創立80周年へ 前進と勝利の座談会

<31> 議員は支持者を尊敬せよ
<32> 私利私欲の堕落議員は追放
<33> 池田提言≠フ先見
<34> 中国の識者も竹入を糾弾
<35> 竹入の盆栽写真が発覚
<36> 盆栽・女・金狂いの竹入
<37> 竹入が虚偽の経歴書
<38> 経歴詐称一家・竹入
<39> 平和と文化と教育の大道を全世界が賞讃
<40> 私利私欲の議員は魔物だ

 

 

 

 

<31> 議員は支持者を尊敬せよ
出席者:秋谷会長、青木理事長、原田稔副理事長、大久保直彦 東京・杉並総区総主事、竹内青年部長、佐藤男子部長

まず人格を磨け

佐藤 ところで今月30日、公明党の大会が行われる。
原田 自民党の総裁選もあるし、注目されているな。
竹内 何しろ平成15年に行われた統一地方選挙で、公明党は「結党以来初」の完全勝利を成し遂げた。
佐藤 さらにまた昨年の総選挙でも「過去最高」の898万票を獲得した。
青木 公明党が政権与党に参加して7年。公明党への期待は大きい。一段と注目されている。
秋谷 だからこそ党、議員だ。国民、支持者の期待に全力で応えてもらいたい。
 それにはまず「人格」だ。「人間として」尊敬できるかどうかだ。
 襟を正すことだ。支持者の期待を裏切らないことだ。ましてや忘恩の議員なんか論外だ。
大久保 議員OBも同じだ。
 公明党の議員は辞めてからが勝負だ。恩返しをしないやつなんか、人間ではない。議員以前の問題だ。
竹内 公明党は結党から42年。ヤング男子部や学生部のなかには結党の経緯(いきさつ)や精神を知らないメンバーもいる。
青木 若い議員や党員も増えている。党大会も間近だ。
 ここで公明党の歴史について語り合っておこうじゃないか。

「公明会」の誕生

原田 大賛成だ。そもそも創価学会が政治活動を開始したのは昭和30年4月の統一地方選挙だった。
青木 戸田先生のもと、当時の学会の「文化部員」から候補者を立てた。
秋谷 同年4月24日の統一選前半戦は、池田先生自らが支援の最高責任者として、陣頭指揮を執られた。
 東京都議会、横浜市議会に1議席を獲得した。
大久保 同月30日の後半戦では、東京の区・市議選で33人が当選。
 全国17都市の市議選で18人が当選した。
秋谷 翌昭和31年7月、学会は、初めて参院選挙に候補者を立てた。
 全国区に4人、地方区では東京と大阪に2人が立候補した。
青木 全国区では、かろうじて2人が当選。地方区では、池田先生が指揮を執られた大阪だけが当選を果たした。
原田 有名な「大阪の戦い」だ。
 どの新聞報道でも予想外、想定外の勝利だった。あまりの衝撃に朝日新聞が昭和31年7月9日付(大阪版夕刊)3面で「まさか≠ェ実現」と大見出しで報道したのは有名だ。
青木 選挙の後、戸田先生は、当選した3人を前に、おっしゃった。
 「もし、将来、君たちが会派をつくろうという時には、公明会≠ニしてはどうか」
 「学会の選挙運動は『公明選挙』だ。宴会政治のような、腐敗した政界を正すのが使命だからだ」と提案なさった。
秋谷 これが「公明会」の淵源です。「公明会」の創立者は戸田先生でいらっしゃる。
青木 具体的には、この戸田先生の言葉を受けられて、昭和36年11月、池田先生が「公明政治連盟」(公政連)という名前を提案されることになります。
大久保 翌昭和37年7月には参議院に「公明会」が結成された。
 この7月の参院選では公政連から9人が当選し、非改選とあわせて15人の参院議員が誕生した。参院本会議での代表質問権などを持つ「院内交渉団体」の資格を得たわけだ。
原田 「参院の第三勢力」として社会も注目した。

先見の立党精神

青木 「公明会」の結成直後の昭和37年9月13日、公政連の第1回全国大会(東京・豊島公会堂)の席上、池田先生は講演された。
 「第一に、団結第一であれ! 派閥は許さない。
 第二に、大衆から離れるな! 大衆に直結せよ!
 第三に、研鑽(けんさん)を積み大政治家に成長せよ!」と三つの指針を示された。
秋谷 先生は、また「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のために戦い、大衆のなかに入りきって、大衆のなかに死んでいっていただきたい」と訴えられた。
青木 後に、公明党の立党の精神となる「大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆のなかに死んでいく」の指針は、この時に発表されたものです。
原田 当時、日本の政界は保守系、革新系の二大勢力に分かれていた。
 世界の情勢を見ても、東西冷戦の渦中で「右」か「左」かというイデオロギー闘争ばかりだった。庶民のための政治とは、ほど遠かった。
青木 そんな時代に、池田先生は、真に大衆の幸福を実現していくための「中道」の政治を訴えられた。イデオロギーを超えた「人間主義」の政治を主張された。
 今から思えば、どれほど先見的な考えであられたか。

「国民政党」たれ

秋谷 この公政連と公明会が昭和39年11月に「公明党」に発展した。
 池田先生が公明党を創立されたのです。
 公明会の創立者は戸田先生。公明党の創立者は池田先生。
 「庶民の党」公明の誉れの歴史です。
大久保 当時の公明党の勢力は、参院議員15人、地方議員が約1200人だった。
秋谷 当時、池田先生は、繰り返し、おっしゃっておられた。
 「勘違いしてもらっては困るのは、この政治団体は、学会のためのものではない。
 広く国民の幸福を願い、民衆に奉仕していく、慈悲の精神に貫かれた政治団体だということです」。このようにハッキリと明言しておられた。
青木 池田先生は、つねに「民衆のため、国民のために、全力で働いて欲しい」という真情であられた。
 そのために、一日も早く、一人前の政党、政治家として力をつけ、開かれた「国民政党」として成長してもらいたいと、心から願っておられた。
秋谷 どこまで有り難い創立者か。
 公明党は、この偉大な「結党の原点」を断じて忘れるな!
 議員は断じて支持者を尊敬せよ!

(2006. 9.12. 聖教新聞)

 

<32> 私利私欲の堕落議員は追放
出席者:秋谷会長、青木理事長、原田稔副理事長、大久保直彦 東京・杉並総区総主事、竹内青年部長、佐藤男子部長

原田 前回は、公明党の「結党の原点」を語り合った。
青木 どれだけ池田先生が、大衆に奉仕しぬく大政治家の出現を願っておられたか。

結党を陰で祝福

秋谷 先生は、昭和39年11月17日の公明党の結成大会にも、党の創立者であられながら、あえて出席されなかった。
 どれほど細かく心を砕いておられたか。
青木 あの時、党執行部が日大講堂を会場に決めてしまって、生まれたばかりの政党なのに会場が大きすぎる、と先生から厳しく御指摘いただいたことも有名だ。(『新・人間革命』第9巻「衆望」の章に詳しい)
大久保 結党大会に参加したのは、参院議員15人をはじめ地方議会の議員、支持者の代表だった。
 席上、中央幹部19人が任命され、衆院、参院の予定候補が発表された。
秋谷 学会本部におられた先生は結成大会に祝電を打ってくださった。
 「(公明党結成の)壮挙が、必ずや日本の政界の黎明となることを信じております。
 どうか民衆の幸福のため、日本の安泰のため、世界平和のために、勇敢に前進されますことを祈っております」と、万感の期待を寄せられた。
大久保 この結成大会の席上「大衆とともに」の根本精神と合わせて「日本の柱 公明党」「大衆福祉の公明党」を党のスローガンに掲げたのです。

