翌日。普段まったく変わりなく朝がやってきた。
 聞き慣れた目覚まし時計の音で目を覚まして起きあがり、時計変わりにいつもつけている朝の情報番組を見るとも無しに眺めていたら、当然のように流川の話題が持ち上がった。
 司会者達が、カメラに向かって流川が発したあの発言はなんだったのか、誰に向けたモノなのかと言うことを中心に、スポーツジャーナリストを交えて妙に熱いトークをかましている。どれだけ言葉を重ねても、推測の域を脱しないトークだというのにも関わらず。
 その合間に、流川が日本に居た時代の友人と言われる者達がインタビューに答えていた。いつの時代の友人なのか、三井にはさっぱり分からない輩達ばかりだったが。
「ったく。良くやるよ……」
 そんなモノを知ってどうするんだか、と吐き捨てるように零しながらいつもより早めにテレビを消した三井は、まだいつもの出勤時間にはなっていなかったが、さっさと準備を済ませて学校へと向かった。
 いつもより早い時間に学校に着いた事以外は普段と変わりなく、穏やかに時間が過ぎていく。同僚の教師と雑談を交わすのも、職員室にやってきた生徒と言葉を交わすのも、授業の準備をするのも、授業をするのも、いつもと全く変わりない事だ。
 そんないつもと変わらない時を過ごしながら、ほんの少しだけ、いつもと違うところがある。ふとした所で流川の顔を思い出してしまうのだ。
 昨日見た、ブラウン管を通して真っ直ぐに見つめてきた真っ黒い瞳を、思い出してしまうのだ。
 もう、そんなモノは忘れたと思っていたのに。
 いや、忘れたと思いこもうとしていただけだ。彼はもてる男だから、広い世界に出て沢山の人間と関わり合うようになれば、距離が離れ、長い間会えずに居る自分などすぐに、「過去の人間」になると思っていたから。
 しかし、彼は自分を「過去の人間」にはしていなかった。子供と言っても良い年齢の頃に交わした約束を、それも、臆病な自分を誤魔化すために交わした約束を、しっかりと果たして帰ってきた。
 本当に彼が自分の元に来るのかどうかは、分からない。あの言葉を聞いた今でも、来ない確率の方が高いだろうと、思っている。何しろ彼は、時の人だ。本人はここに来ようと思っていても、回りの人間がそんなマネをさせないだろう。そもそも、本当に彼がここを知っているかどうかも分からないのだから、来る確率の方が低い。
 だが、本当にここに、自分の目の前に来たら、どうしよう。
 どうしたら、良いだろうか。
 胸の内にある望みは自覚している。
 だが、望むままに行動しても良いのだろうか。
 それは、してはいけない事なのではないだろうか。
 彼のためを、思うのなら。
「先生。そこのスペル、間違ってます」
「あ、あぁ……ほんとだ。わりぃ」
 答えの出ない問題をグルグルと考えながら、慣れで身体が動くのに任せて授業をしていたところ、生徒に間違いを指摘され、三井は慌てて間違いを訂正した。
 人間誰しも間違いを犯すものだとは思っているので、普段間違いを指摘されても謝らない確率の方が高い。態と間違いを書き込んでお前等を試してたんだよ、くらいの軽口を返す事の方が多いのだが、仕事に身を入れていなかったのは大いに自覚しているのでさすがにばつが悪くなり、素直にスルリと、謝罪の言葉を口にしてしまった。
 その珍事に、生徒達は一様に驚いた表情を浮かべた。ザワリと、教室内が揺れる。いったいだろうしたのだろうかと、隣近所の生徒とコソコソ話し出す生徒すら居る。
 そんな中、一人の生徒が物怖じせずに問いかけてきた。
「先生、どうしたんすか? 今日はなんか変ッすよ」
「あ? 別にいつもとかわんねぇだろ」
「変わってますよ。いつもはもうちょっと真面目に授業してますもん」
「なんだ、その言い方は。まるで普段もそこまで真面目に授業してねぇみたいだろうが。俺はいつでも真面目に授業してるぜ?」
 少々失礼な生徒の物言いに、軽く怒りの表情を浮かべて言い返した所で丁度良く、授業の終わりを告げるチャイムの音が校内に響き渡った。
 思わず零れそうになった安堵の息をなんとか飲み込み、普段と変わらない自分を意識しながら言葉を投げかける。
