<1> 日中国交正常化から35年 |
<1> 日中国交正常化から35年
出席者:原田会長、正木理事長、西口副理事長、山本副理事長、竹内青年部長、佐藤男子部長
山本 先日、久しぶりに会った、私の学生時代の親しい友人が語っていた。
「このまえ月刊誌の『潮』の記事を読んでいてビックリしたよ」と言うんだ。
西口 へぇーっ。何の記事を読んだのかね。
山本 著名な哲学者の梅原猛氏(京都市立芸術大学学長)の記事だ。
そこで梅原氏は「日中友好という点から言って、創価学会、なかんずく池田大作名誉会長の功績は大きい」と述べていた(月刊「潮」9月号)。
正木 よく読んでいるな。
山本 その友人は「僕は学会員ではないが、池田名誉会長が、日本のため、世界のために、こんなにスケールの大きい貢献をされていたとは知らなかった。大いに感銘した。認識を改めた」と語っていた。
佐藤 僕も読んだ。梅原氏は、こうも語っていた。
「私自身も日中親善に尽くしたということで北京大学から名誉教授の称号を与えられたが、それより随分前に池田名誉会長も名誉教授の称号を受けられていた」
「それは当然のことであり、日中友好に尽力した創価学会、また公明党の路線というものはこれからも維持していってほしいと願う」と、明快に論じておられた。
原田 立派な見識だ。さすがは、日本を代表する識者だ。
正木 とくに本年は「日中国交正常化」から35周年という節目を迎える(9月29日)。
竹内 日中友好は多くの先人たちの尽力があってのことだが、なかでも中国では池田先生の功績を讃える声が多い。
西口 その通りだ。中国の胡錦濤国家主席も「池田先生は中日友好事業の大先輩」と、明確に語っている。たいへんに有名な話だ。
原田 私も、池田先生のもとで、これまで幾人かの中国の学識者、指導者にお会いしてきた。
最近、お会いした天津市文化局の張志副局長も「周恩来総理と池田先生が語り合われた中日友好の願いは、私の心にも刻まれています」と語っておられたことが忘れられない。
竹内 私たち青年部は、これまで中国の全青連(中華全国青年連合会)と交流団を派遣しあい、厚い友情を結んできた。
私が中国で会った青年たちも、みな異口同音に「池田先生こそ中日友好の大先達です」と、讃嘆していた。中国各地、どこへ行っても、池田先生を讃え、求め、慕う青年たちがいた。
正木 「友好の大先達というだけではない。池田先生は未来に向かって、一段と中日友好の道を大きく開いてくださっている」
このように評価する中国の要人も多い。
特別番組も放映
佐藤 中国のメディア界も大変に注目している。たとえば、中国最大のテレビ局・中国中央電視台は、国交正常化35周年を記念して、池田先生の多大な貢献を紹介する特別番組「桜花の時節」を放映した(5月27日・6月3日の2回)。
西口 関西の実業家が語っていた。
「大変なことだ。日本でいえばNHKだ。日本の政治家で、こんな特別番組が放映される大人物がいるのかね」と笑いながら言っていた(笑い)。
竹内 しかも放映後、浙江大学や廈門(アモイ)大学などの大学首脳、教授から「池田先生の行動を紹介する番組を教材にしたい」という声が続々と寄せられたようだ。
正木 視聴者からも共感の声が多々あった。
「ここまで中日の友誼を深める日本人がいることを知り、池田先生に敬服しました。日本に対する考え方が大きく変わりました」等、多くの感動の声が届いた。
井戸を掘った人
西口 中国の有名な格言に「水を飲む時、井戸を掘った人のことを忘れるな」とある。
池田先生こそ「中日友好の井戸を掘った大恩人」である。先生こそ「未来の中日友好の柱」である。
これが中国の人々の確固たる、共通した認識だ。
佐藤 重要な事実だ。
「中国でもアジアでも、日本に不信感をもつ人々は、まだまだ多い。
池田先生の行動は、そうした人々の日本観、日本人観を大きく転換してきた。この一点をとっても、日本人は池田先生に最大に感謝すべきではないか」。これは日中関係に詳しい外交評論家の言葉だ。
竹内 本当に、その通りだ。池田先生は1968年(昭和43年)9月8日、2万人の青年を前に、あの歴史的な「日中提言」を発表された。
「日中国交正常化」を断固として訴えられた。
西口 当時はアメリカ・ソ連の2大超大国のもと、東西冷戦の真っただ中だった。中国は国連に加盟もしていなかった。加盟できなかった。
その時代に、どれほど勇気ある、偉大な先見の宣言であられたか。
原田 学生部総会での、この提言は、当日の夕刊から各大新聞にも報道された。今では当然のように思えるが、当時は「共産主義の中国と仲良くする」など、日本では想像もつかない時代だ。
そうした情勢下で池田先生は日中友好なくして、アジアの安定も世界の平和もない≠ニ堂々と主張された。
どれほど「勇気ある提言」だったか。
竹内 ジャーナリストの西園寺一晃氏が「命懸けの戦い」と評していた通りだ。
佐藤 著名な中国文学者の竹内好氏も「光はあったのだ」と大絶讃された。
正木 その一方で、日本国内では、たちまち無知と無理解の非難、中傷が渦巻いた。学会本部にも脅迫の電話や手紙が、ひっきりなしに舞い込んだ。各種の団体なども連日、街宣車を繰り出して攻撃してきた。
原田 与党の政治家も、野党の政治家も、先生の提言を一斉に敵視し、非難した。
わずかに、日中友好を推進していた自民党の松村謙三氏(元厚生大臣)が「あなたの提言で、百万の味方を得た」と賞讃。
わざわざ先生のもとを訪れて「ぜひ訪中を」と要請されたのです(1970年3月11日)。
周総理が注目
佐藤 中国でも大宰相・周恩来総理が、先生の提言に鋭く、いちはやく注目された。
竹内 その通りだ。
周総理の母校である南開大学「周恩来研究センター」の孔繁豊所長、紀亜光秘書長が、詳細かつ具体的に証言されている。
「周総理は、創価学会が歴史上一貫して反戦を訴え、平和を追求し、牧口常三郎初代会長がそれによって日本軍国主義に迫害され殉教した事実に注目していた」と、はっきりと述べておられる。
佐藤 「周総理は対日外交に取り組むスタッフに、できるだけ早く創価学会の幹部と接触をもつよう何度も指示していた」とも証言されていた。
同様の歴史的証言は、中国で数多く記録され、活字にもなっている。
正木 当時、中国は「文化大革命」の渦中にあった。
周総理は、混乱する内政の舵を懸命に執りながら、日本との友好推進の機会を水面下で探っていた。
西口 そのなかで総理は、中日の将来、世界の明日を見すえて、池田先生の提言に注目した。
先生に友好の未来を託した。大指導者ならではの炯眼です。
佐藤 孔所長も語っている。
「創価学会を中日友好のパートナーとして重視し、歴史的に重大な影響を生み出した点に、周総理の卓越した外交家と政治家としての風貌と才能が体現されている」と指摘されている。
山本 その後、政治レベル、政府レベルでの交渉があって国交正常化が実現することになる。
しかし、まず池田先生の勇気ある提言なくして日中友好は有り得なかった。これが中国の数多くの識者の結論だ。
原田 だからこそ周総理は、国交正常化後、重い病身をおしてまで池田先生と会見された(74年12月5日)。
中日友好の大恩人である先生との信義を守り、最大限に礼を尽くしてくださったのです。
(2007. 8.27. 聖教新聞)
<2> 世界を結んだ民間外交
出席者:原田会長、正木理事長、西口副理事長、山本副理事長、竹内青年部長、佐藤男子部長
平和条約も実現
竹内 周恩来総理と池田先生の歴史的な会見(1974年12月)から、日中友好の道が更に一段と大きく開かれていった。歴史の事実ですね。
山本 その通りだ。
周総理との会見の4年後には、長年にわたって総理が待ち望んでいた「日中平和友好条約」が締結された(78年8月12日)。
西口 実は、これもまた池田先生が、周総理との会見で交わされた重要な約束の一つだった。
原田 当時は、日中友好といっても、米国抜きで進めていくのは難しい時代だった。
そこで先生は総理との会見後、アメリカのキッシンジャー国務長官と会見(75年1月13日)。長官から、日中平和友好条約に賛成する旨の言質を引き出された。
正木 そして池田先生は、このキッシンジャー長官の意向を、ちょうど同じ時にワシントンに滞在していた大平正芳蔵相に直ちに会って伝えられた。ここから条約締結の動きが加速していったのです。
西口 関西のほうの新聞記者が「池田名誉会長にしかできないことだ。日本の政治家など、誰一人できない人間外交だ」と瞠目していたのも、よく分かるな!
