助教授と新学期


「先生、今期の社会心理の講義概要なんですけど」
「先生、前年度のリポート返却してくれはるんですか」
「先生、教職の社会学概説と社学のは、どう違うんですか?」
 先生、センセイ、せんせい……

 掌に痛みを感じて、知らずボールペンをへし折っていた事に気がついた。
 眼前には―― 一体何時からそこにあるのやらという書類と手紙、やたらめったら貼り付けられた付箋、大量の未開封メールで埋め尽くされているデスクトップパソコンと、オーバーワーク気味で何度もフリーズする私物のノートパソコン。
「先生、資料室のSOCIO-FILEがバグってるんでぇ、再インストールするんはどうしたら……」
「先生、新三回ゼミのメールリストが……」
 櫛風沐雨、多事多端。
――頼むから、これ以上仕事を増やさないでくれ。
 満開の桜花と新入生歓迎に湧く私立文黎大学、その一角で。齢31にして同大学社会学部助教授、緋川英彦は、ここ数ヶ月の忙殺のあまり半腐乱状態にあった。
 学期末定期考査とリポート課題に始まって、それに伴う成績評価、卒論、修論、口頭試問……学部会、教授会、補助金申請、研究会と学術会議とシンポジウム、学会の支部会と全国大会、それに付随する関連学会と集会、フィールドワークとエクスカーション、その他各報告書及び申請書の作成――そうして訪れた、恐怖の新学期。
「先生」
「センセイ」
「せんせい」
 質問という名の必殺時間外労働配達人、学生。何故彼らは、学部長でも学年主任でもない一介の助教授を、こうも煩わせに来るのか。
「だってぇ、安藤先生はパソコンのことさっぱりやし、塩屋先生はいっつも捕まらへんでしょう?」
 嗚呼、恨むべくは上司に恵まれない我が職務環境。大体、事務関係の質疑は大学事務局にするものじゃないのか。何のための学生課、教務課なのだ。
 しかし助教授の叫びは何処に留まることもなく、虚しく彼の有害嗜好品摂取量のみが増加する。そしてたとえ彼が肺癌で倒れても、私立大学教員には雇用保険が無い。世間では大学教員というと、自分の好きな研究だけしているお気楽身分とでも思っているらしいが、現実は厳しいを通り過ぎて熾烈だ。
「――先生」
 はっきり言って、ここ数日碌に睡眠を摂っていない。もう午過ぎとは言えない時刻であるにも関わらず、昼食すら摂れていない。
「緋川先生」
 ああ、もう。頼むからひとつの物事を片付ける前、次の事を言わないでくれ。俺は聖徳太子ほど人間が出来ていないのだから、特別手際が悪くなくとも無理がある。
「お忙しいようですね、先生」
 空腹を紛らわせるため朝に淹れたコーヒーは、とうに冷めきっていて。完全に分離し沈殿したそれは、口腔内に入れることすら気が退ける代物だった。仕方がないので淹れ直すかと、数時間ぶりに机から離れ振り返る――と。
「……高塚(たかつか)先生」
「ちょっとよろしいですか、緋川先生」
 トレードマークのいかにも人好きのする笑みを浮かべ、直属の上司であり、指導教官の一人でもあった教授は、荒みきっている助教授に向かって実におっとりと言い放った。


