interlude

 大都会の朝は、意外と遅い。そのことを知ったのは、15の春。生まれて初めて独り郷里を離れ、私立の全寮制高等学校に入学した頃だった。
 まだ薄明の色濃い冷えたオフィスの一角で、独り苦笑いを洩らす。
 朝が遅い、それは反すと夜が長いということだ。遠い夢のような夜半から切り離された、須臾(しゅゆ)とも思える暁の頃。現実と呼ばれる厳格な、或いは潔癖にも似た価値観が世界を支配する前の、誰もが息を潜める暫時。
 かつて寮監の目を盗んで飛び乗った始発の、車窓に切り取られた怪しい静けさは、今でも未解の違和感として覚えている。憧れの都が、まるで取るに足らない、ともすれば見下げていた筈の田舎と変わらないように思えた。無言の高層ビルに感嘆の声を上げる同級生の隣で、気分はひどく褪めていた。なんだ、所詮はただの空間ではないか、と。
 予感は、ずっと以前からあったのかもしれない。あの頃の年齢以上の年月を経て、そう感じることがある。
 客観的に見れば、自分は異常だ。下手をすれば、社会的制裁を受けかねないことも承知している。今の自分にとって――妻とまだ小学生の子ども二人、胃を患って以来めっきり老け込んだ父とその看病に疲れた母、そしてやっとの思いで手に入れたこのオフィスとその従業員――目をかけるべき対象は、いくらでもいる。けれども、……だけれども。
 設えたかのようにデスクの中央に置かれた書類袋を、そっと手にとる。予想していたよりも薄いその手応えに、身勝手にもつい口元が綻んだ。


「――おはようございます、所長」
 軽やかな声に書類から面を上げると、ベージュのスプリングコートを手にした事務員と目が合った。
「おはよう、君が一番乗りとはめずらしいね」
 反射的にそう愛想を返しながら、デスクの鍵つきの引き出しをごく自然を装って閉める。
「昨日、北島さんに鍵番を頼まれたんです。病院に寄るとかで、遅れるそうです」
 所長もお聞きになってましたよね、という若い笑みは、硬質な室内を一気に和らげる力があった。一昨年に短期大学を卒業したばかりの彼女は、真面目で集中力があり、密かに有望な新人として重宝している。先輩格の事務員である北島ともウマが合うらしく、将来的には事務関係全般を任せられるようになるだろう。
「ああ、聞いてるよ。確か、花粉症の薬を貰いに行くとか言ってたね」
「イネ花粉が、ダメなんですって」
 スギとヒノキだけじゃないんですね、と再び笑んで、彼女は奥の給湯室の方へと消えた。コーヒーでも煎れてくれるのだろう、そういう気遣いが出来る点もまた気に入っている。
 まだ始業には早いこの時間のことだ、湯ひとつ沸かすのにも数分は要するに違いない。そう脳内で計算して、それでも数呼吸を置いてから、引き出しから隠しておいた書類袋を取り出した。
 引き降ろすように中を漁ると、数枚の書類と幾つかのスナップ写真が滑り出る。途端に、胸の辺りに(しこり)めいた閉塞感が襲った。
 いつものことだ、そうわかっていながらも抑えられない(わだかま)り。苦痛にも似た暗澹(あんたん)たる思いを噛み締め、それでも書類に目を走らせる。――これは不善である、これは背信に値する不徳である、そうわかっていながらも手が書類を捲る。幾つかの名前、幾つかの事項、見知ったもの、見知らぬもの……眼前を駆け抜けていく数々の『現実』。
「失礼します」
 遠慮がちにかけられた声と机上を打つ陶器の音に、咄嗟に書類袋ごと近くのファイルに突っ込む。迂闊だった。罪悪感から集中するあまりに、状況を忘れていた。
「……ありがとう」
 芳ばしいコーヒーの香りの向こうで、すっと下げられた頭に、気まずく礼を言う。何か見られただろうか、そう疑心を絡めて眺め遣るが、映ったのは盆を手に帰っていく後ろ姿だけだった。
 あまりにもあからさまな自分の行動に、しかし優秀な部下はそれほど不審を感じなかったようだ。知らず、安堵の吐息を洩らす。しかしあと数分もすれば、他の従業員も続々と現れるだろう。ファイルに押された書類を掻き集め、再び引き出しに仕舞い込み施錠する。――それでも脳裏には、直前まで自分を縛りつけていた記述が占めていた。
「まさか……いや、でも」
 席を立ち、端のブラインドを掴む。気がつけば、陽は記憶よりも随分と高度を増していた。
 街が、目覚めていく。焦慮と戦慄に満ちた空気を纏い、じくじくとした血膿を垂れ流し出す。つい先程までの不恰好な沈黙が解けて、卑しさすらもひけらかすような淫靡(いんび)な側面が晒ける。
「所長、先日の武海(たけみ)代議士の件ですが」
「ああ、今日中に片をつけるよ。あちらも次の選挙で、息子を擁立するのに躍起になってるからな」
 角度を変えた日除けの間隙から漏れる斜光が、己を裁断するように彩る。網膜を襲う痛痒(つうよう)感と、それすらも凌駕する眩暈(げんうん)に、ゆっくりと瞼を下ろす。
「北島君が来たら、見積りを揃えて置くように伝えといてくれ。それから阿櫻(あさくら)製薬から連絡があったら、直ぐこちらに繋ぐように」
「わかりました」
 眼瞼(がんけん)の裏に宿る、白い幻影。生れ落ちたその時から、心を砕き続けてきたその存在。
 罵られてもいい、蔑まれてもいい。ただ、そこにあって欲しかった。第一義は別にあって、すべてを賭けるほど強くもなく、すべてを捨てるほど弱くもない自分。けれども、それでもあの瞬間的に凍てつくような墜落を、味わいたくはないから。
 そう――たとえ、断罪されようとも。もう二度と、あの絶望を見たくはない。
「……学生、だと?」
 つい独りごちたその声は、いやに掠れて聞こえた。


2003.2.20.

Beginning of Second Stage



目次へ