原田 「一度交わした約束は、必ず守る」。この先生の大信条があったればこそだ。
だからこそ、日中国交正常化のみならず、日中平和友好条約も早期に実現できたのです。
米中関係でも
西口 日中だけではない。アメリカと中国との国交正常化。これもまた、実は池田先生が水面下で、人知れず尽力されてこられたんだ。重大な歴史です。
山本 米中の関係正常化は、先生が68年の「日中提言」の折から論及されていた。先生の年来の主張であられた。
佐藤 具体的には日中平和友好条約が調印される直前の78年8月1日、先生は米国のマンスフィールド駐日大使と会見。大使から米中国交正常化への意向を受けられた。
竹内 翌9月に先生は訪中され、北京で李先念副主席と会見。李副主席は先生に「(米中の)国交は正常化したい。条約を結ぶ考えもあります」と明言された。
佐藤 そして、その直後に米カーター大統領が極秘裏にワシントンで中国側と接触。3ヵ月後の78年12月、米中は電撃的な国交樹立の発表。翌79年1月、国交を樹立――整理すると、こういう事実の経過になります。
原田 国際問題の評論家が語っていた。
「わずかの期間に歴史の歯車が劇的に回転した。池田名誉会長が実現させたのです。名誉会長がアメリカ・中国・日本の3国の『国交正常化の道』を、大誠実の民間外交で開いたのです」と評価していた通りだ。
名品は信頼の証
佐藤 ところで今、静岡県富士宮市の「富士美術館」で、日中国交正常化35周年を記念する展示会が開催されている(9月2日まで)。
中国を代表する「中国美術館」所蔵の国宝級の名品を、一挙に公開する大美術展だ。
竹内 大変な反響を呼んでいる。中国美術館の范迪安館長も語っておられた。
「当美術館が所蔵する国宝級の名品を、これだけ多く外国で紹介したのは、初めてです。
これは国交正常化35周年という佳節であるというだけではありません。35年をはるかに超える長きにわたって、池田先生ならびに創価学会が、日中友好に尽力してこられた。そのことに対する信頼の証しです」
このように明言しておられた。
佐藤 さらにまた今回の展示会では、范館長からの強い要望で、中国の温家宝総理が池田先生に贈られた自筆の「書」も展示されている。
竹内 「慈航(じこう)は新たなる路(みち)を創る 和諧(わかい)は良縁を結ぶ(慈悲の航海で新たな道を創造し、調和は良縁を結ぶ)」という書ですね。
原田 その通りです。本年4月12日、先生は中国側からのたっての要望で、来日中の温総理と会見された。その際に、総理から先生に贈られたものです。
正木 自筆の書を贈る。中国では、相手に対する最高の敬意と友情の証しです。
范館長が言われていた。
「温総理が筆を持つというのは非常に希(まれ)なことです。本当に貴重なものです」と驚いておられた。
竹内 中華全国青年連合会(全青連)の幹部も語っていた。
「今の中国の政治指導者が自筆の書を贈ることは、まずありません。総理が池田先生に贈られたのは、先生が『別格』だからです」。こう驚き、明言していたよ。
原田 先生は国交正常化の当時から、全青連をはじめ中国の青年や学生を、それはそれは大切にしてこられた。これも、そういった背景があっての発言だろう。
創価の青年
竹内 その通りだ。この6月も、日本の各界の代表による「日中青年世代友好代表団」が訪中した。これには学会の青年部からも代表が参加した。
佐藤 訪問した先々で、熱烈な歓迎を受けた。日本側も何か答礼しなくてはいけない。そこで急遽にわか合唱団≠つくって、歌を披露することになった(笑い)。
竹内 そこでも我が学会の青年部員がリーダーシップをとって、合唱を大成功させたんだ。
佐藤 同行した日本の政治家が、その様子を、つぶさに見ていたようだ。
「学会の青年は、本当に良いですね。あんなに目が輝いている若者がいるんですね」と、たいへんに感心していたと聞いたよ(笑い)。
竹内 受け入れ側の全青連にも、かつて創価大学に留学したメンバーが幾人もいた。
みな「創価大学出身です!」と胸を張っていた。その姿に、同行、参加した日本の識者も「創価大学出身の青年、学会の青年は素晴らしい」と深く認識し、感銘していたようだ。
正木 創価大学は、日本で初めて、新中国から国費留学生を受け入れた大学だ。
これも全て創立者の池田先生が、両国の未来のために、人知れず手を打ってくださったからです。
原田 その通りです。まさに「源遠流長(げんおんりゅうちょう)」です。今や中国の指導者層をはじめ、各世代、各層に、先生と学会を正しく理解し、深く感謝している人々がいる。
国交正常化から35周年。いよいよ青年が日中友好の絆を一段と固め、広げていってもらいたい。
議員は奉仕せよ
竹内 ところで来月から「臨時国会」が始まる。
年金、雇用、高齢化、少子化、治安の悪化、食の安全等々、今の日本は問題山積だ。
西口 その通りだ。今や与党も野党もない。国会の主導権争いだの、揚げ足取りだのしている場合じゃない。大事なのは国民の幸福だ。生活であり安全だ。
正木 公明党は戦え! 公明党の全議員、なかんずく国会議員は、今こそ死力を尽くして国民に奉仕し、守り、仕事をしぬくべきだ。お仕えすべきだ。
原田 戸田先生は厳然と言われた。「今は民主主義である。民衆が主人なのだ。いかなる権威の人間も、民衆に仕えるためにいる。それを逆さまにするな!」とハッキリ断言されていた。
山本 その通りだ。「立正安国」の大理想、大哲学を掲げて、はじめて学会から政治家を送り出されたのは、戸田先生だ。これが、その戸田先生の御遺訓であられる。
西口 それにまた戸田先生は、このようにも厳命されていた。
「同志を裏切り、学会を裏切り、支持した皆さんを裏切って、増長して、本当の正しい人の道、政治家の道を踏み外していく。
そういう人間がいたら、叩き出していけ」と、それはそれは厳しく、強く、仰っておられた。
原田 当然だ。バカバカしい!
猛暑も酷暑も関係なく、一生懸命に応援してやって、議員にしてやった揚げ句、威張りだす。遊ぶ。のさばる。揚げ句に裏切る。こんな畜生議員が、世界中のどこにいる。バカバカしい!
正木 議員は「公僕」だ。「しもべ」じゃないか。「しもべ」のくせに、偉大な支持者への大恩を忘れ、仇で返す。そんなやつは、絶対に叩き出せ! 断じて許すな!
