93歳で逝った母 (05.06.10)
★母の死の第一報

平成17年5月11日午後5時25分、母は93歳の生涯を閉じました。早いもので亡くなってから1ヶ月が経ちました。
93歳という天寿を全うした母を偲びながらその思い出を綴ってみたいと思います。

母の死を知ったのは、亡くなってから1時間を経過したJR古川駅新幹線ホームでした。
帰宅途中のことで家内からの連絡でした。私の姉から家内へ知らせがあったということでした。
先ず、母の死亡の知らせを受けて、「とうとうその日がきてしまった。」という感じでした。丁度、5月3日に兄から母の容態が芳しくないという連絡を受け、急遽、5月5日に実家へ見舞いに行きました。その時の様子からしていつ容態が急変してもおかしくない状態でした。そんなこともあり亡くなったという連絡を受けて驚いたものの天寿を全うした母に対して「お疲れ様でした。ゆっくりおやすみになってください。」と思う程いたって平常心でした。

★亡くなる直前のお見舞い

5月5日にお見舞いに行ったときは、兄が「アイスクリームを食べるか」という問いに「食べる」と首を縦に振り、小さなスプーンに入ったアイスクリームを舐めるように食べていました。「うまいか」という問いには、「うめ、うめ」と言うなど元気な姿を見せていました。アイスクリームを食べた後、義姉は、割り箸につけた脱脂綿に水をひたし母の唇にあてました。母は、子供がおっぱいを吸うようにスパスパと美味しく飲んでいました。それは口の中のベトベトしたものを洗い流しさっぱりさせるためでした。義姉の気遣いには頭が下がりました。

★母が大好きだった「北国の春」

母は、千昌夫の「北国の春」が大好きでした。歌詞も3番まで暗記していて、「歌って聞かせて」と言うと揚々として歌ってくれました。5日にお見舞いに行ったときも1番の歌詞をモグモグさせながら歌ってくれました。兄夫婦の話を聞くと亡くなる直前まで「北国の春」を歌っていたようでした。
母の88歳の米寿を祝った時には、皆から「北国の春」を歌ってと言われカラオケに合わせて歌詞カード無しで3番まで歌ってくれました。目をつぶって聴くと88歳とは思えない高音の可愛い綺麗な声で歌っていました。母が元気なときに、何故、北国の春の歌詞を覚えているのかと聞いたことがありました。母は、テレビで千昌夫が歌っていた「北国の春」を聞いて大好きになり、兄の子供から歌詞を書いてもらいそれを覚えて口ずさんでいたと言っていました。それだけではなく、昔のいろいろな出来事を「何年に何があってどうだった」ということを良く知っていて思い出話をしていました。内孫や外孫の誕生日は勿論のこと1年に何回の休日があるとかそれは何日であるとか、普段、我々が気にも留めていないことをスラスラと話しをしていました。母の記憶力には誰もが感心していました。

【作詞:いではく 作曲:遠藤実 歌:千昌夫 1977年(S52年)に作られ1979年千昌夫の歌でヒット】

(1)白樺 青空 南風
   こぶし咲く あの丘 北国の
   ああ 北国の春
   季節が都会では 分からないだろと
   届いたおふくろの小さな包み
   あの故郷(フルサト)へ帰ろかな帰ろかな


2)雪解け せせらぎ 丸木橋
   落葉松の芽が吹く 北国の
   ああ 北国の春
   好きだとお互いに言い出せないまま
   別れてもう五年あのこはどうしてる
   あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな
(3) 山吹 朝霧 水車小屋
   わらべ唄聞こえる 北国の
   ああ 北国の春
   兄貴も親父似で 無口な二人が
   たまには酒でも 飲んでるだろか
   あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな
★告別式の当日

告別式の当日、母へ「北国の春」の歌詞カードを書いてやったという兄の子供が、自分の部屋から「北国の春」のドーナツ版をみつけ母の棺の中へ入れて欲しいと持ってきました。おばあちゃん子であった兄の子供の姿を見て最後の最後までおばあちゃんを慕っていることにこみ上げてくるものがありました。

