<ニューパワー講座>

 正義の闘争を今こそ! 

監修・青山樹人

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 青年部の新会員や新たな活動メンバーが「学会の正義の闘争」や「広布を阻む悪の本質」を学ぶために出版された『宗教はだれのものか』(鳳書院)が好評を博している。この連載では、同書の重要なポイントを整理し、さらに一歩掘り下げた観点からの思索を加え、「破邪」と「顕正」の両面を明らかにしていく。

 

<第1回> 「宗門事件」の本質とは

[日顕宗] 遊蕩三昧のニセ法主≠神秘化し「絶対服従」を強要する

―― 「宗門事件」は昭和50年代に起きた第1次=Aさらに平成2年、日顕のC作戦に端を発する第2次≠ニ、2回起きているわけですね。
教授 宗門が「出家の権威」をもって、在家である創価学会を苦しめたことは、戦前から幾度となくありました。しかし、この2度の宗門事件は、宗門が謀略をもって、広宣流布に邁進(まいしん)する学会を破壊し、信徒を支配下におこうと企んだ異常な出来事です。特にC作戦は、法主が謀略の首謀者となった大がかりな事件だったわけです。
―― ただ、第三者から見ると、宗教団体の内紛にしか見えず、分かりにくい面があるようです。
教授 内輪もめどころか、「宗門事件」は、すべての人々が真剣に見つめ直すべき重要な問題をいくつもはらんでいます。
 本来、宗教は、人間を向上させるものです。この人間を向上させる≠ニいう過程を経ずにただ幸福≠ノなれると説く宗教は夢物語に過ぎないし、もっと言えばインチキです。
 日蓮大聖人が念仏を厳しく糾弾された一つの理由も、当時流行していた念仏信仰が「現実の人生を向上させていく」ことを放棄して、念仏さえ唱えていれば、あの世≠ノ極楽往生できるという安易な信仰≠説いていたからです。
 実際に念仏の流行は治安の悪化や自殺の増加などを招いており、幕府や朝廷は何度も禁止令を出しているほどでした。
―― そうなると、もはや信仰が人間を向上させるどころか、人間を愚かにし、堕落させてしまいかねないわけですね。
教授 法主を通さなければ信仰は成り立たないとか、葬儀や戒名、塔婆供養がなければ成仏できないと説く日顕宗は、言い換えれば法主にすがり、坊主に供養をして儀式さえやっておけば成仏できるというエセ仏教≠ネのです。

[SGI] 覚醒した市民が三代会長の「思想と行動」を共有していく民衆運動

教授 大聖人は「一念に億劫(おくごう)の辛労(しんろう)を尽(つく)せば本来無作(むさ)の三身(さんじん)念念に起(おこ)るなり」(御書790ページ)と仰せです。
 一閻浮提(いちえんぶだい)広宣流布という大聖人の御遺命を真剣に実践してきた創価学会は、日本でも海外でも、「その国のよき市民」として、さらには人類全体の幸福を創造する「世界市民」としてどう生きるのかという課題に正面から挑んできました。
 自ら最高の模範となりながら、この民衆運動を指導してきたのが牧口・戸田・池田という創価の三代の指導者です。SGI(創価学会インタナショナル)は、いわば「三代会長の思想と行動」に触れて覚醒した人々が、自分の人生を通して、その「思想と行動」に連なっていく宗教だと言っていい。
 SGIが世界183カ国・地域に発展したのも、世界の識者、とりわけ学問の世界の最高峰が池田先生を称賛するのも、SGIが人々を「世界市民」へと育んでいく壮大な民衆教育であり、宗教が最も理想的な形で人々の内なる善のパワー≠引き出しているからだと言えるでしょう。
―― 宗教が人間を向上させるのか堕落させるのか。まさに21世紀冒頭の今日、世界的にもそのことが問われている気がします。
教授 そのとおりです。人間を向上させるという宗教の使命を果たしている学会の偉大さが全くわからない宗門の坊主は僧が上で在家は下≠ネどという差別意識で君臨しようとしてきた。それでも学会は彼らを守りに守ってきたわけです。しかし、坊主の眼中には広宣流布など全くない。供養を差し出す奴隷のような信者さえ手に入れればいいと謀略をめぐらした。
 宗門事件とは「過去の遺物の宗教」が「第三の千年に求められる宗教」を破壊しようとした事件であり、だからこそ私たちは多くの人々と対話しながら、断固として勝利していかなければならないのです。

(2002.10.16. 創価新報)

 

<第2回> 仏意仏勅の創価学会

[日顕宗] 軍部の弾圧を恐れ、日蓮大聖人の正法を捨て去る

―― 戦時中、軍部権力は国民の思想統制をするために、国家神道を強要し、一方で戦争協力をするように、すべての宗教を圧迫してきたのですね。
教授 そうです。本来なら命がけで戦争に反対すべきであった日本の宗教界は、ほぼすべてが弾圧を恐れて沈黙し、積極的に軍部にシッポを振って協力する教団もありました。
 日蓮正宗も、積極的に軍部に協力し、神札を祀るよう末寺に指示し、信徒に伊勢神宮遥拝(ようはい)や神社参拝を命令しています。また、御書の中にあった「日蓮は一閻浮提(いちえんぶだい)第一の聖人なり」(974ページ)など、大聖人が末法の御本仏であることを宣言された御文などを14カ所も削除している。
―― そもそも、日顕の父親である60世法主の日開など、身延山久遠寺に媚びた法滅の法主≠ナすね。
教授 牧口先生、戸田先生の師弟が日蓮大聖人の信仰の道に入った年であり、池田先生が生まれた年でもある昭和3年に、日開はドロ沼の権力争いの末に法主の座を手に入れています。そこから宗門は加速度を増して大聖人の正義からほど遠いものになっていく。一方で創価教育学会(創価学会の前身)が大聖人の御遺命のままに軍部権力を恐れることなく折伏を開始したのです。
 有名な「開目抄」の一節に「種種の大難・出来(しゅったい)すとも智者(ちしゃ)に我(わが)義やぶられずば用いじとなり、其(そ)の外(ほか)の大難・風の前の塵(ちり)なるべし」(御書232ページ)とあります。この覚悟で大聖人の「教義」を死守したのは学会です。牧口先生は大聖人の謗法厳誡(ほうぼうげんかい)の教義に照らして神札を拒否し、そのために投獄され獄死されました。対照的に、宗門は「大難」を恐れて大聖人の教義を覆い隠し、捨て去ったのです。

