それでも、ツキノヒカリを見たいと思うのです。

 午後十二時十六分。第五号棟三階、西側第一教室。
「――先生」
 今日も今日とて大入りの出席者を出している講義は、学内でも最若手の助教授の辛い単位評価方針からか、連休間近の浮ついた空気で滞ることもなく終了した。途端に片付けと私語で雑然とする、室内。――その中で、一体、幾人が気づいただろうか。
 収容数三百人の中規模教室の、中央より後ろ側の二十列目、窓寄りの左端。そこを指定席にしている、一人の女子学生の姿が見当らないことに。
「緋川せんせい」
 何も変わらない、日常。
 講義内容の質疑と、配付資料の問い合わせに来る一部真面目な学生に紛れて、ひょいと現われる麦藁色の髪が無いこと以外は。
――それ以外は、本当に何も変わらない日常。
 手にした黒板消しで、乱雑に先だって自分が書いた文字を掻き消す。拍子にチョークの粉が周囲に舞い、煤けるように身に降り注いだ。
 変わらない? 一体、何が変わるというのか。
「センセイ……質問なんですけど宜しいですか?」
 薄っすらと残った黒板の記述が妙に憎らしく思え、不意に黒板消しを足元に投げつけたい衝動に駆られた。落ちた視力でものを見る時のような、もどかしさに似た苛立ちが、気だるさととも渦巻いている。
「……先生?」
 自筆ノートを手にこちらを窺う学生の眼に、不信が映っている。
「すまない。質問だったな?」
 全くもって、どうかしている。知らぬ間に擲っていた現実感を掻き集め、英彦は何度目かの自嘲を落とした。

――そう、変わるものなど、あるはずが無いではないか。



月影 〜ツキノヒカリ


『じゃあ、先生は…――あたしがキスしてって言ったら、してくれるん?』
 
 教科書に指定している学術書と講義のレジュメを机上に投げ出し、自らは傍らの回転椅子に落ち込んだ。
 馴染みとなった椅子の悲鳴は、しかしいつもより重みを含んでいる。そのままだらしなく身を滑らせて、布張りの背に後ろ頭を預けると、染みと埃の浮いた天井に白濁色の蛍光灯が視界を占めた。
 例の夜から、今日で四日目。あれ以来、鞠明の顔は見ていない。
 普段二人が顔を合わすのは、平均して週に一度か二度。多くて三度か四度くらいなもので、四日くらいは別に珍しいことでもない。
――何を、拘っている?
 あの程度――たかだか顔面の表皮の一部分を、瞬間的に合わせただけの戯事など、大したことではない。散々浅ましく繰り返した前戯でも、ましてや本番でもないのだから。
 只もしかすると、それでも彼女にとっては大事だったのかもしれない、とは思う。しかしその憶測も、彼女自身が言い出したという事実を考えれば無理がある。
――けれど何故、彼女の言葉に従ったのか?
 はぐらかそうと思えば、幾らでも出来た。何を馬鹿な、と笑い飛ばせたはずだ。ともすれば、彼女自身もそう考えていたのかもしれない。
――そして何故、忘れられない?
 そう、忘れられない。今も脳裏を駆け巡る――引き寄せた時の肩の細さ、月明かりに映えた滑らかな頬と首、伏せられた濃く長い睫、信じられないほど小さく柔らかな感触。そして……唇が離れた瞬間に彼女が浮かべた、あの笑みが。
 そこにあるのは困惑と、それに勝る蔑みと嘲りと。
 前後のことからして、彼女のその表情は当たり前のことだ。軽蔑すべき、最低の自分に対しては。
――なのに。
 嘆息して、再び灰色の天井を仰ぎ見る。椅子の背が、またギシリと一声鳴いた。

細い肩、紺のセーラーカラー。
滑らかな頬と首、白いリボン。
濃く長い睫、艶やかな黒髪。
小さく柔らかな唇。

「……が好きだよ」

転々と続く、赤い(あと)