増長議員は除名

青木 「大衆のためにという根本の目的を忘れるな」。党創立者である先生の姿勢は一貫しておられる。
秋谷 その通りです。
 公明党結党の直前にも厳しく指導された。
 昭和39年11月2日、落成したばかりの公明会館を初訪問された池田先生は、こう指導された。
 最初に、公明党の委員長、ならびに幹部の方々にお願いしたい。
 それは名聞名利にとらわれるような増長した議員が出た場合には、断固、除名していっていただきたい≠ニ、力説された。
原田 まったく、その通りです。これが公明党の創立者の精神だ。
青木 さらにまた先生は「公明会」が結成される直前の昭和37年7月にも、本部幹部会で語られている。
 「おのれの名聞名利にとらわれて、所期の目的を忘れるような議員が、将来出るようなことがあるならば、当然、日蓮大聖人様におしかりを受ける。
 応援する皆様方の代表として、私も、絶対そのような議員は、学会から追放していくような決意でおります」と厳しく指導された。
秋谷 そして「公明会」が結成された昭和37年12月には、東京・台東区で行われた「公明会結成国民大会」で強調なさっている。
 「もし私どもの期待を裏切るようなそういう公明会であり、公明会の議員であったならば、遠慮なく、私どもはきびしく批判もし、また、絶対に応援しない、議員も落としてしまう。
 このぐらいの監視もしていきたい」と明確に語られた。
大久保 まったく、その通りです。

日中国交を提案

秋谷 そのなかで、先生は公明党に、ただ一つだけ、政策を提案された。
竹内 それは何ですか?
秋谷 昭和39年の結党に際して「中華人民共和国の正式承認」と「日本は中国との国交回復に努めるべきである」と提案されたのです。
佐藤 昭和43年に行われた学生部総会で、先生が歴史的な「日中国交正常化提言」をされる4年前ですね。
秋谷 そうです。先生は中国と日本の友好を、自らが創立された公明党に託された。
 そして先生自ら、ご自身のお立場で、生命の危険をも顧みずに、日中友好の必要性を訴えられたのです。
青木 先日も話が出たが、あの先生の歴史的な日中国交正常化提言に中国側は注目した。池田先生と学会に注目した。
 この土台があったからこそ、公明党は訪中することになり、日中国交正常化に貢献できた。中国からも信頼された。
原田 これは誰もが知っている歴史の事実です。
 いまでは中国の側から、そういう見方、声が、より強く寄せられはじめてきた。

党自らが戦え!

大久保 公明党の立党の精神が、どれほど峻厳か。
 この精神を忘れ、創立者の精神を忘れ、支持者の恩を忘れる。腐敗し、堕落し、権力の魔性に狂う。万死に値する大罪だ。
秋谷 戸田先生は議員に厳しかった。
 「絶対に、議員は威張るな! また威張らせてもならない」
 「出来の悪い人間ほど、威張っている」と、明確に仰せだ。
青木 「大恩を受けながら、裏切った者が、どんな一生を送るか、どんな末路をたどるか、見てやれ!」とも厳命された。
竹内 その通りの姿が、あの竹入じゃないか。金に狂い、女に狂い、学歴詐称まで発覚し、除名、永久追放!
秋谷 戸田先生は「悪を滅(めつ)するを功(く)と云(い)い善(ぜん)を生(しょう)ずるを徳(とく)と云(い)う」の御義口伝(おんぎくでん)を拝し「断じて悪を追放せよ」と厳命された。
 悪人は絶対に許さない。追放する。そうしなければ、正々堂々たる発展はない。
原田 これからも、同じだ。いや、これからは一段と厳しく正していくべきだ。
 恩知らず、傲慢な議員、私利私欲の堕落議員は、除名、追放だ。
秋谷 「大衆とともに」が公明党の大精神だ。
 支持者は党に対し、どんどん意見を言う権利がある。どこの党だって同じじゃないか。それが民主主義だ。それがなくなれば腐っていく。
 まず、党自らが、裏切り者、支持者を見下す傲慢議員と真剣に戦え! 「こう戦った」「ここまで戦った」という具体的な結果を見せてもらいたい。
 これが全支持者の要望だ。厳命だ。

(2006. 9.14. 聖教新聞)

 

<33> 池田提言≠フ先見
出席者:秋谷会長、原田稔副理事長、三津木参議、谷川副会長、佐藤男子部長、森山学生部長

「具眼の士」たれ

佐藤 それにしても今、日本と中国の関係は、政治面で冷え込んでいる。新聞、雑誌を見ても、明るい話題がないじゃないか。
森山 本当に残念なことだ。中国の友人に聞いたが「中日関係の先行きは暗い。未来の展望が見えてこない」と、心配していた。
三津木 私の知人の中国研究家も憂慮していた。
 「昔は日中のパイプ役となる政治家がいた。『人物』がいた。だが今は、いない。どこを見渡してもいない。中国側も、そう見ている。
 これじゃ、いくら経済交流が広がっても、本当の友好関係は築けない」と嘆いていた。
原田 これも日本の政治家に「史観」がないからだ。50年、100年単位で中国を見据え、アジアの平和と繁栄を展望する「具眼(ぐがん)の士(し)」が、いないからだ。
谷川 まったく同感だ。中国の作家も「日中間の問題は、狭い観点から脱却することが、これからますます必要」と指摘していたな。

池田提言を信頼

森山 そういう時代だからこそ、池田先生の先見、遠望が、一段と大きく輝いている。
秋谷 まったく、その通りだ。
 1968年(昭和43年)9月8日、先生は満を持して「日中国交正常化」を提言なさった。
 両国の関係改善は、実質的には、この提言から始まった。そう言っても過言ではない。
原田 当時、中国は国交のない日本との関係打開へ「信頼できるパイプ」を探していた。
 そこへ先生の日中提言が発表された。
秋谷 これに、いち早く注目したのが周恩来総理だった。周総理が公明党を「橋渡し役」に選んだのも、池田先生の提言を信頼したからこそ、だ。
谷川 最近『周恩来、池田大作と中日友好』という本が発刊された。
 その中で、ジャーナリストの西園寺一晃氏も述べていた。
 「周恩来が公明党を選んだのである。その背景は68年の池田提言である。創価学会と親密な関係にある公明党を、周恩来は『最も信頼できる政党』と考えたのである」と明言していたな。

党幹部も重要視

森山 同じ本では、中国人民対外友好協会の黄世明(こうせいめい)副会長も証言していた。
 「彼ら(=公明党)が正式に訪中できたのは、池田先生の68年の講演があったからです」とハッキリ断言していた。
佐藤 僕も読んだ。黄副会長によると、公明党の第1次訪中団(71年)が中国外交部と会談する前に、日中提言は中国の党幹部に重要資料として配られた。それを中国側の党幹部は皆、読んでいたというんだ。
原田 重大な歴史の秘話だ。まず池田先生の日中提言があった。それに中国が反応した。
秋谷 そうした土台があったればこそ、公明党は中国に訪問できたんだ。そして72年、日中国交正常化が実現した。
三津木 最近、そういう声が、中国のほうから聞こえるようになってきた。一段と大きくなってきた。

竹入の名はゼロ

秋谷 当時の公明党は結成して、まだ7年足らず。野党で外交政策も素人同然だった。
 常識で考えても、中国側が相手にするはずがなかった。
原田 中国は、与党の自民党でも、野党第1党の社会党でもない、公明党を選んだ。それほど池田先生の日中提言に注目し、全幅の期待をかけたんだ。
三津木 その通りだ。公明党は中国を重視する池田先生が創立された党であり、支持団体の学会がいるからこそ、大事にした。
秋谷 これが正真正銘の史実であり、真実だ。
 日中関係の厳然たる「正史(せいし)」だ。
佐藤 それを日中友好を一人でやった≠ネんて騒いでいるウソ八百の竹入。あんな「学歴詐称」のやつの名前なんて、この本の中の、どこに出てくるんだ?(笑い)
谷川 当然、一ヵ所もない。この本は中国で最も権威ある中央文献出版社の発刊だ。竹入の名前なんか、ただの一文字たりとも出てこない(大笑い)。
森山 中国側も先刻、全部、分かってる(爆笑)。

「非難」と「黙殺」

秋谷 それにしても池田先生の日中提言が、どれほど歴史の先見だったか。
原田 当時、中国について確固たる政策を持った政党はなかった。
 自民党は北京敵視の対米第一外交。社会党は文化大革命の評価をめぐって党内が四分五裂。
森山 共産党にいたっては党書記長と毛沢東主席が大ゲンカして中国と関係断絶(笑い)。
三津木 そういう非難と黙殺の嵐の状況下で、先生は提言を発表された。
 当時の大新聞の政治部記者も「各党とも(池田)提言にコメントするだけの構想や政策がなかった」と鋭く分析していたほどだ。
秋谷 これで公明党の中国政策が旗幟鮮明(きしせんめい)になった。中国も俄然、公明党を注目するようになった。
佐藤 南開大学周恩来研究センターの紀亜光(きあこう)秘書長も「(周総理は)公明党が池田提言を外交政策の柱としていることについても明瞭に捉えていた」と明言している通りだ。
三津木 だからこそ提言が発表された後、訪中した自民党の松村謙三氏に対して、周総理は「どうか池田会長に宜しくお伝えください。訪中を熱烈に歓迎します」と伝言を託した。
秋谷 池田先生の偉大な先見。それを洞察した周総理。そこから日中の歴史の歯車が、大きく動き始めたんだ。