私の母の思い出は尽きることがありません。次から次へと蘇ってきます。

★母の思い出

母は昔から裁縫をしていて着物を縫っては副収入を得て生活費にあてていました。着物を止めるL字型の器具を座布団に挟んでせっせと縫っていました。たまに縫い物の針を頭の髪にサッと刺しては縫っていました。私は母の裁縫する側でその姿を見ながらまとわりついていたような気がします。母は縫い物の糸を私の両手にかけて巻いていました。目の回るような感じをしながらよく手伝っていた記憶があります。アイロンも煙突のようなものがついた鉄製で炭火を入れて暖めるものでした。今ではその骨董品のようなアイロンはどこにあるのでしょうか。

私が高校1年生の時でした。数学が合格点に至らずその年「赤点」で再試験を受ける羽目になりました。がり勉のように頑張っていた中学生時代よりも高校生になってから成績が思うよう上がらなかった時代がありました。母は「やればできる人だから頑張りなさい。」と言ってくれました。その「やればできる・・・」と言った母の言葉は忘れることができません。「やればできる・・・」と励ましてくれた母の言葉は、私が社会人になってからも胸に刻みながら生活してきたような気がします。

私が社会人になって間もない頃、母と姉が新任地に遊びに来たことがありました。会社から程近いところに下宿していたことから、折角きてくれたということで職場を案内したことがありました。上司や下宿のおばさんに丁寧に挨拶をしていました。丁度、5月の節句の時期だったことから、母は、手作りのちまきを作って持ってきてくれました。5〜6個位連なったちまきを数組、きなこと砂糖を別々にして持ってきてくれました。母の気持ちに感謝しながら母と姉と一緒に食べたことがありました。

実家に帰った時は大人になった私をいつも子供扱いで心配をしてくれていました。ちゃんとご飯を食べているか。身体の具合はどうか。悪いところは無いか。元気にやっているか・・・。ごろ寝をしているとそっと毛布やタオルケットをかけてくれていました。幾つになっても子供は子供なんだと思いながら母の優しさに甘えていました。

★「母の日」に

5月7日の「母の日」には私と家内からカーネーションを贈りました。母が亡くなる4日前でした。毎年、何らかの形で母にプレゼントをしていました。ここ数年は高齢でもあったことから身につけるものではなく花をプレゼントしていました。義姉から電話があり、花は、母が寝ているベットの側に置いておきましたと言っていました。最後のプレゼントになってしまいました。

★寝たきりになった母と亡くなる直前の出来事

去年の春に大腿骨骨折で手術をし、その後、手術の経過もよく退院をしました。ところが、歳には勝てず寝たきり状態になってしまいました。寝たきりになってからは軽度の認知症から徐々に認知症も進行していきました。寝たきりになる前は、認知症傾向にあるものの話しにはまともに応えてくれていました。自宅療養中は元気そのもので三度の食事やおやつも驚くほど食べていました。
兄の話では5月に入ってから急に食事が喉を通らなくなり、かかりつけの主治医の往診を受けてブドウ糖や点滴をしていたということでした。私がお見舞い行った5日以降は、主治医から母の側にいてあげるようにと言われたいたようでした。
母が亡くなる1時間前には姉が見舞いに行き、「なかなかお見舞いに来ることができなかったけど待っていた!?」と問いかけたところ「待っていた!!」とうなずいたそうです。その後、姉が自分の家に帰るや否や兄からの電話で母の死を知らされたそうです。母は、姉と会って安心して逝ったのかもしれません。

★兄夫婦に感謝

兄夫婦から看病をしてもらいながら自宅で亡くなった母は幸せな人だったと思っています。
生前、母は、兄夫婦にいつも感謝していると言っていました。父もまた13年前、兄夫婦の看病を受けながら自宅で86歳の生涯を閉じました。
最近、高齢の方は自宅で亡くなるというよりも病院で亡くなる方が多いと聞いています。そんな中で甲斐甲斐しく看病している兄夫婦を見てはいつも感謝をしていました。今まで自分の時間も取れなかったことを思うとこれからゆっくりして欲しいと願わずにはいられません。


★安らかに

今、母は、父と一緒に昔の思い出話に花を咲かせていることでしょう。
安らかにおやすみください。そして、私たちをいつまでも見守っていてください。



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