軽太子悲恋
 
 允恭天皇の皇子に木梨之軽太子(きなしのかるのみこ)とおっしゃる皇子がおられました。今日はこの皇子の悲しい恋のお話をいたしましょう。
 
 「後ろの正面だあれ。」
 「ふふ、お声でわかってしまいますわ、お兄様でいらっしゃいますね。」
 軽太子をお兄様とお呼びになるこの姫皇子こそ、その美しさから後に衣通郎女(そとほりのいらつめ)とお呼ばれになられることとなる軽大郎女(かるのおおいらつめ)でございます。
 お二人は本当に仲がおよろしい御兄妹でございました。
 まだ幼くていらしたお二人ではございましたが、軽太子様は軽大郎女様のことを大変愛していらっしゃいました。しかし、異母兄妹の御結婚には大らかであったこの当時においても同母の御兄妹の御結婚は、許されざる禁忌でございました。
 しかし、皇子様は妹君をたいそうかわいがっておいででした。そして妹君も皇子様を愛しておいででした。
  やがて皇子はたいそう立派な青年になり日継ぎの皇子となられました。一方、姫様もそれはそれはお美しい姫にご成長になられました。
 皇子様の妹君をお思いになられるお心は、日々増ばかりでございました。とうとう、お父上が崩御されていまだ即位なされる前のある夜、皇子様は皇太子というお立場ながら、姫君の寝所に忍ばれて契りを交わしておしまいになられてしまったのです。
あしひきの 山田を作り 山高み 下樋をわしせ 下どいに 我がとふ妹を 下泣きに 我がな泣く妻を こぞこそは 安く肌触れ
(山田をつくり、山が高いので水を引くために下樋を走らせる。そのように、人目につかぬようひそかに私が言い寄る妹に、人目を忍んで人目を忍んで私がひそかに慕い泣く妻に今夜こそは心安らかに肌に触れることよ。)
皇子様はこうお歌いになられました。これは志良宜歌(しらげうた)でございます。またお歌いになった歌は、
笹葉に 打つや霰の たしだしに率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
(笹の葉に打ちかかる霰の音のたしだしに、たしかに共寝をした後ならば、あなたが離れて行ってもかまわない。いとしいと思って寝さえしたなら。(かりこもの)二人が離れ離れになってもかまわない。いっしょに寝さえしたなら)
これは夷振りの上歌でございます。
 この密通事件は朝廷の官吏や民の知るところとなって、太子であられる皇子様にそむいて、穴穂皇子に心を寄せるようになりました。周囲のみなのお心の変わりように恐ろしくなった皇子様は、大前小前宿禰の大臣の家に逃げ込みになられました。そして、帝位を窺う穴穂皇子の襲撃にお備えになられて弓矢の準備をなさいました。そして、皇子様の御懸念のとおり、穴穂皇子も武器と手勢を御集めになられました。そしてとうとう穴穂皇子は、軍勢を興して大前小前宿禰の大臣の家をお囲いになられました。その軍勢がその家の門にたどり着いたとき、にわかに大変な勢いで氷雨が降り始めました。そこで穴穂皇子がお歌いになられるに曰く、
大前 小前宿禰が 金門蔭 かく寄り来ね 雨立ち止めむ
(大前小前宿禰の大臣の家の金門陰にこのように寄って来い。ここに立って雨の止むのを待とう。)
すると当の大前小前宿禰が、手を挙げ膝を打ち舞を舞い歌を歌いながらやって参りました。その歌に言うには、
宮人の 脚結(あゆい)の小鈴 落ちにきと 宮人とよむ 里人もゆめ
(宮人の脚結の紐につけた小鈴が落ちてしまったと、宮人が騒ぎ立てている。里人も騒ぐことなく斎み慎めよ。)
この歌は宮人振りという歌でございます。
  大前小前宿禰はこのように歌いながら参り来られて、「我が天皇の皇子よ、同母兄に戦いを仕掛けますな。もしそのようなことをされれば必ず世間は笑うでしょう。」と申されました。そこで穴穂皇子は、屋敷の囲いを解かれて後ろにお下がりになられました。 大前小前宿禰は軽太子を捕らえて穴穂皇子のもとへ伴って参上しお引き渡しになりました。