(2006. 9.18. 聖教新聞)

 

<34> 中国の識者も竹入を糾弾
出席者:秋谷会長、原田稔副理事長、三津木参議、谷川副会長、佐藤男子部長、森山学生部長

佐藤 前回も語り合ったが、池田先生の「日中国交正常化提言」(1968年)があったからこそ、中国は公明党を「橋渡し役」に選んだ。

党創立者の信念

原田 実は、こういう重大な話がある。
 いよいよ公明党が第1次訪中(71年6月15日)する直前だった。青森に滞在されていた池田先生のもとに竹入が現れた。
 無学で無教養のあいつは中国について何の知識も経験もなかった。それで中国に対する深い見識を持っておられた先生にアドバイスを願ったんだ。
秋谷 ところが先生は、竹入に「私のことは一切、言わなくていい。名前も出さなくていい。伸び伸びとやってきなさい。
 あくまでも誠心誠意、中国の指導者の話をうかがい、誠心誠意で友好を進めていくことだ」と厳然と伝えられた。
谷川 あくまで「党を立てて」くださった。これが党創立者の先生の信念であられた。
 御自身は表に立たず、陰に徹して、温かく見守ってくださった。なんと有り難い、慈愛の御心か。
秋谷 この甚深の配慮が、恩知らずの竹入には微塵も分からなかった。
原田 手柄を独占するチャンスだ≠ニ畜生根性を剥き出しにしたんだ。
森山 この畜生野郎めが! 自分一人では何もできないくせに、手柄だけ掠(かす)め取る。卑しい卑しい、ドス黒い生い育ちの、あいつのやり口らしいじゃないか。
谷川 まったくだ。だいたい竹入は公明党の第1次訪中の時、風邪を理由に宿舎に引きこもりっぱなしだった。有名な話だ(爆笑)。
佐藤 その通りだ。北京に駐在した大新聞の元記者も明言していた。
 竹入は臆病風に吹かれて、渉外を代理に任せっきりにしていた≠ニ呆れ返っていたな。
森山 当時の公明党の幹部も「竹入は日中友好に何の役割も果たしていない。
 国交正常化直前の第3次訪中(72年7月)も、党の他の同行メンバーがメモした中国側の草案を持ち帰っただけだ」と明確に証言していた。

周総理の慧眼

佐藤 日中を独り占めしようとした竹入の卑劣な正体!
 中国側からも鋭く見抜かれ、厳しく論じられ始めているな。
原田 周総理は竹入なんか眼中になかった。
 党訪中団と初会見した時、開口一番「どうか池田先生に、よろしくお伝えください」と語ったことは、有名な史実だ。
三津木 その場に同行した当時の浅井美幸党副委員長らも感嘆していた。
 「本当に驚いた。周総理は全部、分かっている。心底、感動した」と帰国後、語っていた。
秋谷 池田先生が日中の未来のために、轟々たる非難・中傷を覚悟で国交正常化を訴えられた真情。そのために先生が人知れず手を打たれ、大道(だいどう)を開かれてきた真実。
 周総理は全部、知っていたんだ。
森山 それが最初の一言に凝縮されていた。
 さすが「士(し)の心は士のみぞ知る」だ。

日本人で唯一人

谷川 公明党の衆議院議員だった中川嘉美さんも証言していた。
 「公明党の第2次訪中団(72年5月)に同行した時、周総理と会見する機会がありました。
 総理は『くれぐれも池田先生に、よろしくお伝えください』と、先生の功績を最大に讃え、心から尊敬の念を抱いていた」と断言していた。
原田 どれほど周総理が池田先生を信頼していたか。その何よりの証しだ。
佐藤 当時、朝日新聞の北京特派員だった秋岡家榮氏も「周総理は、公明党代表団を池田会長の使者として見ていた」と語っていたほどだ。
三津木 それが事実だ。それが当時の中国駐在記者の正直な実感だった。
原田 国交正常化後の74年12月、池田先生は周恩来総理と歴史的な会見をなされた。幸運にも私も随行させていただいた。
 この「一期一会の出会い」があったからこそ、その後も中国は池田先生を、ずっと信頼してきたんだ。
三津木 その通りだ。
 周恩来総理(74年)、ケ小平(とうしょうへい)氏(74・75年)、江沢民(こうたくみん)国家主席(90・92・98年)、胡錦濤(こきんとう)国家主席(85・98年)。
 中国4世代を代表する指導者と会い、深い信義を結んできた日本人は、池田先生ただ一人です。

「愚人」「小人物」

秋谷 竹入のやつなんか、とっくに性根を見抜かれている(笑い)。
原田 その通りだ。『周恩来、池田大作と中日友好』の著者である、孔繁豊(こうはんぽう)・周恩来研究センター所長も語っていた。
 「この本には、竹入という人間の固有名詞は一度も出てこない」と明言していたな(大笑い)。
佐藤 同著は、中国の歴史的な記録の研究・編さんに権威を持つ中央文献出版社から出ている。「日中友好の正史」だ。
谷川 ところが竹入はバカで目立ちたがりの畜生だから、中国側の真意が分からない(大笑い)。
 調子に乗って日中は自分一人でやった≠ニ言い出した。
森山 それで、ますます中国側は竹入の性根に呆れた。今や完全に誰も近寄らなくなった(爆笑)。
佐藤 それどころか、日本でも中国でも、竹入といえば「学歴詐称」「宝石漁り」「日中友好を食い物にした悪党」。悪事が全部、バレてしまった(大笑い)。
秋谷 最近では中国の著名な学者からも、さんざん厳しく罵倒されているじゃないか。
森山 湖南師範大学の朱新建(しゅしんけん)客員教授が激怒していた。
 竹入は中日友好を、あたかも自分一人でやったかのような発言をしている「小人物(しょうじんぶつ)」である
 恩を忘れ、道義に背いた取るに足らない愚人(ぐにん)である≠ニ、それはそれは厳しく糾弾していた。
原田 「小人物」「取るに足らない愚人」。
 竹入よ、これが厳然たる歴史の審判だ(大笑い)。

(2006. 9.21. 聖教新聞)

 

<35> 竹入の盆栽写真が発覚
出席者:秋谷会長、原田稔副理事長、正木副会長、竹内青年部長、佐藤男子部長

正木 あの「学歴詐称」のウソ八百の竹入について、公明党も厳しく糾弾を始めたようだな。
原田 当然だ。遅すぎたくらいだ。今、党の資金を横領したとして訴えられているが、どれだけ悪党か!
秋谷 竹入は、公明党から出た悪党だ。徹底して党が戦え!
 何度も言ってきたことだが、改めて言っておく。

まるで盆栽市

原田 それにしても全国の議員、OB、党員、支持者から、竹入の悪事を暴露する証言が、次から次へと届いているようだな。
正木 その通りだ。とくに竹入の異常な盆栽狂い! 公明新聞にも続々と出ているじゃないか。
佐藤 いや、実は、重大な証拠写真が出てきたんだ。
 渋谷区恵比寿(東京)にある竹入の自宅の屋上部分に、竹入が買い漁った盆栽がワンサとある。
 最近、その1974年(昭和49年)5月末当時の写真が出てきた。
正木 私も見せてもらったが、いや驚いた、驚いた。盆栽が山積み。まるで「盆栽市」だ。
佐藤 いったい、いくら金をつぎ込んだんだ! どこから出た金だ!
原田 公明党は「大衆とともに」が結党以来の大精神だ。
 それを、かりにも党首だった男が「盆栽」。言語道断だ。絶対に許すな!
秋谷 だいたい盆栽なんて、戸田先生が聞かれたら、烈火のごとく激怒されただろう。
 戸田先生は、おっしゃっていた。
 「だんだんと、今の政治家は堕落しているような気がする。いわゆる権力欲、自分本位、傲慢、偉ぶる等々――。
 選挙民だけでなく、多くの人々から尊敬され、信頼され、私利私欲を投げ捨てる政治家になってもらいたい。
 それには、立派な人間となることである。人格をつくることである」と断言された。
原田 まったく、その通りです。それを竹入のやつ!
正木 竹入の家の盆栽のことは、公明党の議員も全然、知らなかった。全く知らされていなかった。
竹内 竹入のやつも用心して、ごく一部の人間しか家に入れなかったようだな。
佐藤 正体がバレるのが怖くて、ひた隠しに隠し通していたんだな!

