――それでも、知りたいことがあるんだ。

2.

 申し訳程度に頭を下げたウエイトレスが、顔を上げて立ち去る瞬間にちらりと向かいを見遣った。その面にはどう見ても好意的には受け取れない色があって、僕は益々手元のカップに集中せざるをえなかった。
 スティックシュガーを一本とほんの少し、それからミルクを流し入れる。僕の嗜好の方向性として、ミルクティーの砂糖は心持ち多目がいい。普段から自分で淹れるほどでもないし、葉っぱの種類なんかにはさっぱりだけれど、それでも好みというのはあるものだ。それがたとえお徳用のティーバックであれ、眼前にあるファミリーレストランの色水のようなものであれ。
「そんなクソ甘いもの、よく飲めるな」
 無造作に投げかけられた、落ち着いたアルトの乱暴な口調。続いてばさりと紙が動く音と共に、僕より奥にあったコーヒーがごく純粋なまま持ち上げられる。
「君こそ、ブラックなんてよく飲めるね」
 ふん、と返された可愛くない笑みが、テーブルに散らばった新聞紙を撫でた。
「これは、口直しだ」
 呻くような返事とともに、経済紙を含め一般に五大紙と呼ばれる全国紙と近隣の地方紙、いくつかのスポーツ紙にタウン誌、果てにはどこぞのあやしげな団体の機関紙まで――とにかく半端でない量の紙媒体による情報が、いとも無造作にテーブルの端に追いやられた。
「何か、君の目に適う事件でもあった?」
 否定されることを前提にそう問いを放つと、予想通り相方の眉間は険しげに寄った。
「そういう言い方は、気に食わないと言った筈だ。――第一、あたしは社会学者でも探偵でもない。世の中の事象を裁く力も知能もない。そもそも、案件を解決しようとする意欲すら持っていない。ただ興味のままに赴き、自己満足の解釈を構築する……至極平凡な、いち女子高生さ」
 あまりにも彼女らしい言い捨てるような響きに、僕は思わず声に出して笑いそうになった。彼女の言葉に内包された僕の愚問に対してであり、おそらく彼女自身に対してであろう愚弄は、そのまま彼女の外面と内面を表わしているように思える。少なくとも、探偵はまだしも社会学者が先に出てくるなんて、いかにもではないか。
「好奇心だけで、そこまで新聞と睨めっこをしている女子高生なんてそうそういないよ」
 口腔内のミルクティーの後味と相まって、僕の声は自分でもひどく穏やかに聞こえた。
「少なくとも僕の周りでは、ノウ、君くらいしかいないね」
「それは、ユウ、お前の対人範疇がいかほどのものかが問題であって、憶説に過ぎないだろう?」
 器用に片眉を上げて反駁する彼女、ノウは小作りな面いっぱいに、飲み込んだばかりのブラックコーヒーのような苦味を表わした。それを見て、僕はまた少し笑う。自身がどちらかというと特殊に分類される現実くらい、彼女だってとっくに気づいているのだから。
 そう、これは僕たちにとって馴染みの遣り取りに過ぎない。知りたがりで調べ魔でこましゃくれたノウと、日和見主義を気取っているくせに野次馬根性が強くて意気地なしの僕。その二人の、別に退屈しているわけではないのに、どこか欠乏していて倦怠を孕んだ日常の、けして無駄ではない一時だ。
「酷いな。これでも水城(みずき)先生のカウンセリングで、大分マシになったのに」
「はっ、流石は腐っても臨床心理士もどきってワケか」
 カップを手にだらしなくソファーに凭れかかり、ノウは黒曜の眼を眇めた。この態度も言動も尊大この上ない女子高生は、しかしその外見に関しては真逆を感じさせる。僕だってけして背は高くないし、どちらかというと貧弱な体つきだけれど――ノウの場合は、間違いなく同年代の平均を遥かに下回るものだろう。
 具体的な数値は知らないにせよ、確実に170に数センチ足らない僕の、(おとがい)よりも低い位置にある脳天。全体的に細い、というかちょっと掴めば折れてしまいそうな手足。年齢的に見れば未熟な女性性と、けれども触れることを躊躇(ちゅうちょ)させるほどすべらかな白い肌。
 彼女は、けして可愛くはない。同級生たちがブラウン管の向こうに求めるような、大きな眼も、ふっくらした紅唇も、絶妙な色加減の豊頬もない。彼女が有するのは、濃くはないが長い睫に縁取られている凛とした鋭い眼差し、色は悪くはないがどこか乾いた感を否めない薄い口唇、なめらかではあるけれど蒼いとも思える透けた頬……他にも、すっきりとした尖り気味の鼻梁や、やや硬質な漆黒の中途半端な髪。それらは断じて、不器量ではない。寧ろ一つひとつのパーツは整っているのに、すべてに於いて何かしらで一歩劣る。そのように構成された少女、それがノウだった。
「大体、あいつはまだ『先生』なんて言われる立場じゃない」
「でも大学の研究してるんだから、立派だと思うけどな。それに彼がいなきゃ、僕の『未来病』は見つけられなかった」
 僕がノウと知り合ったのは、一年前のある事件がきっかけだった。僕らが高校二年になったばかりの春、当時世間では悪質な新興宗教団体による学習塾を利用した集団洗脳事件が騒がれていた。例によってそれに興味を持ったノウがインターネット駆使し、別件とはいえ極度の洗脳を喰らっていた僕を捜し出した。僕の『事件』そのものは既に終わっていたけれど、僕の中では未だ終わってなかった。いや、『未来』の幻影に捕り憑かれた僕は、終わりきれなかったのだ。それを発見し回復へ導いてくれたのが、件の臨床心理士の卵だ。
