――無意味なんだよ。
そう、あいつは言った。


 乱れたシーツの上に有害な気体がたゆり、打ち捨てた肢体に絡む。
 口唇期のリビドー不足が喫煙行動に現われる、とはS.フロイトの古典的な理論だけれど。求める対象の錯誤を無視すれば、成る程真相を突いているのかもしれない。
 すっかり癖になった溜め息に似た嘆息を零し、框が壊れている所為で閉まらない雨戸、その間隙を縫うレースのカーテンを指先で掬った。
 胡桃大の眼が、そんな他愛ない動作の一つひとつを刺している。
 理解と呼ぶには、あざとい諦観。刻み込んだのは紛うことなく、その水晶体に映された存在で。つまりは至極単純に、滑稽とも思える結論を再度確認するだけなのだから。
――ああ、そうか。
 絡めとった隔壁から覗く、燐光が全ての意味を剥奪する。そうして茫漠と残されるのは、無意味な瀟殺(しょうさつ)だった。
「……もう、終わりにしよう」

下弦ノ月ガ、見テイル



下弦の月


 鼻先を掠めたその感覚に、鞠明は知らず眉を顰めた。
 やれ花見だ宴会だと騒がれていた桜も散り、青々とした嫩葉(どんよう)が穏やかな主張を繰り出す、四月下旬の午後。暖かな春の陽気は、それだけでとても心地がいいもので。ついついぼんやりと――まるで穏やかな空気が、ゆるゆると自分の中に染み込んで来るような感覚に、身を任せたくなる。
 既に習慣として染み付いてしまった、緋川研究室での昼下がりのコーヒーブレイク。実際には相変わらず多忙を極めている助教授に対する、鞠明の定期的なお邪魔攻撃とも言えなくもない時間。だが、際限なく提示される由無い雑談に対して、片手間ながらも律儀に応えが返されることからしても、双方にとって全く意味が無いわけではないとも言える。本当に邪魔な時は情け容赦なく引導を渡されるので、かえって気楽に付き合えるのもまた事実なのだから。
 今日も、そんな他愛のない日常の一時に過ぎない――筈だった。たった今の、瞬間前までは。
 淹れたてのコーヒーと牛乳をマグカップに注ぎ、書籍と書類に埋もれつつノートパソコンを凝視している助教授のデスクへ向かう。そして、相変わらず鞠明にとっては理解不能な専門用語で埋められている洋書を心持ちずらし、空いたスペースにカップを置いた。ややあって気づいた英彦が、落ちてきた髪を無造作に掻き揚げつつ、こちらを見遣った――その瞬間、だった。
「なんだ?」
 たっぷり二呼吸ほど留まった刮目の視線に、不信げな眼がぶつかる。
「……いいえ、別に」
 榛の水晶体が眇められ、何故か薄い笑みに取って代わる。だが、それもほんの刹那のことで――英彦が再び問おうとした時には、その眼は伏せられ、口元には普段と変わらない人懐こい微笑が浮かんでいた。
 別に、という言葉とは裏腹に明らかな違和を感じ、英彦はつい彼女の動きを目で追う。しかし、定位置である窓際のソファーに腰を下ろし、そのまま無言でカップに口を付ける様には、これといった異常は見受けられなかった。
「そういえば、もうすぐゴールデンウィークですね」
 違和感の因を掴めなかった英彦が、訝かりながらも眼前の義務の世界に戻った暫時。唐突に、鞠明はそう呟いた。
「先生は、何か予定があるんですか?」
 全く脈絡のない話題の振り方は、しかし彼女の癖であるらしく、英彦自身いい加減慣れて来ている。
「まさか。精々溜め込んでる本と論文の整理くらいだ」
 苦笑しつつ、コーヒーに口をつける。口腔内に広がる味は、彼の好みより、やや苦味が勝っていた。
「大体お前みたいな、遊びたい盛りの学生とは違うんだよ」
「まぁ、そうですけど」
 隠すような嘆息という曖昧な反応を横目に、英彦は牛乳を継ぎ足そうと席を立った。
 緋川研究室の隅に配されている、助教授自身が元指導教官に譲ってもらった小型冷蔵庫は、彼が譲渡された当時想像していたよりも使用頻度が高かった。それは冷凍庫付きのツードアタイプなので、夏になればゼミ生が挙って利用する所為もある。
 取り出した500ミリリットルの牛乳パックは、思ったより軽く、自分の分を入れて少し余る程度だった。そう、彼女の分も継ぎ足せば、ちょうどいい分量。
「鞠明、牛乳もう少し……」
 言いかけて――鞄を手に立ち上がりかけている彼女が、英彦の視界に映った。テーブルの上のカップは、とうに空になっている。
「もう帰るのか? 珍しいな、いつもはしつこく居座ってるくせに」
「ちょっと、帰りに本屋に寄ろうと思ってるんで」
 手早く帰り支度を済ませると、鞠明はドアの前で半分振り返った。
「――先生」
「ん?」
 仕方なく中途半端な容量の牛乳パックを冷蔵庫に収め、デスクへ戻る――途中、背中越しに顔だけを顧みる。
「部屋の整理もいいけど、カノジョも大切にせな、あきませんよ」
 言って鞠明は、今度こそはっきりと笑った。
「カノジョの執着ってヤツですか? それとも先生の単なる惚気?」
「……どういう意味だ?」
 どちらかというと単純に分類される彼女の、らしくない笑みに、英彦は思惟が掴めず片眉を上げた。
「香水の匂い、めちゃめちゃしてますよ」
 そうして、英彦の手にあったカップの表層が大きく波打ったのを、鞠明は見届けずにドアの向こうへ消えた。