全て大物気取り

竹内 この写真は、竹入のやつが九州から植木職人らを呼びつけた時のものだ。
佐藤 この盆栽は、当時の値段でも一鉢で30万円以上もするものばかりだった。高いものだと100万円前後。錦松(にしきまつ)、五葉松(ごようまつ)、黒松(くろまつ)、真柏(しんぱく)などで、ほとんどが高級な松だったということだ。
原田 それも三十数年前の値段で、だ。今では何倍もするはずだな。
竹内 しかも竹入の家の屋上には、盆栽を見るためにガラス張りの8畳間ぐらいの「観賞部屋」まであった。
佐藤 夜にはライトアップ(=照明をあてて浮かび上がるように見せること)までできたという話だ。
秋谷 貧乏人が権力を持ち、金を持つと、どこまで狂うか。完全に病気だ。
竹内 それに、竹入のやつは党本部にいる時も盆栽が心配で心配で、仕事そっちのけだった。しょっちゅう自宅に電話して「水はやったか」なんてヒソヒソと話していたというんだな!
佐藤 近くにいた人が、何度も何度も耳にしていた。
正木 それにしても、竹入のやつは、なんで盆栽漁りなんか、やってたんだ?
秋谷 これも大物政治家のまねだ。見栄っぱりのあの男の、大物気取りの表れだ(笑い)。
原田 竹入はコンプレックスの塊のような男だ。何しろ、あんな学歴詐称までやったほどだからな。
秋谷 「盆栽漁り」も同じだ。当時は、大物政治家などが盆栽をやっていた。
 それで「オレもやろう」と、まねをはじめた。そんなところだろう。
原田 見栄で大物政治家のまねをする。あの中身もない、教養もない、人格も最低の竹入が、やりそうなことだよ(大笑い)。

遊説先でも盆栽

竹内 竹入の盆栽狂いの実態については、次から次へと証言が出てきている。
 とにかく、あいつは、地方に行くたびに盆栽を漁っていた。
佐藤 「遊説の合間に盆栽を買っていた」んじゃない。「盆栽を買いに行った合間に遊説をやっていた」んだ、あいつは!
原田 こういう証言もある。1980年の衆参ダブル選挙の時のことだ。
 熊本県の公明党候補が当落線上で大激戦だった。終盤戦で竹入が熊本入りしたが、竹入は着くやいなや「盆栽が見たい」と言い出した。
秋谷 支持者が、死にもの狂いで支援している真っ最中に、だ。この腐りきった性根! この一点だけでも許せない。
原田 そして当時、80万円から100万円の黒松をポンと買ったというんだな。
正木 この選挙区では、公明党の候補が惜敗した。地元の支持者が、どれほど悲しんだか。悔し泣きに泣いたか!
竹内 皆が必死で戦った選挙を「盆栽漁りのついで」ぐらいにしか思っていなかった。こんな遊び人野郎がいたから負けたんだ!
佐藤 あいつの盆栽狂いについては、まだまだ証言がある。こんなもんじゃない。
竹内 奈良県で、遊説カーが奈良市内の住宅街を通った時だ。突然、車のデッキの上で「おっ、あそこに、すごい盆栽がある!」と一人で大騒ぎをはじめた。
正木 やっぱり「盆栽が主」で「選挙が従」だったんだな。

フェリーで運搬

竹内 熊本県では、なんと4dトラックに30鉢ほどの盆栽を積み込ませ、わざわざ竹入の自宅まで運ばせていた。最近、そういう新事実も発覚した。
佐藤 トラックにギッシリ詰み込まれた盆栽は、当時の金額で800万円ほどもしたと言われている。
原田 熊本から渋谷だよ。運送費だって、莫大じゃないか。どれだけ金を注ぎ込んでいたか。
竹内 熊本からだけじゃない。四国からもトラックで盆栽を運んでいた。
秋谷 四国と本州を結ぶ橋が、まだなかった時代の話だろう。どうやって運んだんだ?
佐藤 フェリーだ。高松から川崎まで、わざわざフェリーを使って、東京の恵比寿の家まで運ばせていたんだ。
正木 調子に乗りやがって! どこまで増長しきっていたか!

(2006. 9.25. 聖教新聞)

 

<36> 盆栽・女・金狂いの竹入
出席者:秋谷会長、原田稔副理事長、正木副会長、竹内青年部長、佐藤男子部長

盆栽また盆栽

正木 前回は、竹入の異常きわまる「盆栽狂い」の話が出た。
佐藤 竹入の元秘書の証言では、愛媛県でも竹入の「盆栽事件」があった。
竹内 竹入が車で移動中に、立派な霧島ツツジを見つけた。
 竹入は、車を止めさせて「いいな。ほしいな」とヨダレをたらさんばかりに見入っていたというんだな。
佐藤 その場は、持ち主が不在で買えなかったようだが、後日、その秘書が竹入の家に行って驚いた。何と玄関に、その霧島ツツジが置いてあった!
竹内 すると竹入の、これまた経歴詐称の女房が「パパが買ったのよ」とギャーギャー自慢したというんだ。
原田 何が「パパ」だ。畜生一家が!
佐藤 これもまた当時の値段で100万円以上はするだろうという高級品だった。
原田 とにかく、どこに行っても盆栽。何をおいても盆栽。あっちからもこっちからも、証言が集まっている。
竹内 日本盆栽協会の元理事長も松で、これだけの盆栽を集めたのは竹入くらいだろう≠ニ驚いていたほどだ。

病気より金

秋谷 いや、聞けば聞くほど呆れるばかりだ。公明新聞にも、連日のように竹入の悪事を糾弾する証言が出ている。
正木 最近も、東京・葛飾の元区議の堀井輝雄さんの証言が出ていたじゃないか。
佐藤 そう、そうだった。1967年(昭和42年)のことだ。
 堀井さんは、選挙活動で移動する竹入の車の運転をしていた。
 ころ合いをみて、堀井さんは、実は母親が危篤状態にあると話した。
竹内 ところが竹入のやつは、女房に頼まれた買い物をするために上野の百貨店まで車を出せ≠ニ頭ごなしに命令したというんだな。
佐藤 車中の竹入は、高イビキ。そして目が覚めると、こう抜かした。
 「お前は病気の苦しみと、金のない苦しみと、どっちが辛い? オレは金がないのが一番、苦しい」。こう言い放ったというんだな。
秋谷 冷血! 無慈悲! 人間性のカケラもないやつだ。
正木 危篤の母親がいるのに、気遣うどころか病気より金≠ニ抜かす! まったく血も涙もないやつだ。
佐藤 結局、堀井さんは、お母さんの死に目に会えなかった。間に合わなかった。
原田 この話でも分かる。竹入のやつというのは、後輩や支持者に対しては、血も涙もない。そのくせ、若い女性にだけは目がない。
佐藤 化け物じみたやつだ。あっちからもこっちからも、竹入の下劣な女狂いの実態を暴く声が、どんどん来ている。

女性狂いの実態

竹内 こんな証言もある。
 竹入のやつが、ある女性歌手について「いい女だ。これは呉服で落ちるぞ」云々とニヤニヤしながら話していたというんだ。
正木 汚らわしいやつ! 何が「いい女」だ。ゲス野郎! なんたる言い草だ。
原田 あいつが都内の高級ホテルで女性と密会していた話も有名じゃないか。
竹内 帽子を目深にかぶり、メガネをかけて、つけ髭までつけて変装していたというんだからな!
佐藤 1967年(昭和42年)6月のことだ。九州で選挙の運動員だった20歳の女子学生を誑(たら)し込んだ話も、すっかり有名になったな。
竹内 事実を知った、その女性の親族が怒りを綴った手紙を、竹入に何度も送った。それを竹入のやつ、ダンマリを決め込んだまんまだそうだ。
秋谷 答えられない。つまり全部、事実と認めたということじゃないか。
佐藤 それに71年(昭和46年)には、こんな話もあった。竹入は大分県の別府温泉に行った。
 そこで、自分の部屋にコッソリ女性を呼んでいたというんだな。
竹内 もちろん女房じゃない女だよ。