「よし。んじゃ、今日はここまで」
 三井の言葉を合図に、日直が号令の声をあげる。その号令に会わせておざなりに礼をした三井は、さっさと荷物を纏めて教室を後にした。そして早足で、職員室へと向かう。
 本当は、職員室ではなく英語教諭達の準備室へと向かいたかった。頭の中を整理出来ていない今の状況で人と言葉を交わしたくなかったので。だが、次の授業に必要なモノを職員室の机の上に置いてきてしまったので職員室に行かざるを得ない。
 と、前方からもの凄く焦った表情を浮かべている同僚が現れた。焦った表情を浮かべるだけではなく、廊下も走っている。普段廊下を走る生徒達に口うるさいぐらいに注意の言葉を投げかけているのにも、関わらず。
 廊下を歩いている生徒達が、ギョッと目を見張るくらいの珍事だ。
 その様子からただごとでは無い気配を感じ、三井の眉間には自然と深い皺が刻み込まれる。校内で生徒が怪我をしたのか、まだ登校していない生徒が外で事件に巻き込まれたのか。どちらにしろ、良い情報を携えては居ないだろう。
 近づいてきた教師に何事だと問いかけようとした瞬間、向こうもこちらの姿に気付いたのだろう。パッと、顔を輝かせた。
「三井先生っ!」
 悲鳴のような声で名を呼んできた同僚は駆けていた足を更に速め、驚き固まる生徒をかき分けるようにして廊下を進んできた。そして、もの凄い勢いで三井の手首を握りしめてくる。
「たたたたた、大変ですっ! すぐに来て下さいっ!」
「……大変って、何があったんですか? 授業中に事故でも?」
 まさか自分を呼びに来たとは思わず、思わず目を見張ったあと、一番可能性がありそうな事を口にする。しかし、事故だったとしたら、自分を呼ぶ意味が分からない。
 担任を持っているなら分かる。受け持ちクラスの生徒が怪我で入院でもしたら、保護者として至急でそこに向かえと言われるだろう。だが、三井は担任など持っていない。バスケ部の顧問をしてはいるが、部員達にはそれぞれ担任が居る。部活中の事故ならまだしも、授業中の事故なら担任に対処させるだろう。
「違いますけどっ、とにかく、早く来て下さいっ!」
 どうやら同僚には自分の問いに答える気がないらしい。強い力で前へ前へと引っ張っていく。その様子から、自分の問いに答えてくれそうな気配は無い。
 小さく息を吐き出した。普段偉そうな口をきいている奴程、突発的な事態に弱いよなと、思いながら。そして、すぐに気持ちを切り替える。どっちにしろ、職員室に付けば状況が分かるのだ。焦っている同僚を問いつめたところで正しい状況報告が貰えそうには無いことだし、職員室に付いてから自分で状況を判断しようと。
 だが、予想に反して三井の腕を引く教師は職員室には行かなかった。あっさりとその前を通り越していく。
「――――職員室に行くんじゃないんですか?」
「違いますっ。校長室ですっ!」
 妙に殺気だった声でキッパリと言い切られ、二の句を告げられなくなった。これ以上何か問いかけたら、目の前の同僚の血管が何本か切れそうなので。
 だから、胸の内で考える。職員室ではなく校長室に呼ばれたとなったら、事の重大さが増してくるなと。
 バスケ部員が何か暴力沙汰を起こしたのだろうか。そう考えたところで、思考が過去に飛ぶ。
 自分が高校時代にやらかした出来事を鮮明に思い出し、自然と顔が歪んだ。
 あんな事が起こっていたとしたら、自分は彼等をどうフォローしたらいいのだろうか。自分に、フォローが出来るのだろうか。いやしかし、そんな兆候は一切無かった。仲良しこよし、と言うのは語弊があるが、それなりに上手くまとまっているチームなのだ。
 ならばいったい何があったのだろうかと緊張している間に、校長室の前までやってきた。そして、同僚の教師がおざなりにドアをノックして、扉を思い切り良く、開ききる。
「校長先生っ! 三井先生を連れてきましたっ!」
 その言葉に、こちらに背を向けていた、校長と向き合う形で応接スペースのソファに座していた人物が、勢いよくその場に立ち上がった。
 そして、一気に振り返る。
「――――っ!」
 驚きのあまりに息を飲み、瞳を大きく見開いた。