[SGI] 日蓮大聖人の「教義」によって民衆を覚醒し、立ち上がらせる

―― 日本の風土は、宗教の「教義」について、あまりにも無関心ではないでしょうか。
教授 建物や儀式にはこだわっても、信仰の内実については無節操です。教義を検証しないということは自分で考える足場≠持たないということです。徳川幕府がキリシタンを徹底して弾圧し、日本の仏教を葬式仏教に作り変えたのも、民衆が自分でものを考え始めることを恐れたからだと言えるでしょう。
 20世紀、日本がファシズムに蹂躙されてしまった一つの理由も、一人ひとりの日本人が、暴力や戦争を断固として拒絶できる宗教的信念を持っていなかったことにあるのではないでしょうか。権威に無条件にすがっていく信仰は、権力の暴走に対しても無力な人間をつくってしまうのです。
―― 戦後、戸田先生は真っ先に法華経講義から始められ、会長就任後、すぐに御書全集の刊行に着手されました。
教授 言うなれば創価学会は「教義」を根本に幾百万の民衆を立ち上がらせてきた壮大な運動なのです。それまで宗教のことは聖職者に独占されていた。学会の登場によってはじめて、民衆が宗教の主人公になったのです。幾百万の人々が、ほかの何者かにすがることなく自分で宿命を転換し、幸福になっていく道をつかんできたのです。真の意味で、日本社会で民衆が覚醒し、自立した、歴史的な壮挙なのです。世界の知性は、そこを非常に大きく評価しています。
―― 大聖人の精神は学会の中にこそ脈打っているのですね。
教授 そうです。法華経は「万人が仏」であると説く経典です。しかし、理の上で「万人が仏」と言うだけでは、観念論です。大聖人は「設(たと)ひ法華経に値(あ)い奉るとも末代の凡夫(ぼんぷ)法華経の行者には値いがたし」(同1247ページ)と仰せです。重要なのは「法華経の行者」の行動≠ネのです。法華経の行者として行動してこそ、「仏」と呼べるのです。
 創価学会は、事実の上で「万人が仏の振る舞い」をしてきた教団です。世界183カ国・地域で、無名の庶民が大聖人の「教義」によって立ち上がり、賢明に自立し、仏の智慧と慈悲を手に入れて、人々を「仏」にする戦いを展開してきました。
 「万人が仏」という法華経の思想は、学会の登場によって、初めて事実の上で証明されたのです。どれほど偉大な学会であるか。世界の知性たちが学会を「人類の希望」と称賛する理由も、ここにあります。この誇るべき信仰の歴史を、私たちは確信を持って内外の友に語っていきたいと思います。

(2002.11.6. 創価新報)

 

<第3回> 世界宗教への飛翔

[日顕宗] 広布の展望も責任もなく卑しい心で嫉妬を燃やす

―― 昭和50年代に入って、宗門が学会の前進を阻もうとした第一次宗門事件≠ェ起こりました。
 広布を目指して僧俗一体で進んでいるはずなのに、宗門がこのような謀略を巡らすようになったのはなぜなのでしょうか。
教授 この事件は、池田先生の指揮によって可能になった世界宗教への飛翔と切り離して考えることはできません。
―― そういえば、今年は、池田先生とトインビー博士との対談から30周年でしたね。
教授 昭和47年から48年にかけて、池田先生は20世紀を代表する歴史学者と、「人間」をめぐるあらゆるテーマについて語り合われました。それは、21世紀へと向かう世界と人類にとって、仏法が何をなし得るかを問う、壮大な挑戦だったといえるでしょう。両者の対談集『21世紀への対話』は、今日では世界の識者が絶賛する書として24言語で出版されています。
―― 昭和49年には歴史的な池田先生の第1回訪中・訪ソ(当時)がありました。
教授 当時、中ソ両大国は国境近くに軍を展開するなど一触即発の危機にあったのです。池田先生は、民間人として双方の首脳と会談をし、戦争回避を訴えられました。まだ大多数の日本国民が中国やソ連に不信感や脅威を感じていた時代に、民衆と民衆を結ぶ友好の「金の橋」を架けられたのです。
―― 「なぜ宗教者が社会主義の国に行くのか」という批判が渦巻くなかで、先生は敢然と対話の道を開かれたのでしたね。
教授 「そこに人間がいるから」との先生の答えは有名です。その後も、ヨーロッパや中ソの識者たちと幾多の対話を重ねています。文明や体制、宗教、イデオロギーを超えて、未来の人類の幸福を願う仏法者としての大変な挑戦だったと思います。四半世紀という歳月を経て、先生の行動がどれほど重要なものであったかは、世界が大きく評価しています。