(2007. 8.30. 聖教新聞)
<3> 池田SGI会長のソ連初訪問から33年
出席者:原田会長、正木理事長、西口副理事長、山本副理事長、竹内青年部長、佐藤男子部長
正木 前回までは日中友好、米中友好における池田先生の「人間外交」の足跡を語り合った。
すると、さっそく愛読者の方から、お手紙をいただいた。
原田 そうなんだ。
「今、池田先生は小説『新・人間革命』で、ソ連への初訪問について書き綴ってくださっています。日ソ友好での先生の先見、行動のドラマも語ってくれませんか」。こうあった。
西口 鋭い(笑い)。
その通りですね。大事な歴史です。大いに語り合いましょう。
正木 ちょうど池田先生のソ連初訪問から、この9月8日で、33周年になります。
原田 先生は1974年(昭和49年)9月8日、旧ソ連に第一歩を印された。
以来、先生は6度にわたって、旧ソ連を訪問された。
竹内 その間に先生は、コスイギン首相、ゴルバチョフ元ソ連大統領をはじめとする各界要人と会見。
山本 そして、学術、教育、文化など、さまざまな分野で交流を実現し、友好を幅広く推進してこられた。
佐藤 どれほどロシア各界の識者が、池田先生の歴史的な偉業を讃えているか。
モスクワ大学のサドーヴニチィ総長も「池田先生は大変な偉業を成し遂げました。それは、露日の外交関係において突破口を開いたということです」等々と賞讃している通りだ。
敵か?味方か?
竹内 ソ連訪問の第一歩は「モスクワ大学からの招聘」というかたちで実現したんでしたね。
原田 その通りだ。実際は当時、ソ連共産党の中枢にいたイワン・コワレンコ氏(元国際部日本課長)が推進したわけだが……。
正木 当初はソ連指導部の全てが、創価学会の代表団の訪問を歓迎したわけではなかった。
山本 なぜかと言えば、先生が日中友好の立役者であられたからだ。
西口 その通りだ。当時のソ連は中国と対立していた。日中が接近すれば、そのぶんソ連は孤立する。ソ連の指導部は、そう思い込んだわけだ。
原田 「要するに池田会長はソ連の敵なのか、味方なのか」。ソ連側が判断に迷うなか、コワレンコ氏は当時のコスイギン首相に直談判した。
「池田会長には、首相である、あなたが会うべき人だ」と。これで流れが決まったんだ。
正木 かといって、ソ連共産党が直接、招聘するわけにはいかない。あまりにも政治的な動きと受け取られる。
原田 そこでモスクワ大学による招聘という形式になったんだ。
佐藤 なるほど。
批判の嵐の中を
山本 だが、訪ソについては、日本の各界からも、中傷、批判の声が相次いだ。
「なぜ共産主義の国に行くのか」「宗教者が、なぜ宗教否定の国に行くのか」「中国とソ連に、ふたまたをかけるのか」等々……。
佐藤 日中友好の場合と全く同じですね。自分では何の行動もしないくせに、ゴチャゴチャ文句ばかりつけている。
西口 一般社会どころか、宗門の坊主までもが反対した。「信者もいない宗教否定の国へ、なんで行くのか」とコソコソ批判したのがいた。
原田 その批判の嵐のなかを、あえて先生は決断された。
「ソ連にも人間がいる。私は人間主義者です。そこに人間が、民衆がいる限り、私はどこにでも行く」。断固、明快に宣言され、道を開かれたのです。
竹内 初訪ソでは、コスイギン首相とクレムリンで会談された(74年9月17日)。
そのコスイギン首相は終了後、コワレンコ氏に語ったそうですね。
「こういう優れた日本人を、どこで見つけてきたのか」「これから池田会長と密接に関係を保つことを、あなたに命令します」と。
佐藤 それほど感慨深い会談だった。
正木 初会談で、ここまでソ連首脳を魅了する。どれほど先生が偉大であられるか。
佐藤 コワレンコ氏自身が、かつて聖教新聞(94年9月8日付)で明確に述べていますね。
「池田氏という人物は優れた人物で、日本には、彼に勝る活動家はいない」
「日本人は、そういう優れた指導者を持っていることを誇りと思い、幸せであると思うべきである」とまでハッキリ明言している。
原田 かつて国際関係史に詳しい評論家が語っていた。
「コワレンコ氏と言えば、戦後一貫してソ連の対日政策を指導してきた人物だ。日本の政党、政治家、そのほかの各界著名人との交流も深い。
そのコワレンコ氏をして、ここまで率直に言わしめる。池田名誉会長とは、驚くべき人物だ」
こう語っていた。
竹内 あのゴルバチョフ元大統領との初会見も、感動的でしたね。
原田 1990年(平成2年)7月27日、モスクワを訪問中の先生は、大統領とクレムリンで会見された。
大統領は、その席上、ソ連の国家元首としては史上初となる「日本への訪問」を約束した。
桜の咲く春に日本を訪れたい≠ニ具体的に明言したんだ。
山本 重大ニュースだった。日本をはじめ世界中の新聞、テレビで即座に報道された。
原田 この時の訪ソには、私も随行させていただいた。
ちょうど先生が会見される前に、日本の衆院議長が、ゴルバチョフ大統領と会談していた。その時には、引き出せなかった発言であり、意向だった。
これが池田先生です。これが池田先生の偉大なる「民間外交」「人間外交」です。
(2007. 9. 3. 聖教新聞)
<4> 池田会長 日ソ友好に歴史的な貢献
出席者:原田会長、正木理事長、西口副理事長、山本副理事長、竹内青年部長、佐藤男子部長
西口 池田先生が日中、米中のみならず、いかに日ソの友好を推進してこられたか。前回は、その偉大な足跡について語り合った。
正木 その通りだ。1990年(平成2年)7月27日に、モスクワのクレムリンでソ連のゴルバチョフ大統領と初めて会見された。
原田 この会見で大統領は、日本への訪問を約束した。
ソ連の国家元首が来日するというのは史上初めてのことだった。
その歴史的な約束を先生が引き出された。
この一点を取っても池田先生が、どれほど日ソ友好に手を尽くされたか。まさに歴史的な貢献だった。
佐藤 90年7月といえば、あのニセ法主の日顕一派が学会破壊の謀略「C作戦」を、血眼になって謀議していたころだ。
西口 池田先生が、日ソ関係をはじめ世界的な問題の解決に尽力されていた。その裏で、陰険、卑劣な謀略を巡らせていたんだ、あの連中は。
原田 小さい、小さい(笑い)。
山本 先生は世界、人類。坊主は妬み、やきもち(大笑い)。
そんなことだから宗門は大敗北、大失敗したんだよ(爆笑)。
佐藤 ともかく、90年7月の会見以来、ゴルバチョフ氏と先生は友情を幾重にも深めてこられた。これまで9度、会見されてきた。
対談集も発刊され、日本でもロシアでもベストセラーとなっている。
崩壊したデマ
竹内 そういえば、この歴史的会見について、一部の雑誌が金で買った♂]々と大ウソを流していたこともあったっけな。あとで編集幹部が謝罪したが(大笑い)。
原田 バカバカしい!
だいたい、会見はゴルバチョフ氏のほうから「お会いしたい」という連絡があって、実現したものだ。
正木 その通りだ。実はゴルバチョフ氏との会見は、先生が1987年5月に訪ソされた時点で、もう話が出ていた。
しかし、ゴルバチョフ氏(当時、ソ連共産党書記長)はルーマニアを公式訪問中だった。
同氏が帰国する時には、先生は入れ替わりに、ヨーロッパ訪問に旅立たれている日程であった。
原田 すると、ゴルバチョフ氏側から関係者を通して、先生に打診があった。
「パリからの帰路、再度、モスクワに立ち寄ることはできませんか」とあった。
しかし先生は「今回は、それはできません。多くの会員が、私の帰りを待っていますから」と丁重に断られたんだ。
そして日本に帰国なさった……。
西口 自己宣伝に夢中の政治家連中だったら、喜んでモスクワに戻っただろう(笑い)。
しかし先生は、世界的な政治家との会見にもまして、学会員を大事にされたんだ。
竹内 それを金で買った=i爆笑)。
佐藤 そもそも当のゴルバチョフ氏本人が大激怒し、金銭の介在など一切ないと明確に否定している。
山本 自分たちは逆立ちしたって、東西冷戦終結の立役者と会見なんかできない。できっこない(笑い)。
結局、そのやっかみ、妬みで言っているだけだよ。一事が万事だよ(大笑い)。
原田 その後、デマを流した雑誌の会社の首脳が謝罪してきた。
「名誉会長とゴルバチョフ元ソ連大統領の会見について、デマ記事で、いろいろ御迷惑をおかけしました」と平謝りしていた。
正木 当然だ!
