講演内容 1999年10月

スタッフ紹介へ ホームへ


講演内容 1999年10月

◯初めまして高木浩久と申します。今日は貴重で大切な講議の時間をいただきまして、どうもありがとうございます。話し慣れていません、また、話のリズムが変だったり、方言が出てお聞き苦しい点もあると思いますので、最初におわび申し上げます。いろいろな考え方があると思いますが、私の正直な考えを話します。ひとつのケース(事例)としてお聞きください。また、質問、もんく、意味のわからない言葉などがございましたら話の途中でもかまいませんので、なんでも質問して下さい。こちらから一方的に話してもおもしろくないし、間が持ちませんのでお願いします。それでは始めます。

◯加治川村とは(スライド・石、桜、山、その他)

 まず、私の生まれ育った、そして、今現在、生活している加治川村の説明を簡単にします。加治川村が何処にあるか御存じの方どれくらいいますか?

 新潟県は、上越市を中心とする上越地方、長岡市を中心とする中越地方、新潟市を中心とする下越地方(佐渡も含まれます)の三つに分かれています。加治川村は下越地方に位置して、新潟市から車で一時間、韓国と北朝鮮の国境である北緯38度線が村内を走っています。国道7号線沿いに建設省の「道の駅」があります。JR羽越本線の金塚駅と加治駅があります。

 面積が36平方キロメートル(日本の一万分の一)、人口7620人(9/30現在)、高齢化率22%強、水田1450町歩、農業とサラリーマンを基幹産業とする小さな農村です。桜の木が沢山あり、国土地理院に日本一小さな山脈と認められた櫛形山脈があります。「山桜とコシヒカリの里」として村づくりを進めています。住んでいる人は皆いい人ばかりですので、機会があれば一度遊びに来て下さい。お願いします。

◯私について

 私は昭和45年9月生まれの29歳です。平成2年3月まで18年半の間、加治川村で生活していました。富山大学理学部数学科四年に在学中の平成5年12月7日に、富山市内の護国神社の前の通りで自動二輪車運転中に右折してきた自動車と交通事故に合いました。そのとき脊髄(頚随C4、5)を損傷して車椅子を使う生活になりました。胸から下の運動機能と感覚機能がすべて麻痺しています。食べ物に制限はありませんのでお酒もストローで飲みます。指も自分の意志で動かせません。事故から約6年になります。着替え、食事、入浴、排泄など生活のすべての場面で人の介助(手)が必要です。富山市民病院に1ヶ月入院し、その後、富山県立高志リハビリテーション病院に15ヶ月間、車椅子住宅が完成するまで、心と身体のリハビリテーションでお世話になりました。そこで受けた援助のすべてが今の生活の土台になっています。もし違う病院に入院していたなら今も寝たきりの生活を送っていたかもしれません。リハビリテーションと出会い、その重要さを体験しました。平成7年3月から加治川村で生活しています。家は生まれた家から1KM位離れています。丸5年間富山で生活したことになります。

 交通事故は恐いので皆さんくれぐれも気を付けて下さい。注意し過ぎるということはありません。こんなに馬鹿馬鹿しいことはないです。また、こうゆう怪我があり、いつ自分がそうなるかわからないということを知っておいてください。それと、障害を持った理由について、話したがらない方もいらっしゃいますので、初対面の人に「交通事故ですか?」とか障害を持った理由を聞くときは十分注意してください。また、街で手助けされるときは「大丈夫ですか?」とか「手伝いましょうか?」と声をかけられると素直にお願いできることが多いです。必要ないときは「結構です」と断わりやすいからです。断わることもありますが困っているときに声をかけていただくと大変嬉しいです。こちらから頼みにくいこともあるので困っている所を見かけたら「お困りですか?」と一声かけていただければ有り難いです。

 事故にあって気付いたことは、健康の大切さ、何気ないことでも毎日無事に生きられる有り難さを知りました。「上を見たらきりが無く、下を見てもきりが無い」ことも実感しました。なんだかお坊さんみたいなことを言いますが。

