「何処行くんだ?」
 ドアが開く音を耳にした瞬間、眠りの底に沈んでいた意識が一気に浮上し、何かを考える前に言葉が口から飛び出していた。
 そんな自分にゾロ自身が驚いたのだ。声をかけられた方はもっと驚いたのだろう。ドアの外に向かいかけていた細い身体が飛び上がりそうなほど大きく震えた。そして、勢いよく振り返る。
「テメぇッ………、起きてたのかよっ!」
 驚かされたことが腹立たしいのか。向けられた視線は鋭く尖っていた。だが、大声で怒鳴りつけてくることはない。多分、大声を出すのが憚られるような時間帯なのだろう。
 そう思った瞬間、一瞬だけ去っていた眠気が再度全身に襲いかかってきた。このまま眠りに落ちたくなるほど、強い眠気が。
 だが、二度寝するわけにはいかない。そんなことをしたら置いていかれることは分かっているので。
「今、目が覚めた……」
 とりあえず問いかけに返答を返しつつ、口から大きな欠伸を零した。そしてノソリと身体を立ち上がらせ、硬い床の上に座り込むようにして寝ていたせいで固まった筋肉を解すよう、軽く首を前後左右に傾ける。
「で、何処行くんだ?」
 眠気を飛ばすために手の甲で目元を擦り、普段よりも多めに瞬きをしながら再度同じ言葉をかければ、サンジはゆるりと、口端を引き上げて笑い返してきた。
「市場だよ。今日の営業に必要な食材を買いに行くんだ。帰ってきたら朝食を作ってやるから、お前は寝てろよ」
 そう言うと、サンジは再度身体をドアの方へと向けた。そして、部屋を出て行こうとする。
 そんなサンジの背中に向かって、声をかける。
「だったら俺も行く。荷物持ちをしてやるよ」
 言うなり、ゆっくりと歩を進め出す。
 そんなゾロの行動を目にして、サンジが軽く目を見張った。
「え………?」
「迷惑か?」
 思わずと言った様子で零された呆然とした声に、動かしかけていた足を止め、軽く首を傾げて問いかけた。迷惑だと言われても着いていく気満々ではあったのだが。
 そんなゾロの胸の内を読み取れていないのか。サンジは呆然とした表情のまま軽く首を振り返してきた。
「いや、正直、ありがたいけど………」
 でも何故そんな事を言い出すのだと言いたげな瞳を向けてくるサンジに、ゾロはニヤリと笑い返した。
「一宿一飯の恩があるからな」
「――――あぁ、なる程」
 嘘ではないが、真実とも言い難い言葉だったが、サンジには納得がいく答えだったらしい。コクリと小さく頷いた。そしてようやく、ニヤリと笑い返してくる。
「じゃあ、頼む。ルフィが食う分がアホみたいに増えて、買い出しが大変になってたんだよ」
「だろうな。荷物持ちは慣れてるから、好きなだけ買い込めよ」
「分かった。頼りにしてるぜ」
 軽い口調で告げられた言葉は、ただの社交辞令だろう。荷物持ちに慣れていると言う言葉は信じただろうが、だからと言ってゾロの働きをあてにしていないことはサンジの様子を見れば簡単に分かった。
 分かったのに、それでも、軽く鼓動が跳ねあがる。五年前には、冗談でも滅多に聞かせて貰えなかった言葉だったから。
 頼りにしているなんて言葉は。
「なにしてんだ? さっさと来いよ」
 どうやら聞き慣れない言葉を聞いて舞い上がりすぎていたらしい。かけられた声にハッと息を飲み視線を動かせば、いつの間にかドアの外に移動していたサンジが不思議そうに首を傾げていた。
「―――別に、なんもねぇよ」
 フルリと首を振り返し、ゆっくりとドアの方へと歩を進めれば、サンジは納得できないと言いたげに眉間に皺を寄せた。だが、下らない問答をする時間が惜しかったのか。それ以上何かを言ってくることはなかった。
 ゾロが部屋を出ると直ぐさま施錠したサンジは、相当年期が入った建物の廊下を足音もたてずに歩き出した。そんなサンジの後を、黙々と着いて歩く。
「いつもより出かけるのが遅くなったから、ちょっと早足で歩く。見失うんじゃねぇぞ」
 他の住人に気を遣っていたのだろう。建物の内部では一言も発しなかったサンジだが、表に足を踏み出した途端、少し後を着いて歩いていたゾロを振り返り、そう言葉をかけてきた。
 その言葉に軽く頷き返す。どれだけ速く歩かれても、見失うつもりはなかったので。
 以前は、サンジの買い物に付き合っている最中に店先に並んでいるモノやその他諸々のモノに気を取られてサンジを見失った事が多々あった。だが今は、目の前を歩く男から僅かな間も目を離すつもりはない。
 もう二度と、失いたくないから。
 そんなゾロの胸の内を読み取ったわけではないだろうが、サンジはすぐに視線を前に戻し、宣言通りに相当な早足で早朝の街並みを歩き出した。ゾロが着いてきているかなんて事を、気にすることも無く。
