――ほら、耳をすませてごらん。

1.

 唐突な周囲の喧噪に、花恵(かえ)は弾けるように身を震わせた。幾度か瞬きを繰り返し、ゆっくりと一拍置いて、漸く彼女は同級生らが半分奇声のような歓声とともに席を立っていることに気づいた。
――ああ、またぼぅっとしてたんだ。
 我に返った時の、まるで水彩絵の具の溶液を被ったような、意識上の急激な色彩の変革。それは、花恵にとって格別珍しいことではない。つい先日にも学期始めの二者懇談で注意された母親に、おそらく担任が言った二倍以上のお小言をされたばかりなのだから。
 ちゃんと先生の話を聞きなさい、まったくあんたは幼稚園の時から言われてるんだから、そんなんじゃ高学年になったら勉強についていけなくなるわよ――もう幾度も、何度も耳にしてきた台詞の数々。その度に自分なりに反省しているのに、暫くするとそれをどこかに落としてきてしまう。どうして自分自身なのに思うとおりにならないのだろうと、花恵は時々自分に対してとても腹が立てる。
「花恵ちゃん、一緒に帰ろ」
 ちょんちょんと肩先を突かれ顧みると、隣の二組に所属している友達がランドセルを背に笑っていた。そうして初めて、花恵は自分だけが未だ帰り支度すら出来ていないことを知らされた。
「ごめん、(なお)ちゃん。急いで用意するから廊下で待ってて」
 鷹揚な首肯を残して教室を出ていく友の背を尻目に、慌てて机上から連絡帳を引っ張り出し、板書を書き写す。
 配付プリントの締め切り、明日持ってくるもの、来週までに用意しておくもの――事細かに白チョークで示された教師の記述は、生徒というよりその親の為にあるようなものだ。それでなくとも、学校、殊に公立小学校というものは生徒よりも親の反応を大事にしている節がある。その根底で、教師の誰しもが「あの先生はいい加減だ」などと評が立てられては敵わないという心理が働いている所為もあろう。
 出来得る限り速く、けれども乱雑にならないよう鉛筆を動かしながら、花恵は小さく溜め息を吐いた。
「……嫌いじゃないのにな」
 そう、嫌いではない。少しばかり口うるさい母親も、ことあるごとに型に嵌めたがる学校も……こうして変わらない日常も。
 彼女がこの世に生れ落ちてたったの九年と数ヶ月だけれど、その実感としての人生は、散文的というには半歩ほど奇跡に近く、劇的というには一匙ほど単調だと思われた。それは花恵の未だ乏しい語彙では到底表わせないが、彼女より少しばかり世間を知った者なら『充足』とでも表するかもしれない。満たされた、そして同時に閉じられた世界。やがてはそこに否応なしに穿たれるであろう、輝かしい崩壊を知らない穏やかな時間。
「そういえば、あの時、何が聞こえたんだろう?」
 知らず下ろしてた瞼を殊更ゆっくりと押し上げ、虚空を宿す。やや草臥れた黒板の表層を舞う微粒子、それに何かを載せるように強く見据える。
 黒から白に、そして白から黒に。いつからか、どこからか、知っていたもの。けれども、これから知るもの。変わって変わらなくて、同じで同じでなくて。柔らかくて暖かくて、鋭くて冷たい。――それは何、なんだったの?
 前に見たことがあるかも。 ううん、違う。そんなんじゃ……
「花恵ちゃん、まだぁ?」
 再び身を震わせた彼女の、その年並みの手に握られていた鉛筆が、紙面の曲線に沿って机上から床へ、正しく重力に身を任せた。




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