◯障害の受容について

 事故にあうまでは、多少、太ってはいましたが健康な身体でした。それが一つの一瞬の出来事でほとんどの運動機能を失ってしまったので、その精神的な落胆はどんなものか?どうやって立ち直ったのか?よく尋ねられますが、私の場合は事故にあってからも意識があり、連絡先を事故の音を聞いてかけつけた人に伝え、救急車の中でも意識がありました。救急車の中で身体をさわられながら「これわかる?感じる?」と尋ねられるのですが、わからなかったのでこのときに「ちょっとやばいかな」と思いました。なので医師に「一生直らない」と言われたときも「やっぱり」という感じでした。しかし、この頃は肉親に「死を覚悟してください」と言われたくらいなので精神的に不安定な状態で現実を直視できなかったので落ち込まなかったのかもしれません。ただ、身体は正直でなぜか夜眠れずに昼眠るという日々が一ヶ月くらい続きました。処方された睡眠薬もあまり効きませんでした。昼寝て夜付き添いを困らせる毎日でした。また、毎日違う病室に居たような気がします。今も最初の病院ではどんな病室に居たのか思い出せません。看護婦さんの顔もおぼえていません。話す内容も夢と現実がいりくんだ話で、聞いている人は、頭がおかしくなったと感じていたかもしれません。目がさめているときはひたすら音楽を聞いたりビデオを見ていました。家族、看護婦、医師、友達に大変迷惑をかけました。

 高志リハビリテーション病院に転院したときには、医師、看護婦、理学療法士、作業療法士、臨床心理士?など担当の方々に「事故直後なのに明るすぎる」ということで不思議がられました。心理担当の方に話を聞かれましたが、異常はなかったようです。今考えてみると、少しおかしくなっていたのかもしれないです。この頃も眠れずに注射をしてもらって眠っていました。リハビリを行い、少しずつできることが増えて、まわりの人の支援を継続的に受けられました。また、入院している同じ怪我の仲間や退院した同じ怪我の先輩の話を聞いたり、様子を見ることで自分の先こと(数カ月から数年先まで)も少し想像することができました。大学の仲間も卒業前でまだ時間があったので遊びに来てくれました。看護婦さんが外出にも付き添ってくれました。理学療法士さんがスポーツ(ツインバスケット)に誘ってくれました。家族・親戚も支えてくれました。こうして事故後3ヶ月くらいでやっと薬を使わずに眠れるようになりました。結局、まわりの人達に支えられ、今も支えられています。

 理学療法士に相談、協力、援助してもらったことは重要でした。

 家族、同じ怪我の仲間、専門職、友達、情報の役割は大きいです。

 新聞やテレビで「障害を克服して」とか「障害を乗り越えて」のような表現を使いますが、私の場合は「障害を認め、障害と共に」生きているの方がしっくりきます。不自由さを意識しないときと不自由さを強く意識して嫌になることの繰り返しだからです。考え方としては、身体が自由に動かないのは不便でとても嫌なのですが、だからと言って現代の医学ではまだ直せないと言われていますし、不便さを切り離そうとしても切り離せません。障害を認めて障害と共に生きるしかないとあきらめるしかありません。自由に身体を動かせる頃の自分にばかり未練を持っていても、今の自分にプラスになることはひとつもありません。一度しかない人生です。ありのままの自分を認めて行動する。前向きに考える方が自分のためであり、周りの人にも良いのではないかと思います。こう考えられるようになるまでが人によって長かったり短かったりして個人差がありますので、他人を例に出して今つらい人に対して無理に「頑張れ」「頑張れ」と言っても、その人を追い詰めていることになりますので注意が必要です。みなさんもそんな経験はありませんか?背中を押すことだけではなくて、「そばにいる」と言うか「見守る」と言うか、安心できることとある程度の時間が必要です。

 他の方はまったく違った考え方かもしれません。あくまで、私の場合はこうだということですので、決めつけることはやめてください。

 実現可能な目標をひとつ達成することで、次なる目標への意欲(動機付け、モチベーション)が生まれて頑張ることができます。リハビリテ−ションはこれの繰り返しでした。(ベットの上の生活から車椅子での生活、介助の食事から自分で食べる)知識は何も持っていないので、まわりの人に情報を与えてもらい、選択し、目標達成するために一緒に考えて、援助してもらうことが重要でした。

 ここで

 『「選ぶ楽しみ」と「決めてもらう楽」があります。例えてみると、前者は「介助での食事」と「自力での食事」を比べて見て下さい。どちらが美味しいですか?後者は「旅行会社のツアー」と「自主旅行」を比べて見て下さい。毎日計画して行わなければならない場合どちらが楽ですか?又は、毎日の夕食のおかずを「自分がきめる」のと「他人が決めてくれる」のではどちらが楽しいですか?どちらが楽ですか?比べて見て下さい。他に私服と学校の制服など。このように「選ぶ楽しみ」と「決めてもらう楽」があります。』