 軽く汗をかき始めたところで辿り着いた市場で、サンジは真っ直ぐに迷い無い足取りで八百屋へと向かった。その八百屋は懇意にしている店なのだろう。サンジの姿を目にするなり、親しげな様子で言葉をかけてきた。
「よう、アフト。今日はいつもより遅いじゃねぇか。珍しく寝坊したのか?」
 からかいの色が混じるその言葉に、声をかけられたサンジが苦笑を浮かべつつ言葉を返した。
「おれが寝坊なんてするわけねぇだろ。断りもなく人の家に転がり込んできたクソ野郎が出がけに絡んできやがったからだよ」
 そう言って、サンジは背後に付き従っているゾロに指先を突き刺してくる。
 そのサンジの言葉と行動でゾロの方へと視線を向けてきた店主だったが、ゾロへの興味は直ぐになくなったらしい。あっという間にサンジへと視線を向け直した。そしてニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべる。
「相変わらずモテモテだなぁ、アフト」
「男なんかにもてたって嬉しくもなともねぇけどな」
 店主の言葉に心底嫌そうな表情を浮かべたサンジだったが、直ぐに気持ちを切り替えたらしい。店先に並んだ商品に鋭い視線を投げかけ、手に取っていく。
 サンジが大量に食材を買い込むのはいつものことなのだろう。サンジが選び取った商品を、店主は店の奥から持ってきた段ボールの中へと納めていった。最初は平然とした顔で購入品が納められた箱を抱えていた店主だったが、入れられる野菜が増えていくにしたがってその眉間に皺が刻まれていった。どうやら重さに耐えきれなくなってきたらしい。
 そう判断し、横から手を出し、店主の腕から箱をさらった。
「―――おい?」
 ゾロの行動の意図が分からなかったのか。サンジが不思議そうに問いかけてきた。サンジだけではない。店主も何か言いたそうな瞳を向けてくる。
 そんな二人に向かって、サラリと言葉を返した。
「どうせおれが運ぶことになるんだ。最初からおれが持ってても問題ねぇだろ」
「―――まぁ、それは確かに」
 ゾロの言葉に小さく同意を示してきたサンジではあったが、何か納得できないモノでもあったのか、不思議なモノを見るような瞳でゾロの事を見つめてくる。だが直ぐにニコリと笑い返し、軽い手つきで肩を叩いてきた。頼んだと、言いたげに。そして、ゾロが担いだ箱の中に遠慮無く食材を放り込んでいく。
 八百屋を出た後は肉屋と魚屋にも立ち寄り、その度に大量の食材を買い込んだ。それらを全て、ゾロが引き受けた。肩の上に積み上げた箱が3つを越えた辺りでサンジが自分で持とうとしたのだが、まだ大丈夫だと言って半ば無理矢理引き受けたのだ。
 そんなゾロに最初の内は心配そうな瞳を向けてきたサンジではあったが、ゾロがケロリとした表情をしていることから問題ないと判断したのだろう。しばらくするとなにも言わなくなった。
「あれだけの荷物を担ぎ上げて本気で大丈夫なんて、マジで凄いな、お前。すっげー助かったぜ。お陰で仕込みの時間が増やせる」
 買うモノは全て買い込み、店へと向かったサンジは、店にたどり着き、買い込んできた食材を所定の位置に治めながら機嫌良くゾロに声をかけてきた。
 その言葉を受け、仕事から解放されカウンターの一席に腰を下ろしたゾロは、忙しなく立ち働くサンジへとニヤリと笑って返した。
「礼を言われる程の事はしてねぇよ。あの程度の重さは鍛錬にもならねぇ重さだからな」
「マジで? ってことは、まだまだいけるってことか?」
「おう。船の買い出しをする時なんてもっとすげー荷物になるからな」
「そうなのか……まぁ、ルフィがあんだけ食えば買い込む量は半端じゃねぇだろうしな」
 ゾロの言葉には納得できるモノがあったらしい。サンジは小さく頷いた。そして、改めてゾロへと視線を向けて来る。
「じゃあ、後で米屋と酒屋に行くのも付き合ってくれよ。この機会に買いだめしてぇから」
「任せろ」
 お前は直ぐにおれ達と一緒に旅に出るんだから、買いだめする必要はないのだと言いたいのをグッと堪えて頷き返せば、サンジは嬉しそうに頬を緩ませた。
 五年前には良く見ていた。だが、再会した後には一度も目にしていない、ガキ臭さを感じる笑顔だ。
 それは、サンジが心の底から喜んでいるときにしか見せない笑顔だ。
 その笑顔を目にして、ゾロの鼓動は跳ね上がった。
 今すぐにでも抱きつきたくなる。沸き上がった愛しさに背中を押されて。
 だが、そんな事をしたら今のこの空気が壊れてしまうのは分かっている。サンジが発している気配が一気に険悪なモノになり、二度と近くに寄らせて貰えなくなることも。
 だからグッと、堪えた。強く、拳を握り混んで。爪が刺さった手のひらから血が滲むくらい、強く。