「――先生っ!」
 大学敷地内の狭い中庭、そこの人口密度が爆発的に高まる昼休み。有象無象のざわめきの中で、その声ははっきりと意識を貫いた。
「これからお昼ですか?」
 逸らす間もなく、榛の眼が視界に飛び込んでくる。普段通りの屈託のない無邪気な笑顔が、何の衒いもなく向けられる。
「いや、さっき済ませたところだ」
 ごく自然な受け答えの割に、声が上滑りしているのが自分でもわかった。
「ふぅん。ついさっき休みになったばっかりやのに、早いんですね」
 そう言って少し首を傾げる仕草も、いっそ馬鹿馬鹿しくなる程変わらなくて。
「お前は、図書館で調べものか?」
 咄嗟に彼女の腕にある本を見ながら、そう誤魔化す。
「そぉなんです。明後日までに仕上げなあかんゼミのレジュメがあって」
 そやから緋川センセの講義モグリはお休みです、そう溜息交じりに笑う顔は、けして無理をしているようには見えなかった。
「三回生になれば、そんなもんだろ」
 自分だけが、動揺している。視線が定まらず、喉が異様に渇いている。些細な遣り取りの一つひとつに、内心びくびくと怯えている。
「いちいち言われんでも、わかってますよ」
 その唇から言葉が紡がれること自体が、何か断罪めいたものを突きつけられているような気がしてならない。まるでその、榛の鏡面に検束された咎人を告発するように。
「――緋川先生、ちょうど良かった」
 なんとか逃れる言葉を捜して――突然割り込んできた低い声に、救いとばかりに顧みた。
「高塚先生」
 相も変わらずお人よしを人型にしたような同学科の教授が、笑みを浮かべて立っている。
「この前、依頼した原稿についてなんですが」
「はい、もう粗方は仕上がっています」
 取り残された彼女の視線を背に痛いほど感じつつ、自分の呼吸を取り戻そうと出来うる限りの理性を掻き集める。知らず握り締めていた拳の裏には、べっとりと汗が浮いていた。
「そうですか。実は、少し変更する点がありまして……おや? もしかして、お取り込み中でしたか?」
 いつも雰囲気を読むのが巧みな教授には珍しく、しかし気遣いだけは忘れていない声で、彼は自分の向こうでつっ立っているのだろう彼女に尋ねた。
「いえ、ただ立ち話をしていただけですから。それじゃ緋川先生、あたしもう行かなきゃならないんで」
 下手をするといつも以上に柔らかな笑みを浮かべて、呆気なく彼女は背を向けて行ってしまう。去り際に、ひらひらと軽く振られた手が、何故か痼めいて焼きついた。まるで、このことが更なる重みとなったように。
「すいません。で、その変更点なんですが……」
 彼女は変わらない。あの夜のことも、彼女にとっては正にどうでもいいことだったのだ。
「というわけで、出来れば緋川先生に、後もう一章書いていただけないかと」
 思い悩んで空回りして見失っているのは、結局自分だけで。
「勿論その分、締め切りは余裕を持たせますし」
 安堵すべきことなのに――何故だか、それから呼吸する度に何かが痞えるような痛みを覚えた。

 遠く、鴉の声と共に夕闇が迫って来ている。傍の川面には赤い斑点のような照り返しが零れ、足元の下草が空風に従い引っ切り無しに裾を打っていた。
「だから、お前が悪いんだって」
 自分より、ほんの少しだけ身の丈のある少年は、そう言った。その丸い目と薄い笑みは、幼い頃に手垢が付くまで読んだ外国の絵本に出て来る猫を思わせた。主人公の少女を諭すように、揶揄(からか)うように登場するあの道化師に。
「オレは、嫌だったんだ。だけどさ、なぁ緋川」
 否、忙しなく彷徨う眼球の様は寧ろ鼠だろうか。
「……もう、どうでもいい」
 どうでもいい。
 どうでもいい。
 ……どうでもいい。
 ゆらりと、自分の背後に二つの陽炎が忍び寄る。
 小柄で細いそいつと、やや大きめの学生服に身を包んだそいつは、ゆっくりと、しかし確実に手にしたものを振り下ろした。

…………

 僕は、とうとう出来ませんでした。
 それは僕の所為だった。
 僕は、本当にやるつもりだったんだ。
 けれども、僕には出来ませんでした。
 僕が、追いかけなかったから。
 俺はその行き場を知っていた。
 けれども、僕には出来ませんでした。
 僕は、本当は怖かった。
 実のところ、俺は後悔していないのかもしれない。
 それでも、僕は諦めきれていないのです。
 そうだろう。だから僕は今もここにいるんだ。

 もしも再び……その時は、

 けれども、それはもう無理だろう。
 だから、僕は怖いのだ。
 だとすれば、俺はどうすればいい。
 僕は僕を、僕たちを終わらせなければならないんです。
 僕には、やっぱり無理なのかな。
 俺は――構わない。
 僕には、僕たちには意味がありませんでした。理由を失った今では、それがとても怖い。
 僕はそのために恐怖を覚えたんだ。
 結局、俺には出来ないから。
 僕は、その恐怖に気づきたくないばかりにやろうとしたのかもしれない。
 僕は、僕たちは結局出来なかったんです。
 でも本当は、終われると思ったんだ。
 行き場をなくした状態で、僕はこのまま眠りに就きたかったのです。