 自然と、足が一歩引ける。
 一歩どころではない。この場から逃げ出そうと、足が後ろに進みたがっている。
 だが、同僚に腕を捕まれているせいで、思うようにこの場から逃げ出せない。
 そんな三井に構うことなく、その人物は大きな歩幅で三井の前まで駆けるようにして歩み寄り、腰が引けている三井の身体を抱きしめてきた。
 なんの言葉もない。
 ただただ、強い力で。骨が折れるのではないかと思うくらい強い力で、抱きしめてくるだけだ。
 その腕の強さに、彼の心の声が滲みだしている。
「――――流川」
 ぎゅーぎゅーと、強い力で抱きしめてくる男の名前を、呟く。その途端、抱きしめる腕の強さが増した。
 腕を放せと要求するために名前を呼んだのだと思ったのかも知れない。三井には、そんなつもりは無かったのだが。
 だが、抱きしめる腕の力が強すぎて身体のあちこちが悲鳴を上げ始め、呼吸すら苦しくなってきたから、そんな要求をせざるをえなくなった。
「ちょっ……流川っ! 放せよっ!」
「いやっす」
「いやじゃねぇっ! 放せっ!」
「放したら逃げる」
「逃げねぇってっ! 絶対逃げねぇから、放せっ! 痛いんだよっ、馬鹿力っ!」
 最後の言葉で自分の拘束する腕の強さを自覚したのだろう。ハッと息を飲み込んだ流川は、抱きしめる腕から力を抜いた。
 だが、放すつもりは無いらしい。本当にこの場から三井が逃げると思っているのかも知れない。長い腕で三井の腰を抱いたまま、高い位置から真っ黒い瞳で見下ろしてくる。
 その腕が、近すぎる距離がかなり気になったが、放せと言っても放してくれることはないだろう。逆に、さっきほど強い力では無いにしろ、再度抱きしめられる可能性は大いにある。なので三井はその距離の近さに目を瞑り、すぐ目の前にある漆黒の瞳を見つめ返した。
「――――なにやってんだよ、こんな所で」
「決まってる。迎えに来た」
「迎えにって………」
「テレビ、見なかったのか?」
「いや、見たけど……」
 攻めるような瞳と口調に、思わず本当の事を言ってしまった。その返答を受けて、流川は親しいモノにしか分からない程度に表情を綻ばせ、頷く。
「だったら話は早い。行くぞ」
 言うなり、腰を抱いていた腕を放し、三井の手首をむんずと掴んできた。そして、校長室のドアから出て行こうと足を動かし出す。
 そんな流川の素早い行動に一瞬思考を止めた三井だったが、慌ててその動きを押しとどめるように全身に力を入れた。
「行くって、どこに行く気だよっ!」
「俺の家」
「お前の家って、実家の事か?」
「ニューヨークの」
「行けるわけねぇだろうがっ!」
 必死に足を踏ん張りながら怒鳴り返せば、それまで真っ直ぐに出口を見つめていた流川がこちらに視線を向けてきた。そしてムッと、不機嫌そうに顔を歪める。
「――――俺は約束を守ってMVPを取った。今度はあんたが約束を守るべきだろ」
「ソレは、確かに凄いと思うけどよ。俺には俺の事情ってもんが……」
「事情ってなんだ?」
「仕事の事とか」
「今すぐ辞めろ」
「辞めれるか、アホッ!」
 サクリと、当然の事を言ったと言わんばかりの態度で返してくる流川の頭を、思わず殴っていた。数年ぶりに会ったと言うのに、高校時代と同じ乗りで。相手は世界のスーパースター様だと言うのに。
 その僅かなやり取りで突然の流川の登場に驚き、乱してしまった自分のペースを徐々に取り戻していく。混乱していた頭も、大分冷えてきた。まだまだ、平静とは言い難いけれども。
 三井は深々と息を吐き出した。これ以上流川もペースに巻き込まれるわけにはいかない。自分にも、社会的立場というモノがあるのだから。
 フリースローラインに立つ自分の姿を、脳裏に浮かべる。そうすると、煮え切った頭が直ぐさま冷静になることは、経験上分かっているので。ここがコートの上で、絶対にゴールを外してはいけない場面だと思いこめば、嫌でも気持ちが落ち着くことが。
 気持ちを落ち着けた三井は、改めて目の前にある綺麗に整った面を見つめ返した。懐かしい、真っ黒い瞳を。そして、静かな声で語りかける。
