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シェーミ

- aN ELEVATOR -


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  シェーミは上昇し続けてきた。軽い揺れを伴う発進と停止、そして出会いと別れによく慣れていた。それらのどれも見当たらない時には、じっと頭上を見つめて考えてみた。天はどこまであるのだろう、自分はどの辺りまで来たのだろう、時間はどれぐらい残っているのだろう――我々は果たして、到達するのであろうか?

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 その箱には人が乗り込む。それは塔の中で往還運動をする。高く空へと上昇し、天国まで行くと今度は地上へ降りてくる。そして乗員を拾い、また上昇していくのだという。

しかしそんなことは、精々が面白い伝説程度に思われていたものだった。十二月の街の中心に立つその塔は余りに巨大である為に、人々にとって海や空と同じようだったのだ。海がある時二つに割れて巨大な国を沈めたのだ、空からいつかは神が降りてきて人々に審判を下すのだという、ああいう話と同じようにこの話を考えることが、普通の人にすぐさまできるものだろうか。――もっともこの塔の場合、伝説は即ち事実であった。それは数百とも、数千、数万とも付かない年月を掛けて降臨し、遂にその入り口を開いたのである。

 予兆らしきものはあった。塔の表面に刻まれている四角い文様――察しの良い学者によってそれは「扉」と呼称されていたのだが――の上部が、数年前からぼんやり帯状に光り始めていたのである。また四角の右辺りには上を向いた三角形の模様ができ、しかもそれが徐々に盛り上がってきた。まるで押せと言わんばかりのそれを誰かが押すと、跳ねるような高い音が、天から降るような調子で聞こえた。誰かが伝説を思い出し、実現が噂され、数年かけて昇り切った朝日のように絶対的な信頼になって輝き出すと、それまで見向きする者の居なかったスラムに貴族が、政治家が、司教までもが集まり、瞳を光らせて文様を眺め始めた。

流れ出し、やがて濁流となったその噂は、どれだけの数の眼に煌めいていた希望を摘み取り、どれだけの手に繋がっていた信頼を切り離したとも知れない。圧倒的に速度を増し、逆巻き吹き荒れ打ち寄せて、成り行きは幾らかの人間だけを塔の中へと導いた。その選別には多分に財力が、次に暴力が、そしてほんの上澄み程度の美談とでも呼べそうな偶然が関わっていた。

シェーミを長らく励まし、幼い頃から護ってきたその老人は、かつて塔の一階にエレベーターが降りた際、凄まじい競争を勝ち抜いてここへ乗り込んできた。このとき乗った何十万もの人々――それさえ、十二月の街のスラムに犇いていたうちの一握りに過ぎない――の内に、嬰児のスェーミを抱えた母親がいた。殺到の中で負った傷からすぐに儚くなった彼女について、老人はシェーミを養うあいだ、遂に一言も伝えなかった。あの母親の人生はどうした所でスラムの悲惨と切り離して教えることができない、この塔の中で育ち、恐らくは死んでいく娘に、スラムなどというものを教える必要があるか――否と考えるからこそ、老人はただこう語るのである。

「天国はあるんだ」

老人は十一歳のシェーミの腕に抱かれて息を引き取る。

 

 

 

 箱が動き出すと、乗員たちの間には自然と棲み分けがされるようになった。すなわち馴染みの富裕層と中産層、そして底辺という区別だが、厄介な事には、ここのそういう構成は、塔の外にあったものとは殆どその比率が逆転していると言って良かった。即ち約七割は金持ちで、二割はそれなり、困窮する者が一割という所だった。

 床は大地と呼んで差し支えのない性質を持っていた。作物は独りでに根付いて育ち、岩や鉄は掘れば幾らでも出てきた。金持ちは初めて目にした所有者のいない財宝に戸惑いつつも、財産量に応じてこれを分配し、差し当たっては住み場所の建造にあたった。

物持ち故に天国へ行けるかどうかを心配し続けた彼らにとって、方舟に乗った以上はものを一層持たなければ気が済まないというものであった。もちろん倫理的に引け目に思うところが無い訳では無かったが、巧妙な理屈と強いられた数々の譲歩のもと、争議中の人夫の手になるというよりは慎重な墓荒らしの手になるように、そこの所は少しずつ着実に埋められていった。

やがてこの中では、貧乏人というものがある意味で重宝されるに至った。富裕者は一割の貧者たちを箱の中心に集めて住まわせ、その周りを柵で囲い、その周縁に二割の平民を配置し、また壁で囲んだ外側に七割の自分たちの舘を構えるという具合に事を運んだ。館は徐々に長屋のようになり、一つの閉じた円となり、それから中央へ向けて八本の回廊を弓なりに伸ばして結んだ。貧民街の上空に出来たドームの床はガラス張りだった。言わば彼らは、貧しい者に観賞素材としての価値を見出したのである。

 貧民の込み合う所は「広場」と呼ばれていた。広場には家を建てる資材が与えられず、人々は衝立一つない広場で寝起きし、大きな村として文化の無いにほぼ等しい生活を営んだ。貴族達はドームから、彼らの棲息する様を興味深く、時には下卑た笑いをもって見下ろしていた。

広場では子供が多く生まれた。それらは法制の下に周囲の長屋へと引き取られ、上手くいった者は下男や小間使いとしての教育を受けて町で働き、不運なものは街の片隅で密かに行われる闘技大会の選手になったり、ある種の見世物になったりした。良さそうだと特に見定めたものがあれば、個別にドームから網を投げて調達した。手足の伸びると共に母親似の美しさを顕し始めたシェーミは、十五歳の時にこれによって拿捕された。その目的は世辞にも良いものとは言えなかった。

ドームから籠が下がり、競売が行われた。シェーミの値は予想落札価格(エスティメート)の3倍になり、4倍になり、5倍になり、遂に街で一、二を争う地位に居たさる名士によって競り落とされた。彼はこれで私財をほぼ全て失い、ドームを後にして広場と隣接する狭い家に住まざるを得なくなった。そしてそこで暮らした五年余り、シェーミを爪の先で突くことさえしなかった。

働く傍らで読み書きを教わるうち、シェーミは稀な文才を発揮するようになった。文学などは箱の中に殆ど持ち込まれておらず、主人は彼女に憶えている限りの物語を口承した。シェーミはその暗誦に始まり、やがて画期的にして精力的な創作活動へと羽搏いていった。紙がないため声によって語られたそれは、文字が飽和していた外において盛んだった衒学的、記号的な領域を離れて躍動する、物語性に富んだものが主だった。

印刷が為されるようになり、シェーミには少しずつだが確実に勢いを増していく収入ができた。主人はその都度の上前を撥ねるでもなく、彼女にある額面、即ち彼が彼女を競り落とした値だけを伝えた。彼女がこれを蓄えるあいだ、主人は段々と床へ伏しがちになっていった。私には金などもはや必要がないのだ、ある日溢された一言にシェーミは事情を察し、密かに医者の診察を仰いで薬の代金を確かめる。それは彼女の身代の倍ほどもしたが、有名作家はついにこれを稼ぎ出した。

今日は嬉しそうだな、と主人が訊く。あなたの病気が治るのですもの、とシェーミは答える。

――それはどういうことだ。

――全て分かっております、今は薬を買ってもらいに人を行かせてあります。

――なんて馬鹿なことをするんだ!