 皇子様は捕らえられてこうお歌いになられました。
あまだむ 軽の嬢子(かるのおとめ) いた泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く
(軽の少女よ。おまえがひどく泣けば、人が私たちの仲を知ってしまうだろう。だから、波佐の山の鳩のように、おまえは忍び泣きに泣くよ。)
 またお歌いになって、
あまだむ 軽嬢子 したたにも 寄り寝てとほれ 軽嬢子ども
(軽の少女よ。しっかりと私に寄り添って寝ておいで。軽の少女たちよ。)
 さて、皇子様は伊予の湯(現在の愛媛県松山市道後温泉)にお流しになられることとなりました。皇子はお流しになられる時にまたお歌いになられました。
天飛ぶ 鳥も使そ 鶴が音の聞こえむ時は我が名問はさね
( 空を飛ぶ鳥も使者なのだ。鶴の声が聞こえたら、私の名を言って、私のことを尋ねておくれ)
 この三歌は天田振りの歌でございます。またお歌いになられて、
王(おおきみ)を 島に放らば 船余り い帰りこむぞ わが畳ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 我が妻は夢
(王である私を、四国の島に追放したら、私は帰って来るぞ。その間、私の畳はそのままにして汚さぬよう気をつけよ。言葉でこそ畳というが、じつは、我妻は決して汚れぬように慎めよ。)
 この歌は夷振りの片下ろしでございます。皇子のお相手の姫、衣通郎女は皇子に歌を献上になられました。その歌に、
夏草の あひねの浜の蠣貝に 足踏ますな あかして通れ
(あひねの浜の牡蠣の貝殻に足を踏み入れてけがをなさいますな。ここで夜を明かしてからお通りなさい。)
 そして、皇子の立たれた後に、姫は皇子を恋い慕い耐えず追いかけて往くときに、お歌いになられて、
君が往き 日長くなりぬ 山たづの 迎えを行かむ 待つには待たじ
(あなたの旅は日数が長くなりました。お迎えにまいりましょう。もうお待ちすることはいたしますまい。)
 そこで姫が皇子に追いついた時、皇子は待ち迎えてなつかしく思って歌をお歌いになったのでございます。
隠りくの 泊Pの山の 大峰には 幡張り立て さ小峰には 幡張り立て  大峰よし 仲定める 思ひ妻あはれ 槻弓の 臥やるも臥やりも 梓弓 起てり起てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ
泊Pの山の大きな峰には幡を張り立て小さな峰にも幡を張り立て、仲も定まった私の愛しい妻よ、ああ。臥しているときも、立っているときも、これから後も世話をしたい愛しい妻よ、ああ。
という歌でございます。また歌を歌って、
隠りくの 泊Pの河の 上つ瀬に斎杙を打ち 下つ瀬に真杙を打ち 斎杙には 鏡を懸け真杙には 真玉を懸け 真玉如す 吾が思う妹 鏡如す 吾が思う妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲はめ 
泊Pの川の、上流の瀬には神聖な杭を打ち、下流の瀬には立派な杭を立て、神聖な杭には鏡を懸け、立派な杭には玉を懸け、その立派な玉のように大切に思う妻、その立派な鏡のように大切に思う妻その妻がいるというのならば、家に訪ねても行こうし、故郷を懐かしく思いもしようけれど
 こうお歌いになって皇子と姫は手に手をとって共に御自害なさったのでございます。そして、この二つの歌は読歌という歌でございます。
 古事記にあるお二人の物語はこれで終わりでございます。しかし、日本書紀の同じ事件を記している段では姫のみが伊予に移されたと結んでございます。本当はお二人そろって伊予にお移りになられて末永く幸せにお暮らしになったのでは、そう願わずにはいられません。