都庁で逢い引き

佐藤 あいつの女狂いの証言は、まだまだある。
 昭和50年代の話だ。スカートをはいた党本部の若い女性職員に「この机に登れ。オレが下からのぞいてやるから」と言ったというんだな。
正木 いや、驚いた。呆れ果てて物も言えない。今だったら絶対に「セクハラ」(性的嫌がらせ)で訴えられているはずだよ。
佐藤 まだまだ。竹入が都議会議員だった時代だ。都庁内の控室にも若い女性を呼んでいた。
原田 都庁の控室といったら、議会活動の拠点じゃないか。そんなところでも逢い引きしてたのか、あいつは!
佐藤 それも週に2回も3回も来ていたようだ。その女性が病気で入院した時も、何度も病室に通っていたそうだ。
秋谷 あまりにも品性がない。下劣だ。
 とにかく冷血、冷酷で、後輩の議員が病気になっても、見舞いにも行かない。激励の言葉もかけない。それを女性のところなら、せっせと通う!
原田 許せない。聞けば聞くほど許せない。
佐藤 この盆栽狂い! 女狂い! 金狂い! 化け物男めが!
正木 揚げ句の果ては、党の公金の横領疑惑でも訴えられているじゃないか。
秋谷 戸田先生は「恩知らずは極悪中の極悪人」「断じて議員を威張らせるな」と、最後の最後まで厳しく指導されていた。
 この畜生の正体を徹底的に暴け! 叩け! 絶対に許すな!

(2006. 9.28. 聖教新聞)

 

<37> 竹入が虚偽の経歴書
出席者:秋谷会長、原田稔副理事長、大野総中部長、正木副会長、竹内青年部長、佐藤男子部長

正木 あの恩知らずの竹入の学歴詐称事件!
 公明新聞でも取り上げているが、いまだに「竹入が学歴詐称していたと知って驚いた」という声がある。
秋谷 だからこそ、真実は繰り返し繰り返し知らせていくことが大事なんだ。
 戦いは「執念」だ。邪悪の本質、悪党の正体は、何度も何度も糾弾していくことだ。
原田 まったく、その通りだ。でないと、歴史にも残らない。

中部から激怒

大野 竹入のやつは「陸軍航空士官学校出身」を詐称してきた。
 わが中部でも、本物の陸士(=陸軍士官学校)出身者が忘恩の竹入に激怒している。
原田 あっちでも、こっちでも、怒りの声が吹き出しはじめたな!
大野 公明新聞にも出ていたが、山本勇さんという方だ。竹入は「陸士59期」を詐称しているが、山本さんは48期。終戦時には陸軍少佐だった。陸軍大学校に在籍していた時には、士官学校の教官まで務めた人だ。
秋谷 本物の陸士出身、しかも教官か。怒るのも当然だ。
大野 いや、ものすごい剣幕だったよ。
 「竹入のインチキ野郎! 大ウソつき野郎! 支持者を裏切った忘恩は断じて許さぬ!」
 「竹入みたいなやつが陸士出身を騙(かた)るとは、バカも休み休みに言え!」と顔を真っ赤にして憤激していた。

少佐殿、少佐殿

佐藤 山本さんによれば、昭和42年(1967年)に行われた衆院選の応援で、竹入のやつが愛知に来た。
 そのとき竹入は、山本さんの顔を見るや否や「少佐殿! 少佐殿!」と大げさに叫んだというんだな。
大野 何が「少佐殿」だ(大笑い)。竹入のやつは、自分が学歴詐称しているから、いつバレるかと心配でしょうがない。だから本物の陸士出身者に会うたんびに、震え上がっていたんだよ(爆笑)。
佐藤 ずるがしこい竹入のことだ。山本さんの経歴も、事前に調べ上げていたんだろうな。
竹内 それで、わざわざ「少佐殿! 少佐殿!」と連呼したんだな(大笑い)。
原田 そう言っておけば、ごまかせる。自分が陸士の後輩だと思ってくれるとでも踏んだんだろう(笑い)。
秋谷 それにしても、だいたい本物の軍人だったら口が固い。竹入みたいに人前で他人の軍歴など言わないはずだ。
大野 その通りだ。山本さんも言っていた。
 「まず当時、元軍人といったら、あまり人から歓迎されるような立場ではない。わざわざ自分の軍歴など宣伝しない。
 それに軍人というのは口が固いものだ。聞かれてもいないのに『少佐』なんて言わない。ましてや『少佐殿! 少佐殿!』なんて言わない」と断言していた。
正木 無学で教養のない、大ウソつきの竹入らしいな(笑い)。
原田 「少佐殿」と言っておけばバレないと思った。ところが、かえって怪しまれた(爆笑)。
大野 山本さんは、この時、ひょっとして竹入の陸士出身はウソではないかと疑ったようだ。
 それで竹入に聞いた。「何期か?」「兵科は?」と問いただした。
佐藤 竹入は、ビクビクしながら、下を向いて「59期です」「航空です」(大笑い)。いつもは、大声で怒鳴ってばかりのあいつが、蚊の泣くような声だったそうだ(爆笑)。
秋谷 ウソは必ずバレるものだ。結局、山本さんが睨(にら)んだ通りだった。
大野 山本さんは「竹入は全国の公明党の支持者に土下座して謝れ! 天下に詫びよ!」と、それはそれは怒っている。
正木 竹入よ、公の場で謝れ! 土下座して謝れ! これが陸士OBの声だ。さんざん貴様が騙した支持者の声だ!

新聞各紙で詐称

原田 それに竹入は、早くも都議会議員の時代から「陸士出身」と詐称していた。そういう事実も判明している。
竹内 その通りだ。
 竹入が都議に立候補した1963年(昭和38年)。「朝日」「毎日」「読売」「東京」「サンケイ」の5紙に出た竹入の略歴で「航空士官学校卒」等々と詐称していた。
正木 新聞に出る候補者の略歴は本人の申告のまま載る。それが普通だ。あいつは、新聞各紙にもウソをついて騙していた。その動かぬ証拠じゃないか。
佐藤 それに最近、竹入のやつが都議になった時に都議会に出した公式の経歴書でも詐称していたことが発覚した。
竹内 そこには「昭和20年8月15日 陸軍航空士官学校 修了」という大ウソがハッキリ書いてあったというんだな。
正木 都に出した公式の経歴書でも、詐称していたんだ。悪いやつだ!
大野 いったい、どこで、どれだけ詐称してきたのか。見当もつかないな! 愚劣のきわみだ!

(2006.10. 2. 聖教新聞)

 

<38> 経歴詐称一家・竹入
出席者:秋谷会長、原田稔副理事長、大野総中部長、正木副会長、竹内青年部長、佐藤男子部長

佐藤 前回は、竹入義勝の学歴詐称の数々が話題になった。
秋谷 いちいち挙げればキリがないだろう。せっかくの機会だ。いっぺん、まとめておこうじゃないか。

詐称、詐称、詐称

竹内 分かりました。
 まず@「週刊読売」(昭和42年2月17日号」には「所沢飛行学校に学び、陸軍航空士官学校で終戦を迎えた」とあった。
佐藤 A月刊誌「世界」(昭和42年4月号)では「陸軍航空士官学校で敗戦を迎え」。
 B「文藝春秋」(昭和48年11月号)には「所沢陸軍飛行学校―航空士官学校のコース」とある。
正木 C「公明新聞」昭和50年1月4日には、NHKのインタビューの内容として、評論家の草柳大蔵氏との会話が出ている。
 「草柳『しかも航空士官学校ですね(笑い)』
 竹入『まあ、私は好きで志願していったわけですけれど』」と言い放っていた。
佐藤 D「宝石」(昭和52年2月号)には「太平洋戦争のとき、所沢の飛行学校、陸軍航空士官学校でまなんだ」。
 E「現代」(昭和53年8月号)は「所沢の飛行学校、陸軍航空士学校に籍を置いた」。
竹内 F「文藝春秋」(昭和56年12月号)では「アンケート特集・私と太平洋戦争」への本人の回答として「終戦を迎えたのは、埼玉・豊岡にあった陸軍航空士官学校で、今の自衛隊入間基地だと思う」とハッキリあった。
佐藤 それにG昭和57年当時、党に提出した候補略歴表には「20年8月陸軍航空士官2年」とある。
竹内 H「中央公論」(昭和59年4月号)の評論家の伊藤昌哉氏との対談には、こうあった。
 「伊藤『陸軍航空士官学校在学中に敗戦を迎える。驚きましたな(笑)』」「竹入『アハハハ。昔の話ですよ』」
佐藤 I「新訂現代日本人名録」(平成10年1月発行)には「陸軍航空士官学校在学中に敗戦」とあった。
大野 ざっと数えただけでも、これほどウソをついてきた。活字に残らないものを含めれば、想像もつかないな!