主人は布団を跳ね除け、出会ってからもついぞ見られなかった速さで駆け出した。何哩という町の円周を鉾のように貫き、何百段というドームへの階梯を羽のごとく吹き抜け、今しも医院の門を叩こうとしていた使者に追い縋って怒鳴った、この金は俺のものだ! 彼女は自由だ! ――天へ差し伸べられた掌の下、がくりと揺れて地に着いた膝は、二度と彼を立ち上がらせる事がなかった。

シェーミが追い付いたとき、男は見物しようとして群がる人々の中心に横たわって最後の瞬きを終えたところだった。次に瞼が閉じる時こそは最期だと、シェーミは傍らへ駆け寄って顔を覗き込んだ瞬間に悟った。

――ああ、ああ、馬鹿なことをしたのはあなたの方ではありませんか。いまの蓄えを使った所で、恐縮ながら、後にも暮らしていけるだけの収入を得る見込みはありますのに、わが身を請け出した後にも、あなたの許で働き続けるのが私の望みでしたのに!

――君は語るのだ。男は激しく顫える手をシェーミの頬に宛がって、言った。

――この箱に乗り込んでからと言うもの、人々は上昇しようとするのを忘れている。私が悲しみ、腹立たしく思うのはそこなんだよ――愚かな事だ、下らない事だ、一体天国に行けてどうすると言うのだ! 確かに我々はいつもあそこへ行きたいと願ってきた、行けたらどんなに良いだろうかと考えてきた、行く為の実際的な取り組みをあれこれに為してきた、しかし天国という場所は、行く事はあっても行くのが可能になってはいけない場所だったのだ! 全ての報酬が保証されているのに、誰が働こうとするだろう、何もかも報われるのでは、何も報われないのと同じではないか! ああ、人生には影が必要不可欠だったのだ、在ってはならない絶望の輪郭が、意味の掴めぬ不条理の片鱗が、永遠に続く未来への倦怠と、限りなく膨らむ過去への恐怖が――。

 人垣からは金属板の波打つような撓んだ嗤い声がし始めた。――全く彼の言う通り、我々の生活には精神病患者の隔離施設が欠けているのだよ――それならどうして乗ったのかしら、それならどうして買ったのでしょう! ――乾きと湿りの入り混じった揺らぎが心の襞を固く柔らかく踏み躙ろうとするのを感じ、シェーミは耳を塞いだ。

 その手をも優しく取って、彼は囁く。

――君は語るのだ。目に物見せてやれ――決して腐るな。吸う為に吐き、吐く為に吸うこと、死ぬ為に生き、生きる為に死ぬのを忘れないでくれ。全ては巡り、果ての無い、行けば戻るものだと記録してくれ。続けるんだ!

 いや、終わらせろ! と誰かが叫ぶ。シェーミが睨み付けると、そこを中心に錆のような蒼が、人々の顔へ広がって差していった。

「天国はあるだけだ」

男は十八歳のシェーミの膝の上で事切れる。

 

 

 

年月を経るうち、富裕層と中産層の間には割合の変動が起こった。器へ注がれた混合液が比重ごとに分離するように、多すぎた金持ちは層を成して徐々に分かれていった。まず中産階級と貴族階級の区別がされ、後者の中で様々な議論と決闘とが行われた末に最高権力者が現れるに至った。王の誕生である。

旧舘を含む市街地域は新たに編成された市民層に充てられ、回廊は十六本に増えて淘汰を勝ち残った貴族の居住地域となった。ドームは王宮としての機能を与えられ、王家一族、それから各大臣とその家族の住まいになった。

住む場所に関して特別であっても、王の座とはこの場合、住民各層から噴出する不満と懇願への対応を一手に引き受けさせられる押し付け役に近い一面もあった。それでも貴族達には笠に着る絶対的権力というものが必要だったし、あわよくばそこに就きたいものだと野望を持ちもしたのである。そして実際のところ、王の権威は即位のあと川の流れに曝された岩のように収縮して、何時でも都合良く解釈できる象徴的存在という所へ落ち着いていった。

そもそも、別に差し迫った内政の必要があるわけではなかった。今まさに天国へ向かっている現状からして、箱の内での犯罪はほとんど在り得ないと言って良かった。広場やその周辺でなら起こることもあろうが、それが傷付けられて困る人達の所にまで達するような事態は物理的に考えにくかったし、また罪人は貴族達の要望によってほぼ例外なく公開処刑に饗せられたので、彼らを楽しませると分かって割に合わない犯罪に手を染める者はなかなかいなかった。

王の最初の執務は、搭乗から二十年余りが経つ内に人々の心に黴のように湧いてきたある不安に対処することであった。保証されているにせよ、我々はいつになったら天国へ着くのか? 王は学者達に流れゆく時間への対策を命じ、学者達は数百年ないし数千年規模の時間の経過を考慮して、天国への到達まで人間を保存させる事を目的としたものの製作に取りかかった。やがてカプセル型のいわゆる冷凍睡眠(コールド・スリープ)装置が発明され、科学研究における潤沢な予算の重要性を人々に再認識させると共に、冨とコネクションに遵っての細々とした販売活動が始められた。

時にシェーミは、文による語りを止め、弦楽器を手に唄を織り交ぜた物語りをするようになった。本は本である以前に、所有量が貧富差を反映する《商品》であるというのが、恩人の死去いらい彼女が述べるようになった考えであった。シェーミはここに於いて表現の物質性から距離を置いた。頼まれれば貴族のパーティーや会合の場に出向いていって披露してみせる事もあったが、それも生活の為で、大抵は広場と町の境目に町人達によって設えられた台の上で演奏をした。時には制止されながら広場に乗り込んでいって、中央で舞曲を奏でもした。

貴族達が自分の語ったことを記述し、或いは唄を録音して出版するのに、シェーミは代理人を通して権利料を漏らさず取り立てる以外にさして口出しをしなかった。巧にして天上的な組成の抑揚と韻律とを備えた彼女の語りは文章の上で決してその輝きを再現し得なかったし、録音機器を経て発される声には、本物からまるで欠落してしまう何かが確かに認められた。複製ということが仮に可能であり、その流布が彼女にとって害であるというのならいざ知らず、収益を求むでもなくまた複製の不可能であるシェーミには、気に掛けることは何一つとしてなかった。富める者が粗悪なものを、貧しき者が良いものを聴けば、その差はだんだん埋まっていく――寧ろ歓迎するべきではないかとすら彼女は思っていた。

この頃ドームでは拡張工事が行われ、新たに睡眠カプセルを保管する「寝室」と呼ばれる場所――下層民達は冷ややかに「玄室」と呼んだ――が建設されつつあった。シェーミは演奏をしながら偶にこれを見上げては、彼らにもいつか自分の物語が届けられ、完全な形ではないにせよ感受されるのだろうかと考えたりした。

そうした時、彼女の考えは常に一つの疑問を中継駅として走っていく。テキストと音声とによる自作の保存、それを是認する自分の考えは、果たして《意義》の認識から来るのだろうか?

意義とは恐らく、誰もがその主張する所をある程度は把握できる物事にこそ宿る筈である。そこへいくと、自分の紡いだものがインクと紙と、それから所有差にまつわる質の悪い自尊心、引き絞られる無力感を引き換えに残り続けることには、誰かしら賛同しない者が出て然るべきだ。実際彼女の周りには「広場や町の住人に優先的な発表形態を取りながら、上級階層からも利益を得るのは言動不一致ではないか」と謗るような声もある。そのこと自体は、そもそもの「下層民に優先的である」という前提が早まっていて当てはまらないと考える。しかし問題は、そういった誤解も含んだ懸念を押してその方針を取る理由が、多分に彼女の主観的な義務意識に依っている事であった。死んだ紳士から託された言葉は彼女の脳裡に絶えず一定したベクトルの波を伝え、上昇し続けるエレベーターの内に恒常的な物語の衰弱の風潮を感じ取らせていた。それに抗おうとしているのは唯自分一人だけなのではないかという、半ば盲信にも似た不安――果たして、このような考えを抱く者が物語を信じていると言えるのだろうか?

