松澤芳宏の絵画一覧

Paintings List of Yoshihiro Matsuzawa

風景画を中心にしています。


































 昭和59年の2月、約1週間ぐらい雪が降り続き、2月9日の積雪量は251cmにも達しました。こ
れは飯山地域気象観測所で、観測史上2番目の多雪であるとされています。この降雪の最中、本町より鉄
砲町が見える路地をスケッチしました(瑞穂保育園にあり)。私がスケッチしていると、何日も続いた雪
がようやく晴れる兆しがみえ、西の空に僅かな光が見えてきました。晴れ間を迎える雪国の、我々の待ち
に待った瞬間です。
 「雪晴れる街」の作品は、スケッチをもとに構図を練り直し、また、晴れ間をみて活動する人々の暮ら
しを込めて描いた作品です。豪雪は大変ですが、私にとっては、神が授けてくれた嬉しい画題でありまし
た。








 春への日ざしの絵は、現中野市・北永江の斑川(まだらがわ・はんがわ)の辺りを描いたものです。この
界隈は高野辰之の作詞の原点となっている所です。後方段丘上に北永江の集落がありますが、主題がぼけ
るので省きました。川の色が澄んでいないのは、雪解け水が大地を溶かし、泥にまみれて勢いを増してい
るからです。こんな風景に暖かい春への期待があります。













   
 
 



















長野市買い上げ、長野市小田切の青少年練成センタ−所蔵











































 








 中野市長丘丘陵の田麦付近の残雪の絵です。残雪が形づくる造形のおもしろさは、ほんの一瞬です。バ
ックの飯縄山もタイミングよく現れました。 








 平成5年ごろ、私が飯山市の春栄堂仏壇工場に働いていたときに、従業員一同で制作した赤富士の壁画
です。現在の中野市豊田の民家に飾られています。図案は私が、葛飾北斎の図を参考に考え、作図も私が
担当したものです。
 注文主と社長の発案で、このような珍しい作品が完成しました。下地の金箔の光が透明な色のニュアン
スを微妙に変えています。位置と光の方向で色が変化します。







飯山市の西敬寺へ寄贈
















 この絵は中野市から見た高社山です。西日を受けた冬山がピンクに染まることがあります。その山は冬
でも暖かく見え、堂々としていて、古くから信仰の山であることがうなづけます。
 人は山に何かの気持ちを託すのでしょうか。若い時にこの絵を描き始め、悪戦苦闘、蒔絵の経験を生か
して、漆も使ってみました。30年以上も描き続けてやっと筆を置いたのがこの絵です。なんとばかげた
話ではありませんか。






 



 この年は前年の豪雪とはうって変わって暖冬そのものでした。晴れ渡った空に白い妙高山が印象的でし
た。前景の木々の間に、うっすらとした雪がありますが、それを表現するのが至難の業でした。描きすぎ
ると、絵が硬くなるので、このくらいで止めましたが、私の実力では表現しきれませんでした。
















 もう皆さんお気づきでしょう。なんと馬鹿なサインをしているのかと?。しかし考えてみてください。
西洋の画家が自国の文字で本名でサインしているのに、日本人が英語でサインをする。おかしな話ではあ
りませんか。同時に日本画家が画号を持ち、本名以外でサインする。これもおかしいのです。美術界自体
も昔ながらのサインの呪縛から解けないのです。
 私は自分を宣伝するわけではなく、西洋画も日本画も区別はないという持論から、こういう本名の漢字
でサインしているのです。題名を入れるのも、どこか南画の詩の挿入に似ています。これでよいではあり
ませんか。私のサインがおかしく見えるのは、いままでの日本の画界の既成概念があるからです。









 よく日本画・洋画の違いが話題になることがあります。この絵の場合は、洋画・日本画・工芸の材料を
駆使しましたので、正確にはどの分類に収まるのか分かりません。しかし、本来は日本画・洋画の区別は
なく、絵は絵であるのです。
 ただ、絵は画家の環境によって、個性が出ます。そこにかもしだされる風景が、東洋画の伝統で、線描
き表現による古来の日本画的イメ−ジに近い場合は、日本画の印象がより強くなると思います。




























飯山市の春栄堂に勤務のころ、仏壇蒔絵の型に使ったスケッチです。
















 中野市若宮から見た春の景色です。白いりんごの花が、控え目ですが妙高山の残雪とマッチしていまし
た。柔らかい春の陽射しが注ぎ、穏やかな気分になります。













 

 この絵は少年時代に駆け巡った田草城のイメージ図です。もちろん、実際の風景とは違いますが、田草
城を北側の宝蔵谷(江戸時代に法蔵とも記す)から俯瞰したものです。史料にはほとんど登場していない
謎の山城で、それだけにその解明に魅力があり、私の歴史研究の原点でした。 左方の小さな集落が田草
村であり、すでに天文七年に磯辺勝願寺門徒の道場がありました。そのことが、田草城を紐解く鍵となっ
ています。旧静間村の西方山中のこの景観は、営々として続いていた谷水田の開発の、先祖の労苦を物語
っています。25年以上前から書き続け、やっと完成したこの絵に、歴史性を感じていただけたら幸いで
す。





















 
 自宅前からの晩秋の高社山の絵です。黄色・紫・赤・青・緑、さまざま色が朝の光の中で競演します。
久しぶりに、水彩画のオ−ソドックスな表現を試みました。やはり、この方が絵がすっきりとするようで
す。







 
  本図は秋津農村公園実行委員会(田中徳雄会長)の方々の要請を受け、同委員会で検討してきた公園構
想を基に、解りやすく完成イメージを描いたものです。










上図は写真です。









上図は写真です。



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静妻(しずま)氏と村の起り
静妻(しずま)氏と村の起り
松澤芳宏「雪晴れる街」の絵
松澤芳宏「雪晴れる街」の絵