◆◆◆


 そういえば、世間は春なのだ。
 シーチキン入りのコンビニおにぎりを齧り、ふとそんなことを思う。
 実際には春だからこそ、これだけ忙しいわけだが……それでも感覚的な春のイメージは、ここのところの日常からは程遠く、憧憬に近い感情がある。自室とは大いに異なる、日差しで溢れんばかりの研究室の所為だろうか。
「今年で、三年目ですか」
 芳ばしい空気を運ぶ玄米茶の湯飲みが、テーブルの表層を軽快に叩く。
「助教授は大変でしょう」
「ええ、おもいっきり」
 指先についた海苔の破片を舐めとりながら首肯すると、明朗に笑い返された。
和泉(いずみ)先生がいなくなってから、文黎大も随分寂しくなりましたしね」
 十以上も離れた同じ社会学部の高塚梗一(こういち)教授とは、しかし三年前に東京の大学へ移った教授の代わりで持ち上がり昇進した者同士としてからか、気楽な付き合いが出来ている。教授の大人しく物腰の柔らかな性分故と言えばそれまでだが、学部内で最年少の助教授を常に“先生”づけで呼ぶのは、今のところ彼だけなのも事実だった。
「……寧ろ和泉先生がいらっしゃった方が、忙しないでしょう」
 気安い言い合いは、やはり同じ境遇を経験してきた者同士だから出来るもの。
「確かに、あの人は一種のトラブル・メーカーでしたから。緋川先生は、特に気に入られてましたしねぇ」
「苛められていた、の間違いでしょう?」
 学部生時代から助手まで散々こき使われ、行き当たりばったりのトラブルに巻き込まれていた日々が、湯飲みから立ち昇る湯気に浮かぶ。
「あの人は、選り好みが激しいんですよ。私の前にいた助教授は、反りが合わなかったとかで完全に無視されて、結局一年で辞めてしまわれましたし」
「で――気に入れば、担当の院生でも押し倒す、と」
「あはは、あれは彼女の武勇伝の中でも最大級ですね。しかもそのまま、ご結婚までされたんだから……いやはや、あの時は本当に驚かされました」
 あの時、緋川先生はまだ学部生でしたっけ――と、穏やかに尋ねられ、頷く。
「私はまだ助手で、和泉先生は助教授。で、院生だった彼女の旦那さんは博士の一年で、確か和泉先生とは十五、六は離れてましたよね。――ああ、もうあれから、十数年も経つんですねぇ」
「まぁ少なくとも、当時のゼミ生が助教授になるくらいは」
 至極簡潔な合いの手に、高塚教授はふと神妙に眼を細めた。間隙に、半開きの窓から漏れるサークル勧誘の声が微かに響く。
「――学術研究の世界にしか、逃げる道がなかったから」
 小さく呟いて、教授は相好を崩す。
「和泉先生から、聞いたんですか」
「ええ、親馬鹿のように」
 思わず溜め息を零し、眼を湯飲みに向ける。
「正直言うと、和泉先生から頼まれていたんですよ」
「お目付け役を?」
「……緋川先生は、真面目だから」
 やや申し訳なさそうな笑みと、けれどどこか楽しそうな声音。
「どうです、助教授になって貴方の『世界』の選択権は広がりましたか?」
「――さぁ、どうでしょう」
 冷めかけた湯飲みから目を上げて、ゆっくりと口角を歪める。
「高塚先生ほどではないにしろ、お陰さまで随分落ち着きはしましたよ」
「私は落ち着いてなどいませんよ」
「でも、相当のお人好しでしょう?」
 自覚している以上の生意気な口調も、おそらくこの教授相手だから出来ること。そしてそれは、己の世界が存外居心地がいい証拠。
 抽象的な言葉で逃げ込めるほど、『世界』は甘くはなくて。けれど、結局そこにあるのは個の『世界』でしかないから。生きることを疎むほどの根拠がなければ、つまり己という『世界』そのものを否定する余地はない。……だからこそ、『世界』は自意識的な観念と概念に縛られるのだけれど。
「さてね、これでも私は意地が悪い方だと思いますよ」
 温和な表情はそのままに意外な返答を繰り出した高塚教授は、テーブルの上に一枚の書類が差し出した。
「昨年末の原稿依頼、勿論覚えてらっしゃいますよね」
 企画書に明記された己の名前に、反射的に退いてしまう。
「締め切りが二ヶ月ほど早まりまして、今月末まで、ですから。――お願いしますね、緋川助教授」
 玄米茶を啜る教授の笑顔の前で、助教授の脳裏を駆け廻る今後のスケジュールが、虚しく音を立てた。