物語という言葉の捉え方は様々にあるが、取り分け彼女はその自生性とも言うべきもの、時代や言語や空間の隔たりを越えて人間とは別の生き物であるかのように伝達されていく強かな一面こそが、物語というものの核を成すところであると考えていたのである。シェーミの信じる通りならば、それは彼女が感じている義務感とは全く関係なく、また彼女がしていることなどは殆ど無意味なものとして、彼女の亡き後にも自律的に生まれ、成長し、代々を経て続いていく筈であった。しかしそれで納得してみようとする度に、シェーミの思考の列車は奇妙な震動を伴って、一条の引っ掻き傷のような軋んだ音を立てる。彼女は車体を検査してその原因を確かめようとするが、線路は歪な破砕痕の由来を決して教えようとはせず、意地悪く笑む口元のような曲線を描きながら、地平線までただ蜿蜒として続いているのである。

 

 

 

 王子は、装置の中から起き上がった途端に、何か妙な耳鳴りを感じた。まるで話に聞く巨大な列車が、それまで彼の枕元を地響き立てて走り過ぎてでもいたかのようだった。――話に聞く? いつ聞いたのだろう?

 最初に造られた睡眠カプセルを宛がわれて、彼は今この時まで七年間眠り続けていた。中に入る時、現時点の技術からして、期限が来れば別の装置に乗り換える必要があるだろうと告げられていた。

王子は新しい服を持って来た乳母に、もう取り換え時なのかと問う。乳母は左様ですと応え、頻りに彼のことを懐かしがる。もう七年も過ぎたのか、王子は皺の幾分増えた乳母の顔を見るともなく見ながら、まだ先程の耳鳴りの余韻を感じている。

――十五年の眠りにつける最新型が、最近になって開発されたとかで。すぐに続けて眠るのは体の組織にとって危険だそうですので、十日ほどはこちらで生活して頂く事になりましょう、……ああ、それにしてもお懐かしや、お変わりなく!

目覚める度に十日分老化すると考えれば良いのだ。眠りの時間は、科学の進歩によってどんどん伸びるだろう。カプセルを替える合間の時間も、そのうち極力短くて済むようになる。だがもしもこのまま天国へ辿り着くことなく、この上昇が永遠に続くのであれば、未来の人々は寝るのと老いるのしか経験せず死んでいくことになる――そうなれば些か滑稽だ。それなら常世には、既に棺桶という無限の眠りのカプセルが用意されてあるものを。……王子は白けた気分でそんな事を考えながら、父親に会うべく玉座の間へと赴いた。七年の間に父は、乳母とは違って眉間に深い皺を増やし、最後に会った時は幾筋白いものが混じる程度だった頭髪と髭は、すっかり一面の雪景色のようになっていた。王子は茫漠とした空しさが自分の心にも降り始めるのを感じ、暫くものも言わずにその顔を見詰めていた。

 ――久しぶりだな。

 ――私はついさっき会ったばかりだった様に思いますがね。父君は随分と色々あったようで。

 ――ああ。おまえが眠っている間に、とんでもない怪物に出くわしたよ。どんな刀に依るよりも深い傷を私の顔に施し、頭上には永遠に明けぬ冬を齎した。皮を剥ぐように精気は削がれ、頭の中には融けた鉛を――。

 ――もう結構ですよ。それだけ話せれば、その怪物も父君は随分手強い奴だと認めるでしょうとも。

 王子は王の許を辞し、宮殿から市街の方へ向かって歩き始めた。七年の歳月が過ぎたのを実感させるものが王宮内にはどうも乏しく、起きた人々の多い所へ行けばそれなりの変化も見られるだろうと考えたからである。

 連絡通路は二十四本にまで増え、王宮の正面に通じる一本を除いては高級商店や娯楽施設の立ち並ぶ遊歩道になっていた。ドレス、指輪、靴、毛皮、香水、首飾、金時計、金武具、金扇子、金奴隷――悪趣味な方向へ伸びた流行のもと、ありとあらゆる種類の店が開かれていたが、店舗の中には閉じているものも少なくなかった。これらの店の主人は負けたのではなく、恐らくはもう双六を上がったのだ。今では睡眠カプセルの中で、金色の夢でも見ているのだろう。

 夢――その言葉が頭の中で不意に大きく膨らみ、彼は眩暈を感じた。まただ、と苛立って呟く。

 やがて本屋を見つけ、王子は物珍しさから中へ入った。外から持ち込まれた文学を幾つか手に取って斜めに読んでいくうち、彼はおかしな事に気づく。……この話は知っている、これも、……これも、……これも。見たこともない熊という生き物と相撲を取った憶えがある、聞いたこともない波の音を耳に当てた貝殻から聞いた憶えがある、触ったこともない薔薇という植物の棘にうっかり手を触れ、味わったこともない血を指から舐め取ってその苦さに顔を顰めた憶えがある。――いや、こうした感覚的なことだけではない、千変万化する人間関係の特有の位置から見る感情の景色、歩調に同期して目の前で雄大に隆起し陥没する運命という砂丘の描く軌跡、想像していなかった悲運が突風のように体を吹き抜けていった後に残される、あの心中の激しい顫え。……識らぬ筈の知。物語を彼は知っていた。

 薄気味悪く思いながら更に店の中を往き、王子はこの塔の中で作られた本にも手を伸ばしてみた。つまりは、シェーミの手になる話のことである。

 眠りに就く前に、彼女の話の幾つかは本で読んでいた。なるほど上手く書く娘だと思い、唄も始めたばかりの頃のものは聴きに行っていた。彼女の声が広場から、相当に高いドームの自分の耳までまるで矢の様に鋭く届き、しかし耳の中では柔らかく優しく響いていくのに王子は驚いて、これは大した芸術家だと一目置いたものだった。その後すぐにカプセルが完成したのだ。自分のカプセルを置く場所は、その日も唄っていた彼女の声が聴こえるようにと考えて選んだのも思い出した。

 七年の間に新刊がよほど出ているかと思ったが、見た所では精々三冊程度しかなかった。王子は店主を呼び、シェーミという娘にはあれから何かあったのかと訊いてみる。

 ――創作を止めた訳ではないんですが、何しろ文を書くのをすっかり已めてしまいましたからねえ。

 ――語りの録音を前は売っていたじゃないか。

 ――はあ、なんと言いますか、テープを通すとどうやら別物になってしまうんでして。そうだ、今日は丁度広場で演っている筈ですよ。行ってご覧になっては如何です? 七年の間に、彼女も一段と綺麗になりましたよ――。

 それも一興と思い、王子は広場を見下ろせる所を目指して歩き始める。……そう言えば、今では彼女は俺と同い年になるのか。

 

 

 

 シェーミは竪琴を脇に提げて、暫く空を見ていた。天井に描かれた空ではあるが、そこで弧を描いて飛び回る鳥や、逆巻いて吹き降ろしてくる風のことは知っている。――思い出すことさえできる。

 広場は人の頭で入念な点描のように染められて、一瞬毎に違う模様を描きながら蠢いていた。黒や亜麻色、赤銅に黄金、稀に混ざるショールの白や頭巾の黄――それらの動きが様々な意味の欠片を伴って脳裡に写し取られ、彼女は今日の話が組み上がってくるのを感じる。近頃では話を考えるのすら必要がなくなって、彼女は文字通りの《語り》を行いさえすれば良かった。構文と抑揚の技術は脳からより運動神経に近い所へ回収され、歩行や食事と同じ本能的な自然さを伴って発揮されていた。

