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新聞記事

「ちょっとそこまで(389)ジンギスカンのルーツを探る 山形」山形新聞 2005年(平成17年)3月29日(火)掲載

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最近、東京周辺がジンギスカンブームに沸いているらしい。羊肉は脂肪分が体内に吸収されにくいとされ、健康を気遣う現代人がこぞって食べている。

そのジンギスカン。実は蔵王が発祥の地らしい。子どものころから、こんな話を聞いてきた。

「ジンギスカンは本当に山形で生まれたのか?」

長らく抱えていた疑問を解消するため、蔵王温泉観光協会に足を運んでみた。

 岡崎良治専務理事(58)は「ジンギスカンのルーツは、蔵王にあると信じています。生き字引のところに行ってみましょうか?」。 早速向かったのは、山形市蔵王半郷の専門店「ジンギスカンシロー」。
道路拡張の影響で、やむを得ず蔵王温泉街を離れて三年半余りになる。

 岡崎専務とともに、二代目の斎藤恒夫さん(80)が待つ店内へ。くぐったのれんに「元祖」の文字。伝統とともに強い自負心を感じた。

羊料理で農家を救済
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聞けば、恒夫さんの本家の伯父、故斎藤忠右衛門さんは日本綿羊協会の元会長。大正初期、オーストラリアから生体輸入を始め、県内をはじめ主に東北各地で綿羊飼育を奨励した。

第二次世界大戦で日本は敗戦。シベリアに抑留されていた恒夫さんは、終戦から二年以上が経過した1947(昭和22年)10月にようやく帰国を果たす。  忠右衛門さんは旧堀田村の村長に就任していた。村に戻った恒夫さんに「これから羊料理をやってみろ」と助言した。化学繊維の普及で羊毛の価格が暴落し、行き場のない羊を抱えたいた農家を救済する必要があった。

かつて忠右衛門さん、綿羊協会の会長としてモンゴルに渡り、綿羊飼育の技術交流をしたことがあった。その際、目にしたのが。中央が盛り上った円盤状の鉄かぶとに、大量の羊の肉を載せた料理だった。

それを聞いた記者の腰が思わず浮いた。「今のジンギスカン鍋そくりじゃないですか!」。興奮から、メモの文字が次第に大きくなる。

鉄鍋スタイルは47、48年ごろ確立

「もともと羊肉のくし焼きのような料理をジンギスカンと呼んでいた可能性があるが、今のように鉄鍋で調理するジンギスカンが誕生したのは間違いなく蔵王」と断言するのは、岡崎専務の実兄で蔵王温泉郷土史研究会の岡崎良穂会長(63)=なかむらや旅館代表=だ。

恒夫さんが忠右衛門がたどった記憶と岡崎会長が聞いてきた話を総合すると、忠右衛門さんらは山形市銅町の業者にジンギスカン用の鉄鍋を発注。旧堀田村役場近くの「才三郎そばや」で試食会を開くなどし、蔵王流の「鉄鍋ジンギスカン」は47年か48年ごろに今のスタイルが確立した。

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蔵王は50年、新聞社主催の新日本観光地百選・山岳の部で見事一位に輝く。岡崎会長によると、忠右衛門さんから村長を引き継いだ故青木甚一郎さんがこのジンギスカンに注目し、蔵王の名物料理にしようと旅館のおかみを集め、たれの作り方まで指導した。

諸説はあるが、山形で誕生したジンギスカンが全国的に知られるようになったのは、蔵王で冬季国体が開かれた59年以降とされる。

「北海道をはじめ全国のスキー線選手がジンギスカンを食べて感動し、肉と鍋を求めて店に殺到したのがまるで昨日のようです」

取材の後、一緒にジンギスカン鍋を囲んでいた恒夫さんがつぶやいた。「元祖」に偽りはなかった。(報道部・古頭哲)

メモ

蔵王温泉観光協会などによると、同温泉では、現在、約10軒の食堂と3割程度の宿泊施設がジンギスカンを提供している。
「ジンギスカン・シローは」木曜日と第4日曜日が定休日。羊肉の販売も行っている。同店023(688)9575。