計算ずくでウソ

佐藤 そのくせ悪辣(あくらつ)なことに、選挙公報には「航空士官学校」云々ということは一切、書いてない。
正木 ご存じの通り、選挙公報で学歴を詐称すれば、公職選挙法の「虚偽事項公表罪」に問われることになる。
佐藤 私の友人の法律家も言っていた。
 「竹入は、ハッキリ公職選挙法違反になることだけは、わざと小ずるく避けていたのではないか。
 法律に引っかからない範囲で学歴を詐称しよう、支持者を騙そうと、はじめから計算ずくでウソをついていたんじゃないのか。だったら、なおさら悪辣千万だ。卑劣きわまるやり方だ」と断言していた。
秋谷 卑しい人間ほど、悪知恵が働くものだ。知性も教養もない。人格も最低。それだけに、他人を騙す手練手管(てれんてくだ)だけは長けている。まさに畜生そのものじゃないか。

詐称男≠ニ遭遇

佐藤 その竹入といえば先日、9月23日午後3時50分、男子部のメンバーが、東京都港区のスーパーでバッタリ出くわした。
竹内 僕も聞いた。居合わせた男子部メンバーが「学歴詐称の話があるが、ほんとうなのか」と問いつめた。
佐藤 すると竹入のやつは、訳の分からないことを喚(わめ)き散らすだけで、何も具体的に答えられなかった(大笑い)。
竹内 そうなんだ。「詐称していない」とは、ただの一言も言わなかった。
原田 白状したな。やっぱり「竹入の学歴は詐称」だ(大笑い)。
大野 それにしても、ここまで国民を騙し抜いてきた竹入の「学歴詐称事件」。なぜ発覚したんだっけな?
原田 大新聞が鳴り物入りで出した、竹入の回顧録とやらがキッカケでバレたんだ。
正木 ウソ八百で国民を騙してきた報いだ(笑い)。

経歴がバラバラ

秋谷 しかも詐称は竹入本人だけじゃない。
 あいつの女房の喜久も悪質な経歴詐称をしていた。
大野 夫婦そろって「詐称」だ。前代未聞だよ。見たことも聞いたこともないよ(爆笑)。
佐藤 公明新聞によれば、女房の学歴もメチャクチャだ。
 履歴カードの学歴欄には、ある場合は「女学校卒」。またある場合は「杉並美容女学院卒」。ある書類には「岩手私立職業学校」。
 また別のカードには「女高卒」「女学卒」等々とある。
大野 てんでバラバラじゃないか。何が何やら全然、ハッキリしないぞ!
竹内 文部科学省によれば「女学院」「女高」「女学校」という名称は「当時の学校の類型としては考えられない」と言っている。
佐藤 おまけに「杉並美容女学院」や「岩手私立職業学校」なんていう学校は、存在していた形跡すらもない。
原田 よくまあ、今までズルがしこいウソをついてきたものだ。驚きだよ。呆れ果てるよ。
竹内 女房の詐称を裏付ける決定的な証拠もある。
佐藤 そうなんだ。『人事興信録』という紳士録≠ェある。これは1年おきに更新、出版されているものだ。
竹内 竹入の欄には女房の経歴が「高女卒」と書かれていた。竹入が初めて掲載された昭和44年から平成15年まで、ずっと「高女卒」だった。34年間も同じだった。
佐藤 ところが、だ。昨年3月に出た最新版では、女房の学歴がコッソリ削られていた。「高女」の「コ」の字もないんだよ(爆笑)。
竹内 いやいや、驚いたな(笑い)。この紳士録は、改訂のたびに、本人に内容を確認して出版しているものだ。
 女房の学歴が消えたということは、竹入側が最近になって削ったとしか考えられない。
秋谷 悪いやつらだ! 要するに、竹入夫婦が女房の学歴詐称をハッキリ認めた。その動かぬ証拠じゃないか(笑い)。

存在しない学校

正木 それに竹入の女房は以前「美容師をやっていた」というが、これも怪しい、怪しい(笑い)。
竹内 美容師になるには、当然、美容学校などを出て、試験に合格する必要がある。
 だが、そもそも喜久が卒業したという「杉並美容女学院」そのものが、この世に存在しない。天にも地にも、ない、ない(大笑い)。
佐藤 いずれにしても、女房が美容師の試験に合格したとか、美容師の免許を取ったという形跡が、まったくないんだな。これもまた公明新聞にも出ていた。
正木 詐称亭主に、詐称女房。竹入の長男にも、私立大学医学部への裏口入学疑惑がある。
秋谷 一家ぐるみで経歴詐称。疑惑だらけ、ウソだらけじゃないか。
 本人が学歴詐称。女房まで学歴詐称、経歴詐称。長男は裏口入学の疑惑だ。前代未聞だ。
大野 とにかく支持者の懸命の支援を「当たり前」と思う。思い上がる。その揚げ句に、私利私欲に走り、権力欲に溺れ、好き放題にのさばった。そういう恩知らずは、あっちでもこっちでもインチキだらけだ。竹入の事件で、われわれは、よく分かった。
秋谷 戸田先生は厳然と言われた。
 「悪党に騙されぬように、また悪党に撹乱(かくらん)されぬように、命懸けで監視の目を光らせていくことだ。そして、必ず追放していくことだ」と断言なされた通りだ。
原田 我々は「党から出た悪党とは党が徹底して戦え」と言ってきた。
 これからも一段と厳しく言い続けていく。
 どれだけ支持者が怒っているか! 公明党の議員は謙虚になって聞け! 真剣に戦え!

(2006.10. 5. 聖教新聞)

 

<39> 平和と文化と教育の大道を全世界が賞讃
出席者:秋谷会長、青木理事長、原田稔副理事長、高柳婦人部長、佐藤男子部長、森山学生部長

ギネス級の壮挙

秋谷 10月7日、中国の名門・北京師範大学から池田先生に名誉教授の称号が贈られた(東京・八王子の創価大学で)。
 これで世界から先生の贈られた名誉学術称号は200になりました(大拍手)。
青木 どれほど偉大な壮挙か! 日本人には、いない。いや、世界にも、いないでしょう!
原田 北京師範大学は、中国で最初に創立された師範大学だ。
 あの魯迅先生をはじめ、中国を代表する文人が教壇に立った最高峰の教育大学だ。
青木 その名門中の名門大学が記念すべき200番目となった。本当に、すごいことだ!
高柳 素晴らしいですね! 本当に、うれしい!
 文字通り「世界一」なんじゃないですか。
森山 その通りです。
 実際に調べてみましたが、贈られた名誉学位の数が200というのは、間違いなく、あの「ギネスブック」の記録にもなる数です。
青木 本当に、すごいことだ!