「そこらのコンビニのアルバイトじゃねぇんだよ。辞めたいです、はいどうぞとはいかないことは、ちょっと考えれば分かるだろうが」
「わかんねぇ」
「分かれよっ!」
「そんな面倒臭い職業に就いたあんたが悪い」
「あのなぁ……」
 不機嫌そうな面で文句ばかり並べてくる流川の言葉に、三井は思いっきり顔を顰めた。
 世界のスーパースターになっても。いや、だからより一層なのかもしれないが、自分本位の言葉を吐く流川に、怒りを通り越して呆れるばかりだ。
 何をどう言えば、彼は分かってくれるのだろうか。
 考えてみたが、妙案は浮かばない。多分、何をどう言っても分かってくれないと、思うから。
 なので、話題を変える事にした。
「――――どうやって、俺がここに居るって突き止めたんだ?」
「探偵を雇った」
「探偵?」
「そう。なんだかんだ言ってあんたは逃げる気がしたから」
「逃げるってーのは、人聞き悪いんじゃねぇの?」
「でも実際逃げただろ」
「――――連絡先を教えなかっただけだろ」
「それを逃げたと言う」
 言葉少なに、だが怯む事無く淡々と三井の所行を攻めてくる流川の言葉に、返す言葉を失う。確かに、彼の言っている事には否定出来ないものがあったので。
「あ〜〜〜〜まぁ、それは、悪かったけどよ………」
「別に謝ってくれなくて良い。あんたが臆病なのは知ってるから」
「――――それは、聞き捨てならない言葉だなぁ?」
 淡々とした口調で告げられた言葉に、こめかみに血管が沸き上がったのを自覚する。表情も一瞬で険しくなっただろう。
 だが、流川は少しも気にしていないようだ。先程と変わらぬ感情の色が見えにくい、淡々とした口調で告げてくる。
「俺の気持ちは、あの時と少しも変わってねぇ。だから、ここに来た。これだけ離れていても変わんなかったんだ。この先は安心して俺に着いてこい。俺は、あんただけ居れば良い」
 彼を良く知らない人間が聞いたら、その言葉はなんの感情も無く発しているように聞こえるだろう。だが、流川の言葉には、熱いモノが内在されているのを嫌という程強く感じる。なんの疑いもなく彼の言葉を信じられると思えるくらいに、熱い思いが宿っているのを。
 それと同時に、彼が自分が何を思ってあんな約束をさせたのかを分かっていたことに、驚く。それを分かっていて、今までなんの連絡もしてこなかったと言うことにも、気が付いた。
「――――流川、お前………」
「あんたの気持ちだって変わってないだろ。だから、着いてこい」
「――――なんで、そう言い切れるんだよ」
「変わってたら、わざわざこんな所で働いてないだろ。気持ちが冷めたら冷めたで、はっきり言うだろうから。あんたは。見つけて欲しいから逃げたんだろ。違うか?」
 自信満々に。だが、最後の一言だけ自身無さげに軽く首を傾げてくる流川の言葉に、苦笑を浮かべる。
 自分の考えが概ね分かられていることが、嬉しくて。楽しくて。そして、気恥ずかしくて。
「お前の頭には、バスケの事しかないと思ってたんだけどなぁ……」
 思わず零した言葉に、流川がほんの少しだけ口端を引き上げた。そして、柔らかな。それで居て自身に満ちあふれた声で返してくる。
「あんたとバスケの事だけだ」
「アホ」
 なんの恥ずかしげもなく、高校生の時と同じような言葉を告げてくる流川の額を、握った拳骨で軽く叩く。
 その流川の額を殴った拳をスルリと彼の後頭部に移動させた三井は、そのままゆっくりと、自分のそれよりも高い位置にある頭を引き寄せた。
 そして、数年ぶりに流川の唇に己の唇を触れあわせる。
「――――お帰り」
「うす」
 唇を放し、漆黒の瞳を覗き込みながら告げると、流川は彼にしては珍しく、ニッコリと。その顔を見ているだけでも幸せな気分になるくらい綺麗な笑みを浮かべて返してきた。
 そんな彼にもう一度触れるだけの口づけを与えた後、その首に己の細長い腕を巻き付けながら言葉をかける。
「MVP、おめでとさん。頑張ったな。こんなに早く取れるとは、思ってなかったぜ」
「取れないと思ってた?」
「それは思わなかったけどよ。お前なら絶対取るとは思ってたけど。でも、あと数年はかかると思ってたぜ」