「ンじゃ、労働報酬として今日の飯はてめぇが食いたいモノを中心に作ってやるよ。なにが食いたい?」
 ゾロの葛藤になど気付いても居ないのだろう。楽しそうに、嬉しそうに問われた。
 その無邪気と言っても良い笑顔に視線が釘付けになり、頭の中が一瞬真っ白になった。食べたいものなど考える事が出来ないくらいに。
 だが直ぐに気を引き締め直す。いつまでもサンジの顔に見とれていたら、彼の機嫌を損ねる事になるだろうから。
 そして、頭の中で色々と思い浮かべる。
 サバのみそ煮に、イカジャガ。豚の角煮も美味くて好きだ。麺から作ったラーメンも美味い。お握りも良い。サンジが造った味噌で作る味噌汁も飲みたい。
 他にも沢山、食べたいと思う料理はある。考えれば考えるほど思い浮かんでくる。
 以前だったら。五年前だったら、その時の気分で一品だけ選ぶ事は簡単に出来た。
 だが今は、選べそうも無かった。食べたいものを一つ二つ選ぶ事なんて、出来そうもない。
 だから素直に、思っている事を口にする。
「別になんでも良い」
 途端に、サンジの眉間に深い皺が刻まれた。そして、不機嫌も露わな声が返ってくる。
「あぁ? わざわざリクエスト聞いてやってんだから、ちゃんと答えろよ。つーか、なんでも良いが一番面倒くさいんだよっ!」
 その言葉は、以前にも聞いた事がある。だから昔はリクエストしろと言われたときには具体的な料理名を上げていたのだ。
 だが今は、なんと言われようとも考えを変える気はなかった。
「俺が食いたいのは、てめぇが作ったもんだ。だから、てめぇが作ったもんだったらなんでも良い。てめぇが作った意外のもんは、食いたくねぇ」
 素直な気持ちを告げると、サンジは絶句していた。嘘でもなんでもなく、本心から告げていることが分かったのだろう。マジマジとゾロの顔を覗き込んでくる。正気を疑っているかのような瞳で。
 そしてボソリと、呟きを零した。
「――――マジ?」
「あぁ」
「そんなに、俺の飯が美味かったのか?」
「あぁ。たったひとくち食べただけで、幸せだと思うくらい、美味かった。」
 混じりけなど欠片もないほどの本心を語り、ニッと笑いかければ、サンジの白い肌にほんのりと朱色が走った。
 自分でも顔が紅くなった事に気付いたのだろう。サンジはスッと視線を反らして軽く俯き、長い前髪でその表情を隠した。そして、止まっていた手元の作業を再開させながら、多少焦りの色が滲んだ声で返してくる。
「あ〜〜〜、そうか。そいつは良かった。うん。そんな風に言って貰えるなんて、料理人冥利に尽きるってもんだわ。んじゃ、適当に作るぜ」
「あぁ、任せる」
「途中で食いたい物が出来たら、遠慮無く言えよ」
「分かった」
 サンジの言葉にコクリと頷き返した後は、口を噤む。そしてジッと、立ち働くサンジの姿を目で追った。
 彼が見つかる前は、再び会える事があるのなら話したい事が沢山あると思っていた。何かある度に、とんでもない事件に遭遇する度に、窮地から逃れる度に、手強い敵と遭遇し、打ち倒す度に、絶対にこのことをサンジに話して聞かせると、思った。
 だが、いざサンジを目の前にしてみると、なにを話して良いのか分からない。
 話なんてしなくても、近くでその存在を肌で感じるだけでも良いと思ってしまったのが、原因かも知れない。実際に、今は立ち働く姿を見ているだけで胸の内がじわりと温かくなってきた。
 だが、そんな些細な事で満足していられるのはあと少しの事だろう。
 今日も明日も明後日も、サンジの部屋に上がり込む予定なのだ。そして、買いだしにも付き合い、仕込みの間も店内に居座る気満々だ。それだけ近くに居続けたら、その存在を感じるだけで満足だ、なんて事は言っていられなくなる。
 絶対に触れたくなる。
 そう、確信している。
 なにしろ、昔もそうだったから。
 見ているだけで満足だと思っていたのに、けんか腰ではなく、親しく言葉を交わせるようになりたいと思うようになり、髪の一筋でも良いから触りたいと思うようになった。髪だけではなく、指先でも良いから触れたいと思い、その身体を抱きしめたいと思うようになるのにそう時間はかからなかった。
 だから、今回も早々に現状に満足しなくなるだろう。もっと近くにいたいと、その肌に触れたいと思うようになるだろう。
 ソレが今日になるか明日になるかは、分からないが。
 どちらにしろ、あまり時間は残されていない気がする。自分は、そう気が長い性質ではないのだから。
 そんな事を考えながら、立ち働くサンジの姿を目で追い続けたのだった。











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【10】