元大統領も祝福

佐藤 この歴史的な壮挙のニュースを知った世界中の識者、指導者、著名人から、祝福の声が続々と届いています。
原田 フィリピンのラモス元大統領。
 池田博士は、これからも更に名誉称号を、お受けになることでしょう∞日本のみならず世界の人々からの高い評価であり、博士の高潔な人格と能力への信頼の表れです≠ニ絶賛しておられた。
高柳 インドのグジュラール元首相からは「私ども夫婦から、心からの慶祝をお伝えします」とありましたね。
佐藤 アメリカのハーバード大学のドゥ・ウェイミン教授も喜んでおられた。
 北京師範大学は私が1年間、研究生活を過ごした大学です。同大学が200番目となる最高の栄誉を池田先生に贈るとうかがい、誠に嬉しく思っています。心からの喜びをもって、お祝い申し上げます≠ニ言われていた。
原田 アメリカのソロー協会のボスコ前会長。
 全人類のために池田会長が献身されてきた偉業は、すべて池田会長から未来世代への特別な贈り物であり続けるでしょう。
 このような贈り物に対して、私は謹んで「サンキュー(ありがとうございます)」と申し上げたいのです≠ニ賞讃されていた。
佐藤 法華経研究の世界的な大家であられるインド文化国際アカデミー理事長のロケッシュ・チャンドラ博士も言われていた。
 池田先生は法華経の価値を世界に宣揚し、人類を豊かにしてくださいました。200の名誉学術称号は、人類からの感謝の証(あか)しなのです≠ニ絶賛されていた。

母校の誇り

高柳 先生の母校・東京富士大学の二上貞夫理事長からも卒業生である池田大作先生の一大朗報は、本学の大いなる誇りです≠ニ祝賀のメッセージがありましたね。
原田 二上理事長は、先生が卒業された経緯について「昭和39年秋ごろ、本学関係者の熱望を汲み取っていただき、翌年度に復学のご決心をいただきました」「ご多忙ななかで修学の課程を全うされ、同42年に全体教授会の全員の認定により、ご卒業された」と述懐。
 先生の世界平和への業績を讃嘆し「『日本を代表する不二の鉄人』と尊敬しています」と語っておられた。
森山 創価大学と学術交流を結んでいる大学をはじめ世界中の知性の府≠ゥらも、引きもきらずに祝電が届いている。
佐藤 ロシア最高峰のモスクワ大学。中国の北京大学をはじめとする各大学。
 それにアメリカのハーバード大学、ブルガリアのソフィア大学、エジプトのカイロ大学、韓国の国立済州大学等々。
 どれも、その国を代表する一流の大学ばかりだ。
青木 本当に考えられない。
 我々が入会したのは昭和20年代だが、そのころには、まったく想像もつかなかった偉業です。

師弟不二の軌跡

秋谷 どれほど池田先生が偉大であられるか! 池田門下生として、これほど嬉しいことはありません。
 先生のもと、仏法を基調とした平和・文化・教育の大道が、全世界に広がった。その聖業を全世界の第一級の知性が、こぞって賞讃している。
 すべて、ひとえに池田先生の大激闘があったればこそです。我々は、それだけ先生に感謝しても、しきれません!
原田 平和・文化・教育はもちろん、ありとあらゆる分野において、先生は、ただただ恩師・戸田先生への誓願のままに走り抜いてこられた……。
秋谷 池田先生は、戸田先生から、ありとあらゆることを学ばれた。「戸田大学」で、それはそれは厳しい薫陶を受けられた。
青木 そして全世界に、初代会長・牧口先生の遺徳を宣揚し、また戸田先生の功績を宣揚してこられた。
秋谷 仏法の眼(まなこ)からみれば、その偉大なる師弟不二(していふに)の軌跡こそが「200の名誉学術称号」として結実したのです。
 どれだけ峻厳な創価の師弟か。感謝、また感謝です。
高柳 池田先生は、つねづね「私は、全世界の同志の皆さまの代表として、また牧口先生、戸田先生の直系の弟子として、学術称号を拝受しています。これも『世界の知性』が創価の人間主義を信頼し、支持している証左(しょうさ)なのです」と、おっしゃっています。
 私たちは、どれほど意義深い歴史に連(つら)なっていることか!
 連ならせていただいていることか!
秋谷 日蓮大聖人は、広宣流布は「普賢菩薩(ふげんぼさつ)の力」によると仰せであられる。
 あの有名な「御義口伝(おんぎくでん)」には「此(こ)の法華経を閻浮提(えんぶだい)に行(ぎょう)ずることは普賢菩薩の威神(いじん)の力に依(よ)るなり」と仰せだ。
 また「此(こ)の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべき」と教えられている通りだ。
青木 「普(あまね)く」「賢(かしこ)い」知性の力で広宣流布は進んでいくとの御教示(ごきょうじ)ともいえる。
 この御聖訓を現実のものとされたのが池田先生です。
秋谷 どれほど学会が仏法上、意義の深い団体であるか、池田先生が、仏法史上に残る大賢人、大偉人であられるか。

日本の識者も

佐藤 日本の心ある識者も驚嘆、讃嘆している。
高柳 元長崎市長の本島等氏は、こう言われていましたね。
 「池田先生は、政治面では公明党を創設。教育面では創価大学を設立された。自分が偉くなろうというのではない。自分のためでなく、すべてが人のため。物差しが違う」と断言されていました(月刊誌「潮」本年10月号「池田大作の軌跡」から)。
森山 そしてまた「池田先生は、大統領級だけにとどまらず、世界第一級の知的レベルの人とも語り合える。
 民間外交という次元を超え、日本全体の平和外交の第一人者です。これだけの人物が他にいますか。偏見を捨てて、この事実を理解すべきです」とも語っておられた。
佐藤 姫路獨協大学の家正治教授も明言されていた。
 受章は世界五大陸の大学・学術機関に及んでいます。このことは、会長の対話を通じての平和構築等の活動の実績が、世界中で評価され、その諸活動が大きな意義を有している証明である≠ニ讃辞を贈ってくださっている。
森山 岐阜女子大学の堀幹夫学長は私は岐阜薬科大学や中国薬科大学、浙江大学の名誉教授であり、現在、学長をしておりますから、授与決定がどれほど厳正であり、公平かを断言できます。各大学の最高の誇りとしての授与である≠ニ断言されていた。
原田 学術会だけじゃない。日本の財界、政界等でも、池田先生の壮挙に対して、こぞって驚き、讃嘆している。
秋谷 私の知っている著名な政治家も「これだけの名誉博士をもらっている人は他にいないでしょう。
 一つや二つだったらあるけど、10だっていない」と驚嘆しておられた。
原田 まったく、その通りだ。
 大学を卒業して「学位」を取るのでさえ、ふつうは一つが関の山だ(笑い)。ましてや「名誉学位」だ。一つだけでも偉大な功績だ。

厳密な手続き

高柳 そもそも名誉学位は、それぞれの大学が威信をかけて行う顕彰です。
 それぞれ公正な条件、厳正、厳密な手続きを踏んで授与されるものです。
森山 その通りです。
 たとえば、南米パラグアイの国立イタプア大学の場合は、こうです。
 @教授が評議会に推薦。
 A学生・教授の代表が審議会を開く。厳正な審議の結果、却下されることもある。
 B総長を中心に全学部長が討議。
 C全学部長が合意。
 それで、ようやく、
 D総長の決済のもと、授与となる。
原田 そして実際、このような厳正な手続きを経て、同大学名誉博士の「第1号」が、池田先生に贈られたのです(拍手)。
佐藤 中国の大学の場合は、国家の教育部(日本の文部科学省に当たる」が決定する。名誉教授を受ける人には、条件が決められている。
 @博士号または教授の称号を持っている者。
 A学術に造詣が深く、知名度が高い。また国際学術界に認められている者。
 B学術交流や国際協力などに重要な役割を果たせる者。
 この条件を満たした人物にしか、名誉教授称号は授与されないと決められている。
森山 それに中国の場合は、一人の人物に授与してよい「名誉博士号」は一つと決められている。それぞれの大学が授与しているのも国家元首級ばかりだ。
佐藤 池田先生には、東北師範大学から「名誉博士号」が贈られている。それで他の大学からは「名誉教授」の称号が贈られているんです。
原田 中国から贈られる称号だけをみても、これだけ厳格な条件が付けられている。
 その中国から先生に対しては、香港とマカオを含めて、70を超える名誉学術称号が贈られている。希有(けう)の偉業です。

一つでも大栄誉

佐藤 ペンシルベニア大学ウォルトンスクール(アメリカ)のルイス教授は「名誉博士号は大学が、その『全存在をかけて』世界の文化と教育の交流に多大な貢献を果たした人に贈る栄誉であり、その選考は慎重に、あらゆる角度から厳格に行われる」と断言していた。
森山 それに同じくアメリカのマサチューセッツ大学ボストン校のラングリー副学長は、こう言われていた。
 「(名誉称号は)どの大学でも毎年、卒業式など大学の主要行事が行われる折に、ほんの少人数に与えられるものです。
 したがって一大学から一つの名誉博士号を授与されただけでも、その人の業績が世界で評価されたことになり、生涯の名誉となるものであります」と明確に述べておられた。
原田 国立デリー大学(インド)のメータ副総長は池田博士は現代のガンジーです。わが大学の名誉博士号を輝かせてくれた≠ニまで絶賛しておられた。
秋谷 それぞれの大学に偉大な伝統と歴史がある。一つの名誉博士号だけでも、大変な栄誉であり、誇りだ。
 本当に、よく分かる話じゃないか。