 もはや『これ』に、何の意味がある? ……意味など必要ない。どうと言うことのない、只の惰性なのだから。
 いつか、無意味な君が僕と僕を『これ』ごと殺してくれるまで。
 僕は変わらない、変われない。
 だからこそ、僕は此処にいるのだから。

…………


 自室のベッドに身を横たえたまま、ゆっくりと瞼だけを開く。
「一年ぶり、だな」
 四日前、正確に言うなら五日前の夜以前から、予兆はあった。慣れたとは言わないが、それでも『警告』に対処出来るくらいには、付き合いはある。

無意味なんだよ。

 腹筋を使って一気に起き上がり、傍らに置いてあった煙草とライターを手に取る。経験的におそらく、今夜は眠れはしないだろうから。
 物音一つ無い空気に、壁に架けられたアナログ時計の針音だけがやけに響いている。それに浸るようにひやりとした壁に凭れ、煙草を銜えた。
 シーツの上に直に置いた灰皿を反さぬよう、片手で真横の窓を半分だけ開く。ゆっくりと燻り擦り抜ける紫煙と入れ違いに、家主が丹精を凝らしていた庭の、葉桜の香りが頬を(くすぐ)った。天上には冷たい輝きを放つ星々が、静かに存在を誇示をしている。
「今夜は、新月か」
 紺碧の背景に、よくよく凝らさなければ判らない紫がかった蒼い盆状の淡い輝きが浮かんでいる。朔月の光り、所謂、地球照だ。
 通常の太陽光ではなく、一旦地球に反射した光りの照り返し。幻想的な暗いその月は、それなりに空気が澄んでいる時にしか、目にすることは出来ない。この辺りは京都市内でも随分と北に位置するので環境としては恵まれているが、これが電光の渦巻く都会なら目にすることは皆無だろう。尤も真冬ならば、更にはっきりと見れただろうが。
「そういえば確か、あの時は新月の前々日だったか」
 昨年の、クリスマスイヴ。多分、自分の生涯の中でも最大級に、らしくない過ごし方をした夜。
「……そうか」
 今眼前にある星月夜は、何故かあの時とは比べものにならない程、弱々しく見えた。
「ちょうど一年、か」
 つい先刻口にしたのと、同じ単語。けれどもそこに内包される響きは、自覚よりもずっと柔らかだった。
 一年前の――私立文黎大学、第五号棟三階、西側第一教室、中央より後ろ側の二十列目、窓寄りの左端。真っ直ぐに自分を射る、日本人の平均的なそれより随分黄みが勝る、眼。陽に透ける麦の稲穂を思わせる、髪。ふと気づけば傍にいて、散々喋り倒して騒いで……正直煩いと思うことも多々ある筈なのに、いざ居ないとなると気になって。
――まったく、一年前には考えもしなかっただろう。
 認めたく、ないわけじゃない。只、それよりも恐怖感が先走っているだけのこと。

僕は、変わらない。変われないんだ。

 月の色というのは、実際はやや赤みがかり、くすんでいるらしい。それは月そのものが、紫や青といった短い波長の太陽光はあまり反射せず、黄や赤といった長い波長のものを多く反射するからだそうだ。只、それが人間の眼の特殊な構造の所為で、本来少ない筈の青の光源がより強く見える。プルキニエ効果、と呼ばれるこの種の錯覚は、しかしこれがあるからこそ月光という単語が出来たとも言える。

『つまり総じて見ると、あたしたちって『友達』ですよね?』

 あの強い眼に、自分はどう映っているのだろう。ふと、そんなことが気にかかった。
 元々は何の関わりも無い、他学部の助教授と学生。そもそも向こうは名前すら知っていたかどうか、怪しいものだ。それが、まさに偶然の出会いと、自分にとっては青天の霹靂の友達宣言。けれどもやがて、いつの間にかそこにいることが当たり前のようになっていて。家主である大叔母と気が合う所為か、気がつけば平日の大学内だけでなく、休日にも顔を合わすこともあった。
 そんな時々、ちょっとした瞬間に、甘えてみたくなる。あの微笑みが、確実に自分に向けられている暫時に。彼女の眼によって何層にもかけられたプルキニエ効果を、破り捨ててみたくなる。

僕たちには意味がありませんでした。

 気紛れで傍に居られる程、残酷なものはないのかもしれない。そう、わかっていても。
 薄闇色の月影が、静かにそっと自分を包む。この陰を照らす誰よりも輝かしいツキノヒカリを思えば――もしかすると、今夜は眠ることが出来るかもしれない。


それでも、
ツキノヒカリを見たいと思うです。



Turn about "The shadow in the moon"
2000.12.6 / 2002.4.29.



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