◆◆◆


「あ、先生。何処行ってはったんですか?」
 力なく自室のドアを開けると、もうすっかり馴染みとなった麦藁色の小娘が、コーヒーカップ片手にそう出迎えた。
――このクソ忙しい時に、他学部の学生が研究室を喫茶店代わりにするんじゃねぇっ!
 そう自棄半分に叫びたくなったが、大学事務員の制服を着た女性が彼女の向かいに座っているのを見、辛うじて抑え込む。
緋上(ひかみ)さん……でしたっけ?」
 名字が似ているので、なんとなく覚えていたが、確か教務課の職員だったと思う。
「そぉですぅ。――実は、この前配付された健康診断の結果なんですけどぉ、先生今持ってはりますか?」
 高塚教授に負けず劣らずおっとりと、そして妙に語尾を引く口調で、緋上嬢は言い遣った。
 確かに、先月末にした学生及び教職員の健康診断の結果とやらに覚えはあるが、忙しさの余り未開封のまま放って置いたような。
「なんかぁ、先生と私の診断書が取り違えられていたらしくてぇ。ほら、緋上比呂子(ひろこ)と緋川英彦って、似てるから間違わはったみたいなんですぅ」
「“ひ”が付く名前って多いんですね、知らんかった」
 でも先生は三つやから最強ですねー、と間で暢気に小娘が笑う。何が最強なんだ、何が。
「今ちょっと立て込んでまして、探さないとわからないんですけど」
「あ、それはさっき有村さんが見つけてくれはりましたからぁ。一応、ご連絡しに来ただけですぅ」
 ひょいと、安物のの茶封筒を手に、緋上嬢は席を立つ。やれやれ、ならさっさと出て行ってくれとは、心の中で言う。
 机上に山積みにされている書類の上に、高塚教授から預かった企画書を置く。暫く抜けていた間に、入れっぱなしのパソコンには又もや新着メールが数件表示されていた。
「そうそう、緋川先生って身長180無かったんですねぇ」
 ドアの前で振り向き様に、緋上嬢が呟いた。
「でも、身長の割に体重軽いでしょう?」
 と返したのは、パイプ椅子で寛いでいる他学部生。
「血糖値は低い目ですけど……煙草は控えた方がええて書いてありましたよぉ」
「わー、三十代で言われてたらあかんよ先生」
 ひとの個人情報を交互に暴露してくれる、女二人。
「面白いから、一瞬コピーしちゃおうかと思いましたよぉ」
「緋川助教授の、知られざる体内とかですね」
「折角だからぁ、覚えてる分だけでも書き出して置こっかなぁ?」
「あたし手伝いますよ、それ」
……いい加減にしろよ、おまえら。
 目つきが恐ろしく凶悪になっているのが、自分でもわかる。多分これは、近年よく言われる“キレ”る、つまり自己の情緒が一時的に制御不可能となる現象の、前兆だと思う。――しかし此処は我が職場であり、少なからず緋上嬢には教務課職員としてお世話になっている。
 だから今は――深く息を吸い込んで、吐き出して
「教務課“も”、この時期は忙しいようですね緋上さん?」
 知らずうっすらと浮かべた笑みに、途中運悪くぶつかった小娘が、銜えていた饅頭を取り落とす。
「明日は科目登録の締め切りだしなぁ、有村くん?」
 ぎこちなく首を傾ける返事に「ほんと、学生は気楽でいいな」饅頭拾えよ、取り敢えず。
「え、と……じゃあ私、失礼しますぅ」
 件の診断書の封筒を片手に、語尾伸ばし女は今度こそドアに。よし、一人処理できたな。
 取り残された他学部生に、俺は忙しいんだ、と眼で強調し首を鳴らしつつ、デスクに向かう。畜生どうしてくれよう、この書類の束。とにかく、メールの件名はチェックして……それから、
「緋川先生、いらっしゃいますか?」
「センセイ、安藤教授がメールソフトの環境設定がわからんから呼んで来いて」
「せんせい、塩屋先生が探してはりましたよ」
 ああ、だから
「先生ぇ、院生の室井さんが……あ、鞠明ちゃん」
「百夜さん、お久しぶりです。これ、春休み中に行って来た四国のお土産なんですけど、食べます?」
「母恵夢(ポエム)やん、ウチそれ好きやねん」
 だから、
「先生にあげようと思って持って来たのに、ご機嫌斜めなんですよ」
「放っときぃ、そういう時は相手せん方がええで」


――だから、新学期は嫌いなんだっ!
 それでもやはり、あくまで心中で叫ぶ助教授。そんな彼の手の中で、本日何本目かのボールペンに白い罅が走った。

 季節は、春。
 新たな門出に向かう者、新たな気持ちで歩き出す者、そして明日も頑張る者に。
 晴れ渡った蒼穹に舞う花弁が、それぞれの『世界』を包む。
 

とにもかくにも、今日も私立文黎大学は平和です。

2002.4.6.



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