加速度的に

原田 それにしても先生が第1号の名誉博士号を受けられたのは、1975年5月。ロシア(旧ソ連)のモスクワ大学からの名誉博士号が第1号でした。
佐藤 その16年後の91年に、先生はマカオ(中国)のマカオ大学の名誉教授になられた。これが10番目でした。
森山 それから7年後の98年には、ロシア国立高エネルギー物理研究所の名誉博士に就任。これが50番目になりました。
高柳 まさに加速度的に増えていきましたね!
原田 21世紀になって最初の受章が99番目のプルバンチャル大学(インド)の名誉博士でした。
 100番目は2001年2月。中国の広東省社会科学院からの「名誉教授」でした。
青木 最初の受章から、今年で31年。そのうち21世紀になってからの受章が何と101という計算になる。
秋谷 21世紀に入ってから、わずか5年半ほどの間に100を超える受章です。
 池田先生は、早くも1970年代から「21世紀を目指そう」と提唱しておられたが、その21世紀に入って、本格的に創価の平和・文化・教育の運動が世界に開花しはじめた。全世界から陸続と顕彰が贈られる時代に入ってきた。
 すべて先生の先見、行動、英知、開道の賜物(たまもの)です。
青木 戸田先生は「第3代会長を守れば広宣流布は必ずできる」と御遺言された。
秋谷 世界から贈られた名誉学術称号、それにまた、幾多の顕彰の事実をみただけでも、戸田先生の御遺言が、どれほど正しいか。そして池田先生が、どれだけ偉大か。
 私たちは、この偉大な「三代の師弟」を仰ぎながら、前進していける。どれほど幸せか!
青木 さあ! 我々は、いよいよ大前進していこうじゃないか! 「学会創立80周年」の栄光の峰を目指して!

(2006.10.14. 聖教新聞)

 

<40> 私利私欲の議員は魔物だ
出席者:秋谷会長、原田稔副理事長、正木副会長、竹内青年部長、佐藤男子部長

議員OBも激怒

正木 それにしても、あの忘恩の竹入義勝の学歴詐称! あっちからも、こっちからも、怒りの声が噴き出しているな!
原田 その通りだ。
 最近も、国会議員を務めた故・中川嘉美さんのメモが出てきた。中川さんは、こう書き残していた。
 「竹入は理解に苦しむ行動が多かった。自分の裏面、不都合なことは、絶対に外にもらそうとしなかった。
 あの嘘で嘘を塗り固め、国民を欺いた『学歴詐称』など、その最たるものだ。
 竹入は自己顕示欲の強い『大ウソつき』『大物気取り』『名聞名利の権化』といっても過言ではない」と書いていた。
秋谷 中川さんは超激戦区だった旧東京8区(文京区、台東区、中央区)から衆院議員になり、4期務めた。
 その後は参院議員になった。引退してからも、最後の最後まで「支持者への恩返しだ」と走り抜いた議員だった。
原田 その中川さんも、竹入への怒りを厳しく書き留めていた。どれだけ竹入に対して怒っていたか。

本当の経歴

正木 とにかく、公明党の議員、議員OBからも、党員、支持者からも、竹入への怒りの声が、どんどん党本部に届いているようだ。
竹内 なかには、学歴詐称の竹入の「本当の経歴」が知りたい。そういう読者の声も多かった。
秋谷 無理もない(笑い)。
 とにかく、あの男は、何から何までウソづくめ。何十年にもわたって、何重にも詐称していた大ウソつきだからだ。
原田 しかも女房まで学歴詐称、経歴詐称!
秋谷 せっかくの機会だ。いっぺん、調査で判明した竹入の本当の経歴について、整理しておこうじゃないか。
佐藤 分かりました。
 まず竹入が言い触らしてきたウソの学歴ですが……。
 @昭和15年3月、軽井沢尋常小学校高等科卒業。
 A同年4月、旧制高千穂中学入学。
 B昭和19年3月、同中学修了。
 C同年3月、陸軍航空士官学校入学。
 D昭和20年8月、同校修了。
原田 このうちA〜Dは真っ赤な大ウソと判明している(笑い)。
 @は事実なんだろうな。
竹内 事実です(大笑い)。
 公明新聞の調べによると、竹入は昭和13年4月に軽井沢尋常小学校高等科に入学。15年3月に卒業している。
佐藤 その後、竹入は、国鉄の田端駅(東京)で連結手の仕事をやっていたようだ。
竹内 そして昭和19年10月、陸軍の特別幹部候補生として、埼玉県の所沢陸軍航空整備学校に入校。
佐藤 翌20年4月には、陸軍航空士官学校の材料廠(しょう)に配属になった。そこで終戦を迎えた。
正木 材料廠ってなんだい?
竹内 陸軍航空士官学校の材料廠というのは、軍事資材の補給、整備などを行うところだったそうです。
佐藤 竹入は終戦時、埼玉県豊岡(当時)の陸軍航空士官学校の敷地内にあった材料廠で働いていた。作業兵だった。
 つまり、陸軍航空士官学校の敷地内に「いた」ことは「いた」。
 だが、士官学校の「生徒」でもない。「学生」でもない。あくまでも材料廠で働く一兵士として「その場にいただけ」だったんだ。
秋谷 竹入は、それを悪用した。どこまで、小ずるいウソつきか!

悪党は身を飾る

佐藤 竹入は、マスコミに対して陸軍航空士官学校の在学中に終戦を迎えた%凾ニ大ウソをついていた(笑い)。
 とにかく、あっちでも、こっちでも、わざと曖昧に言ってみせたり、デタラメの学歴を言いふらしていた。
原田 支持者はもちろん、マスコミまでもが「陸士(=陸軍士官学校)出身」と勘違いするように、わざとデマを流した。そう思われたって、しかたない。
秋谷 本当に、悪いやつだ!
原田 だいたい、はじめっから「学歴は尋常小学校高等科卒」と言っておけば、よかったじゃないか。
 正直に「終戦の時は、航空士官学校の敷地内で作業兵として働いていた」と言えばいいじゃないか。
秋谷 立派な経歴じゃないか。何ら恥じることはない。ウソをついてまで見栄を張る必要なんか何もなかった。
原田 悪党は何かにつけて自分を飾りたがる。力がない。教養もない。人格も最低。そういう卑しい自分を、大きく見せたがる。
 あの男の卑劣な「学歴詐称」も、その表れだ。

職歴も明らかに

佐藤 それにまた公明新聞の調査で、竹入の本当の「職歴」も、ほぼ明らかになっている。
竹内 小学校高等科を卒業した竹入は、昭和17年ごろに国鉄田端駅の連結手として働き始めた。
佐藤 同19年、陸軍に志願したために、いったん国鉄の仕事を離れた。
 終戦後の昭和23年に、ふたたび田端駅の連結手の仕事をした。
竹内 昭和34年に文京区(東京)の区議会議員になり、国鉄を退職した。
 以上が、竹入が議員になる前の経歴だ。
正木 尋常小学校高等科を卒業して、国鉄の仕事をしていた。
秋谷 それを竹入のやつは、大ウソをついて「陸軍航空士官学校修了」だの「旧制高千穂中学卒業」だのと言っていた。
 マスコミを騙(だま)し、党を騙し、支持者を騙し、国民を欺(あざむ)いた。
原田 とにかく、いやなやつだったな! 我々も、よく知っているが、どこに行っても、ふんぞり返って、威張り散らしていた。
 議員を40年もやらせていただいたのに「謙虚だった」「誠実だった」なんて声や証言なんか、一つもないじゃないか。
秋谷 結局、自分を大きく見せたい。偉く見せたい。
 そんな男だから学歴まで平気で詐称できるんだ。
原田 戸田先生は私利私欲の議員は魔物だ≠ニまで言われた。
 とにかく虚栄心の塊(かたまり)! 見栄っ張りの権化(ごんげ)! 忘恩の怪物! それが竹入の正体だ。
 公明党は極悪の輩と断じて戦え!

(2006.10.16. 聖教新聞)