 援助する人が、すべてを選んでしまったら本人は決めてもらうことに慣れてしまって選ぶことをやめてしまうこともあります。こうなるのが嫌で退院間近の私は「早く退院したい」という気持ちを押さえられなくなっていました。「これ以上入院していると本当に障害者になってしまう」と思ったからです。援助する人はそこのバランスを考えながら情報と援助を提供することが必要だと思います。援助する人が「こうしたほうが良い」という自分の思いを本人に押し付けてはダメだと思います。信頼関係にはつながらないでしょう。人はひとりひとりにすべて違いがあり、個性があります。選択肢を提供し、本人に決めてもらう。そうすることで自己決定と自己責任が自己実現につながっていくのではないのでしょうか?よくわかりませんが。自分で決めることで意欲が生まれ、責任は誰にも押し付けられない。自分で責任を取るしかありません。そのかわりできたことで得られる達成感が次のステップへの意欲になります。

◯日々の生活は

 一日、一週間、一ヶ月のライフスタイルの詳細

 平日(月〜土曜日)は朝八時半に村社協のヘルパーさんが来て、着替え、車椅子へ乗り移り、整容(髭そり、歯磨き、洗顔)、朝食(コーヒー一杯)の介助をしてもらいます。帰るときにお茶をコップ二杯出してもらいます。ハンズフリーの電話をテーブルに置いていき普段はひざの上に置いています。ここまででだいたい十時です。その後、新聞をゆっくり読み、十二時前に昼食を持っておかあちゃんがやって来ます。膀胱ろで排尿しているので、尿バックが一杯になったときは電話で呼びます。日曜・祭日はこれら全て母にやってもらっています。

 月曜日と木曜日の午後一時半から排便のために新発田の老人訪問看護ステーションの訪問看護婦さんに来てもらっています。一人です。ベットの上で排泄します。排便は週二回です。前の日の夜に下剤を飲みます。(これ以外で調節が上手くいかずに便失禁してしまった場合も母に処理してもらいます。これがとても困りますし、なさけないですし、続くと外出がしにくくなります。)このときにお風呂のお湯を入れてもらって浴室を暖めます。終わると三時頃になります。その後、村社協のヘルパーさん二人と母が三時半に来て入浴です。三人に入れてもらっています。終わると5時頃です。入浴も週二回です。月曜日と木曜日が仕事や祭日に重なったときは、それぞれとの話し合いで日程をずらすか中止になるか決めます。一ヶ月の日程を前の月の月末にカレンダーにわかっている分だけ記入してヘルパーさんに渡し、一ヶ月の予定を組みます。

 夕食を母が6時半頃持って来て、帰ります。十時頃にもう一度母がベットにおろしに来て、帰ります。結局、母に頼った生活をしています。休みがなくて、冬は非常に申し訳ないです。母が都合つかないときは父か妹に頼んでいます。ですので私の一日の長さは朝午前8時半から夜午後10時までの13時間半です。

 車椅子には体調が悪くない限り、朝午前9時頃から夜午後10時頃まで乗っています。

 ヘルパー利用料は現在は世帯の所得によって、一時間無料から300円です。私は300円で月に1万6千円位の負担です。

 訪問看護の費用は一回250円+交通費(私は千円)の負担です。(交通費は距離により算出し0円から最高千円まで)医療費の三割が自己負担ですので、その分を月末に支払います。二万円くらいです。新潟県は県単独事業で老人と重度障害者の医療費補助事業を行っているので、月末に払った分(二万円くらい)は後で戻ってきます。そのため自己負担は結局一回1250円です。月にすると一万円位の負担です。

 週に一回中条中央病院へリハビリに行き、起立台で30分くらい立って(骨の強化?)、その後、関節可動運動をしてもらっています。外出と人との会話が主な目的です。リハビリが終わると、併設されている特養ホームへ行って、お婆ちゃん達と話をしてきたり、美容院へ行ったりします。これも主に母に連れて行ってもらいます。

 膀胱ろのフォーレ交換は二週に一回近くの内科医に往診してもらい交換しています。月曜日の入浴はそこの看護婦さんとヘルパーさんと母の三人にお願いしており、入浴後に医師が往診に来ます。最近は老人への往診が多くなって医師が私の所に来れないときは看護婦さんが交換します。大分慣れました。泌尿器科へは退院以来一回しか行っていません。そのため検査が必要ではないのかと一人で不安になっています。