原田 とにかく池田先生とゴルバチョフ大統領の会見によって、日ソ友好、日露友好の道が大きく開かれた。
先生は、どこまでも一人の民間人として、一人の仏法者として、日本のため、世界平和のために尽くしてこられた。
「無私」の心で、草の根の交流を広げてこられた。
「池田先生の民間外交、人間外交によって、どれほど日本は救われてきたか。日本の政治家は、襟を正し、最大に感謝するべきではないのか」
かつて著名な外交評論家が、このように語っていたことが、私には忘れられない。
(2007. 9. 6. 聖教新聞)
<5> 原水爆禁止宣言から50周年
出席者:原田会長、正木理事長、西口副理事長、山本副理事長、竹内青年部長、佐藤男子部長
西口 ところで、池田先生が「日中提言」を発表されたのは「9月8日」。この日はまた戸田先生が、あの歴史的な「原水爆禁止宣言」を発表された日でもありますね。
正木 その通りです。本年で50周年の佳節を迎えた。
竹内 世界55ヵ国・地域の青年が集って、記念の平和集会も開催されました。
佐藤 それは1957年(昭和32年)9月8日、日曜日のことだった。
戸田先生は、横浜・三ツ沢の競技場で行われた青年部の東日本体育大会で、5万の青年を前に「遺訓の第一」として、核兵器の廃絶を訴えられた。
正木 「もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきである」。それはそれは凄まじい、平和の大獅子吼であられた。
竹内 さらに、我々の生存の権利を脅かす核の存在を「魔もの」「サタン」「怪物」とまで一喝された。
原田 核問題の奥底に潜む、人間の心の「魔性の爪」を、もぎ取れ!
イデオロギーや政治体制などを超越した、生命の次元からの深い洞察であり、叫びであられた。
生命の次元から
山本 じつは、この前年(昭和31年)の6月にも、戸田先生は北九州市と福岡市の集会で、核の廃絶を訴えておられた。
「原爆を使う人間は最大の悪人だ!」「二度と同じ愚を繰り返すな!」
それはそれは激しい気迫の大宣言であられたと、九州の大先輩から伺っている。
西口 この年の5月には、太平洋のビキニ環礁でアメリカが水爆実験を強行。2年前にも水爆実験を行い、静岡県の漁船・第5福竜丸が被爆したばかりだった。
正木 当時は、アメリカとソ連の対立を軸に、核による軍拡競争が広がり始めていた。
日本国内でも市民団体や政治、宗教団体等が連日、反核や反戦のデモ集会を繰り広げていた。
原田 だが戸田先生は、そうした運動や組織体とは、明確に一線を画しておられた。ここが重要だ。
山本 その通りだ。昭和32年当時も、ある雑誌の対談で、著名な社会運動家が学会の組織を使って原水爆の反対運動をやるべきだ≠ニ持ちかけてきた。
ところが戸田先生は言下に否定された。
そんな芝居めいたことはできぬ∞気勢だけあげたってしかたない=Bいわゆる反核運動、反戦運動の裏にある政治的思惑。あわよくば学会を利用しようという魂胆。そして、その思想の「底の浅さ」を鋭く見抜かれたんだ。
西口 学会の平和運動は「生命」という次元に根ざした、より根本的、本質的な平和運動である。だから戸田先生は原水爆を止めなかったら、いよいよ私は立ち上がる。私が立ち上がったら、他の連中がやっているのとは訳が違う≠ニ明確に断言されていた。
原田 そうした根本的な次元から、戸田先生は、池田先生をはじめ次代を担う青年に対して「原水爆禁止宣言」を発表なされたのです。
山本 当時、参加した青年たちも、みな突然の大宣言に驚いた。みなの理解を超えていたからだ。マスコミ等も戸惑い、大きく取り上げられることはなかった。
西口 どれほどの大先見だったか。まさに現代の「立正安国」の宣言であり、人類史的な「一大平和宣言」だった。
世界が師を讃嘆
正木 この戸田先生の遺訓を真っ直ぐに受け止め、実現してこられたのが池田先生です。
原田 その通りです。第3代会長就任後、全世界を駆け巡って、恩師の平和思想を訴え抜かれた。
誰も戸田先生の構想の何たるかを理解できない。いわんや、どう具体的に実現していけばいいのか、誰一人として分からない。
池田先生お一人だけが戸田先生のお心を知り、世界に大道を開かれたのです。
佐藤 1974年(昭和49年)には、各地の青年の手による「原水爆禁止1000万署名」を達成。池田先生が自らニューヨークの国連本部を訪問され、国連事務総長に署名簿を提出してくださった。
竹内 さらにまた「核兵器――現代世界の脅威(人類への脅威)」展を、旧ソ連、中国など社会主義国を含む世界24ヵ国39都市で開催。170万人が見学した。
佐藤 青年部も、毎年の夏に広島・長崎・沖縄の3県平和サミットなど生命尊厳の思想を結ぶ集いを開催してきた。
正木 核軍縮・廃絶への国際世論を「民衆レベル」で着実に広げてこられた。今や世界中の識者、指導者が池田先生を讃え、感謝している。
西口 冷戦に終止符を打った立役者であるゴルバチョフ元ソ連大統領が語っていた。
「池田会長は御自身の平和旅によって、鉄のカーテンのもとでも、平和への対話や民間外交が可能であることを証明しました」と明言されていた。
原田 先生は世界の指導者や学識者との会談でも、つねづね恩師の平和思想を訴えてこられた。
全世界の識者が戸田先生の「原水爆禁止宣言」を賞讃しているじゃないか。
竹内 核廃絶を目指す科学者の連帯である「パグウォッシュ会議」のスワミナサン会長が語っておられた。
「『ラッセル・アインシュタイン宣言』とともに『原水爆禁止宣言』は、全世界のすべての言語で出版されるべきだ」とまで強調されていた。
正木 池田先生は、「ラッセル・アインシュタイン宣言」の共同発表者であるポーリング博士、ロートブラット博士の二人の大科学者とも、それぞれ対談集を刊行されている。
西口 池田先生の大闘争によって、世界中が戸田先生の先見を注目する時代になった。戸田先生が、どれほど喜んでおられることかと拝察されてなりません。
アジアに平和を
佐藤 戸田先生は、早くから「アジアの平和」を強く念願しておられましたね。
山本 その通りです。先生はアジアの平和と民衆の幸福を強く願い、その道を開くことが日本の青年たちも使命である≠ニ訴えておられた。
正木 池田先生は第3代会長就任後、海外広布の第一歩をアメリカに印された。
その次に歴訪されたのは、香港、セイロン(現スリランカ)、インド、ビルマ(現ミャンマー)、タイ、カンボジアなどアジア諸国だった。
すべて戸田先生の御遺訓を実現される行動であられた。
原田 いかに恩師の構想を実現するか。遺訓を現実のものとするか。これが、つねに池田先生の行動の規範であられる。
竹内 われわれ青年部が、真剣に学び、実践しゆくべき「弟子の道」です。
正木 昨年11月、池田先生は、国際原子力機関(IAEA)のエルバラダイ事務局長との対談の折、こう語られた。
「核兵器も、人間がつくり出したものである以上、廃絶できないわけがない」。政治対立も、軍事紛争も、誰が生み出したのか。すべて人間ではないか――根本の問いかけを鋭く発しておられたことを思い起こします。
竹内 「原水爆禁止宣言」から50年。日本、アジア、そして世界の平和の実現へ!