あいつが、言う。
僕は、変わらない。
変われないんだ。


「――あ、もうこんな時間やん」
 そう独りごちて、鞠明はついつい読み耽ってしまった雑誌から顔を上げた。
 繁華街にある老舗の書店は、存外居心地がよく、往々にして時間を忘れてしまう。駅前などにあるような小店舗ではないので、立ち読みを咎められないのも、その要因であろう。
 手にしていた文芸雑誌を、鞠明は逡巡した挙句、元あった棚に戻した。書籍を購入する機会はそれなりにあるものの、月末の懐を考慮すると致し方ない。意中の連載小説は一通り読んでしまったので、というのもまた事実ではあるけれど。
 地上八階建ての大型書店は、しかし一階一階の床面積はそれほどでもない。地価が高い地区の所為もあるだろうが、京都特有の奥へと長いフロアなので、狭い間口から受ける印象が大きいのだろう。その上、出入り口の周囲には目立つようにベストセラー本が平積みされており、それが余計に人の流れを妨げている。
 のろのろと玄関口に向かう途中、比較的高齢層のスーツ集団に紛れて、華やかな色彩で湧いている群れが視界に入る。興味本位に覗くと、十代後半から二十代前半の女性たちが、各々手にした薄めの冊子に真剣な眼差しを傾けていた。同年代だからか何となくつられるように、彼女たちの傍に積まれた鮮やかな写真の表紙を見て、納得する。最近CMなどでもよく見かける若手女優――なんという名だったかは忘れたが、同性の好感度も高いらしい美人の全身写真と、被さるように刷られたピンクの宣伝文句。
 関心がないわけではなかったが、正直、それに対しての必要性は自分には見出せない。そう結論づけると、ますます興味が失せ、鞠明は今度こそ足早に正面玄関を潜った。
 幾分日が沈むのが遅くなったとは言え、八時を過ぎればもう辺りは夜そのものとなる。遅くなるなら連絡しなさい、という母親の言を思い出し、慌てて携帯電話を取り出すが――流石に店の前では迷惑だろうと思い直し、一旦外に出ることにした。
 一歩出ると、街はすっかり夜の賑わいに包まれていた。会社帰りのサラリーマンやOLの集団、水商売風の女性、大学生か、もしかすると高校生の男女、どう見ても中学生くらいの髪を染めた少年達。様々な人間がそれぞれの目的で、同じ道を行き交っている。きっと彼らは自分にとって擦れ違うだけの、そういう関係だけの人間なのだ。当たり前のことのようで、なんと不可思議で不条理なことなのだろうと、鞠明はいつも思う。
 できるだけ通行の邪魔にならないようにと、人込みを避けて少し奥まった路地へ向かう。日の落ちた時刻に正直あまり独りでは近寄るべきところではないが、少しの間なら大丈夫だろうという気楽な考えが先行した。
 そうと決まればさっさと向かおうとして、前方から来た一組の男女と擦れ違う。
 サラリーマン風の男性と、髪の長いOL風の女性。女性は嬉しそうに男性の腕に抱きつきながら、彼の耳元に何事か囁いている。彼も楽しげに彼女に頷き返し、微笑み返している。……別にどうと言うことのない、ごく普通の幸せそうな二人連れだ。
『ゴールデンウィーク直前! 意中のあの人と過ごす大作戦特集』
『カレシと行きたい、テーマパークTop100』
 つい先ほど見かけた、ピンク色の丸ゴシックがちらつく。と同時に、数時間前に自分で言った言葉が、ふと甦って来た。

"それとも先生の単なる惚気?"
 