 その他の時間が私の時間で、仕事、研修、講演を聞きに行く、テレビ、ゲーム、ビデオ、読書、買い物、役場で無駄話、文章作成、インターネット、室内で運動、障害者の集まり、ボランティアの集まり、村のリハビリ教室、かな、三年前はバスケットにも行きました。コンサートは数回、名刺はぼちぼち配っています。退院して一年目は大学、二年目は議員、三年目は社会福祉士、四年目は障害者運動に巻き込まれ、ゆっくりと打ち込む時間がありませんでした。車の運転も捨てきれません。

 最近は、週末だけ有償ボランティアさんに外出するときはお願いしています。時給は900円位です。 今後の課題は日中の外出と平日夜と休日の介護者の確保です。

 介助を専門家に頼む利点と欠点として、利点は介助が上手い。家族に気を使わなくてすむ。自分で決められる。欠点は人と人ですのでどうしても相性が会わないことがある。突然休むことがある(かぜなど)。慣れるまで気を使う(慣れても気を使いますが)。お金が必要。利用計画を作らなければならない。物覚えの悪い人もいます。休みがある。担当する人ごとに仕事を説明しなければならない。担当のヘルパー、看護婦が変わる度に、何回も同じ説明をしました。男性がほとんどいない。福祉サービスを利用する場合は、まず本人が何をしたいか?そのためにどこで、どんな手助けが、どれだけ必要なのかよく考えたほうが良いです。私は住んでいる所の保健婦さんなんかとも相談しました。

 一番困っていることは、障害が重度になると、生きていくために人の手が沢山必要です。今お話した通り日常的な介助者の不足です。外出も制限されます。家族の負担が大きくこれを如何に減らして自分の自由に好きなように毎日を過ごすかです。これが退院してから五年間の悩みです。白髪も増えました。介助を必要とする人と介助を提供する人を結び付ける役割をになう仕事が必要です。◯自立生活(所得、生活、雇用)

◯なぜ議員を

 「なぜ議員をはじめたのか?」ですが、平成7年3月に高志リハビリテーション病院を退院してから、一年間は自宅での生活に慣れることと、生活を安定させることに使いました。生活に安定してくると「仕事」を意識し出しました。

 私が仕事が必要だと考えた理由は、

 一つめが@家族(親)が元気な今は行政サービスの介助のすき間をうめてくれます。が、数十年先の将来を考えた場合、生活が制限されてしまう「施設」には行きたくないし、今の行政サービスだけで在宅生活での「生活の質」を保つことはむずかしいです。自費で介助者を雇うためには仕事をすること(たくわえ)が必要だと考えました。

 二つめがA暇なときに「これから、やることが何もなく膨大に続く時間をどうやって使おうか?」とか「自分自身のこの世の中での存在理由は一体何なのか?」とか哲学のようなことを考えることがありました。その答えが「一度しかない人生を障害を持ってしまったことを理由に、この年令で捨ててしまうわけにはいかない。どうせ生きるなら楽しく生きよう。」でした。楽しく生きるためにはお金がいる。それならば、働くしかないと考えました。

 この二つが私に仕事が必要だと考えた理由です。しかし、田舎で「いざ仕事」といっても、能力も通勤手段もありません。生活が制限される障害者です。ハローワークへ行って相談してみましたが求人はありませんでした。

 そこに、たまたま村議会議員選挙の話を聞きました。平成8年3月のことです。我が村の議員定数は18人で、立候補予定者が18人でした。私が選挙に出なければ二期連続で無投票になるとのことです。そのときの村議に対する私のイメージは「何もせずに議会へ行って椅子に座っているだけ、座っていることと話すことができれば良いのではないか」でしたので。「これならば私にもできる」と思い、「なぜ無投票なのだろう?当選すれば収入ができるし、介護サービスの拡充を一村民が要望するよりも早く増やせるかなー」等と考え、私には捨てるものが何も無く。家族も出馬を許してくれたので立候補しました。最終的に立候補者は19人で、選挙の結果17番目に入りました。ビリから二番目のブービー賞です。しかし、行政改革の一環で次の選挙は定数二名減の16人です。次はちょっと心配ですね。

 ですから議員になった理由は「村を変えるため」という大きなことではなく、自分にできる仕事として選びました。(選択肢の中でベストではなくベターなものを選択し、自己選択した責任は選んだ本人が負うしかない)

 イメージと現実は違うもので、実際に、やってみることで多くのことを知りました。仕事があるというのは大変ですが、生きがいと喜びになります。納税の義務をはたしているという喜びです。また、議員になったことで知り合いが増え、さまざまな障害についての問題も知りました。