「あいつのことだ、聴くより先に自分の口が動いてるんじゃないか」
 悪態を垂れながらも、ノウの機嫌はそれほど悪そうには見えない。事実、僕に水城先生を紹介してくれたのはノウであったし、二人は彼女がランドセルを背負う以前からの知り合いらしい。所謂、気の置けない関係なのだろう。実際カウンセリングの合間にも、ノウの幼い頃の話などをいくつか聞かされたことがあるくらいだから。
「まぁ……否定は出来ないけど。でもやっぱり、カウンセラーとしては優秀らしいし」
 多大な恩から義務感に駆られて、僕はいつもより強気でそう弁護した。尤も相対するのがノウでは、それもあまり意味がない。
「それは相談者としての実感かい? "思うけど"だの"らしい"だのの根拠に、他の一義的な価値や思い込みを置くのはあまりに浅はかだぜ」
 溜め息のような嘆息を落とし、ノウは無作法に片肘を突くと、身につけている黒シャツのカフスボタンを弄んだ。
「確かに、情報は判断の材料になる。けれども情報は、イコール判断ではない。情報はあくまで手段であり一方向からの認識による受動の存在であり、そのものでも絶対的な自動の存在でもない。情報とは選択や精選の外延を広め、利用するものだからな」
「だから君は、新聞を読むんだろう?」
「ああ、新聞ほど考えさせられるものはない。ある事件に対して書かれ方がまるで違うかと思えば、別の一件ではまったく同じ――この意味がわかるか?」
 僅かに唇の端を歪め、切れ長の眼が挑発するように僕を映す。
「情報を流す側の作為が、常に働いている?」
「40点だな」
 頬に落ちてきた髪を払いつつ、ノウは実にそっけなく僕の考えを切り捨てた。まぁまだ欠点ではなかったので、あながち間違いではないのだろう。正直彼女の採点は、僕の通う高校の学期末テストとは比較にならない程辛いのだから。
「そもそも何故、新聞があるのか。……それは人が情報を求めるからさ。自分の身では体験出来ない『現実』を、メディアを通して類似的に理解をする。その為に人は汗水流して得た経済的余裕を消費してまで、新聞を購入するんだ。――じゃあ、そこまでして人が求める『現実』とはどんな種類のものだ?」
「え……と、政治や経済の動きと……殺人事件とか有名人のゴシップとか、そういうものかな」
「そう。我ら善良なる市民が求めるのは、自分の生活に関わるであろう世の中の動向をほんの少しと、残りの大半は対岸で起った異常な(いさか)いや混沌とした不幸ばかりだ。より新鮮で自分から遠い、非日常性。それも或いは飽きない程度の変化や進展があり、或いは眠っていた感情を揺さぶり、そして密かに抱かれた願望や期待に沿うもの」
 厳然と一息でそこまで言うと、ノウは乱雑に押し遣られていた紙面をがざがざと叩いた。
「これらには、人々の『知りたいこと』が凝縮されているんだ。逆に、『知りたくないこと』は書かれない。何故これほどまで多種多様な新聞が存在するのか――それは、人々の中にある『知りたいこと』『知りたくないこと』の類型に対応する為だ。だから各紙で差が出来る。同時に、共通して『知りたくないこと』とされるものが存在するから、まったく同じに書かれる」
「なるほど。だから君のようにいくつかのサンプルを集めれば、逆説的に、その『知りたくないこと』が浮き彫りになるワケだ」
 口にするのは容易でも、それを実行に移すには多大な労力を要する。そういった、生半可な好奇心だけでは到底続けられないことを、彼女はいとも平気に遣り遂げてしまう。それは既に真面目とか優秀とか努力家の域ではなく、寧ろただ単に凄まじいばかりの負けず嫌いなのかもしれない。
 淡々と、そのくせ強気な口調から一転して、ノウはぐたりと斜め前方の天井に視線を泳がせた。どうやら、相当気に食わないことがあるらしい。沈着冷静で大人びていると見られがちの彼女は、しかし少し時間をかけて付き合っていると、割と気分屋で感情を隠せないことがわかってくる。
「共通して『知りたくないこと』って、そんなに決まりきったことなのかい?」
 言いながら――ふと彼女の手の中で波打っているブラックコーヒーに気づき、だから口直しなのかと納得する。そう、先程彼女が自分で言ったように、単に同じ味に倦怠を感じているのだ。
「すべて『知りたくないこと』の根底にあるのは、イコール自分が傷つくことさ。内面的であろうが外面的であろうが、どのような事項であれ自分に関わる何かを知るには、なんらかで傷つくことになる」
 いかにも面倒くさそうに独りごちるように零すと、彼女はそのままぱたりとテーブルに突いた腕に突っ伏した。つまらない、という気配がその背から滲み出ているようで、僕は今度こそ声を漏らして笑う。ここはひとつ、雑談の提供くらいはしてやってもいいだろう。
「――ああ。そういえばこの前、小学生の従兄妹が言ってたよ。クラスにとても傷つきやすい子がいるとか、どうとか」




1へ  3へ