 本当のところは、それほどキツイ匂いではなかった。普通に講義を行う程度なら、誰にも気づかれなかっただろう。だからこそ、 忠告してやったというのが本音だった。
 まったく、あの助教授殿は無頓着すぎる。
 英彦の傍にいて時々感じる女性の気配は、もう随分前からわかっていた。多分『カノジョ』などという軽い関係ではないのだろう、ということも。しかしだからと言って、自分には然したることでもない。彼の個人的な付き合いに自分が口出しする権利などないし、自分自身、そんなことをしたいとも思わない。
 確かに、女の身である自分としては、あまり頂けないことだ。とはいえ、相手は十も上の大人。まだまだ子どもである自分が、とやかく言えることではない…――少なくとも、『友達』の自分には。
 鞠明自身、その手の経験、ということに関心がないわけではなかった。二十歳にもなれば、それなりの知識もある。少なくとも、異性と唇を重ねたり抱き締められたりという程度の接触は、経験済みでもある。――只、目下のところ対象と望む相手も、欲求も今ひとつなだけで。
「つうか、あたしは誰かさんと違て純情なんや」
 まぁおそらく、その誰かさんは自分から求めることなく、相手には事欠いてはいないのだろう。大学教員という社会的身分と独身貴族のお陰で懐には余裕があるのだし、それなりに恵まれた容姿をお持ちのようなので、女性の方からコナを掛けられるなんて珍しくもないのだろうけど。
「そんで移り香されてんねんから……。ほんまに、それぐらい気ぃつけろっての」
 独り呟きながら、少し笑う。笑いながら、鞠明はポケットから携帯を取り出した。

あいつは、言う。
どうせ僕には、意味がないんだ。

 表通りから路地へ踏み込むと、街の喧騒はまるで遠く離れたもののように思える。それは、まるで異空間に入り込んでしまったようで、酷く頼りなく疑わしい。
 己以外の世界から切り離されたような空間で、英彦は小さく吐息を漏らした。

理由に逃げられて、意味を剥ぎ取られて。
それでも、僕は此処にいる。

 掌の中で煙草の箱が、ぐしゃりと変形する。

哀しみなんかじゃない。
ただ、一途に怖いんだ。

 虚空に浮かんだ、薄闇の陰。強迫観念に近い、自問。

だから、僕は何もいらない。

 何も持たず、何も創らず、何も受け取らない。熟れ過ぎて醜く腐り、膿んで堕ちてしまうまでは。

怖いんだ。
僕は、いつかは殺さなければならないから。
いつかは、殺してしまうから。

「カワイソウだね、緋川先生は」
 胡桃大の、褐色の眼は只憐れみだけを映していた。

 遊び慣れた女は、後腐れが無くていいと思う。それが、彼女を選んだ理由だった。
 慣れ慣れしくなく、少しばかり自意識過剰である故の淡白さも、都合が良かった。二、三度関係を持てば、大抵は嫌でも生じる執着すらなく、煩わしさを感じさせないところが気に入ってもいた。

"カノジョも大切にせな、あきませんよ"

『あたし、ヒトを好きになれないの』
 戯れの恋人めいた付き合いの中で、彼女は言った。
『恋をしたことがない。したい気持ちはあるんだけど、ココロが好きになれない』
 退廃ともいえる居心地のよさを纏った、閉塞的な惰性の関係。それに亀裂を入れたのは、先月末に手渡された小さな銀色の金属片だった。
 正直、幻滅から侮蔑すら感じた。それは、少しだけ悲しみにも似ていた。なのに。
「カワイソウだね、センセイは」
 今、眼前にある褐色の眼は、やはり憐れみだけを映していた。
「前は、あたしもそうだと思ってた。だけど、それは間違いだった」
 馴染みの店がある、狭隘な通りに涼やかな声が響く。思えば此処は、彼女と出逢った場所でもあった。
「あたしは、否定してなかった。だから、貴方とは違う」
 白く細い腕が、滑るように胴に絡む。
「俺には、関係ない。それに君とは、昨日で全て終わらせた筈だ」
「うん、そうだね。あたしたちには、共有できる未来はない」
 やや芝居めいた堅い台詞が、肩先で零れ落ちる。耳朶の後ろ辺りを刺す昨晩以来の視線が、何故か今は心なしか痛く感じられた。
「でも無意味じゃなかったんだよ。あたしが否定しないから」
 つい、と褐色の水晶体が近づき唇を奪う。幾度も交わされた熟れた前戯のそれとは程遠い、ひどく幼い接触。
「さよなら、あたしが初めて好きになったヒト」
 瞬間映された、浸潤を含んだ眼はワンレングスに消え、刻み込むようなヒールの音が速いテンポで遠ざかる。心持ち竦めるように怒らせた細い肩が、空を斬るように闇に浮かぶ。
 その陰影を叩く艶やかな髪に――眩暈と耐え難い嘔吐感を催す既視感を覚え、英彦は思わず顔を背けた。