 

(スライド・役場、スロープ、自動ドア、エレベーター、議席等)

 「車椅子で議員活動はどうしているのか?」と疑問を持たれると思います。

 役場庁舎は平成2年完成で比較的新しく。

 入り口にはスロープと自動ドアがあります。

 議場は3階にありますがエレベーターがあるので困りません。

 議席は3番で固定式の椅子を取り外してあります。議場では手動式の車椅子を使っています。

 議員同士の申し合せで発言・質問は議席での発言が許されており、起立での裁決は挙手で起立したとみなしてもらっています。議長選出等の選挙は記入は私自身がして、事務局の人に投票箱に投票してもらっています。議場はじゅうたんがしきつめてあって手動式の車椅子では動きにくいです。そのため、議場への出入りは事務局の人に車椅子を押してもらったり、議員さんに押してもらったりしています。「はじめて車椅子を押した」とおっしゃる方が何人かいました。それだけでも私が議員になった意味があったのかなーと思っています。

 車椅子議員が誕生したと言うことで新潟県内では報道されました。最初の議会のときのインタビューで「議席に座った感想は?」と尋ねられ「いつもの車椅子なので別に変わりません」と答えたことを覚えています。

 視察や研修は両親に介助してもらっています。いろいろな所に行きますが段差などは、そこにいる人や議員さんが持ち上げてくれます。

 お酒を飲みに行く機会もあります。議員として行くと店の人が玄関でタイヤをふいてくれ、あがりかまちで車椅子を持ち上げるとき手伝ってくれます。畳の上にもあがらせてくれます。別の日に同じ店へ友達と行くと「タイヤをふいて下さい」と言われ、友達だけで持ち上げて、畳の上にのることも嫌がられます。これが社会(世の中)かと思う瞬間です。中身は私で変わっていないのですが、

 障害を持つ議員さんは国会議員から県議会議員、市町村議員まで全国に何人もいて、話を聞いてみると他の議員さんから「いじめ」にあったと言う人が何人かいましたが、私の村では「いじめ」は全くありません。親切にしていただいています。

 

 超高齢社会を前にして、最近はよく「福祉のまちづくり」と言われます。「福祉のまちづくり条例」が各地で制定されたお陰で障害者対応の施設も少しづつ増えてきました。が、行政が行う福祉施策は、担当の方達は一生懸命に考えて下さっていることはわかるのですが、障害を持つ人の立場から見るとまだチグハグな点が目に付きます。制度にしてもハコモノにしてもどちらについても言えます。これには施策作成、施策決定、予算審議のそれぞれの段階で障害を持つ人の視点(利用する人の視点)が欠けている。または、不十分だからです。つまり、障害を持つ人の意見を十分に聞き、反映させる手続きがもっと必要なのです。この手続きが省かれると、多額のお金(税金)は使ったが利用する人にあまり喜ばれない施策が行われてしまいます。障害を持つ職員、障害を持つ議員がいれば、あるいは、障害が無くても障害に理解のある職員、障害に理解のある議員がいれば、この危険性はぐっと減ります。当事者がいると説得力があります。みなさんも挑戦して下さい。

◯福祉機器

 車椅子は、手動式(スエーデンのパンテ−ラ)、電動アシスト(OXエンジニアリング・ヤマハのJWー)、電動(スズキ)の3台を用途に応じて乗っています。クッションはロホ・クッションです。文章作成はマッキントッシュのPowerBook 2400c/180を使っています。スキャナーとプリンターとモデムも利用します。メールも少しやります。今はデジタルカメラがほしいです。電話は子機にハンズフリー機能のあるFAX電話です。リフトはリモコン式の天井走行リフト(明電舎のパートナー)です。車庫と家の間に段差解消機(富山の大澤工業)。ホームエレベーター(松下電気)。扉は玄関と勝手口とシャッター以外はすべて引き戸。テーブルと洗面台とスイッチの位置は家庭で使用する車椅子に乗って一番利用しやすい高さを計測して決定しました。家の中に段差はありません。必要ならば見に来て下さい。ベットは電動ベットで介護者が介護しやすい高さに上げるために下駄を履かせています。エアーマットは寝返りエアマットを使用しています。これのお陰で6年間夜間の寝返りなしで床擦れができていません。車は市販の軽自動車のバンに電動リフトを後付けしました(改造はニッシン)。お金ができたら環境制御装置(ECS)を使いたいです。