[SGI] 日蓮大聖人の御遺命のまま全人類のための宗教≠ノ

―― ところが、宗門の坊主は、こうした先生の行動の価値が理解できないばかりか、批判や中傷すら加えてきたのですね。
教授 彼らは、先生の世界を舞台にした行動に対し、卑しい心で醜い嫉妬を燃やしていたのです。
 先生の会長就任以来、学会はすべてに最優先して宗門の発展に尽くし抜いてきました。世界的宗教建築物であり、日達法主が「本門の戒壇」と定めた正本堂の建立にも尽力しました。
 しかし、宗門のなかにはその学会員の真心を当然のように考え、放蕩・遊興にふける堕落坊主が出てきたのです。
 学会がそれまでほとんど手を付けずにいた会館の整備に着手したことに対し、若手坊主の一部には「学会が寺院を建てなくなったから住職として赴任する先ができない」などと、とんでもない批判をしてくる者もいたのです。
 彼ら坊主の頭のなかには、大聖人の御遺命である広宣流布など微塵もなかった。そこにあるのは僧が上で俗が下という差別意識。そして、坊主の格好さえしていれば供養で贅沢三昧ができると考えていた、まさに「法師の皮を著(き)たる畜生」(御書1386ページ)だったわけです。
―― 一方で、中国やソ連との友好の橋を架けた先生の戦いに対して、日本の一部勢力からの反発も生まれてきました。
教授 島国根性の日本の権力者には、先生の行動の真価などわからなかったのでしょう。昭和49年の年末には、先生と日本共産党の宮本議長(当時)との間でも対話がありました。
 こうした先生の一連の行動は、まったく相容(い)れないと思われてきた共産主義・社会主義と宗教の双方が、「人間のため」という次元で対話・共存し合えることを示そうとされた壮挙です。
 しかし、これを権力の支配≠フ及ばない民衆勢力の伸展と受け止めて、いたずらに脅威を感じた勢力も少なくなかったでしょう。思えば、この昭和50年あたりを境にして、保守系メディアを中心とした学会中傷キャンペーンが生まれてきます。その火付け役となったのが、編集長逮捕にまで至った、あの悪質極まる『月刊ペン』の捏造デマ報道だったのです。
 御書に「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人(かたうど)をなして」(957ページ)とあるとおり、民衆勢力の発展を恐れる権力の魔手と、「人間のための宗教」を嫌う権威のエセ宗教者たちが、創価学会への憎悪を燃え上がらせ、その黒い構図がやがて第一次宗門事件≠引き起こしていくのです。

(2002.11.20. 創価新報)

 

<第4回> 第1次宗門事件の構図

[山崎正友] 「宗門の権威」を利用して学会支配を画策

―― 昭和50年代に起きた「第一次宗門事件」。今回はこの黒い謀略の構図について学びたいと思います。
教授 この事件の主犯≠ヘ、何といっても山崎正友です。山崎は、謀略の限りを尽して、学会の前進を快く思わない宗門の極悪坊主を煽り立て、一部の週刊誌メディア、売文屋などを利用して、幾百万人の学会員を苦しめ抜いたのです。
―― 山崎正友はかつて、学会の顧問弁護士だったそうですね。
教授 学生部出身の第一号の弁護士だったということもあり、山崎に対する期待もあったのでしょう。
 しかし、彼は、次第に生来の歪んだ本性を現して、功名心から他教団に謀略を仕掛けようと企てたり、ダミー会社を使った土地転がしで4億5千万円もの裏金を懐にしたりしていったのです。
 その金で学会に隠れて事業を興し、銀座で豪遊するなど急速に堕落の坂を転げ落ちていきました。
―― 一方、宗門は、学会から多くの供養や寄進を受けてきたにもかかわらず、感謝の気持ちどころか、「僧が上で俗が下」なのだから当然とばかりのおごりがありました。そのうえ、学会が発展することを妬む坊主が批判を始めたんですね。
教授 そう。そこに目をつけたのが、土地転がしで大金を手にした山崎でした。山崎は、宗門の権威を利用すれば学会を意のままに支配できる。そうすれば宗門も学会も自分の金儲けの道具にできると考えたのです。
 そして山崎は、宗門が先生に批判の矛先を向けるよう、さまざまな工作を仕掛けたのです。特権意識ばかりが強く世間知らずな坊主たちは、山崎を軍師として仰ぎ、池田先生を攻撃する急先鋒になっていきました。
―― 山崎は、学会攻撃のために週刊誌など雑誌メディアも利用しています。
教授 山崎は、雑誌メディアにデマ情報を垂れ流し、あたかも学会が宗門を攻撃し、宗門支配を企てているかのようなデマで宗内外を煽っていきました。
 一方、メディアにしてみれば急発展する学会を中傷すれば反響が大きく、売り上げが伸びるという打算もあったのでしょう。

[週刊誌メディア] 恐喝犯の共犯者≠ニしてデマ情報を垂れ流す

―― 昭和54年4月、先生は第3代会長を勇退されます。
教授 僧俗和合を願う学会と、山崎の謀略に乗せられていた宗門との間にできたミゾは、一向に埋まりませんでした。それどころか宗門は、学会を破門しようとさえしていた。純真な会員の真心からの供養によって正本堂が建立されてから、まだ間もないころのことです。嫉妬に狂った坊主たちは、一方的に学会や池田先生を非難します。そこには広布推進への一念など微塵もなかった。勇退することで事態を収拾し、会員を守れるならばと、先生は決断されたのです。
 しかし、仏法は厳しい。その直後に山崎が宗教的権威として利用していた日達法主が急逝。また、山崎自身の事業も破綻。揚げ句の果てに、顧問弁護士でありながら依頼主の学会を恐喝するという前代未聞の悪逆を働き、昭和56年1月に逮捕。弁護士資格も失いました。
―― 呆れた弁護士の犯罪ですね。
教授 僧俗和合を願う学会の思いを逆手にとって、雑誌メディアのデマ攻撃を加速させると卑劣にも脅迫してきたのです。
 この悪行を支えたのが、山崎の意のままにデマを書いた内藤国夫ら売文屋であり、そのデマを裏づけもとらずに平然と報道していた雑誌メディアなのです。
 告訴され、身の危険を感じた山崎は、実名で週刊誌に登場。「正義の告発者」を装って自分がひそかに犯していた盗聴事件を学会の命令で自分がやった≠ニ騒いだり、裁判が進んでいた『月刊ペン』事件では突然、寝返って被告側の証人となって出廷したりと、あらゆる悪あがきを弄(ろう)して、保身に必死でした。
―― 逮捕された山崎は裁判でも厳しく断罪されました。
教授 「恐喝事件」の判決文だけでも、60カ所以上も「信用できない」「信じがたい」等、山崎の虚言癖(きょげんへき)が断罪されています。
 10年に及ぶ裁判の末、最高裁で懲役3年の実刑が確定し、刑務所に服役することとなったのです。