青年部は心を新たに立ち上がります。創価の三代会長の「立正安国」の大精神を断じて受け継ぎます。戦います。
(2007. 9.11. 聖教新聞)
<6> 議員は傲慢になるから注意せよ
出席者:原田会長、正木理事長、西口副理事長、山本副理事長、竹内青年部長、佐藤男子部長
「人物本位」
正木 これまでも確認してきたが、学会の選挙支援は一貫して「人物本位」だ。良識ある政治家とは、広く連帯していく。この方針に一切、変わりはない。
西口 戸田先生は「選挙というのは、自分たちの最も信頼する人を、自分たちの力で選出するのが本当である」と指導された。
信頼できる政治家とは連帯していく。その逆は追放する。戸田先生の時代から一貫した学会の伝統だ。
竹内 そういえば最近、公明党の議員に対してこういう声があった。
「他党では落選した議員や、名前の売れていない地方議員の候補などが、よく駅頭に立って挨拶している。公明党の議員も、どんどん挨拶して、どんどん自分を売り込んでもらいたい」
こういう声があった。
正木 これは今にはじまった声じゃなく、前々からある声だよ。たしかに街頭、駅頭に立っても、ほとんどの通行人は聞き流す。だが「あの人が立っていたな」という印象は残るものだ。
山本 支持者だって、応援した議員が立っていれば、うれしいよ。また応援したくなるよ。
西口 全くだ、全くだ。次の選挙に向けて、どの党だって必死じゃないか。もっともっと公明党は外に出て、宣伝してもらいたいものだ。
山本 これから我々は、一段と厳しく言わせてもらう。権力は魔性だ。厳しく言われなくなったとたん、議員は威張る。怠ける。遊ぶ。腐るからだ。
原田 その通りだ。戸田先生は「議員は傲慢になるから皆で注意していけ」と指導なされた。支持者が厳しく言うことが、本当の慈悲だ。
竹内 話は変わるが、最近、韓国で政治家や著名人の「学歴詐称」が続々と発覚している。大問題になっているな。
佐藤 日本でも、ずいぶん詐称事件があったじゃないか。
竹内 埼玉県では、本年4月の統一地方選挙の県議候補者が、行ってもいないのに「玉川大学教育学部中退」と詐称していた。この候補は立候補を取りやめた。
佐藤 神奈川県でも、横浜市議選の候補者が、なんと「弁護士」「司法書士」を詐称していた。
山本 メチャクチャだな。弁護士を詐称すれば弁護士法違反だ。重大な犯罪行為じゃないか。
佐藤 結局、その詐称候補は選挙運動を中止。所属する党が公式謝罪までした。
正木 それに東京・世田谷区の野党区議が経歴を詐称していた事実が発覚。区議会で議員辞職勧告が可決され、さんざんゴネた揚げ句、やっと議員辞職した。
山本 数年前にも野党の国会議員が米国の大学を卒業していた云々と学歴詐称していたな。
未練がましく、バッジにしがみついていた。
竹内 その議員も結局、辞めた。
佐藤 それに、あの宗教弾圧の政治家・塚本三郎が担いだ参院議員の事件もあった。
入学してもいないのに「明治大学中退」とウソをついて大問題に発展。この男も議員を辞めた。
竹入の学歴詐称
正木 それにまた、あの「竹入事件」だ。
竹入のやつは、入学はおろか、受験も、いや受験資格もないくせに、陸軍航空士官学校(陸士)修了、高千穂中学(旧制)卒業などと、ぬけぬけと学歴詐称していた。
原田 何重にもウソを重ねて塗り固めていた。全身、学歴詐称の塊だった。根の卑しいやつほど、平気で大ウソをつく。化け物じみたペテン師野郎だったな! 我々は、本当に騙された!
竹内 あいつの大ウソは「学歴」だけじゃない。「軍歴」まで詐称していた。
佐藤 その通りだ。やってもいないくせに「重爆(重爆撃機)」の機長だったと、雑誌のインタビュー記事で平然と抜かしていた。
西口 航空士官学校にも行ってなければ、まともに操縦桿を握ったこともないのに「重爆機長」か(爆笑)。
山本 「一つのウソをつくと、そのウソを言い張るために、やがて二十のウソが必要になる」という通りじゃないか。
さんざんウソをついてきたものだから、自分でも引っ込みがつかなくなった。それで軍人の経歴まで詐称した(大笑い)。
正木 それに、竹入は「自分は陸士59期」と、卒業年次まで偽り、細かく詐称していた。
竹内 本物の陸士59期生の怒りたるや、どれほど凄まじかったか。
愛知県在住の59期生である伊藤文男さんも怒り心頭に発していた。
「竹入が、陸士出身、しかも我々の同期生を詐称している。ウソの学歴、軍歴をひけらかし、国民を騙している。これは絶対に許せない」と、身体を震わさんばかりに激怒していた。
佐藤 それにまた陸士48期生で陸士の教官まで務めた山本勇さんも憤怒していた。
「竹入のインチキ野郎! 大ウソつき野郎! 支持者を裏切った忘恩は断じて許さぬ!」
「竹入みたいなやつが陸士出身を騙るとは、バカも休み休み言え!」
心底から怒りをぶちまけていた。
正木 これほどの大事件を起こしたんだ。当然、社会に納得のいく釈明を竹入は、すべきだ。謝罪するべきだ。
佐藤 もちろん、詐称だけじゃない。竹入のやつは党を私物化し、食い物にし、好き放題にのさばっていた。
原田 池田先生とも会見された指導者の一人に、フィリピンのラモス元大統領がおられる。
立場を悪用して贅沢三昧する傲慢な政治家に対して、こう断言していた。
「第1に、そんな人間には断じて『投票しない』ことです!
第2に、インチキをして得たすべてのものを『利子』をつけて絶対に返させる!」。このように強調していた。
西口 まったく同感だ。その通りだ。
竹入は、私物化した金を利子を付けて党に返せ! 今すぐ返せ! いつ返すんだ!
横領で提訴
竹内 竹入のやつは昨年、党の公金を横領したとして、公明党から訴えられたな。
西口 それも当然だ。だいたい党から出た悪党とは、党が戦え! 支持者に恥をかかせるな!
原田 それが当たり前だ。忘恩は最大の犯罪だ。忘恩の輩とは、公明党の議員が徹底的に戦うべきだ。
「偉大な支持者から大恩を受けながら、反逆した連中と、一生涯、断固、戦え」。このように戸田先生が指導された通りだ。戦え!
正木 まず議員が戦うことだ。その真剣な姿を見て、はじめて支持者も納得できるんだ。応援できるんだ。
原田 「やってる格好」「戦ってるポーズ」ではない。「結果」「証拠」を支持者に見せてもらいたい。
誰が本当に戦っているか。誰が真剣か。我々は一段と厳しく見ていく。
(2007. 9.13. 聖教新聞)
<7> 「雑誌は信頼できる」→わずか3%
出席者:原田会長、正木理事長、西口副理事長、山本副理事長、竹内青年部長、佐藤男子部長
人権侵害が増加
竹内 つい先日、内閣府が実施した「人権擁護に関する世論調査」の結果が報じられていた。
佐藤 新聞各紙に出ていた。それによると「人権侵害が増えた」と感じる人が前回調査よりも増えて、42%だったというんだ。
竹内 また「権利のみを主張して他人の迷惑を考えない人が増えた」という質問でも「そう思う」と答えた人が85%を超えていたそうだ。
山本 「報道する権利」を主張して、人権侵害を繰り返している。まさに一部のメディアのことじゃないか(笑い)。
佐藤 その通りだ。
最近の世論調査を見ても分かる。
たとえば、新聞、テレビ、雑誌、インターネットについての評価を聞いた調査の結果(2005年、日本新聞協会調べ)。
テレビ(NHK)について「情報が正確」と答えた人は43.8%、新聞は42.8%だったのに、雑誌は、たったの4.3%だった。
竹内 今や「雑誌の情報が正確だと思っている人」は、20人に1人だよ。「民衆は愚(ぐ)に見えて賢(けん)」だ。
佐藤 同じく、雑誌について「情報内容が信頼できる」は3.3%。「中立・公正である」は2.0%、「プライバシーに配慮している」は2.6%だった。
原田 これが現実だ。長年、さんざん読者と社会をナメてきた。その報いだ。
正木 我々は「言論の自由」は守る。だが「言論の暴力」は許さない。まして「言論の自由」は何を言ってもいい自由だなどと居直るやつらは許さぬ!