◯みなさんにお願い

 当たり前のことで恐縮なのですが、障害を見るのではなく個人を見て下さい、失った身体機能をもとに戻すのではなく。残された機能を最大限活用して生活をどう送るのか考えて下さい。

 先日、国際福祉機器展に行ってきました。年々便利なものが作られます。専門職ならば紹介するためにも常にアンテナをはって情報収集を続けることが利用者を助けることになります。多くの専門学校生らしき人達がいました。この中で行ってきた方はいらっしゃいますか?継続的な研究と情報収集をお願いします。

 言葉使いで気になることがあります。車椅子だと赤ちゃん言葉で話し掛けるおばちゃんこれは許せます。リハビリしている高齢者に赤ちゃん言葉で話し掛ける理学療法士、三十歳の脳性麻痺の障害者に「◯◯くん」呼びする介護福祉士など、逆の立場だったらどうしますか?信頼関係なんて築けますか?本音を話せますか?専門職ならば適切な言葉使いをお願いします。

 みなさんの立場でしかわからないことを他の職種の人に教えて下さい。伝えて下さい。社会制度の不備なところをみなさんの視点で変えて下さい。私は当事者の立場で変えていきます。多方面の多様な意見の中から変えていくことが重要です。

◯統合教育(障害の理解)

 障害の理解を深めるためには、統合教育が必要です。私はずっと完全な隔離教育を受けてきました。3年前、同じ村で同じ年に生まれた耳の不自由な青年と初めて出会いました。こんなのは不自然じゃないでしょうか。正直いいまして、自分が障害を持つまでは障害を持つ人を避けてきましたし、差別していました。今も完全にはなくせないでいます。それは知らないことで起きる可能性があると思います。小さい頃から自然に接し、遊んでいれば理解は必ず深まります。

 たとえば、私が住んでいる村(加治川村)には小学校が三つ、中学校が一つあります。入学式、卒業式など学校行事にはできるだけ出席するようにしています。小学校は日程がかさなるので三つのうち最寄りの小学校に出席しています。そのためこの小学校の児童は車椅子を見なれています。三小学校合同の行事に出席すると、こちらから「あいさつ」しても返事が帰ってこない児童と、こちらから声をかける前に向こうから「あいさつ」してくれる児童と違いが見られます。「あいさつ」してくれるのは最寄りの小学校の児童が多いです。これは知らないことと知っていることの差だと思います。私は他の障害について知らないことばかりです。

 自分がこうなったから虫が良すぎるかも知れませんが、統合教育が必要です。「人間は違いがあって当然なのです。」

 私の友達はこの原稿を読んで「障害を持つ人の存在が薄く、自然に同じ生活をしていない気がする。人の性格が一人一人少しづつ違うような感覚で、小さい頃からいろいろな人と暮らしていくのが、自然で大切である。肩ひじはらずにお互いの違いを認めて、自立の部分と手助けの部分を見極められるようになるためには、小さい頃から一緒に暮らしていないと、手助けも不自然なものになると思います」と言っていました。

 別の友達で養護学校の先生がいるのですが、この人は私の考えの逆で「養護学校は必要だ」と言います。養護学校は障害児の親が求めて作られたので、普通学校、養護学校、どちらでも選べるという形が良いのではないでしょうか。(そのかわり、責任は選択した本人に帰ってきます。)

 今の日本は子供も親もまわりから落ちこぼれないように、他人ばかりを気にして、神経をすりへらしています。そして、目立たないように普通で居ようと、自分に無理をしてしまい不登校になる、等さまざまな問題を抱えてしまう子供が増えています。子供だけではありません。いろいろな人がいれば違いを認め合い、お互いに足りないところを補い(おぎない)あって、それぞれのペースで生きて行けます。みんな人間であることに違いはありません。もっと自分をさらけだしても良いのです。ありのままの自分自身で良いのです。これは自分にも言っています。(自己を受容すること、これは中途障害者の障害の受容と似ている。あるいは、同じ。)

 「障害者は地味で真面目に障害を克服しようと一生懸命生きている」というイメージは捨てて下さい。持っているのは私だけか。

◯障害について

 障害には三つのレベルがあります。それは、国際障害者年に「個人の特質である機能障害(impairment)、そのために生ずる機能面の制約である能力低下(disability)、及びその能力低下の社会的結果である社会的不利(handicaps)の間には区別がある。」という事実の認識が促進された。そして、世界保健機関WHOは、健康を「単に虚弱でないというだけではなく、身体的にも、精神的にも、社会的にも申し分のない状態」と定義しています。これはまさに理想の状態です。

