本項は『秋津ものがたり』(飯山市公民館秋津分館刊行昭和63年)とほぼ同じ内容で、図版は新規追加
毎年の9月、この地方では珍しい屋台の行列でにぎわう静間神社、文字どおり静間のシンボルである。 慶長10年(1605年)、飯山城代の皆川山城守廣照によって社領一石を安堵された神明社が古くから あった場所で、この境内が静妻氏(志津間・志妻・志津摩・閑妻とも書く)館跡と伝えられている。 現地にて、ふと、同好の友と語る人もあるだろう。すばらしい眺めだ、昔の領主が村を治めるには、最 高の場所だなあ・・・・・と。静間の平を一望に見渡せる場所で、清川が深く谷を刻んでいる。館の西側 には高さ2・5mの堂々たる土塁があり、樹齢数百年を経た巨木や、その切株が、その古さを証明してい る。 館の土塁は、保育園の敷地からその南側にかけて、神社境内の上り口まで、昔は完全に残っていた。斜 め上がる入り口は、最近になってから開いたものという。土塁の背後は以前はぶどう園があって、そのと ころは、西の田んぼより約1mほど低く、そして細長い地形であった。もちろん堀の跡である。この外、 館の北東隅の土手下、道路の断面にも空堀の跡が発見されているので、もとは空堀や土塁が、コの字形に めぐっていたものだろうと思われる。 1m〜2・5m程高い方台状地形は本格的なもので、築城に当たっては、相当の労力があったものと推定 される。なお、館の外側約10m幅の平坦地がめぐっているが、私は空堀と土塁のあとが後に耕地となっ て、そのような形になったものと考えた。これについては外郭であろうとする考え方もある。 果たして、誰がここに住んだのであろうか。中学生の頃、私の祖父は、よく静間氏のことを話してくれ たものだった。 「静間には、昔、静間小太郎という殿様がいた。静間のお宮のところは、その城の跡で、中町はその城 下町だ。その城下町は飯山町などよりは、ずっと古しいんだ。また、お女郎の町もあった。雲井というと ころがそうで、おら家の裏にある井戸はお女郎の化粧水だった。」この話はたいへんおもしろいし、ロマ ンにあふれている。しかし、やはり伝承であって、史実とは異なる。 静妻氏登場は『保元物語』である。保元元年(1156)、鳥羽法皇がなくなると、崇徳上皇と藤原頼 長、後白河天皇と藤原忠道とが、それぞれ結び、上皇方は源為義・平忠政を招き、天皇方は源義朝・平清 盛を味方に、双方が戦った。 これが保元の乱である。この戦いに天皇方・源義朝の下に馳せ参じた東国出身の武士に、信濃国の静妻 小次郎(最も成立年代が古いといわれる半井【なからい】本保元物語には志津摩太郎・小次郎の二人を記 している)がある。次いで小次郎は白河殿の夜討ちに加わり、はなばなしく活躍している。この戦いは後 白河天皇方の勝利となって終わった。静妻氏も恩賞に与ることもあったかと思われるが、記録が残ってい ないのではっきりしない。しかし、当時の情勢をみると、あっても、そうたいしたものではなかったもの と思われる。 源義朝は保元の乱の恩賞に不満をもち、その為に平治の乱が起こった。しかし、静妻氏が義朝についた という記録はない.源氏の戦列を離れ、次第に平家色を強めていったと思われる。そして源義朝が破れ、 しばらく平氏の全盛時代続いた。善光寺平には、このころ、越後の平家、城氏の勢力が一部に及んでいた ものと推定されている。 時代は源氏の旗揚げに移り、信濃では有名な木曾義仲が源氏の勢力を結集した。このころ、北信地方で は源氏方の村山義直・栗田寺別当範覚と、平家方笠平五が争い、木曾義仲の援軍によって、笠原氏が敗退 するという事件があった。義仲の勢力は善光寺平に及び、平家に党した武士のおおくは越後に逃れた。こ の中に閑妻氏もいたものと考えられる。 治承五年(養和元年・1181)六月、城資職は大軍を率いて木曾義仲追討の為に信濃に入った。その 時の様子を長門本平家物語は次のように記している。 「(上略)城の四郎長茂(資職)、当國廿七郡出羽迄催して、敵の勢かさ聞せんと、雑人交じりにかり 集めて、六萬餘騎とぞ記したる、(中略)筑摩越には濱の小平太・伴太郎大将軍にて、一萬餘騎を差遣わ し、植田越には津張の庄司大夫宗親、一萬餘騎を差遣わし、大手には城四郎長茂大将軍にて、四萬餘騎の 勢を引具して越後国府につきにけり、明日信濃へ越えんとする所に先陣を争ふ者ども誰々ぞ、笠原平五・ その甥平四郎・富部三郎・閑妻六郎・風間橘五、(後略)」 こうして、城氏の軍勢に加わった閑妻氏ではあったが、善光寺平の横田河原合戦では城氏の軍勢は総く ずれとなり、木曾義仲は、のち、北陸道を京へと進んだ。