今日の素材が揃ったと感じ、シェーミは目を閉じた。彼女の長い髪が、吹く筈の無い風に靡くかのように揺れたのを観客達が見て取った時、その顔の下で琴が初めの一音を震わせた。

白く乾いた地面に最初に落ちた雨滴が段々と区別可能な輪郭を失くしていくように、聴衆の内なる眼の見る所には、色彩と立体感とが初めはゆっくりと、やがて即興主義の絵描きの手になる如く、激しいテンポに移行して展開されていった。そこで鳴っている音のどれを彼女が実際に弾いているのか、彼らには判別ができない。同時に十も、百も、或いは春の森の中程にもしている音の少なくとも幾つか、然もなくば大部分は、聴く者によって密かに補足されているのに違いなかった。そこで見たものについて後で観客たちは話し合ってみるが、その見解は何時も何処かで噛み合わなくなって、例えば個性というようなものについてするような議論をそのままなぞる形へと、否応なしに嵌まり込んでいった。

 そのように描かれた景色の中に、やがてシェーミの声が入ってくる。壮年の男を、あどけない少女を、溌剌とした青年を、狡猾な老女を、その声は苦もなく見事に演じ分けた。彼らの織り成す事々は時に不穏な地響きを伴って遠くに、時に弾けるような笑い声を連れて近くに聞こえながらも、常にここに於いて起きていた。用いられる言葉は平易だが、三の原色と七の幹音は絶妙な配分をもって、彼女は哲学者同士の深遠な論議を、老獪な政治家達の駆け引きを、情熱に蕩かされて不定形な、或いは洗練という冷却を経て精緻に結晶した男女の恋の遣り取りを、誰にも等しく理解させた。

 数分も演奏すると、指は何か別の意思によって動くようになり、喉はどこか別の所から吹く風に完全に同調した。彼女はそこに一つの導体の存在を確保したことを確認すると、閉じていた目を開いて、ふとドームの方へと目を遣った。先程から何か、彼女の視ていた場所に人影の動くのを感じていたからである。は森の奥から現れ、歌うシェーミをじっと見ていた――あたかも、あのおとぎ話とは裏腹の立場で、荊に囲まれた城の中から目覚めてきたのであるかのように。

 シェーミは、ドームから見下ろす王子と目を合わせた。

 

 一片の違和感。必要の秩序に満たされた世界の中に明らかにおかしな音が紛れ、人々はむずかる乳児のような顔をして閉じていた目を開けた。台の上に仰ぐシェーミの表情を不安そうに窺うが――特に変わった事はない――彼女には。しかし観客達は、この場に何か実際的な事件の起こったのを敏感に察した。いつもはシェーミの後ろに在ったものが、今や彼女のに在るのだと感じた。

 そして彼らは、これまで気付きもしなかった胸のざわめきを覚える。――我々が物語の中で触れていた時間の密度は何だったのだろう? 昂揚や懼れ、躍動と消沈、砂漠や大海原、星空と暗雲――それぞれの感動が含んでいた、一秒を千年にもし、千年を一秒にもする魔力は何だったのだろう? ……絵画や小説や演劇を束ねて《芸術》という同心円の中央を描く、あの恐るべき時間の凝縮

 

王子は夢中になってドームと市街の連絡路を駈けた。人々の間をすり抜け、階段を一跳びで越えて、頓に広場を目指した。

説明が出来ない。解明は不可能である。だからここではその状態を、せめて比喩的に述べるしかない――彼はだった。視線によって繋がれたシェーミと彼との瞳の間を一瞬で伝った電気が、今は彼の手足を夥しく弾いて駆り立てていた。腕は稲妻を掴んで後方へ掻き投げ、脚は電光を履いて接地点を抉る。

人は皆、彼が抜き去って数秒してから、驚いて彼の来た方を見やった。いま通り過ぎたのが何か、ではなく、いま何が起こったのか、ということがその関心であった。

 

 

 

 十日が過ぎても、王子は次のカプセルに入ろうとしなかった。彼は人の止めるのも構わず、絶えず広場へと降りて行ってはシェーミと話し込んでいた。彼が知っていた物語のこと、シェーミと同じ視界にあった時間のこと――大臣達は身分を弁えないその振る舞いについて度々諫言したが、王には一向にして聞き入れられなかった。

決断は尊重されなければならない、と、眉を顰めて立ち並ぶ群臣に王は言った。

――市街や広場の者は、我々では判らない事を知っているものだ。彼がその見地を識りたいと思い、いま長寿を措いて行動しているからには、その否定にもそれなりのものを賭けなければなるまい。我々の意見と彼の考えと、どちらがこの箱の中の人々にとって有益となるか――その判明までは、此方から無理な手は打てぬ。

 大臣達は歯噛みした。全く戯けた事を言う王だ、我々が考えるべきは、どちらがこの市街とドームの中の人々にとって有益かという事ではないか!

王子が下賤な身分と触れ合って堕落するのなど、彼らにとっては許より心配の対象でなかった。そうではなく、この交流によって、広場に棲むような下人――ヒトの中にあって割合の増しつつある人でないもの達――が意見を主張し始める事こそが今は懸念されていたのだ。

彼らの内の幾人かは、革命という概念が存在し得た箱の外での歴史をまだ憶えていた。立法と施政とを確保し、彼らが毎日議場で喧々諤々に話し合うのは偏にその防止の為である――つまりは人権の保護! ヒトを人とそれ以外とに分ける事を止めた歴史が一様に革命による被害を被ってきたのは、まさにこの不徹底のせいではなかったか。下層民を蔑ろにし過ぎたのではない、余りに人を多くし過ぎたのだ。貴族は何時でも平民による反乱に脅えてきた、連中は数が多く、況してや更に殖えさえして、傲慢にも蓄積させた不満をいつでも暴力に直結させて牙を剥いた。ところが奴らから数を奪ってしまえばどうだ、例えば道を歩いていた三人の貴族に三人の平民が襲い掛かってきたらどうすれば良い、――まず銃で脚を打ち抜こう、それから一人を潰して骨を取り、一人の血で彩色して並べ、刎ね飛ばした一人の首で跳ね飛ばして九柱戯に興じてやろう! それは《殺人》ではなく《処分》ですらない、必要と意義とを持った《駆除》と呼ばれるものになるだろう!

政治家は虫に耳を貸す必要があろうか? なるほど、虫が意見を述べようとするのを阻むのは職務の一部かも知れないとしてもだ――そういった大臣達の懸念は実のところ正しく、そして迅速な対応を必要としていた。彼らはシェーミを成り上がりの市民として考えていたが、先の比喩に即して言えば彼女は《虫の声を聴く人》なのであった。王子は女を通じて、今まさに虫の声にわざわざ耳を傾けようとしていたのである。

 ――眠っている間に君が出した本を一通り読んだ。全て知っている話だった。いや、憶えている話だったと言った方がいいか。おそらく俺は、カプセルの中で君の朗読を聴いていたのだと思う。人は意識とは関係のない部分で記憶をすることができるらしい。となると、もしかしたら他の奴らも将来、君の物語を憶えてカプセルから起き上がってくる事があるかも知れないぞ――

 ――そんな事が?