 障害の三つのレベルに体験としての障害を加えた内容は

◎機能障害:器官・臓器レベルの医学的な変調であり、広義の障害の基礎をなすものである。病気の症状、後遺症のなかで、日常生活や社会生活上の困難を生ずるような症状のことである。具体的には、肢体不自由、視覚・聴覚障害、精神薄弱、記憶・思考・情緒・感情や気分の障害、てんかんなど意識の障害、内蔵や皮膚の障害などである。

◎能力低下:個人のレベルの動作・行為能力の低下・欠如であり、食事・排泄・衣服の着脱などの身辺動作や、コミュニケーション活動などがうまくできないことを意味する。器用さの低下、暑さや騒音に耐えられない、身の危険がわからないなどである。機能低下の直接的な結果として起こる。その人の生活する地域的・文化的条件を考慮すべきである。生活の中で最低限必要なことが違うからである。実用性という点も重要である。残存機能の訓練、活用により実用的な早さと正確さが得られるならば能力低下ではない。このように、その人の実際の生活動作・行為のなかで困っている点を能力低下とし、これを減らすのがリハビリテーションである。

◎社会的不利:機能障害や能力低下の結果として、その個人に生じた社会的不利益であって、その個人にとって正常な役割を果たすことが制限されたり妨げられたりすることである。その社会・時代の多くの人々に保障されている生活水準・社会活動への参加・社会的評価などが保障されていない状態である。

 体験としての障害:これは障害の三つのレベルが客観的次元の障害を扱っているのに対して、障害を持ったもの自身がその障害をどう受け止めるかに関するものである。障害により、過保護に成長したり、自らを嘆いて過度に依存的になったり、世間を呪い攻撃的になったり、このような自己に対する否定的態度を克服し、心身に不自由はあっても人間としての価値に変化はなく、何も恥じることなく人生を歩んでいく人もいる。

 これら四つに障害を区別した場合に、社会的不利をいかに軽減して生活し、自己実現して行けるかが重要である。

 むずかしく言うと上のようになるのですが、

◯障害の不便さ

 誰にでも、やりたいことがあっても色々な理由でできずに我慢するしかないことがありますが、その理由が身体が動かなくてできないときに障害?を感じます。例えば、一人でドライブに行きたいのに運転できないとき。最近、世の中は福祉に目が届くようになってきたので、見知らぬ人でも「手を貸して下さい」と頼めば断わられることは少なくなってきたのですが、私の方が勇気を持って頼めないことが障害です。他人に迷惑をかけることを躊躇う(ためらう)自分が障害です。

 今でも街に出るときは出るまでが自分との葛藤です。誰も私のことを注意しては見ていないと思うのですが、街では車椅子の人を見ると「ちらっ」と見て通り過ぎていくように感じます。これは私の勝手な被害者意識です。(欧米人はほほえんでくれます。東洋人は見て見ぬふりをします。これは地域性、文化、宗教の違いかもしれないです)出てしまうとどうでも良くなるのですが、出るまでがイライラしてしまいます。障害者の集まりには気軽に出席できるし、無理せず、気を使わず、ありのままでいられます。

 先日、保育園の父母会で『今日のみなさんはどうですか?小さなお子さんを連れて外出されるときはどうですか?』と尋ねたところ『少し似ているかも』と答えて下さいました。

 頭では「ありのままの自分で行動する」と思っていながら、素直に行動にあらわせないところが不満で、頭と行動が一致できるようになれば私も一人前の障害者になるのでしょうか?みんなが横並びの教育から抜け出せていない自分がいます。

 本人、家族が、障害を持った場合に落胆してしまう理由は、障害への理解不足と、その後の情報不足に由来するものが多いです。将来のことが想像できずに不安になります。知らないから恐いのです。障害を持っても不安なく暮らせる社会であるならば、落胆は少なく押さえられます。実際に10年前よりは5年前が、5年前よりは現在が暮らしやすくなっていると思います。私の知り合いは「自分が障害を持ってから3年かかってできるようになったことを、これから障害を持った人が少しでも短い時間でできるようになるように努力している」と言っていました。その人は言葉どうりに努力されています。私もその考えに同感で、少しでも誰かの力になれればと思います。情報の問題は個人のプライバシーが関わってきます。私に何かお役に立てることがあれば連絡してください。それが私を助けることにもなります。