(2002.12.4. 創価新報)

 

<第5回> 山崎に操られた坊主ども

[正信会] 学会への嫉妬から批判の急先鋒に立つ

―― 「第1次宗門事件」で学会攻撃の急先鋒となったのが、のちに「正信会」と称するようになる若い坊主どもだと聞きました。
教授 彼らの大半は日達法主の時代になって出家得度しました。広布実現を目指し発展を続ける創価学会。それに対して閉鎖的な世界で特権意識ばかり持っていた宗門。信徒の急増で贅沢三昧にふける坊主がはびこる一方、学会の存在感の増大に嫉妬を抱く若い坊主がいたるところで学会批判をはじめたのです。
―― 学会を批判する教学論文を書く坊主もいたそうですね。
教授 わが身も惜しまず広布に邁進(まいしん)する学会に対し、学者気取りで批判を展開する坊主に、学会も自粛を求めました。
 その時、若い坊主は当時の教学部長であった阿部信雄に弁護を求めた。しかし、何一つ、教学部長らしい態度を示せない阿部に対し、若い坊主も失望と怒りの念を抱いたのです。
―― ここに日顕と正信会の対立の遠因があったのですね。
教授 こうなると若い坊主どもの依り所は、師僧でもある日達法主だけ。そこに坊主を籠絡して宗門・学会を乗っ取ろうとした山崎正友とのつながりが生じたのです。若い坊主たちは、山崎にいいように利用されていったのです。
 毎月の大聖人の月命日に行なわれる御講の席で、週刊誌を片手に学会批判をする。記事は全部、山崎が流したデマ。そして、学会員でない親族や会葬者が居並ぶ葬儀の場でまで、学会批判をし、「学会員は地獄に堕ちる」と言い放つ。ただでさえ肉親を失い、悲しみの極みにいる遺族に、こんな酷い仕打ちがあるでしょうか。とても宗教者の所行ではありません。
―― 学会は、何とか僧俗和合の道を探るべく、努力したんですね。
教授 しかし、マッチポンプ役を演じた山崎が怪文書を何度も宗門に届け、そのたびに跳ね上がった若い坊主連中は、法主の命令を無視して学会攻撃をエスカレートさせていった。
 彼らは、1979年4月、「継命(けいみょう)」という新聞を発刊、これを使って学会攻撃を恒常化させようとしました。その「継命」の編集に携わっていたのが、退転し、山崎に金で操られていた原島や、ガセネタ屋の乙骨でした。ところがその直後に日達法主が急逝します。
―― そこで、相承のはっきりしないことをいいことに、法主の座を盗み取ったのが日顕だったというわけですね。
教授 翌80年7月、「正信会」を名乗ったこの若手坊主たちは、もとより日顕とは犬猿の仲で、恐喝事件で窮地に落ちた山崎とともに日顕の血脈を否定しはじめたのです。首切り日顕は、正信会の坊主を次々とカットしました。

[SGI] 極悪の鉄鎖を断ち切り世界平和への世論をリード

―― 一方で宗門は、勇退された池田先生を封じ込めようと、会合に出ることや聖教新聞に掲載されることさえ禁じたそうですね。
教授 そう、先生と会員の離間(りかん)を図り、少しでも宗門に会員を近づけようとしたのです。
 しかし、その宗門のもくろみは見事に砕けました。先生は極悪の鉄鎖を断ち切って、反転攻勢に打って出られた。
―― 81年の秋ごろからのことですね。
教授 ついてくる人はついてきなさい!≠ニの気迫で前進を開始された先生は、関西から、徳島、大分、秋田と、正信会の狂気が荒れ狂った地域を訪ね、けなげに戦った同志を励まし、青年と共戦を約し合っていかれたのです。
 その時、青年と膝詰めで作られたのが「紅の歌」であり、長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」でした。
―― 同時に、世界青年平和文化祭や核の脅威展=A「SGIの日」記念提言などを通して、世界平和への具体的な発言をされていきますね。
教授 折しも80年代という時代は東西両陣営の軍拡競争が激しくなっていました。人類絶滅への危機的潮流を転換するため、SGIは世界市民の平和世論を構築していったのです。
 後に、平和学の創始者として有名なヨハン・ガルトゥング博士は、「池田会長と創価学会が『冷戦の崩壊』に大きな影響を与えたのです」と述べています。
 第1次宗門事件を経て、日顕宗は祖道の恢復(かいふく)≠ネどと言い、偏狭な懐古主義、権威主義、僧俗差別へ逆行し、学会は、開かれた世界宗教への道を歩み始めたのです。

(2003.1.1. 創価新報)

 

