇なんですね』
「いや、とてつもなく忙しい」
『へぇー、でもこれから家に行っちゃいますよん』
「……は?」
『先週に借りた本の、続きの奴が欲しいんです。それにこの前、琴江さんと約束したし』
 なるほど、あの人のやりそうな手だ。表面上はひどく穏やかで柔和な、大叔母の“仕事”を知ったら、回路を挟んだ向こうにいる小娘はどういった感想を抱くだろう。

 ダッテ、カワイソウ、ジャナイ?

「手土産くらいは、持って来いよ」
『んと、ウチの近所で結構評判の、苺大福買うて行きます。そやから、琴江さんに今日は紅茶やなくて日本茶にして下さい、って伝えて下さいね』
「……了解」
 電源ボタンを押して、前方の大通りに続く道へ、心持ち歩調を速める。休日とはいえ、今の時間帯なら、都合よく北行きの市バスを捕まえられるだろう。今から帰れば、着替えるくらいの間は十二分にある。
 未だ吸いかけの煙草を捨てて、ふと思い至って振り返る。
 蒼穹の下、闌れた桜を埋める半透明の山に、きらりと小さく斜光が走った。その上の、壊れた雨戸はそのままに。
――ああ、そうか。
 思えば今日は、月の第三火曜日。
 通りへ出れば、ちょうど数メートル先に(うぐいす)色のバスが顔を出したところだった。一足早い花見と観光を兼ねた乗客で込み合ってはいるが、朝のラッシュ程ではない。吊革を手に、置き去りにした、或いはこちらが置いていかれた、残像をゆっくりと思う。
 長過ぎる袖、壊れた雨戸、咲かない桜、ベッドサイドの灰皿、重なったボール紙、未使用のコーヒーメーカー、そして半透明の袋と投げ捨てられた合鍵。
 対向車線の大型車が、黒ずんだ煤煙を散らし、あざとい感傷を押し潰す。
 
 そう、今日は月の第三火曜日。

 不可燃ゴミ収集の日なのだから。


2002.4.1.



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