◯楽しみは

 生活の中での楽しみは基本的にみなさんと変わりないと思います。あえて上げるならば仲間と酒を飲むこと。日本代表のサッカーを見ること。日曜日。(慣れていても他人の介護にはどうしても気を使います)人と会って話をすることです。相談を持ちかけられると生きていると感じるので、近所で障害を持って困っている方がいらっしゃいましたら教えて下さい。あまり力にはなれませんが話を聞くことはできます。みなさんも日頃困っていることを教えて下さい。それを行政に伝えることが私の仕事です。

◯夢について

 夢はいろいろあると思います。実現可能な目標をひとつ達成することで、次なる目標への意欲(動機付け、モチベーション)が生まれ頑張ることができます。リハビリテ−ションはこれの繰り返しでした。(ベットの上の生活から車椅子での生活、介助の食事から自分で食べる)次の目標は、自立生活、自動車運転などです。実現可能なことを目標とし、実現に「?」が付くことを夢とするならば、夢は「立って歩く」さらに「立って走る」ことです。(中学、高校と陸上部なもので)社会の面での夢は「誰でもが障害を持つことを理由に自分の行動が制限されない(あきらめなくてよい)社会になれば」と思います。これは男性でも、女性でも、外国人でも、高齢者でも誰にでも言えることです。

◯「福祉のまちづくり条例」の効果で建物は整備されてきたと申し上げました。が、家からその建物までの移動が困難です。たとえてみると、入り口が階段の上にあって建物の中に車椅子トイレが設置されているようなものです。想像してみてください。施設が点在しているので施設間を結ぶ線(公共交通機関)の整備が必要です。公共交通機関を車椅子対応にすれば、お年寄りや妊婦さん、ベビーカー、重い荷物を持った人(海外旅行者やスキーヤーなどのように)車椅子以外の人にも大変便利です。幸い富山県には路面電車が走っています。平成9年8月から熊本市内を走り出したライト・レール・トランジット(LRT)の導入を提案します。この路面電車は公害が少なく、他の新交通システムに比べコストが安く、乗り降りしやすい低床車両です。乗降口の高さが地面から三十センチメートルです。国の補助金があります。環境に優しく二酸化炭素の削減にも効果的です。低床バス(ノンステップバス)の導入も提案します。低床バスにも国や自治体から事業者への補助金があります。(もう走っていたら済みません)尼崎はこれから入れ替える路線バスは全て低床バスにすると決めたそうです。

 ごくたまに電車に一人で乗るのですが、終点で全員が降りるときなど茶髪や地べたに座っている男の子がよく「大丈夫ですか?」と尋ねてくれます。私が男だからでしょうか?女だったら女の子が声をかけてくれると思います。その次がおばちゃんです。これが同性介護の必要性をあらわしています。

 電車に乗っていたとき、私の右肩の後ろにカマキリがとまっていて、近くにいたカップルの女の子が「カマキリがいます」と教えてくれたのですが、「手が不自由で届かないんですよ」と説明して、そのままにしていたら、肩をカマキリがずんずん登ってき首のところまでやってきそうになったので、それを見ていた、さっきの女の子が男の子に「とってあげなよ」と言うのですが「だめ、恐い」と怖がって、そうこうするうちに、カマキリは飛んで行きました。今時の男の子はカマキリが恐いのかーと思いました。話がそれました。戻ります。

  障害をもって地域で生活するために、仕事、当事者参加、障害への理解、生活保障、移動の保障、情報提供の、それぞれを地域の中で進めて行くことで、それぞれが作用しあって、障害を持つ人の地域での「生活の質」が向上して行きます。障害を持つ人だけではなく、視点を広げれば、老人や児童、女性、外国人、つまり、地域住民すべてに関わっていることです。みんなが関心を持ち、意見を出し合い、協力して行くべき事柄なのだと思います。

 障害者の人権がどれだけ保障されているかが、その社会の成熟度のバロメーター(指標)と言われます。障害のある人が住みやすい社会は、誰にとっても住みやすい社会です。バリアフリー、ノーマライゼーション、ユニバーサルデザイン、インテグレーション。カタカナばっかりです。どれも輸入した「考え方」です。「考え方」が輸出できるようになるように、皆さんの御健闘と御健康をお祈り申し上げまします。お帰りはくれぐれも交通安全に注意して下さい。これで話を終わります。長時間、最後まで下手な話を御拝聴下さいまして、どうもありがとうございました。

スタッフ紹介へ ホームへ このページのトップへ