「センパイに一日でも早く会いたかったから。頑張った。かなり」
「よこしまな動機だなぁ、おい」
 話をしている最中に、流川は当然の様に三井の腰に己の腕を巻き付けてきた。その腕の暖かさを服越しに感じながら、彼が帰ってきたことを実感する。記憶にあるものよりも逞しくなっているけれども、それでも確かに。この腕は流川のモノだと身体が知覚して。
 腰を抱き寄せられた事で距離が縮まった。その縮まった距離を更に縮めようと再度口づけを交わしあおうとしたところで、大きな、大変態とらしい咳払いが聞こえてきた。
 その咳払いでハッと我に返る。
 慌てて流川の身体を突き飛ばし、咳払いがした方へと視線を向けた。その先には、口元を手で隠しながら不自然に目線を下げている校長と、その校長の隣でこちらを凝視しつつ口をポカンと開け、顔面を蒼白にした教頭がいた。そして、自分達のすぐ横には、顔を真っ赤にしてこちらを見つめている、自分をこの場に連れてきた同僚の姿がある。
「あ」
 そんな一言が、口から漏れる。流川の存在しか視界に入らなくてすっかり忘れていたのだが、この場には他に人が居たのだ。その事を、先程の、多分校長が発した咳払いでようやく思い出せた。
「あ〜〜〜〜………」
 バリバリと、後頭部を掻く。これはもう、何をどうしても誤魔化せないなと思いつつも、なんとか誤魔化せないだろうかと考えながら。
 だが、流川には誤魔化すつもりはサラサラ無いらしい。むしろ、他の人間の存在など視界に入れるつもりがないのだろう。咳払いの発生地にチラリとも視線を向けることをせずに、真っ直ぐに三井を睨み付けてきた。
「なにする」
「何じゃねぇよっ! こんな人前で……」
 思わず続けそうになった「コレを理由に解雇されただろうするんだ」という言葉は、飲み込んでおく。ソレこそ、流川にとっては願ったり叶ったりな話になるだろうと、思って。
 そんな三井に、流川は言われて始めてギャラリーの存在に気付いたと言わんばかりに校長達へと視線を流した。そして、三井へと視線を戻しながら告げてくる。
「別に気にならねぇ」
「お前が気にならなくても俺が気になるんだよっ!」
 自分の事しか考えていない発言をする流川の後頭部を、握った拳で力一杯殴りつける。その後すぐに、校長へと視線を向け直した。
「えっと、校長。コレは、その………」
「流川選手が昨日のテレビで呼びかけたのは、三井先生だったんですねぇ」
「は?」
 何とか言い訳をしようと口を開いた三井の言葉を遮るように、校長がそんな言葉を放ってきた。
 遮られた分の言葉を飲み込み、いったい何を言いたいのだと首を捻りながら短く声を発する。そんな三井に変わって、流川が力強く頷き返した。
「当たり前だ。この人以外の誰に言うか」
「そうですかそうですか。で、三井先生をアメリカに連れて行きたいと?」
「あぁ」
「今すぐ?」
「あぁ」
「ソレは無理ですね」
 キッパリと言い切られ、流川の眉間に深い皺が刻み込まれた。切れ長の瞳も軽くつり上がっているから、今の一言でかなり不機嫌になったことが窺い知れる。
 だが、校長はそんな表情の変化に気付いていないのか、気付いていても見なかったふりをしたのか。ニコニコと微笑みながら平然と言葉を続けた。
「代わりの先生を捜して引き継ぎしてですから。最低三ヶ月は猶予を見て貰わないと」
「――――は?」
 校長の言葉は全くの予想外のモノで、三井は間の抜けた声を発してしまった。聞き間違いではないだろうかと、思って。
「こ、校長? なに言ってるんですか?」
「なにって、三井先生。辞表を出されるんでしょう?」
「それは――――」
「三井先生」
「は、はい。なんでしょう?」
 濁した言葉の先を遮るように校長に呼ばれ、しどろもどろに問いかける。そんな三井に、校長は柔らかく微笑みかけてきた。
 そして、言葉を続ける。
「新歓の席で、将来アメリカに行こうと思ったから英語を真面目に勉強しはじめたのだと、言ってましたよね。それは、彼の迎えを待っていたと言うことでしょう?」
「いや、それは――――」
「違うんですか?」
 ニコニコと微笑みながら。それで居て有無を言わさぬ強さで問われた言葉に、なにも言い返す事が出来なかった。ソレは確かに、その通りだから。
