月になにが見えるか?

 

2003年1月25日(月)

ウサギ ウサギ 何見て跳ねる 十五夜のお月さん 見て跳ねる

今日は月見ているとそんな歌が自分の頭の中に流れてきた。良い歌だなあと思うと同時にちょっと私は考えた。

・・・・・・・・・なんでウサギなんだろう?

なんで人間じゃないんだろう?なんでウサギなんだろう?

すこし調べてみたが日本以外で「月にはウサギがいる」と思っている国がある。
インドと中国である。インドの由来は「童話」からである。

『森に動物(話によってかわっている場合があるのでここは曖昧に書いておく。)がいて、そこに月の神様が老人の振りをして彼らの前に訪れた。動物達は自分の特技(熊は魚を捕るなど)をいかしてその老人におもてなしをした。しかし、ウサギだけ自分にそんな特技はないと言い、近くにあった焚き火の中に身を投げ、「私を食べて下さい」と言った。その時その老人は月の神様になり、ウサギと一緒に月に帰り、そのままウサギは月の影になったという』

これは、たぶん聞いた事ある話だと思うが、インドの人々はこの話を信じて「月のうさぎ」を連想している。

中国の場合神話として「月のウサギ」はあり、時として「月」の事を「玉兎」として表現しているが、この中のウサギの話はあまり漠然とした話しかなく(私の知っている限りではあるが)「ウサギったらウサギなんだ」みたいな感じで収まっている。

そして、日本であるが、日本の月に関する神話・童話は私の知っている限りで無いのである。何故日本には代表的な「月のウサギ」に関する話はないのか?それはまずそこらへんに置いておいてまず、日本の代表的な「月」関する童話・神話は何であろうか?
数々の話があると思うが言われて頭に浮かぶのは「かぐや姫」ではなかろうか?つまり、月に帰ったのは十二単を来た女性でないといけないのではないだろうか?と私は思った。

他の国では、「月の影」を「女性」としてみる所もある。なので同じ影でもそう見る事は可能である。しかし、日本では「ウサギ」である。なぜそこまで「ウサギ」にこだわったのか?

私の推測ではあるが、もしかしたら日本の「ウサギ説」は他の国の話から「パクッた」のではないかと思う。私達は漢字というものを中国からもらった。そして自分達のひらがな・カタカナができて自分達の言葉が出来あがった。つまり言葉の根元は中国の漢文から成る。私達は中国から様々な伝統なり品なりもらってきた、そこの童話なんかももらってしまいそこから「月ウサギ」の話が浮き出たと思われる。個人的な考え方であるが・・・。

中国もまたインドからもらったんじゃないかと思う。・・・・ここまで行くと私の暴走になってしまうのでうちけそう。

今回ここまで書いたのは本当は意味がない。私にとって「月ウサギ」の由来はどうでもよくてなぜ、日本人は「ウサギ」をそのまま受け入れたかが問題である。
その時代、たぶん日本は戦・飢饉などの色々な問題があったはずである。しかし、日本人は「月うさぎ」を受け入れた。鎧を着た武者や大砲やそういう事を想像しなかったのである。まあ最初に「月にはウサギがいるんだよ」と言われたら、そう見えてしまうもんかもしれない。でも、ちょっと私は感じた。昔の人はもしかしたら月のウサギを想像する事で現実の困難からひとときでも逃げ出したかったのではないだろうか?あくまで推測である。

・・・・では現代の人は月になにを見るんだろう?

昔とはうってかわって、日本は180度変わったといえる。つまり、世界が変わった今、月のウサギは変わるかという事である。

その時代の人々の心に反映して作られた月の影。人々は月の影に何を見出すのか。私は実は何回見ても月のウサギは見えないのだ。何回見ても何も見えない。
何も感じないのだ。ウサギが跳ねてる想像が一切できないのだ。

私はちょっと変わっているのかもしれない。

でも時たま何かに見える時がある。あまり憶えていないが、私の心情と共に月の影は変わっていく事がある。

それは動物だったり、人だったり、大量の血に見えた時もあった。

別にそう見えたからってその光景を望んだというわけではないのだ。見えてしまうのだ。
その意識が確実に無に近づく時に私の本当の本能が見えてきそうで恐い時がある。
それがいい物でも悪い物でもそれを見てしまう自分の心情が正常でいられるかが恐い時がある。

月は色々な表情を見せる。しかし、私達は月にどんな表情を見せているのか。
それは月にしかわからないが、果たして私達は月を見ているのか月の影を見て自分の思う影の形を想像するか・・・。

現代の人は月の影に何を見出すのか?
この平和な時代だからこそ月の影は「ウサギ」では無いような気がする。

 

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