 ――二番目以降のカプセルがまだ開いていないから、すぐには分からないけどね。俺の寝ていた場所が取り分け君に近かったからというのもあるだろう。どの辺りまで君の声が届いているか、それがどの程度の時間人の頭に留まっていられるのか――そういう事にまで調べを付けるには、そうだな、ざっと百年かそこらまでカプセルの有効期限が延びるのを待たなければならないだろう。その結果次第では、カプセルを或る意味での教育施設として活用する向きも出てくるだろうな。

 ――そうですか……

 シェーミは半ば素直に感心しつつも、どこか冷めた気分で王子の話を聞いた。もし私の声が眠っている人の脳裡にも届いているのなら、そしてその記憶が目覚めの時まで残るものであるならば、そこにはこの胸の義務感を確かな目的を持った一つの任務へと上す道が開けてくるのかも知れない。だがそんな事は到底望めまい、私が貧民に敵しない者としてここにいる限りは。

長らくこの境に暮らして、シェーミは富と貧との何たるかにそれなりの考察を持つに至っていた。人間の自尊心は何時でも必ず鏡を必要とし、そして醜さの鏡には美しい自分を、貧しさの鏡には富める自分を、病の鏡には健やかなる自分を見ずには決して満足しないものなのだ。上流階級の人々はあくまで私を上流階級の人間の視界において捉えるだろう、つまりは大衆の人気を持った貧しい者として、束の間に娯楽を齎す貧しい者として、或いは芸術というものの希望を繋ぐ貧しい者として。それらは主語と一体化し、本来の名に成り変わってすらいる。私たちは何であろうと貧者なのだ。幾らでも替えの利く貧者のたった一人一人を、彼らがどうして保存などしてくれるだろう? 貧者という階層を保持したいという事はあるかも知れないにせよ。……

「君は試してみたいかい?」

 彼女の考えを看取って王子が継いだ言葉に、シェーミはハッとして顔を上げた。問いの意味はすぐに理解された――私は試してみたいのだろうか? 試しておきたいのではなく?

義務感は果たして義務感だったのだろうか? この思いの核となる所は、畢竟に好奇心とのみ連絡していたのでは? 自らの作品の威力が人々に波及し影響していく様を上から観察したいという、新薬を開発した化学者のような、もしくは睡眠カプセルを発明した時の科学者達のような、あの眼鏡越しの細目の興味――だとすれば、そこに義務などはない、それは奢りでしか……。

 ――どうした?

 王子は尋ねたが、シェーミは慄然と顔を強張らせたままで、返答することが出来なかった。

 

 

 

 王子は二つの理由から、かつて想像した《カプセル=棺桶》の未来が、実際には自分に関わり得ないものであったのに気付いた。一つはシェーミと出会った事、もう一つはそれから王が頓死した事である。直ちに後を継いで戴冠した彼には、眠って永らえることがもはや許されなかった。とは言えそれは都合が良かった。

シェーミと話す時間が稼げた――それも死ぬまでだ。立っている場所から一続きの道の上に再び死を設置されてみると、彼には何やら肩の荷が下りたような安心が感ぜられた。やはり生と死とはこの世のどんな組み合わせより仲が悪く、しかしお互いを何よりも必要とする番いなのである。光と影、存在と不在、ワンと紐の先の何かのように。

 若き王はシェーミに伽衆の肩書を与えた。とは言え、それで彼女自体に権威が与えられる訳でも、語りが政治的ベクトルを帯びるようになる訳でもない――要は彼女をドームへ上げるのに、大臣達の難詰をかわす為の方便であった。

 ――君はこの箱に居るのをどう思う?

 王はシェーミに、専らこのことを問うた。この方舟にあって我々は如何に生きるべきか、時間が歪に引き伸ばされ、或いは圧縮されて、絶えず流れ、又は凝固したままになったこの箱の中で?

――乗物というのは本来、目的地へ向かう為に乗り込むものだろう? ……つまりは一個の手段として在るべきものだ。ところが俺達が今居るここは、その意味で《乗物》だとは言い難いんじゃないだろうか。人が乗り込み、降りる事で初めてそれは乗物になるのであって、もしかするとここでこのまま死んでしまうかも知れない俺達としては、この箱を一時的な居所ではない――それこそ《世界》というようなものに定義し直さなければいけないような気がするんだ。

――しかし王様、そんなのは、誰もが知らず知らず各々の心の底で了解しているものです。そのうち着くだろうという考えをまだ何処かに持っている内はそんなことを思い付かれますけれど、その再定義というのは時間が経てば自然に進んで行くものだと私は思います。

――そうか。そんなことは考えずとも良いか。……

王は頭を掻きながら、まだまだ自分は寝惚けている、と思った。無限に未来を延長しながら死を死に続ける貴族達に興味をもはや失って、今の生を生きる民にこそ視線を遣る――己はそれを選んだ。世界は動く者によって作られていくのであり、生を受けた以上は何時か空しく止まると知って尚も進み続けなければならない。全ての意識を暗闇に呑み込む《死》が逃れようもなく行く手に口を開けている、その《生》が虚しく儚いからこそ、それを愛そうと思ったのだ。……だが実際は愛でているに過ぎないのだろうか? ……だとすれば俺よ、目を覚ませ、おまえは生きているのだ。

 ――もっと教えてくれ、王子はシェーミの青い目を見詰めて言う。――俺はこの箱を治める者として何をすべきだ? 誰の幸せを考えれば良いだろう?

 ――それは勿論、民の……

 ――「民」とは誰だ?

 シェーミは言葉に窮した。王子は続ける。

――其処に塀があるということは、上から見ればすぐに、そして良く分かるものだよ。……この箱の中には人間しか居ないが、その裡には人とそうでない者、権利という概念を知る者と知らざる者との棲み分けが確かにある。俺の《見地》から見れば、広場に住んでいる君は、民は疎か人間ですらないことになる。俺が王として、また俺個人として悩むのはそこなんだ、……俺は君に何をするべきなのか? 人でないから無碍にすべきか、そこに人がいる事を認めるべきか。勘違いしないで欲しい、これは王としての体面なんてものではなくて、今後も続いていくだろうこの箱の世界の一時代、その支配者としての存在意義から来ている懸念なんだ。

――それがどう違うのか、もう少し分かり易く教えては頂けませんか。

シェーミは王を睨んで言った。

――貴方の仰っていることの意味が良く解りません。それは結局、貴方も見下すべきものを必要としているという事ではないのですか? 貴族が、王が、人々が、上から笑って見下ろす為の?

――そうじゃない、そうじゃないんだ。

王はあくまで冷静な口調でシェーミを制したが、掌を開いて差し出されたその手は少しく脅えるような震えを伴っていた。

――見下すべき存在というよりは、上から一方的に見下され、それに反発する者達が居なければいけないんだ。

――どういうことですか?

――さっきのことを時間の問題だとすれば、こちらは空間の問題だ。……ここは絶対的に閉じられて、一つの世界として成立している。人口も物理的に限られている。一つの街として多い成員数だとは言えないが、一つの生活集団としては決して少なくもない。全員がお互いに面識を持てる訳ではなく、だからといって疎遠がそのまま対立になるような地盤もない。そうだろう?

――ええ。しかし、対立が無いのは良いことではないですか?

――ああ、良いことだとも。彼らにとっても、世界にとっても、それを治める王にとっても! だが、にとってはどうだろう? その大衆のそれぞれが唯一持っている、たった一人の彼の群像にとっては? それぞれが集まって自然にあれば争いを避ける事はできないのが人間の我というものだ、それは外であっても同じだが、この中ではその相克をも抑え込んでしまう権力が出来上がってしまっている。ここには或る完全な支配が、それこそ外では誰も口にしない《世界征服》が成り立ってしまう。

 ――世界征服!

