春は名のみの [1]


 闇はどこまで行っても闇なように、この男もまた、自ら堕ちた闇夜から抜け出せないでいた。
 五尺八寸の身の丈ながら、腰の大小さえ不釣合いに見えるほど、疲れ果てて生気は消え失せ、尻に揺れる煙草入れの糸亀甲に覗き桔梗だけが、誇りにしがみついていた。
 時は文久二年。
 先の黒船来航から始まった尊皇攘夷の運動は激しさを増し、志士たちの巣窟となった京では長州の桂小五郎、土佐の武市半平太らの指示による天誅の嵐が吹き荒れている。
 この男も京にいた。尊攘運動の先駆けである水戸藩の出身であった。
 が、志士ではなかった。
「きゃー。」
 突然女の悲鳴が響きわたる。
 往来の人がざわめくなか、この男だけは見向きもしない。
 女の悲鳴など今の京では珍しいものではない、と割り切っているのか。
 しかし、荒い吐息と不揃いな足音は徐々にこの男に近づいていた。
「お侍さまぁっ。」
 女はこの男の袖に縋り、背に身を隠す。
 別にこの男を見込んだわけではない。武士と呼べる者が、ここにはこの男だけだったのだ。
「その女をこちらへ渡してもらいたいでごわす。」  女を追って目の前に立ったのは薩摩髷を結った志士風の男だ。
「それはできんな。」
 低いが明瞭な声で答える。
「おいどんは薩摩藩士、有馬新七でごわす。ご貴殿は?」
 有馬はこの男が一筋縄ではいかないのを察したのか、やり方を変える。
「おれは猪又春介、国は水戸だ。」
 この男、猪又春介は武士らしく正直に答える。
「ならば同志でごわんど。その女は幕吏とつながりがありもさ。我等の動きを探っていたでごわす。」
 春介の身なりを見て、春介を水戸の尊攘志士と判断した有馬は少々の信頼をのぞかせ、誠意のある物言いをする。
 春介は自分の着物をつかむ女をちらりと見た。
 幕吏の密偵などという、度胸のある女には見えない。
「もし・・・。」
 春介はそれだけ言うと右手を腰のものに添える。
「もし、この女が密偵だとしたら、それは気にくわん。」
 刀が鞘から離れる音に合わせて、後ろの女が小さな悲鳴を漏らす。
「なれば・・・。」
 有馬は手を伸ばす。
「だが・・・。」
 次の句を告げはじめた春介の眼光に、有馬は出した手を引っ込める。
「白昼堂々、女を追うというお主も気にくわん。久光公のご上洛で尊皇攘夷の気運も高まる薩摩藩士の振る舞いとは思えぬ。」
 言い切る春介の手元で日光を浴びた刃がきらめく。
 有馬は無言で春介を見据えたまま、石のように一寸も動こうとしない。
「女を追うのなら、俺の見ていないところでするんだな。それほど幕吏に知られるのが怖いのなら、月のない闇夜にでも天誅の名のもとに斬りふせるといい。」
 静かではあるが、重みのある春介の言葉に、女はいよいよ震え出す。春介の着物から手を離し、足を一歩後ろへ踏み出した履物をする音が、静寂のなかでやけに大きく聞こえた。
「よか。その女は追いもさん。」
 有馬は完全に沈黙を破って口を開いた。
 女はそれを聞いて、脱兎のごとく逃げ去る。
 女が逃げ、悶着は解決したのだが、有馬と春介は尚も対峙していた。
「おいの方は猪又殿を気に入りもした。今、寺田屋にいもさ。是非、一献。」
 またも沈黙を破ったのは有馬であった。笑顔さえ見せている。
「機会があれば立ち寄らせて頂く。」
 春介は刀から手を離した。
「では、いずれ。」
「御免。」
 春介と有馬は同時に踵を返すとそれぞれの方向に歩きだした。



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