原田 あんまり悪辣だから、ようやく最近では、裁判でも、厳しく裁かれるようになってきたな。
西口 それだけマスコミを見る市民の目が、一段と厳しくなってきたからだ。もう時代が違う。「書かれ損」「泣き寝入り」が当たり前の時代じゃないよ。
佐藤 もちろん、あくどいのは一部の雑誌だけだ。
「一部週刊誌はゴシップの垂れ流し、有名人のスキャンダル暴露などを売り物にし続けている。訴訟ともなると、決まって『表現の自由』を主張してきたが、裁判所から見れば、『表現の自由の「安売り」にすぎず、自分たちの首を絞めていただけ』(元裁判官)だった」(読売新聞、2004年3月18日付)と新聞にも出ていた。
断罪される雑誌
竹内 たとえば、ある雑誌は、今年に入って、分かっているだけでも、すでに4件も敗訴している。
佐藤 3月には、関西の大学教授に対する名誉毀損事件で330万円の賠償命令(大阪地裁)。5月には、ニュースキャスターの夫人へのプライバシー侵害で150万円の賠償命令(東京地裁)。
竹内 7月には悪辣なデマ記事が断罪され、謝罪広告の掲載命令と230万円の賠償命令。
さらに同月、殺人事件に関連した名誉毀損報道でも、大阪地裁で80万円の賠償命令が下った。
正木 この半年だけでも、総額790万円の賠償命令か!
佐藤 いや、今世紀に入って断罪された裁判だけでも、合計1億円以上もの賠償金を命令されている。
山本 私の学生時代の友人だった、新聞記者が言っていた。
「正体見たり、だな。学会をデマで中傷する雑誌というのは、もともとこういう雑誌なんだよ」とゲラゲラ笑っていた(爆笑)。
西口 関西の財界人も言っていた。
「一部の雑誌は本当に悪い。マスコミをかたるのも、おこがましい。正々堂々と『週刊悪党』とでも名乗ったらいいんだ」と言っていたよ(笑い)。
ペテン師の末路
正木 悪党といえば、極悪ペテン師の山崎正友! あいつのほうも、裁判で負けっ放しじゃないか(爆笑)。
佐藤 本年3月にも、学会員に対する悪辣な人権侵害事件で敗北したばかりだ。
竹内 裁判の和解手続の中で、山崎が自分で自分の非を認めて謝罪。賠償金を支払うことになったんだ。
西口 また負けた(大笑い)。これで山崎の敗北記録≠ヘ、何回目だ?
佐藤 なんと18件だ(笑い)。賠償金の総額は680万円余にのぼる。
西口 18件か! みっともないやつ! 不様な野郎だよ(大笑い)。
原田 見るも無残、聞くも無残な末路じゃないか。
これが仏意仏勅の学会の破壊を図り、悪逆非道の限りを尽くしたやつの報いだ。
山本 その通りだ。仏典には「阿鼻(あび)地獄」と説かれている。生きながら裁判地獄、断罪地獄に堕ちて、それこそ「喚き」「叫んで」泣いている。その通りの姿じゃあないか。
西口 まだまだだよ。まだ「始まり」だよ。本当の自業自得の報いは、これからだよ。
原田 日蓮大聖人は「修羅(しゅら)が日月をのめば頭(こうべ)七分にわる・犬は師子(しし)をほゆれば・はらわたくさる」「修羅(しゅら)は帝釈(たいしゃく)をあだみて日天を・いたてまつる其(そ)の矢(や)かへりて我が眼にたつ」と厳然と断じられた。
「仏罰厳然たり」。この厳しき仏法の因果からは、だれ一人として逃れることはできない。
さあ、いよいよ「追撃」だ!
(2007. 9.17. 聖教新聞)
<8> 四分五裂の日顕宗にまたもや激震
出席者:原田会長、正木理事長、西口副理事長、山本副理事長、竹内青年部長、佐藤男子部長
またもや内紛
正木 それにしても最近、あの凋落、没落の日顕宗では、またもや内紛が起きているようだな(大笑い)。
佐藤 その通りだ。「創価新報」(9月19日付)にも出ていたな。
東京・墨田区の妙縁寺の光久日康が公然と日顕を批判した。それも坊主たちの目の前で今の宗門の疲弊は、日顕が学会を切ったから起きた≠ニ公言した。
山本 正論じゃないか(大笑い)。
竹内 ところが、これを聞いた日顕が逆上したの何の(笑い)。日顕の子分の八木日照、ドラ息子の阿部信彰を使って光久をギュウギュウに締めあげた。
そういうことがあったんだな。
西口 光久といえば、日顕宗で10人しかいない能化(宗門の首脳)の一人じゃないか。
それが、公然と日顕を批判した。さぞ日顕も大慌てだったろうな(大笑い)。
原田 しかも、そもそも光久は、日顕の相承の秘密を握っている坊主だ。
西口 日顕が狂ったように騒ぎ出すのも当然だな(笑い)。
ダントツの1位
竹内 ところが、だ。宗門内では逆に、光久の人気が急上昇している(大笑い)。
佐藤 そうなんだ。それというのも先月、宗門の「監正会」という役僧の選挙が行われた。その結果、なんと光久がダントツの1位で選ばれた(大笑い)。
山本 どれだけ坊主たちが日顕を憎み、恨み抜いているか。
「日顕のバカ坊主、バカ坊主」と、腹の中が煮えくり返っているか。その動かぬ証拠だな(爆笑)。
原田 どれだけ日顕が愚劣か。
黙って聞き流せばいいものを、大騒ぎなんかするから、また恥をかく。結局、また日顕は、恥の上塗りをしただけだったな(爆笑)。
敗因は日顕本人
山本 だいたい日顕のやつが、今まで、どれだけ恥を晒しぬいてきたか。裁判でも、どれだけ負けたか(笑い)。
正木 その通りだ。宗門と日顕は、これまで最高裁判所で7度も敗訴、断罪されている。
原田 どれもこれも日顕のウソ、邪宗門のインチキが原因になって、厳しく裁かれている。
佐藤 まず@あの下劣な「シアトル事件」に絡んだデマ報道事件だ。宗門と日顕に対して400万円の賠償命令が最高裁で確定している(2003年9月)。
竹内 判決では日顕がデマ報道を主導した≠ニまで厳しく断罪された。
佐藤 それにA日顕が改革僧侶の池田託道さんを中傷した名誉毀損事件。これも最高裁判所で日顕個人に対する30万円の賠償命令が確定している(03年7月)。
竹内 これもまた判決では日顕の発言は違法である≠ニハッキリ認定された(笑い)。
正木 他の坊主ではない。宗門でも大石寺でもない。日顕本人が最高裁で敗訴したんだ。どちらも日顕の責任を厳しく認めている。
山本 仮にも一宗の法主が最高裁で2度も断罪されたんだ。こんな大ウソつきの宗教は、世界中のどこを探したって、どこにもないだろう(大笑い)。
西口 厳然たる事実だ。日顕宗の坊主だって、グウの音も出ない。何一つ反論できない(笑い)。
佐藤 それにB大石寺が遺骨を使い古しの米袋などに詰めて大量に不法投棄していた事件。
この事件では、遺族4人に対して各50万円(合計200万円)の慰謝料支払い命令が厳しく確定している(最高裁、03年12月)。
竹内 C日顕が芸者と一緒に写っている、あの有名な「芸者写真」の裁判(大笑い)。
あの事件では、日顕宗が学会側を訴えて裁判を起こした。ところが、逆に日顕宗が負けて、敗訴が確定している(最高裁、04年2月)。
佐藤 ほかにもD妙道寺(中島法信住職)明け渡し請求E常説寺(山本辰道住職)明け渡し請求F大経寺(渡辺慈済住職)明け渡し請求――この三つの裁判でも日顕宗側の敗訴が最高裁で確定している(02年1月・2月)。
山本 そうだったな。この裁判も、日顕の「ニセ法主疑惑」「相承疑惑」が最大の敗因になって日顕宗側が負けたものだ。
(2007. 9.20. 聖教新聞)
<9> 極悪日顕「7つの大罪」
出席者:原田会長、正木理事長、西口副理事長、山本副理事長、竹内青年部長、佐藤男子部長
竹内 前回は、あの日顕が裁判で断罪され続けた話が出た。
西口 裁判はもちろんだが、そもそも日顕のやつが、どれほどの大謗法を犯してきたか!