 ――笑いたそうな顔をしているな。だが、良く考えてみるといい。史上に表れてきたそういう恐怖政治が、圧倒的な独裁が、これまで遂に続かずに来たのは何故か? 偏に、その世界には常に外があったからだ。幾ら強固な国境線を築いた所で、枠の中で渦巻き嵩を増す人の我は、いずれそれを乗り越えて繋がっていく。だがこの塔は、絶対的に閉じているが故にそれを捩じ伏せてしまう。――この箱の最たる特質は、その高さではなく閉塞性なんだ。全ての価値体系を天国への位置的な到達度の下で一直線上に組み直し、人々を否応なしに唯一絶対の方向へと導いていく。それは外部からの干渉という津波を受けない――そこで俺が考えているのは、ここに或る地震を起こすことなんだ。

 ――地震を?

 その言葉の響きに穏やかならざるものを感じて、シェーミは聞き返しながら肌の粟立つような思いがした。

 ――そうさ、地震だよ、王子はシェーミに答えて言ったが、その視線は自分の足元へ落ちていた。恰もこの一瞥で、大地にその力を補給せんとしているように。

――人間性を囲い込む壁を外から越えることが出来なければ、中から崩してしまうまでだ。それはまさに人間性そのものによって齎されるだろう。摩擦するプレートは無視される下層民の不満であり、貯め込まれたエネルギーは彼らに人権意識が芽生えると共に発散される。大臣達は結局のところ、広場の住人達を心底で人間だと認めている、彼らを市民達にしているのと同じやり方でいつまでも抑え込むことが出来ると思っている……だが実際はそうではないだろう、人権意識は生物の進化過程にあるものであって、人権を与えられない者はいつかその意識に目覚めて不当を訴えるようになるものさ。幸いにも連中はそれにまだ気付いていない、今のやり方への拘泥ぶりを見た所では、恐らく考えてもいないんだろう。俺は――いや、抑圧された人間の我はそこを突く。その為には、今は彼らに辛抱して貰わなければならない。歪みは溜まれば溜まるほど都合が良い……。

だから、と王子は、不意に顔をシェーミに向けて上げた。一方でそこまで高揚してきた声の調子は、それに引き換えるようにして俄かに落ちた。

 ――俺は君を、人として扱う訳にいかないんだ。早過ぎるんだ、まだ時間がいる、まだ広場の者には疑問が芽生えてはいない。ここで君たちを民として認め、人間の内に取り込んでしまっては、この箱は永遠に閉じられてしまう。だから俺には出来ない、君を隣に……ああ、ましてや……!

 シェーミは眉を顰め、訝しげに視線を宙へと這わせて考え込んだあと、そこに浮いていた疑問の固まりが突如として爆発四散したのを見て目を丸くした。丸く開いた口は暫くそのままだったが、やがて笑い出しそうに綻んだり、かと思うと物憂げに唇を噛み締めたり、目まぐるしく変化した挙げ句に、打って変わって真一文字にきつく結ばれ、素早く伸びた掌と共に直截な以下の一言を王の顔へ叩き付けた。

 ――あなたも

 このとき起こった一筋の乾いた破裂音、それはいかにも銃声に似ていた。音は箱の中で幾重にも反響しながら方々へ広がっていったが、これを聞いて腑の冷える思いをしたのは奇しくもドームの人々のみであった。広場はもちろん街の民からも武器は慎重に取り上げたのだから、銃であればそれは自分達の所有物に違いないのに――彼らはその音に、確かに或る反抗を聞いて取った――長い調教を経てやっと全てが抜け落ちたに思われていた、あの生意気な意地の牙!

 王は腫れた頬に手をやったまま、呆然とシェーミを見上げた。撲られた勢いに態勢を崩して、彼はこの下衆の足元に殆ど跪くような格好であった。

 ――さあ、どうします、王様! たった今この下民は――いや、民ですらないような非人が、あるまい事か、ここに王の横面を張ったのです!

 ――意味が分かっているのか?

 ――分かっていればこそです。あなたはあるものを誰よりも分かっているかのように語り、その一方で分かっている事から目を逸らそうとし、分かりようのない事があればこの世に無いものと看做そうとする。それが間違いだと私に気付かせたのはあなたではありませんか! 人間の我が絶えないものだと思うなら、どうして保護しなければならないなどと考えるのです? 或る絶対性が人間性を完璧に囲い込み得ると思うのなら、ここで悩み始めているあなたや、それを撲って怒鳴り散らしている私はどういう存在だというのです!

 その時シェーミに宿った威力には、どういう根拠があったのだろうか。天井が破れて空が見えるように、壁が崩れて風が吹くように、という言葉から後に王は統合演説を始めるが、それはやはりこの瞬間に確信され、発想されたのであろうか。

 ――おまえを許さんぞ。この狼藉は一生をかけても贖ってもらう。

 王はそう言って、笑いながらシェーミの手を取る。

やがて各方面に手回しが始まる――誰からの? 王からでもあり、それを察知した大臣達からでもある。二つの流れはしばらくシェーミ個人の処遇を巡ってぶつかり合ったあと、さらに先の方に見える問題へ向けて、それぞれに支流を作って別れていった。

そういう一連の展開は、少なくとも町民や貴族達から見れば美しかった。若き王が愛を知り、箱に長く翳っていた不平等を撤廃するまでのストーリー。貧しさの中で心の光を失わなかった少女が、やがて幸せを手にするまでの物語。それは長らくシェーミが語り続けた御伽話たちによく似ていた。そうした話を唄い続けた語り手に訪れる結果として、それは確かに相応しく思われ――そして幾分かは物足りなかった。

 

 

 

 不穏な予感は、街の様子の凪ぎ方にこそ顕れて見えた。それは津波の前の引き潮のように大人しく陰険に、また地震の兆しの夕焼けのように美しく薄情に、遠く水平線の彼方、あるいは深く地層の奥底に全ての禍々しさを一時的に寄せ集めていたので、却って地表は斯くも清浄に澄み渡っていた――その雰囲気は人々に作り出されながら、無人の荒野のように寒々しかった。

 広場の中心には舞台が組まれてあった。民衆は年輪のような同心円を描きながら、それを遠巻きに囲んで見つめていた。彼らの視線が備えていた冷たさと静かな圧力とは、荒野に吹く風にこれを喩えるのに格好の性質であろう――その風は円周から舞台へと集まってぶつかり合い、今はまだ小さな旋風として、ドームの方に向かって巻き上がっていた。

シェーミが広場の端、ドームとの連絡路出口に通じる方の街路の一つから現れ出てくると、風の渦は一度きり止んで、彼女がその中へ入るための道を空けた。それでもどこか遠くでは、霞を切り裂く鋭い唸りが、パレード道の裏手にまで箒を掛ける掃除夫のように入念に鳴り続けていた――まるで、この場には一片の曖昧さも許さぬと言わんばかりであった。

視線は円環を閉じた。中心は台風の目のように静かだった。だがシェーミは、自分のある一点に刺すような風圧が確かに掛かっているのを感じていた。見られていたのはシェーミでもあり、そうでないとも言えた――そこに在ったのはシェーミの腹であり、しかもそこに居たのはシェーミではない何者かだったのだ。

それは貴族達には勿論に了解されていたし、町民達も疾うに感付いている事であったが、広場の者達にとって了解や発見だけで到底そのような認識は済まされなかった――誰が彼女を妊娠させたのか?――それは彼らにとってそのような実際問題としてしか形を取らず、しかも他ならぬその低俗さの為に、町民達の持つような唯の興味よりは一層切実であった。

彼女を孕ませたのは誰だ? 我々にいつでも隔てなく遠く眩しい場所の、血沸き肉踊る、胸打つような話を語り続けてくれた彼女を、ああも唯一の何かとのみ番いにしてしまったのは?――彼らはその煮え滾った感慨を心の裡で呟いてみる時、一様にそれを男への憎悪の形に溶かし込んだが、もう少しありのままにその溶解物の名称を述べるとすれば、それは即ちただ《不安》という号であったろう。彼らに我慢がならぬのは、シェーミのその成り行きが余りにも彼女のしてきた御伽話によく似ているからである。あくまで作り話として、遠く眩しい場所のものとして聞いていた物語と同じように彼女の人生が推移したならば、それはそれ自体が一つのよくできた物語となるに違いなかった。逃れようもない貧しさの中で強いられる生活から、シェーミは彼らが彼女の物語の中でしていたように逃避してしまうに違いなかった!