「センパイ――――」
 誰が聞いても喜色が滲んでいると思うであろう声で自分を呼んだ流川は、そのままゆっくりと長い腕を伸ばしてきた。そしてギュッと、力強く三井の身体を抱きしめてくる。
「嫌だって言っても、連れてくからな。今度こそ、絶対」
 強気なようで居て縋り付くような気配がある声でそう告げられ、三井は返す言葉を飲み込んだ。
 数年ぶりに会ってここまで熱烈に自分の存在を求められたら、否と言えるわけがない。
 自分もまだ、流川の事が好きなのだから。迎えに来てくれたことを、嬉しく思っているのだから。
「――――誰も嫌だなんて言ってねぇだろうが」
 抱きしめられたまま、肩口に顔を埋め込んでくる流川の後頭部をポンポンと軽い手つきで叩く。そしてフワリと、微笑んだ。
「お前は約束を守ったんだからな。俺もちゃんと守る」
「じゃあ………」
「でも、今すぐには行けねぇからな! それだけは聞き分けろよ!」
 伏せていた顔を上げ、嬉しそうに瞳を輝かせながら何かを言いかけた流川の言葉を遮って発言すれば、途端にムッと顔を歪められた。だが、コレばかりは譲るわけにはいかない。短い期間とはいえ、世話になった上司や同僚、それに生徒に迷惑をかけるわけにはいかないのだから。
 それはさすがに理解してくれたらしい。流川は渋々と言った様子で頷き返してきた。だが、どうしても気になる事があったらしい。ふて腐れた表情のまま、問いかけてくる。
「どれくらいで来る?」
「んなの、今の段階で分かるかよ」
「――――そう言って、逃げる気か?」
「今更逃げてどうなるってんだよ。ちゃんと行くよ。少しは俺を信用しろっての!」
「日頃の行いが悪いから」
「――――お前、本当に俺に惚れてんの?」
 失礼極まりない発言をする流川に、三井の機嫌は一気に急降下する。だが、流川は気付いているのか居ないのか、焦った様子も取りなそうとする様子もなく、三井の発言に深く頷き返してきた。
「当たり前」
 少々疑わしい言葉を力強く吐いた流川は、何を思ったのか突然宙を見つめだした。何かを考え込むように。
 いったい何を考えているのだろうかと首を傾げたところで突然、深々と頷いた。
「じゃあ、センパイの家に行く」
「――――あ?」
 前後のつながりが見えない言葉に、間の抜けた声を出してしまった。彼が何を言っているのか、さっぱり理解出来なくて。
「何のために?」
「待つために」
「待つって、何を?」
「センパイがニューヨークに来るのを」
「俺の家で?」
「そう。まだ次のシーズン始まらないから」
「俺んちって……ここの?」
「うす」
 なんて事ないと言わんばかりの口調で告げられた言葉の意味を理解した三井は、思わず顎を落としそうになった。
 だが慌てて引き戻し、目の前の男に向かって怒鳴りつける。
「アホかっ! トレーニングはどうすんだよっ!」
「ここでする。体育館貸してくれ」
「アホっ! こんな田舎の高校じゃ、ろくな設備整ってねぇんだよっ! 折角MVP取ったのに、速攻で腕を落とすつもりかっ、てめぇはっ! 大体、他にも色々仕事あんだろうがっ!」
「キャンセルする」
「んな簡単にキャンセル出来るかよっ!」
「すっぽかす」
「アホっ!」
 本気で告げたとしか思えないその発言に、流川の脳天に拳をたたき落とした。
 そんなやり取りを見ていた校長の口から、苦笑が漏れる。その音でハッと我に返った三井は、慌てて校長へと視線を向けた。
 三井の視線を受け、校長がニコリと、実に楽しそうに笑いかけてくる。そしてその視線を流川に流し、小さく頷いた。
「出来る限り早く後任の先生を見つけられるよう、努力しますよ。それでも、シーズンが始まるのに間に合わないようだったら、先に帰っていただけますよね?」
 告げられた言葉を吟味するように、流川はしばし黙り込んだ。それでも先に帰りたくはないと言いたいのだろう。だが、ここでそう言ったら話がうまく進まなくなりそうな気配を本能で感じ取ったのかも知れない。渋々ながら、承諾するように頷き返した。
 その返答を受け、校長が笑みを深める。そして、傍らに居た教頭へと視線を向け、語りかけた。