原田 その通りだ。青年部の皆さんをはじめ知らない人も多くなってきた。あらためて後世に残しておこうじゃないか。
佐藤 わかりました。まずは@相承詐称の大罪だ。
日顕は1979年(昭和54年)7月、日達法主の急死に付け込んで相承を受けた≠ニ大ウソをついた。それで、まんまと法主の座を盗み取った。
正木 法主だよ。聖職者だよ。自分の醜い野心と権力欲のために、こんな卑劣なウソをつくなんて、誰も思いもよらなかった。どれだけ多くの人間を騙したか。
竹内 空恐ろしいばかりのペテン師野郎だ。
山本 日蓮大聖人が「大悪魔は貴(たっと)き僧(そう)となり」と鋭く予見された通りの姿だったな。本当に我々は騙された!
大敗北の退座
佐藤 そしてA破和合僧の大罪。
日顕は、あまりにも偉大な池田先生への嫉妬に狂い、学会の発展を妬み、学会を乗っ取ろうと企んだ。自分で「C作戦」なんて名前までつけて、陰険な謀略を仕掛けてきた。
西口 しかも日顕は学会を切れば20万人が宗門に来る≠ニ言い放った。学会に対して、ただの一ぺんの話し合いも相談もなく、大功労の学会を一方的に切ってきた。
原田 だが、その謀略も大敗北に終わった(笑い)。「20万人が来る」どころか、宗門の信者はかつての公称信者数の2%にまで落ち込んだ。
正木 しかも、日顕が仕掛けた「C作戦」から、ちょうど15年たった一昨年の12月に大恥さらして退座した(爆笑)。
西口 自分でシッポを巻いて逃げ出した(大笑い)。これこそ日顕が、自分の大敗北を認めた証拠だ!
佐藤 まだまだある。
B「不知恩」「先師に反逆」の大罪。
日顕の先師・日達法主が「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」と宣言した正本堂を、先師に違背して破壊した。
原田 これもまた、供養に参加した800万信徒の真心を踏みにじる大暴挙だった。
正木 あの正本堂破壊には、誰もが驚いた。宗内の心ある人間たちも「日顕は、ここまで狂ったのか」と仰天した。あれが原因で法華講を辞めた人間も続出した。
ニセ法主の証拠
佐藤 それにC三大秘法破壊の大罪。
日顕は、あろうことか大御本尊を「偽物」と言い放った。
西口 まあ日顕は相伝のないニセ法主だ。
あの発言で、改めて「ニセ法主」であることがハッキリしたな(大笑い)。
竹内 そしてD宗門私物化の大罪。これも宗門の内外から、ごうごうたる怒りを買っている。
日顕は「芸者遊び」「温泉豪遊」「海外旅行」……とにかく遊興三昧、豪遊三昧。遊びに遊び狂って、信者の供養を湯水のごとく大散財した。
佐藤 東京都内だけでも一等地に2軒の豪邸を建てた。これだけでも合計37億円といわれる大散財だ。
原田 御聖訓には「徒(いたず)らに遊戯雑談(ゆげぞうだん)のみして明(あか)し暮(くら)さん者(もの)は法師(ほっし)の皮(かわ)を著(き)たる畜生(ちくしょう)なり」と厳然と仰せであられる。
まさに日顕こそ「法師の皮を著たる畜生」であることが明確になった。
佐藤 またE謗法与同の大罪。
日顕は、福島県の禅寺に先祖の墓を建て、自分で開眼法要までやった。
竹内 それに「身延との野合」も画策した。身延の寺に坊主や信者を参詣させたり、身延の坊主を大石寺に呼んで歓迎したり……。
山本 日興上人の「身延離山」の御精神を、完全に踏みにじった。
日興上人は「謗法(ほうぼう)と同座(どうざ)す可(べ)からず与同罪(よどうざい)を恐(おそ)る可(べ)き事(こと)」と御遺誡された。この御遺誡を一番、守るべき立場にあった日顕が、自分で破り去った。どれほどの極悪人か!
「現罰を蒙れり」
佐藤 そしてまたF二枚舌・大妄語の大罪だ。
正木 日顕は数々のデマ事件を首謀した。その結果、日顕本人が最高裁から2回も断罪された。
裁判所から「阿部の発言は違法」とまで厳しく糾弾されたんだ。前代未聞の大ウソつきだ。
原田 ここまで大罪を犯した。だからこそ、ここまで日顕は「生き恥」をさらすハメになったんだ。
日興上人が「これただ事(ごと)にあらず、法華の現罰(げんばち)を蒙(こうむ)れり」と仰せになられた通りの仏罰だ。
西口 そもそも宗門が、どれだけ貧乏、弱小だったか。それを堂々たる大宗門に発展させたのは誰のおかげか。全て池田先生、学会のおかげじゃないか。
竹内 その通りだ。改革僧侶の渡辺慈済住職(神奈川・大経寺)が証言している。
「私が出家したのは昭和24年(1949年)。大石寺は寂れきった貧乏寺でした。食べるもの、着るものも満足にない。僧侶が泥まみれになって土地を開墾した。近所の檀徒に笑われていたくらいです」。そこまで落ちぶれ果てていた。
佐藤 さらに渡辺住職は、こうも証言している。
「建物はボロボロ。屋根の銅板は軍部に拠出したのか、トタン葺きに代わっていた。当時の管長もバラック住まいでした」と話していた。
正木 このドン底の状況を一変させたのが学会だ。
戸田先生が、まず「月例登山」を開始させた。まだ学会の財政基盤も確立されていなかった時期だ。それを、あえて宗門の再建を最優先されたのです。
原田 最初の月例登山は1952年(昭和27年)10月だった。約380人が参加した。
この時、参加者に「お米3合と300円、それに小石を一袋、持ってくるように」という通達があった。
佐藤 お米は登山者が食べる分。300円は供養。小石一袋は何のためですか?
原田 当時の大石寺は参道も整備されていなかった。雨が降れば、ぬかるんで歩けない。それで登山者が小石を持ち寄って、参道に敷き詰めたんだ。
正木 参道一つとっても、この有り様だ。どれほど宗門は学会に大恩があるか!