叶わぬならば夢とは必ず、起きている者によって語られなければならない。もしも語り手自身がそちらへ行くというのなら、聞き手も同じ手段で同じ所へ運ばれて然るべきであった。しかし彼女は事もあろうに、遠さと眩しさの極致にある人と最も直接的な、そして替えの効かない形で結び合ってしまったのである。彼女が処女であったこと――確証はないが、誰が必要とするだろう?――はその取り返しが付かないという感を更に強くし、なれば広場の民は、そうした感情を男への憎悪に向けて流すしかなかった。さもなければこの溶融物は簡単に女による或る《裏切り》を鋳造して、彼らの心の中でいつまでも重く冷たい異物となる外なかったであろう。

シェーミは提いできた琴を構えて、いつもより長い時間、人々の群れを眺めていた。自分の腹に視線の注がれるのには慣れていたものの、彼女は決してそれだけが原因でない違和感をどこかに見出して戸惑っていた。

それはムードではない、なにか一点の異質であった。シェーミが物語の材料として迎え入れるべき視界の外から、それは彼女を見詰めていた。彼女の――これから王と共に作ろうとしていた――秩序、シェーミの持ち得る弁証法の射程から意志的に外れようとする人間のいる事を、それは物言わずして示していた。

シェーミは少なからず動揺し、これをどう取り扱うか暫らく迷った後で、結局はいつものように――つまりは技巧的にして天上的な、他人の気持ちを推し量る想像力と慈愛とに満ちた音で――語り始めた。そして今や一部が否定されたとは言え、驚くべきことに、それは世界の九割九分九厘に対して未だ的確な働きを持っていた。

この時の物語によって引き起こされた感動が一つの波に喩えられるとすれば、それは何と雄大にそして劇甚に、集った人々を包み込んだ事であろう。それはいかにも水のように、大きさと形とを千々に変えては人の心に浸み渡り、渇きがあればこれを潤し、汚れがあればこれを洗って、全てが凪いで穏やかな水面を後に残した。即ち広場の民たちは、既に自覚の有無に関わらず抱えつつあった疑団を洩れなく融かされて、今や再び彼女の味方となったのである――だが、かの異様は、それら圧倒的な感動の全てを避わして、依然として冷たくシェーミを見つめていた。

そして、その瞳に温かみが篭もる機会は、琴を床に降ろした彼女が以下のように語り始めたとき、とうとう完全に失われたのであった。

 

「人はかつて、天国への行き方を知り得ませんでした。そして知らないことは、即ち辿り着けないということでした。

然るに人は、天国への乗り物たるこの箱を得ました。それは乗り込み、震えが止まったのち降りればそこが目的地であるという性質であり、また行き先までの旅人の時間と体力とを、移動の実感や相応の賃金と引き換えに節約するシステムです。この世に生を受けて以来これまで、そしてこれ以後も死まで永久に歩き続ける旅人であるわれわれにとって、それは紛う事なく助けになる便利なものです。

しかし、その便利の先に我々が到達する場所は、果たして如何なる根拠から「天国」と呼ばれるのでしょうか。我々は本当にそれを「天国」と呼んで構わないのでしょうか。

 乗り物とは人を何処かへ運んで行くもの、まずこの定義は間違ってはいないでしょう。だとすれば「天国」への「乗り物」を得たわれわれはもはや択ばれる為にあれこれ謀り事をしたり、他人との間に優劣を付ける必要を本来なくしたはずなのです。一等客室に居ようが、三等客室に居ようが、その目的地においてわれわれは皆同じ場所に降り立つのでありますから。

しかし、実際に今この箱を見れば、そこに有るものはなんでしょうか。この広場に集まっている者達を、街の人々は、高貴な方々は何と呼び表しているでしょうか。明らかに同じ身体のつくり、等しい心のはたらき、喜び、哀しみ、希望を持っているそれら――しかし彼らは人でないと言います、では何が違うのか? 生れが、育ちが違ったのだと言います。ではその違いは何故あるのか? それはただ有るのだと言います。

私はこれらの答えに敢えて異を唱えます、実際にはそれは必要によって生じ、要請によって保たれているのに過ぎないのです。それでは、その必要はどこから来ているのか? 思うに、人間は――いや、この箱の人は皆、進歩の希望を失った事を脅えているのです。

私の育ての親であった人は言いました、「人は天国へ行けても、行く事ができてはいけなかったのだ!」と。昔は解せなかったこの言葉を、私は今ようやく語ることができます。即ち以下のように問い掛ける事によってです――私たちは何を行為するにも目標たる目的を必要とするが、その目標を目的たらしめているものは目標自体ではなく、その魅力に反応して、われわれが各自に抱く前進の意志なのではないか、と。

 われわれは必ず死を迎えねばなりません。死はわれわれ生き続けるものから見ては、或る完全な《停止》です。そしてそれは、そのまま乗り物と搭乗者との関係にも喩えられましょう。自身でどんなに進歩したと思っても、われわれの精神それ自体は歩く術を持たず、ただ身体という乗り物に開いた二つの窓から外を見ているだけの旅行者であるのです。機関の循環がただ一度途切れれば忽ちのうちに放り出され、その瞬間にもう永遠に固定されたまま、惰性で現世を進んでいく身体が風に吹かれて滅びていくのを見届けるしかありません。そして乗り物から離れた搭乗者は誰にも認められないのです。生き残った人々は骸を、彼ではなく彼の乗っていただけの乗物を見つめて、今まで確かにそこに居た、身体のある所に即ち必ず存在した彼がもう居ない、という不思議に思いを馳せるのです。

動物が動かなくなるということ、生物が生きるのを止めて只の「物」になるという変化――死の驚異とは畢竟そこに拠るのです。人生の運命を線路と考える比喩は乗り物の発達以来盛んに用いられて来ましたが、では線路を往く動体、人生を生きる主語は何であるのかと言えば、これは実のところ物語りをするわれわれの精神ではなく、乗り物としてのわれわれの身体であるのです。何故なら明らかに人生は身体の始まりと共に始まり、身体の終わりと共に終わるのですから。人生とは確実に終わりが用意されているという点で、物理的に範囲を限定して物語を存在させる《本》と似たようなものです。そこで語られる運命には必ずプロローグたる起点があり、そしてクライマックスであるところの終着駅があるのです。それゆえ人生とはある人にとって贖罪であったり、ある人にとっては暇潰しであるというような事にもなるのです。

 どんな人生にも今までのところ、確実に終わりというものは用意され、暗黙裡に誰からも了解されてきた訳です。われわれは死に屈服し続けてきたのです。

この文脈から受け兼ねない誤解を前もって払うために申しますが、私が言いたいのは、今こそこの相手に弓引く時であるというような事ではありません。われわれの頭上には今や空間のみでなく時間までも飛んで天国へ近づこうとする乗り物が用意されつつありますが、それとて本当に役に立つのかどうか、私は疑っているのです。