「と、言うことですから。三井先生の後任の方を早急に手配して下さい」
「ぁ………はっ、はいっ!」
 それまで呆けた様子でやり取りを見ていた教頭が、話を振られたことでようやく我に返ったようだ。慌ててその場に立ち上がり、転がるようにして校長室から出て行った。
 そんな教頭の背中を見送った校長は、校長室の扉が閉められた後、ゆっくりとその場に立ち上がった。そして、三井の前へと、歩み寄ってくる。
 校長の行動の意図が読めず、なんとなくその動向を窺っていたら、校長は三井の目の前で歩みを止め、ゆっくりと、右手を差し出してきた。
「おめでとう、三井先生。幸せになって下さいね」
「ぁ…………はい。ありがとうございます………」
 告げられた祝辞に、カッと顔が熱くなった。その言葉で、先程までのやり取りが夢ではなく、現実のモノだったのだと、痛感して。
 人前でラブシーンを演じんじた気恥ずかしさが、今頃になって沸き上がってくる。
 これが男女のラブシーンだったら、ここまで気恥ずかしさは感じないかも知れない。しかし、自分達は男同士だ。そうそうオープンに出来る関係じゃないだけに、恥ずかしさも倍増だ。
 チラリと、傍らに立っている男の横顔を窺う。最後に顔を合わせたときにはまだ子供っぽさが抜けていなかったが、今はもう立派な大人の男になっている。
 言葉の違う国で、自分よりも大きい人間が多々居る中で揉まれて、身体だけではなく中身も成長したのだろう。顔つきが精悍になっている。前から綺麗で魅力的な顔をした男だったが、更に磨きがかかっている。
 ドキリと、胸が高鳴った。
 ここ最近感じていなかった感覚だ。
 流川がアメリカに行って以来、身体がこんな反応を示したことはない。
 その反応に、自分がどれだけ流川を好きだったのか、痛感する。
 流川以外の人間に、心を引かれたことが無いことを自覚する。
 その途端、恥ずかしさが増した。
 これ以上流川の顔を見ていたら、平常心で居られなくなるかも知れない。そう思い、視線を外そうとしたのだが、気持ちと裏腹に、視線を動かすことが出来ない。ずっと男の顔を見ていたいと本能が告げ、身体を支配しているかのように。
 そこまでじっくりと見つめているのだ。人の視線に鈍い流川もさすがに気付いたのだろう。校長の方へと向けられていた流川の視線が、こちらに向けられた。
 淀みない漆黒の瞳に見つめられた途端に、心臓の動きが速くなる。今まで冷静に言葉を交わしていたのが、嘘だったかのように。恋愛慣れしていない10代のガキのように。
 問うように流川が首を傾げる。その仕草を目にして軽く首を振りかえした三井は、何事もなかったように視線を前へと戻し、話しかけてきた校長と言葉を交わした。
 今後のことを。しばらく滞在するという、流川の扱い方を話し合うために。
 傍らの男の気配を、全身で感じる。
 手を伸ばせば、すぐに触れることが出来る。ポスターでもない。テレビの中にいる彼とも違う。本物の、生きている彼の気配だ。
 もう、絶対に放してやらない。
 そんな気持ちが胸中に溢れかえる。
 この先彼に、自分以上に心惹かれる人間が現れようとも、自分よりも愛する人間が出来ようとも、絶対に放してやるモノか。一度放した自分の手を強引に掴んできたのは、彼なのだから。
 自然と、笑みが浮かび上がってきた。
 この数分で、随分と強気な事を考えるようになったもんだと、思って。
 だが、それで良いのかも知れない。変に気を使わずに、自分が思ったように行動した方が良いのかも知れない。彼が、そう言う男なのだから。
「流川」
 男の名を呼べば、すぐに漆黒の瞳が向けられた。
 その瞳に向かって、ニヤリと。クセのある笑みを浮かべる。
 そして、短く告げた。


「幸せにしてやるぜ」






 返された、今まで見た中で一番綺麗な微笑みを。
 自分は一生、忘れないだろう。

















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《20070520》




 

【4】