春は名のみの [2]


「斉昭公・・・。」
 定宿にしている四国屋の二階でうたた寝をしていた春介は心に浮かぶ幻の中の主君に呟く。
 水戸の烈公と、親戚にあたる将軍家からも恐れられていた徳川斉昭が病によりこの世を去ったのは今から二年前の万延元年のこと。
 その夜、春介は脱藩した。
 副将軍、徳川光圀を祖とする水戸学の尊皇攘夷思想は水戸学者藤田東湖によって、多くの若者に伝えられた。その東湖を常に側近くに置き、重用した斉昭は水戸の尊攘派の大いなる砦であった。
 人一倍強固な思想をもち。人一倍国を憂いていたこの十九歳の青年は僅かな同志に見送られ出奔した。
 友の期待と夢を背負って。
「小四郎・・・、疾太・・・、俺は・・・。」
 共に盃を酌み交わし、剣の道を極め、国事を語りあったあの顔が映りだすと春介は頭を抱え込む。
 息づかいは荒くなり、額には脂汗が滲む。
「うぉぉぉぉぉぉ!」
 突如、春介は吠え、傍らの刀を手に取ると立ち上がった。
 水戸を出てから二年。
 春介にはこんな夜が度々あった。
 志高く故郷を離れたものの、何をすべきかわからずにいた。何もしていないことに焦りを感じている。
 しかし、何かが春介が今の京の狂気に染まることに抗っていた。
「出かけはりますの? 危のうおまっせ。」
 宿を出ようとする春介に女中が声をかける。
「案ずるな。」
 春介はかまわず外に出た。
 御用提灯も春介には何の意味もなかった。何もしていない春介は志士ではなく、どんな危険思想も人には言えぬ経歴も持ち合わせていない。唯一の罪である脱藩も、この京においては傷の一つにも数えられなかった。
 だから、気晴らしに酒を求めて、血の匂いのする小路を歩いても身の危険に晒されることはない。
 四月とはいえ夜はさすがに冷え込む。
 春介は両の手を着物の袖口から懐に入れ、ゆったりとどこへ行くともなしに足を動かしていた。
 どんっ。
 闇の中から突進してきた男が月のありかを探していた春介の肩にぶつかる。
「申し訳なか。」
 だいぶ急いでいると思われるこの薩摩弁の男は、少し先で立ち止まり丁寧にそう言った。
「いや。」
 春介も懐から手を出して挨拶して答える。
「先を急ぐ故・・・。」
 春介の表情に安堵した男は再び走り出した。
 また、一人闇の中に取り残された春介は、その場に立ち止まり、あたりの空気を見た。
 気がつけば、伏見まできている。
「寺田屋・・・。」
 先程の男はここから出て来たのだろうか、やたらと騒がしい。
 煌々と灯のついた二階には幾人もの影が映っている。
 尋常な雰囲気ではない。
 あの男はどうしているだろうか、と不意に昼間のことを思い出した。あの有馬という男がいるのも寺田屋。
 薩摩藩はとうとう何かをやるのかもしれぬ、春介は二階をまぶしく見上げていた。
「猪又殿ではありもさんか。」
 その聞き覚えのある声に視線を下げる。
「有馬殿。」
 気に掛けていた人物が目の前にいた。
「折角来てくれもしたのに、今宵は酒を呑むどころではないでごわす。申し訳なか。」
 有馬は頭を下げた。
「偶然近くを通ったまでのこと。気にして頂くに及ばん。」
 春介も礼を返す。
 何かの用で外にでて来たはずの有馬は春介の言葉を聞きおえても、その場を動かなかった。
「猪又殿は水戸でごわしたなぁ。」
「いかにも、そうだが。」
 しみじみと感慨深げに口に出した有馬に、春介は誇りを持って答える。
「今は亡き斉昭公は、この国に無くてはならないお方でごわした。水戸の天狗派は幸せ者でごわんど。」
 有馬は噛みしめるように言うと、刀の柄を握りしめた。
「しかし、斉昭公がいらっしゃらなければどうにもならない。・・・薩摩の久光公もお主たちの名代ではござらんか。何かをしていただけるのではないか。」
 薩摩藩、久光の上洛と共に討幕決行。
 春介はその日が今夜なのだと確信していた。
「おいたちは久光公を信じてごわす。だが、今は・・・。」
 ぎしっと鳴るほど、柄を握る手に力を込める。
「どうなるかわかりもさん。」
 うつむき小声で胸のうちを語る有馬の姿は、明日の風向き次第で生死を決する今の世の中の象徴に見えた。
「有馬殿・・・。」
 春介はただ、そう呟くしかなかった。
「これを猪又殿に預かってもらいたいでごわんど。」
 顔をあげた有馬が結び閉じてある和紙を差し出した。
「俺でいいのか。」
 なにやら大事そうなそれを今日会ったばかりの自分が預かって良いものか。
 手渡された和紙を掌に乗せ、問う。
「おいはもう、行きもさ。後ほど、共に酒を呑みもそ。」
 有馬は春介の問いには答えずに、それだけ言うといってしまった。
 春介は有馬の背中を見送ると、再び歩きだした。
 和紙はまだ春介の手の中にあった。これが何を意味するか、気になりはしたが開けようとは思わなかった。
 開けたらすべてが終わってしまう。そんな気がした。
 春介は有馬と別れてから、益々どうしようということもなく、ふらふらと京の町を彷徨った。
 そして、東の空が白む頃、結局もと来た道を戻りだす。
 歩きながら、今は故郷の友の顔よりも闇の中に消えていった有馬の「どうなるかわかりもさん」という声が頭から離れなかった。


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