畢竟の疑問はこうです、――天国とはわれわれが行く所であるのか、それとも向こうから来るものであるのか? 私達は混乱して判断を付け兼ねています、そこが生きて辿り着くべき場所であるのか、それとも死と共にやってくる状態であるのか。それは遠くから徐々に見えてくるのか、それとも或る時、忽ちの内に足元に現れるのか。そして私たちは恐らく、既にどこかで誤ったのです。今のわれわれは万人が与えられるまで待つしかないものを自分一人で獲ろうとするくせ、自分独りで取りに行かねばならないものは万人と同じく指を銜えて俟つだけなのですから。生と引き換えに齎されるものを拒みながら、死の代わりに与えられるものを得るのは不可能なのです。

私はここにおいて、はっきりと思っていることを申し上げます――われわれの上に天国があることの意義は、そこへの到達というよりは、そこへ向かってともかくも続けられる進歩にこそあるのではないでしょうか。われわれは生きているということがその根拠です。生きている事はそれ自体が死の拒否の表明であり、その受諾はたった一度「死」を行為することによって示されます。その先には言葉も、また表情もありません。死とはわれわれに起こりうる、唯一完全なる《言葉の喪失》だと言えます。誰にも語られぬその空白に天国を組み上げていったのは、結局のところ言葉を語り得るわれわれなのです。

私はこの上に天国などないと言いたいのではありません、それは私たちが信じるからこそあるのです。そもそも天国というものについて、皆さんは以下のように考えることができないでしょうか、また考えてみたことはないでしょうか――われわれの見送る死者が向こうでせめて安らかであるように、われわれは未だ命ある者からの精々の手向けとして、それを思い描き願うのであると。少なくとも私は過去にそのような場所として自分の中の天国を創り出しましたし、今もそのようにしか考えることができません。そこにはこれまで私が出会い、そして別れてきた人々が、三人称的な――客観的というより正確だろうと思ってこういう言い回しをするのですが――死後を穏やかに暮らし続けているのです。

このような天国を描くことは、果たして無意味でしょうか? そういう世界への入り口としての死を死ぬことは、あなたにしか許されていないのでしょうか。あなたがそれを他人に許さないとすれば、あなたは死んだ後どういう天国へ行くのでしょう、そこにはあなたを幸せにする誰がいるのでしょう? そこにはいったい何があるのでしょう?

もし皆さんが体に乗って人生を生きるまま、時の流れる中で前へと進むのに意味を見出せずにいるのであれば、私は他人に天国を許すこと、あくまでこの本を読み進めて生きることを、ささやかにでもお薦めしておきたいのです。あなたはそれによって誰かから救われはしません。しかしあなたは自分で自分を叱れるようにはなるかも知れません。人間らしく腹を立てたり、泣いたり、笑ったりするということを、われわれはかつて死を先に待つが故にしてきたのですから。――

 先の物語と同じ性質の余韻に、広場は水を打ったように静まり返っていた。潤されて洗われた人々は、誰もが湧き起こる感動の裡に知らず我を失って、或る一つの疑問の前に一様の立場から対峙して自らに問うた――われわれは選び得るのではないか?――ただ一人を除いて。

 シェーミが拍手を受ける中どこからともなく広場に現れて、彼女が降りるのと入れ替わりに壇上まで昇り、今や興奮と盲目の内にその布告を待つ民へと語り始めたばかりだった王を、突如として狙い撃ったのは誰であったのだろうか?「天井が破れて空が見えるように、壁が崩れて風が吹くように」とだけ言った所で胸に風穴を空けて広場の地面に落下していった王、それを見て悲鳴を上げる人々――その中で一人だけ冷静であったのは、果たして誰であったのだろうか? その凶器が銃であった事は、しかし犯人を特定する証拠としての力をすぐに失ってしまった。王政に代わって敷かれた大臣達の合議制のもと、あらゆる人間が混ざり合って暮らすように世の中が変化してしまった後では、あのとき銃などというものを所持し得る身分は限られていたであろうことに気付いた者がいても、慌てて詮索を打ち止めるしかなかった――彼の部屋の壁は薄く、隣からは元ドーム居住者の昔話がよく聞こえてくる。

 民の間から差別を取り払うという王とシェーミの目的は、ともかくも達成された。たとえその代償に夫を失い、もはやそれ自体の意味を持たない筈の広場での居住を強いられ、不明瞭な趣旨の新法によって著作と唄を禁止さえされても、寡婦となったシェーミにとってそれは生まれて初めての喜びであり、誇りであった。

「天国は君が作る」

 王は二十五歳のシェーミの胸の中で息絶える。

 

 

 

 王の死から半年余り経って、彼女は双子を産んだ。一人目の男児が生まれたあと、産婆役が「まだいるようです」と叫んだとき、シェーミは何かを悟ったようであったという。彼女はその声の方ではなく頭上に向かって「分かりました」と言った。産婆役はその律儀な言い方に可笑しみに似てどこか非なるものを感じながら、それでも役割を思い出して適切に、二人目を分娩した。

 男と女の兄妹であった。女児が取り上げられて産婆役の腕の中で身を捩った瞬間に、その産声をも掻き消して、万人の耳を聾するような大音声が鳴り出した。

それは咎めるような嗤うような、そして何やら誰かを急かすような音であった。やがて箱に住む人は一様に聴力を失ってしまったが、それは腹の底へと震いを起こして響き渡り、言い知れぬ不安の下に幾昼夜となく苛み続けた。

産褥から起きたシェーミは、彼女を補助していた少女へ双子の世話を頼むと、不意に広場から姿を消した。

ドームの円周上の或る地点、かつて人々をそこから迎え入れ、今では幾重の封鎖の向こうから彼らを閉じ籠めている扉の傍らに、その文様は浮き出ていた。音は鳴り続け、床は細かく震え、扉の向こうからは僅かに白い光が差し込んでいた。冷たく清浄な風が舞い、箱の中の人々の多くはそれを知らなかったが――花の香りが柔らかく踊っていた。

シェーミはボタンを押した。

 

双子をあやしながら少女は不意に、麻痺していた自分の耳が感覚を取り戻しつつあるのに気付く。下から上の閾値にかけてを埋め尽くしていた絶叫のような騒音が、微風に積もった灰の浚われるように引いていき、やがて冷えて悴んだ手の温まっていくように徐々にだが確実に、その声を胸の中へと広げていった――それはシェーミの唄だった。

人々は聴くことができるようになった。人々はこうして遂にそれを聴いたのだ。もっと、と唄をせがむため、或いは礼を述べるため、或いは禁を破って唄ったことを早速謗ってやるために、彼らは声のする方へと気も漫ろに列を成して歩いていった。扉に近づくにつれ、彼らは全く体験したことのない、しかし懐かしい温かみと眩しさ、匂いと光とに包まれていくのを感じた。

扉は彼らの前で今まさに、天国へ向かって開こうとしていた。

しかしシェーミの姿はそこになく、気が付けばその唄も聴こえなくなって、代わりに素晴らしい安らぎと限りない喜び、報いと赦しの予感に満ちた白く穏やかな世界の呼び声が、荘厳に、そして緩やかにそこから響いてくるのであった。

少女の胸に抱かれた二人の嬰児は、まだ開かない目を眩しそうに瞑ったまま、しかし嬉しそうに微笑みながら、その手を伸ばして小さく開いてみせた。


モドル