意味を無くした、過去の断片。
その欠片が、今も無意味な僕を貫いている。

 その場に蹲りたい程の不快感を必死に押さえ込み、脂汗を吸ってひしゃげた手の中の煙草を掴み出す。そうして震えるもう片方の手で懐のライターを弄ろうとして――カツン、と響いた地を打つ音に、我に返った。
 数メートル先の、煌びやかな表通り。その間口の辺りで、地に転がりながらも月明かりを吸うように存在を主張している、小振りの携帯電話。そして直ぐ傍で立ち竦む、ひどく見慣れた華奢(きゃしゃ)な陰。
「……鞠明」
 反射的に搾り出した己の声は遠く、英彦に寒気に似た予感を思わせた。

「――お前こんな時間迄、何してるんだ?」
 その声は、普段のそれと何ら変わりは無い。
「ちょっと本屋で立ち読みしてたら、時間を忘れてもうて」
 そう応える声にも、あまり動揺は見られない。
「馬鹿、とっとと帰れよ」
 いつも通りの軽い口調。
「ばかばか言わんでも、わかってるもん」
 これも、いつも通りの応酬。……けれど。
 僅かな光源に映し出された鞠明の顔には、はっきりと困惑が表れている。解けかけた唇が、言葉を紡がずに虚空を彷徨う。揺れる瞳が、此処ではない何処かを捉えている。
 奇妙な沈黙が、二人の間を支配した。
「危なっかしいから、駅まで送ってやるよ」
 そう先に口を開いたのは、英彦の方だった。そしてそのまま、表通りに足を向ける。
「……先生」
 らしくない蚊の鳴くような、静止の声。それに対して、英彦はごく自然な素振りで振り返った。
「何だ?」
「――さっき擦れ違った人、カノジョさんでしょ? 追いかけなくて良かったんですか」
 真剣な顔で告げる鞠明に、英彦は知らず口角を上げた。
「別に。……どうでもいいさ」
 その眼は、限りなく冷めたままで。それを見た鞠明は、すぅっと唇を歪めた。
「あらら、ラヴラヴやなかったんですね」
 黄みの勝る眼が、真っ直ぐに英彦を射る。
「あんなに見せ付けてたのに」
「……何が言いたい?」
 苛立つようなその問いに、鞠明は己の首元を指差して嗤う。
「キスマーク、気がついてなかったんですか?」
 まぁ先生は背ぇ高いから、あんまり気づかれへんかったやろうけど――と続ける、いつものあどけない声に、先程感じた、刺すような視線の痛みが再び過ぎる。
「どうでもいいなんて、可哀想ですよ」

"カワイソウだね、センセイは"

「いいんだ。去る者追わず、って言うだろ?」
 言い捨てて、微かに(わら)う。嘘も方便とはよく言ったものだ、と。
「ふぅん。じゃ、来る者は拒まず主義?」
 傾げられた小首と、くるりと向けられる幼い質疑。
「お好きなように、考えればいいさ。……ほら、とっとと」
 促す声は、しかし闇に浮かぶ榛の水晶体に途切れた。
 昼間、垣間見た薄い笑み。糾弾するわけではない、けれど確実に侵食されるような眼。
「じゃあ、先生は…――あたしがキスしてって言ったら、してくれるん?」



――下弦の月が、見ている。
下弦の月だけが、その冷ややかな光とともに見ている。

 青白い月光に、彼の端正な横顔が鋭さを増す。
 押し寄せる暗闇の中でも、彼女の瞳は輝きを失わない。
 そっと添えられた冷たい手が、二人の身長差を縮める。
 静かに、ゆっくりと彼女の瞼が降り

そして……重なる……

 僅かに感じた互いの温もりは、果たして何と呼べばいいのか。
 ただ、下弦の月だけが見ていた。
 何もかも、すべてを物言わず見つめていた。
 その眼に宿すものは、果たして祝福か、それとも断罪か。

 その問いの答えは、まだ終わらない闇に溶けていた。

下弦ノ月ガ、見テイル――…


To be continued "The moonlight"
2000.12.5 / 2002.4.22.



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