<第6回> 正邪は明らかに

[日顕] 先師の業績を破壊し腐敗堕落の一途をたどる

―― 日達法主が昭和54年7月に急逝(きゅうせい)したあと、日顕は自己申告で法主の座を盗み取ったのでしたね。
教授 日達法主は誰にも法主の座を相承しないまま亡くなりました。それを知った日顕は、「実は日達法主から内々に相承に関する話を受けていた」などと言って、法主の座に登ったのです。
 しかし、自分が言うばかりで何の証拠もない。証人もいない。昨年も寺院明け渡し訴訟で、自らの「相承詐称疑惑」が原因で、最高裁で3度も敗訴しています。それでも何も出せないのだから、だれが見てもニセ法主≠ネのです。
 日達法主が亡くなった直後、娘婿の菅野慈雲に「あとのこと(相承)はどうなっているのか」と、尋ねていたのが、当の日顕なのだから、話になりません。
―― 法主になった日顕は、日達法主の業績を次々と破壊していきましたね。
教授 大石寺は、日達法主の時代に池田先生が発願主となって多くの立派な伽藍(がらん)が建立寄進されました。
 しかし、日顕は片っ端から、それら先師の時代の遺産を破壊し始めたのです。大化城に六壺、日達法主が丹精した「流の庭」など、次々と破壊しては京なめりの和風建築にかえていった。
 その後、世界の建築史に残る名建築であった大客殿を、遂には正本堂までも破壊したのです。
 それらのあとには、外観も他宗派の寺院にそっくりな安普請のがらん堂≠作っています。自分を認めず、相承をしてくれなかった日達法主への恨みを晴らさんばかりです。
―― 日顕ファミリーをはじめとする宗内坊主の常識をはずれた贅沢三昧、遊蕩(ゆうとう)三昧も問題になっていますね。
教授 東京の銀座や大阪の北新地などの高級クラブに通い詰める坊主や、芸者にいれこんで、料亭で一晩に数十万という散財を重ねていた坊主。
 住まいである庫裡(くり)に500万円の焼き肉用テーブルを備え付け、3000万円もの厨房設備を購入するなど、いったいどこに大聖人が仰せの「少欲知足」の精神があるのでしょうか。
―― それもこれも、法主である日顕が一族あげて、あきれるほどの遊蕩を繰り返していたからですね。
教授 女房の政子が京都の超高級呉服店などで衣装だけでも年間に億単位の散財をしていたことなどが、宗教紙などでも報じられました。
 丑寅勤行をサボっては、信徒からの供養を懐に熱海や伊豆の温泉に出掛け、散財を繰り返す。これほど卑しい坊主は、仏教史上にもいないでしょう。

[SGI会長] 平和創出への行動を世界の知性が称賛

―― 一方で、「対話」による平和創出への行動を重ねるSGI会長に対する評価が、世界的に高まっていきました。
教授 そうです。国連平和賞をはじめ各国からの国家勲章や名門大学からの名誉称号などが次々とSGI会長に贈られるようになりました。各国の国家元首をはじめとする要人との会見も増え、SGI会長は世界の指導者や最高峰の知性たちと、平和へのネットワークを強く、大きく、構築していったのです。
 89年には、ヨーロッパの知性を代表するフランス学士院からも招聘(しょうへい)を受け、講演をしています。
 90年代になると、ハーバード大学から招聘され、2度にわたる講演をしたほか、イタリア・ボローニャ大学や、イギリスのグラスゴー大学、モスクワ大学や北京大学での講演など数多くの大学・学術機関で講演をされました。
 また、世界のすべての大陸の、最高峰の学問の府から140近い名誉称号を受けられています。
 これほど世界の知性から称賛されている人物は、歴史的にもほかに見あたらないのではないでしょうか。
―― 冷戦時代を終結させ、ノーベル平和賞を受賞した旧ソ連のゴルバチョフ大統領との歴史的な会見もありましたね。
教授 90年7月、モスクワでの初会見は1時間10分という異例の長時間でした。この会見の席で、大統領は初めて日本訪問を明言したのです。日本政府が待ち望んでいたソ連大統領の初訪日の知らせでした。
 ゴルバチョフ大統領は、冷戦終結への自身の理念についても「池田会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」と、会長の思想への共感を語っています。
 愚かな日顕が、盗み取ったニセ法主≠フ権威を振り回して遊蕩三昧にふけっていた時に、池田先生は人類史の流れをも変える精神闘争、人間主義の行動を重ねていた。本来なら、だれよりも先生を称賛し、感謝するのが日顕の立場でしょう。
 ところが愚劣なニセ法主%顕は、感謝するどころか、池田先生への嫉妬の炎をめらめらと燃やし、天魔の本性を露にしていったのです。

(2003.1.15. 創価新報)

 

<第7回> 広布破壊の大罪「C作戦」

[日顕宗] 極秘のうちに学会切り捨てを計画

―― 大石寺の開創700年にあたる1990年、宗門は一方的に本尊下付や塔婆供養などにかかる供養の大幅値上げを通告してきたのでしたね。
教授 日顕宗の信徒軽視、金儲け主義が露骨に現れた姿でした。信徒のささやかな供養にも真心のお手紙を丁寧に認(したた)められた宗祖大聖人の御精神など、彼らにはカケラもなくなっていたのです。
―― それでも学会は、開創700年という佳節を慶祝しようと、池田名誉会長が先頭に立って、記念文化祭など一連の慶祝行事の準備を進めていたと聞いています。宗門への200カ寺の建立寄進計画も、真心込めて進めていたのですね。
教授 そうです。しかしながら、学会が誠意を込めて宗門外護の真心を尽くしていた90年の7月、日顕は宗内にも極秘で、二度にわたり、腹心中の腹心である6人の坊主を集めて学会切り捨ての謀議をしていたのです。
―― その謀議がいわゆる「C作戦」ですね?
教授 そうです。日顕の代になってからだけでも、既に宗門は100を越す寺を学会から寄進されていました。金も貯めるだけ貯め込んだ。もう学会を切り捨てても遊んで暮らしていける。うるさいことを言われないで遊蕩(ゆうとう)三昧ができる。
 広宣流布など微塵も考えていない坊主らは、黙って供養を差し出す信者がある程度、確保できれば、それで宗門はやっていけると考えていたのです。
 特に、池田名誉会長の世界的な名声や人格への評価に醜い嫉妬を燃やし続けていた日顕は、学会を破壊して信者を盗み取るためにも、名誉会長を宗内から追放しようと企んでいたのです。
―― 「C作戦」と命名したのは、日顕自身だそうですね。
教授 Cは英語の「カット」の頭文字であり、日顕が「あの野郎の首をカットするという意味だよ」と明言したことを、改革同盟の工藤玄英・大橋正淳住職が証言しています。
―― 開創700年の行事が終了した年末になって、日顕は「C作戦」実行に踏み切ります。
教授 池田名誉会長のスピーチを盗み録りしたテープをもとに難クセをつけ、同年12月、宗規を変更するという姑息なやり方で、卑劣にも名誉会長を信徒代表の立場である「総講頭」から罷免、すなわちクビ≠ノしたのです。