山本 とりわけ池田先生が、宗門のため、坊主たちのために、どれほど心を砕いてくださったか……。
原田 その通りだ。そもそも歴代法主自身が池田先生と学会を最大に讃嘆してきた。
日亨法主は「学会の信心は広宣流布を目的とした信心」と賞讃された。
また日淳法主も「学会のおかげで大法は清浄に今日までまいりました。本宗は学会の大恩を永久に忘れてはなりません」(昭和34年11月)と最大に感謝された。
(2007. 9.24. 聖教新聞)
<10> 正義の学会は 勝利 前進 発展
出席者:原田会長、正木理事長、西口副理事長、山本副理事長、竹内青年部長、佐藤男子部長
裏で学会攻撃
佐藤 前回は、学会が宗門の再建に、どれほど尽くしてきたかについて話が出た。
西口 なかんずく、外護の赤誠を尽くしに尽くされたのが、池田先生であられる。
原田 その通りです。先生が第3代会長に就任された昭和35年当時、学会にはろくに会館もなかった。
それを先生は、学会の会館建設よりも優先して、徹底して宗門を外護されたのです。
竹内 先生の大功労は日顕すらも認めていた。
日顕は1991年の「新年の辞」で、こう明言している。
「戸田先生の逝去後、間もなく、第三代会長の任に就かれた池田先生は、鉄桶の組織と当千の人材を見事に活用され、且つ、信心根本の巧みな指導をもって国内広布の大前進を図り、十倍ともいうべき多大の増加を来したことは、耳目に新しい」と。ここまでハッキリ認めている。
佐藤 さらに、こう言っている。
「特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います」とまで讃えている。
正木 ここまで学会、池田先生の功績を讃えておきながら、裏では平然と学会攻撃の謀略を巡らせていた。
山本 この一点をとっても、とうてい血の通った人間に出来ることではない。いな、人間ではない!
竹内 日顕の先師である日達法主も、厳然と宣言している。
「一大和合僧団創価学会に対し、実(じつ)にもあれ不実(ふじつ)にもあれ謬見(びゅうけん)を懐(いだ)き謗言(ぼうげん)を恣(ほしいまま)にする者ありとせば、其籍(そのせき)、宗の内外に在(あ)るを問(と)はず、全て是(こ)れ広布の浄業(じょうぎょう)を阻礙(そがい)する大僻見(だいびゃっけん)の人、罪を無間(むけん)に開く者と謂(い)ふべし」と厳命している。
正木 この日達法主の言葉に照らしても、日顕こそ「大僻見」であり「罪を無間に開く者」だ!
畜生以下の日顕
竹内 大石寺の土地にしてみても、学会による寄進で、飛躍的に増加している。
終戦後は約5万坪。それが戸田会長時代には約17万坪。池田先生が会長になられてからは、約117万坪にまでなった。実に終戦直後の23倍にまで増えている。
佐藤 さらに池田先生は、大石寺の建物の建立・寄進にも全力を注がれた。
大化城(昭和35年)、大坊(37年)、大客殿(39年)、六壷(40年)、総坊(41〜46年)、正本堂(47年)、総一坊(平成元年)、総二坊(2年)……等々。真心込めて整備事業の陣頭指揮をとられた。
正木 大石寺だけではない。海外4ヵ寺を含め、356ヵ寺もの末寺を寄進した。1ヵ寺建てるだけでも、どれだけ大変なことか。それを356ヵ寺だよ。
西口 だいたい日顕のやつが学会を切ってから、いったい自分で何ヵ寺建てたんだ? ただの1ヵ寺たりとも国内では建てていないじゃないか(大笑い)。
竹内 戸田先生の時代に学会が寄進した寺院は13ヵ寺(昭和32年当時)。
池田先生が会長に就任された1960年当時には36ヵ寺。そして第2次宗門事件が起きた1990年には、356ヵ寺にものぼった。
山本 申しわけないことに池田先生は、大石寺に行かれた際も、本当に礼を尽くしておられた。
原田 その通りです。
たとえば供養の品々についても、登山会のたびに先生は、ご自身で一つ一つ検分された。
届ける前に、先生が自ら「この品を加えなさい」「中身に間違いはないか」等々と、それはそれは細かく確認なさっておられた。
正木 かつて学会の登山部長も務めた平野参議も「先生は、そこまでやる必要があるのかと思うほど、気を使われていた。学会の代表として、会員を守るため、とことん礼を尽くされていました」と語っていた。
原田 若い小僧たちの生活にも、先生は本当に気を配られた。
折に触れて、おやつを差し入れたり。「生活は大丈夫か」「いじめられてないか」「勉強はやっているか」と、一人一人、心から励ましてくださった。
西口 ある時は小僧たちを相手に、卓球をやってくださったこともある。その時、先生と卓球をやった一人が述懐していた。
「私ごとき小僧を相手に、先生は真剣にやってくださった。僕が勝ってしまったのですが、先生はニコニコしておられた。背広を脱いでね。『いい運動になった』『元気で頑張ってください』と励ましてくださった。あの時のことは今でも覚えています」と今なお感激していた。
佐藤 御聖訓には「畜生(ちくしょう)すら猶(なお)恩(おん)をほうず」と仰せだ。大忘恩の日顕こそ、畜生以下も以下だ!
陰湿な嫌がらせ
竹内 月刊誌「潮」の「池田大作の軌跡」(昨年11月号)には、こんな話が紹介されていた。
1981年10月のこと。大石寺内の宗務院庁舎を池田先生が訪問された。ところが廊下がツルツルに磨かれていて、そこにフェルト地(布製)のスリッパが用意されていた。
正木 危ないじゃないか。滑ったら、どうするんだ。
竹内 実際、坊主が転倒させるために用意したのではないか、とさえ思われたそうだ。
原田 ああ、その通りだ。あの時、私も先生のお側にいたから、よく覚えています。
先生は足をとられて、あやうく転びそうになった。それを随行のカメラマンと私とで、とっさに脇を支えたのです。
その光景を離れたところで、コッソリ見ている坊主の姿があった。今でも覚えています。
正木 宗門興隆の最大の大恩人に対して、平然と陰険、卑劣な嫌がらせを仕掛ける。
原田 これが坊主なんだ。こういうことをするんだ、坊主というのは。いま思い出すだけでも血が逆流する思いだ。
西口 関西の草創の先輩が言っていた。
「あんな坊主連中と、もし今でも一緒だったらと思うと背筋がゾッとする。どれほど広宣流布が遅れていたか。どれだけ坊主どもが学会の足を引っぱり、足手まといになっていたか。これこそ御仏意だ」と喜び、大拍手していた。
山本 九州の大先輩も語っていた。
「こっちが頭を下げても、坊主たちは何のあいさつもない。あの傲慢な顔! チンピラ以下の外道の連中だった。もう、あんな嫌なところに行かなくてすむんだ。本当に嬉しい」
「九州の私たちにとって、登山会というのは大変な負担だった。遠い遠い大石寺まで、毎月毎月、何千人という同志が、絶対無事故で登山した。どれほど大変だったか。
本当に良かった。せいせいした」と喜んでいたな(大笑い)。
「自界叛逆」の姿
原田 仏法は「現証にはすぎず」だ。
学会は、この第2次宗門事件以来、池田先生のもと、堂々と「世界広宣流布」を進めた。
竹内 その通りだ。SGIの連帯は当時、115ヵ国・地域だったのが190ヵ国・地域に。
世界の大学・学術機関から池田先生に贈られた名誉学術称号も、当時は9だったのが、今や219にものぼる。
山本 この隆々たる学会の世界的発展に比べ、あの宗門の凋落、没落!
西口 張本人の日顕は、とうとう退座(大笑い)。辞めてもなお、今回、宗門首脳の光久が日顕を罵倒した事件のように、事件続き、内紛続きじゃないか(笑い)。
原田 「此(こ)の御一門(ごいちもん)どしうち(同士討ち)」の御聖訓の通りの姿と成り果てた。
いよいよ「自界叛逆」の、本格的な始まりだ。
(2007. 9.27. 聖教新聞)