[SGI] 葬式仏教の鉄鎖を断ち世界宗教に大発展

―― しかし、日顕の愚かな目論見は見事にはずれましたね。学会を切り崩すどころか、逆に滅亡の一途をたどったのは日顕宗であり、肝心の相承もなく、遊蕩三昧の醜態が天下に明らかとなったのは日顕自身でした。
教授 仏法は厳しいものです。かつて戸田第2代会長は「戸田の命より大切な創価学会の組織」と言明されました。
 日顕は、その創価学会の組織の破壊を画策し、学会と名誉会長をカットしたのです。しかし、それによって日顕のほうこそ、大聖人からカットされる結果となりました。創価学会は名実ともに日蓮大聖人の直系の教団として、旭日(きょくじつ)の勢いで大発展しました。海外のSGIだけでも約70カ国も拡大し、185カ国・地域に広がりました。
 また、名誉会長への世界の大学・学術機関からの名誉称号も、80年代の終わりには6大学でしたが、今では140になろうとしています。日顕が「C作戦」に手を染めた90年代以降、世界の知性が、どれほど名誉会長と創価学会に注目し評価を寄せるようになったのかを如実に表しています。
―― 対する日顕宗は信徒の98%を失ったのですね。
教授 本当に愚かとしか言いようがない。おまけに、日顕宗の反社会的体質や日顕一派の遊蕩三昧の実態が世界中に知れ渡り、外国の新聞やテレビでも何度も批判されています。
 さまざまな腐敗・堕落ぶりが白日の下にさらされている坊主など、日本の仏教界でも日顕ぐらいしかいないでしょう。
 さらに、日顕が禅宗の寺に墓を建てて法要までしていた事実や、大御本尊をニセモノ呼ばわりしていたことも暴露されてしまいました。自らの「相承詐称疑惑」が原因で、最高裁で3度も敗訴しています。
 広宣流布を破壊しようとした日顕は、仏罰で無間地獄の様相です。今こそ青年が大言論戦を巻き起こして、この極悪のニセ法主を追放すべき時です。

(2003.2.5. 創価新報)

 

<第8回> 極悪との戦いが飛躍の力に

[日顕] 山崎正友の手下≠ノ成り下がったニセ法主

―― 平成2年の暮れも押し詰まったころに「C作戦」を実行に移した日顕は、不意をつくことで、混乱した学会員がなだれを打って宗門側につくと計算していたようですね。
教授 じつは日顕は、臨時宗会を開いて総講頭罷免を決める直前の12月25日に、大石寺内で数人の男たちと極秘の協議をしていたのです。日顕と会っていたのは、かつては正信会の立場から日顕のことをあしざまに書き立てておきながら、形勢不利と見るや日顕側に寝返った高橋公純というコウモリのような坊主と、その弟で学会批判のデマ記事を飯のタネにして生きている段勲という売文屋などでした。この男は、ニセ御本尊が印刷されている≠ネどといった荒唐無稽なデマ記事を書き、証拠写真≠撮るために、日達法主の御本尊をバラバラに解体したとんでもない人物です。
 日顕は、その大謗法を犯した男を総本山に招いた上、謗法を責めるどころか、頭を下げて、さらなる学会攻撃を依頼したというのです。この一点だけでも、日顕が信心のカケラもないニセ法主であることがわかります。そして、「学会員のうち20万人が宗門につけばいい」と本音を漏らしたのです。
―― 黙って供養を差し出す信者が20万人だけ手に入れば、自分たちは一生遊んで暮らせるということですね。しかし、実際には学会は微動だにしませんでした。反対に、日顕宗が信徒の98%を失うみじめな結果となったのです。
教授 不意打ちも不発に終わり、学会がビクともしない姿にうろたえた日顕は、あわてて山崎正友に連絡を取り、坊主たちを集め「粥をすすっても」「流浪の身となっても」と言って泣いて見せた。
―― 山崎は、日顕が法主の座に就いた直後、週刊誌で「ニセ法主」であることを暴露し、日顕のことを「ゼニゲバ」「宗内で一、二を争う遊蕩児」などと、さんざん罵倒してきた男です。その山崎にすり寄るとは、あきれてしまいます。
教授 法主になった直後、山崎に対して日顕は「大ウソつき」と罵倒しました。ところが、その山崎に「あの時はウソつきと言って悪かった。勘弁してください」と謝り、学会攻撃のために力を貸してくれと山崎にすがったのです。
―― なんと、日顕は山崎正友を親分≠ニ仰いだわけですか?
教授 自分の宗派の御本尊を解体してニセモノ呼ばわりした男に協力を頼み、自分がニセ法主であることを日本中に暴露した男に、頭を下げた日顕。こんな恥さらしな坊主は日本の仏教史上でも類を見ないでしょう。

[SGI] 「平和と人道の世紀」へ勇躍前進を開始

―― 一方、信徒を奴隷のように支配しようとした日顕宗と戦ったことで、全世界の学会員は、真実の宗教の在り方を深めたといえますね。
教授 法主≠ニいう信仰上の権威を振りかざして信徒に牙をむいてきたのです。普通の教団であれば、坊主どもの思いのままに解体され、支配されていたでしょう。しかし、学会には厳然とした師弟の絆があった。
 日顕宗の「反人権」「非人間性」の暴挙と戦うことで、幾百万の会員が大きく人権意識に目覚めることができたのは、池田SGI会長の偉大な指導力のおかげです。
 事実、この「C作戦」以降、学会は世界をネットワークする人権運動を展開する団体としても、国際社会で一層高く評価されるようになりました。
―― 90年代に入ると、ネルソン・マンデラ氏やローザ・パークス女史といった人権運動の世界的リーダーをはじめ、国債人権団体であるサイモン・ウィーゼンタール・センター、ガンジー記念館、キング博士の母校モアハウス大学の代表が、次々と池田SGI会長のもとを訪れ、会長の闘争をたたえ、SGIとの共闘を開始しました。
教授 長いものには巻かれろ≠ニいった風土が色濃く残る日本社会にあって、幾百万の民衆が悪の宗教権威≠ノ勝利したことが、どれほど偉大な歴史であったか。
 それも、学会が仏教とは徹して戦う≠ニの大聖人の御精神を貫き通したからこそです。戦わなければ、ニセ法主・日顕の思うツボだったでしょう。師匠と一緒に戦ったから、一切を勝ち越えることができた。この厳粛な事実を、学会の青年部は永遠に忘れてはならないと思います。

(2003.3.5. 創価新報)

 

<第9回> 大聖人から断罪された日顕一派

[日顕] 堕落しきった広布破壊の魔僧

―― 不意打ちの「C作戦」で学会を破壊し、信者を盗み取ろうと企んだ日顕でしたが、直後に日顕自身の遊蕩(ゆうとう)や謗法の実態が、次々と明らかになったのでしたね。
教授 仏法は厳しい。学会がビクともしないことにあわてた日顕は、坊主を集めた集会でたとえ流浪の身になっても∞粥をすすってでも‥‥≠ネどと言って涙を流す「演技」をしていた。
 ところが、その2カ月後に日顕が宗内にも極秘で、流浪どころか都内に豪邸を建てようと企んでいた事実が発覚したのです。
―― 目黒区内の一等地に20億円ともいわれるプール付きの豪邸を計画していたのですね。
教授 プールやトレーニング・ルームまでついた豪邸をこっそり建てようとしていた。
 その後も日顕は、世田谷区内や渋谷区内の一等地に、合計30億円を超える豪邸を買いあさっています。また一族だけで一泊数十万というような超高級温泉旅館で遊びほうけたり、超高価な懐石料理を貪(むさぼ)ったりという遊蕩三昧の生活をしてきたことが暴露されていきました。
 日顕こそ、大聖人が「食法餓鬼(じきほうがき)」と糾弾された堕落坊主の姿そのものだったのです。
―― その日顕は、広布破壊の本性をあらわにし、ついには学会員への御本尊下付を停止するという暴挙に出ました。
教授 そうすれば学会員が動揺するとでも思ったのでしょう。
 しかし、御本尊は一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)、すなわち全人類に与えられたものです。
 大聖人は「一念三千を識(し)らざる者には仏・大慈悲を起(おこ)し五字の内には此(こ)の珠(たま)を裹(つつ)み末代(まつだい)幼稚(ようち)の頸(くび)に懸(か)けさしめ給う」(御書254n)と。
 大聖人が全人類に流布したいと願って顕された御本尊の下付を阻止するとは、完全に狂った広布破壊の天魔の姿です。
 こうした日顕の狂態を見て、多くの心ある僧侶が宗門を離脱し、日顕を糾弾し始めました。日興門流の僧なら当然です。1993年、そうしたなか、栃木県の淨圓寺から、所蔵していた日寛上人御書写の御本尊を学会の手で全世界の会員に下付していただきたいという申し出があったのです。

[SGI] 未曾有の広布の時代開く和合僧団

―― あわてた日顕宗は、学会が制定した御本尊はニセモノであるとか、法主が開眼(かいげん)していない本尊はダメだとか、幼稚な中傷をしてきたようです。
教授 まず第一に、広宣流布を忘れ、大聖人の御遺命通りに不惜身命(ふしゃくしんみょう)の実践をしてきた学会を切り捨てた宗門に、御本尊を云々する資格すらないことは明白です。
 そのうえで、日顕宗の難クセは、すべて何の根拠もありません。例えば、御本尊は古来から、すべて血脈付法の法主によって開眼され、総本山より下付していた≠ニいう日顕宗の主張も真っ赤なウソです。かつて御形木(おかたぎ)御本尊は末寺から発行され、法主の開眼などなかったことは、古くから宗門にいる僧侶なら誰でも知っています。
―― 日顕宗は、ことあるごとに法主ひとりが、相承によって大聖人の御内証(ないしょう)を受け継ぎ、特別な神秘性を帯びた存在になる≠ニいうような神秘的相承観を持ち出しますね。
教授 そうした相承観は、大聖人の法門のどこにもありません。大聖人は「生死一大事血脈抄」で「相構え相構えて強盛(ごうじょう)の大信力を致(いた)して南無妙法蓮華経・臨終正念(りんじゅうしょうねん)と祈念し給へ、生死一大事の血脈此(こ)れより外に全く求むることなかれ、‥‥信心の血脈なくんば法華経(ほけきょう)を持(たも)つとも無益(むやく)なり」(同1338n)と仰せです。大切なのは「信心の血脈」です。
 「先師(せんし)の如(ごと)く予(よ)が化儀(けぎ)も聖僧為(た)る可(べ)し」(同1619n)との「日興遺誡(にっこうゆいかい)置文」に完全に背(そむ)き、広布破壊に手を染めた日顕宗に「信心の血脈」が流れていないのはいうまでもないことです。
 現代において事実の上で「信心の血脈」を受け継ぐ和合僧団は創価学会以外にありません。
 SGIは、その信心の血脈の上から、御本仏の御遺命(ごゆいめい)である、未だかつてない世界広宣流布の時代を開きゆく和合僧団なのです。
―― 坊主らは葬儀についても、僧侶が導師をしなければ故人が成仏しないなどと脅迫してきました。
教授 彼らは「御本尊」と「葬儀」という、信徒が一番大切に考えるものを人質≠ノとって学会を切り崩そうと企んだのです。民衆の幸福など微塵(みじん)も考えていない極悪集団です。
 しかし、葬儀についても「出家は私の葬儀に関わるな」と釈尊が遺言した経典が残っています。要するに仏法の本質的問題ではないのです。御書にも、僧侶が葬儀に関わる必要性など一切説かれていません。
 もともと仏教と葬儀は何の関係もない。江戸時代の檀家(だんか)制度のなかで、民衆支配の道具として僧侶による葬送儀礼が広がっていったのです。
―― 学会が推進してきた「友人葬」こそが、むしろ仏法の本義に基づく正しい葬儀のあり方といえますね。
教授 そうです。近年は社会全般でも、自由な葬儀のあり方が広まりつつあります。また高額な布施(ふせ)と引き換えに戒名(かいみょう)をつけることへの疑問の声も年々高まってきています。
 坊主に高額な供養を払って葬儀を執行してもらわなければ故人が成仏しないなどと言う日顕宗の主張は、あたかも、人々を脅迫し、「死」を商売にして金儲(もう)けするような宗教です。そうした日顕一派に宗開両祖の御精神がかけらも残っていないことは明らかです。

(2003.3.19. 創価新報)

 

<第10回> 崩壊した学会包囲網=u四月会」

[山崎正友] 政治権力と結託しての卑劣な画策が失敗

―― 1993年から94年にかけて、政治の世界でも大きな変動がありましたね。非自民の細川連立内閣が生まれたものの、不満を抱えた社会党(当時)が自民党と連動して、1年もたたないうちに社会党の党首を総理にした村山自社さ政権が誕生しました。
教授 同じ時期、あの山崎正友が刑務所から仮出獄してきた。山崎は政局の動きをにらみながら、日顕に何通も手紙を送っています。
 それは、これまで糾弾していた日顕を手のひらを返したように褒(ほ)めあげる一方、血脈相承(けつみゃくそうじょう)の問題をちらつかせながら、今後の対学会の戦い方を開陳(かいちん)し、自分を重用するように売り込んだものでした。日達法主の側近を気取っていた山崎は日顕が相承を受けていないニセ法主であることを知っている。いわば、それをネタに日顕を脅したのです。
―― 愚かな日顕は、この山崎の誘いにシッポを振ったのですね。
教授 山崎が手紙で述べていた策略とは、じつに許し難いものでした。反学会のデマ雑誌を使って、学会がいかにも反社会的な危険な団体であるかのように虚偽と捏造を交えてオーバーに垂れ流す。そしてそれを政治家が国会の場で取り上げ学会を攻撃する、というものです。
―― 村山内閣が誕生した94年には、宗教団体を巻き込んだ「四月会」なる団体も発足しましたね。
教授 山崎が日顕に送った手紙には、自分が政治家と連携して、さまざまな宗教団体にも働きかけていると得々と書かれていました。
 まさしく山崎のシナリオ通りに作られた学会攻撃のための包囲網≠ェ「四月会」なのです。
 なにしろ1年の間に4人も総理が替わるような政局です。権力の側には、宗教団体の票をしっかり牛耳っておきたいという思惑がありました。
 また、宗教団体の側にも、学会が支持する政党が政権の一角を担うことへの、焦りがあったかもしれません。

[日顕宗] ばらまいたデマビラが法廷の場で断罪

―― 「四月会」は学会の政治支援が政教一致であるなどと騒いで気勢を上げていましたね。
教授 憲法の定めた「政教分離」原則は、国家の宗教的中立性を求めたもので、宗教団体の政治的中立性を求めたものではありません。
 誰がどの政党や政治家を支持しようが自由であり、それこそ憲法が保障した「思想・信条の自由」であり「表現・結社の自由」です。
 政治にかかわるのは国民の権利であり義務でもある。信仰によって、それを制限されるなど言語道断です。
 このあたりまえのことを理解せず、「学会は憲法違反だ」と騒ぎ、政治権力を利用して学会を潰そうと必死になっていたのが「四月会」です。彼らこそ、「政教分離」原則に反しており、明らかな憲法違反です。
―― 宗教法人法改正が審議されていた95年暮れには、日顕宗がシアトル事件の報道を巡って「学会がアメリカ連邦政府のコンピューター・データベースに事件に関する虚偽の情報を埋め込んだ」などと騒いで記者会見をし、大量のデマビラを全国にばらまきましたね。
教授 この日顕宗の悪質なデマ騒ぎについては、学会は直ちに名誉毀損で提訴しました。
 95年といえばオウム真理教のテロ事件で世情が騒然としていた時期です。その国民の不安につけ込んで、まるで学会が危険な集団であるかのように騒ごうと謀ったのが「四月会」であり日顕一派だったのです。
 しかし、学会は厳然と勝利しました。
 一方、美辞麗句でごまかしたところで謀略集団にすぎなかった「四月会」は、やがてだれからも相手にされなくなって、設立から7年を待たず2001年3月に消滅しました。
 彼らと一緒になって学会弾圧に狂奔した政治家たちは、ことごとく失脚や落選の憂き目を見て、政治の表舞台から姿を消しました。
 さらに、先ほど述べたデマビラを巡る名誉毀損裁判では、さる2月12日に東京高裁で日顕宗が全面敗訴しました。高裁では日顕自身の責任まで認めて賠償金の支払いを命じたのです。
 この判決により、敗訴した日顕および日顕宗は、金利を合わせて543万円余りの賠償金を学会に支払ったのです。

(2003.3.19. 創価新報)