静妻氏の消息もまた、それ以降不明となる。静 妻氏の活躍した時代は、平安末期をもって終了したわけであり、郷土との関係も、残念ながら、ここで絶 たれたわけである。 従って、もし静間館が正真の静妻氏館跡とすれば、平安末期の代表的居館として、極めて貴重なものと いうことになる。しかし、即断は避けて、もうしばらく考えてみよう 。 まず、静妻氏発祥の問題について考えてみると、大田亮の『姓氏家系大辞典』によると、石見国安濃郡 に静間郷あり、延喜式内社の静間神社もあるという。また、本氏は此の地より起りにして、安西軍策など に見えると記している。しかし、問題は、我が静間に静間に静間氏が入ってきて静間という地名が出来た のか、元来静間という土地に豪族が発生し、出身地名をとって静間氏となったか、解決されたわけではな い。 シズは「清水」と同義で「志津田」というところもあるし、我が郷土も志津間と書かれる場合もある。 また賎馬・閑馬・静馬のいずれかに該当する牧場名とする説もある。 なお、静間は扇状地々帯であるので泉がたくさんある。車清水・けい清水など地名となって残っている ところもある。だから静間は、清水の湧く土地という考え方はどうであろうか。一つの仮説として提示し ておきたい。 氏族が先か地名が先か、この議論はともかく、当の湧水地帯は、扇状地扇端の千曲川沿岸地帯にあり、 ここには、弥生時代以来、古墳時代、奈良・平安時代の農耕集落のあとが、点々と発見されている。田草 川尻では、特に古墳時代にはかなりの大集落に発展し、それが平安時代にも引き継がれる。平安中期〜後 期には伍位野まで広がり、その他、郷谷・町尻・清川尻・静間神社南・北畑館の周辺・法伝寺東方などに も点々として遺跡が広がった。 また、田草・堀越・柳久保・駒立の各山地にも小規模の遺跡がみられる ようになった。まさに驚異的な現象である。 山地の遺跡はあるいは山の民に関係があるとしても、平地の遺跡は静妻氏により支配されていたと考え たい。静妻氏は文献に登場するのは平安末期であるが、すでにその時は有力な豪族に発展していたのであ るから、当然、平安中期には勢力が増大していたとみたい。そしてその萌芽については、古墳時代にも課 題を残している。古墳時代にこの土地に豪族がいたことは、勘介山・五里久保・法伝寺・法花寺の古墳が 立証している。(余談にはなるが、このほど、松澤巌さんによって、字法花寺付近で山頂古墳が発見され た。周辺一帯にはさらに発見が期待できる。) こうしてみると、どうも、静妻氏時代の主要集落は千曲川沿岸の田草川尻遺跡か、郷谷遺跡ではないか と思われるのである。時代の経過とともに、開発が扇央・扇頂に進んだ段階に現静間神社境内の館が築か れたとみたい。次第に庶民の集落も館の城下や、周辺に移動したとみるべきだろう。 その時期は静妻氏 が有名を轟かせた平安末期であったものであろうか、あるいは、その後、鎌倉時代や室町時代の頃の静妻 氏とは関係のない時代であったであろうか、今後の研究課題である。 さて、中近世の静間村は、静間区蔵「元禄八年静間村絵図」により北静間・中静間・南静間の3集落が 主要な構成となっていることが最近明らかとなった。これは現在の北畑・中町・大久保にあたる。北静間 は北畑館を母体に発展した集落であり、中静間は静間館(静間神社館)を母体に発展した集落であると私 は考える。 静間館の城下に当たる部分が中静間であり、慶安四年の静間村検地帳にも中町が既に地名として記録さ れている。では、「町」とは何かを考えてみよう。町は本来、区画された田や土地をいう。京都の町は、 区画された条坊制の小路に町屋が街路をなして、現在に言う町並の意味に、次第に転じていった一例とも される。平安期に既に店を町とも称した。 静間の中町には俗称中町堰が流れており、周辺には慶安検地帳に「宝田」(たからだ)・「門田」(か どだ)という地名があった。門田は豪族の直営田であり、宝田も法伝寺の旧屋敷との伝承と別に、それ以 前からあった地名で、領主の直営田であったものだろう。宝田・門田共に江戸時代慶安四年検地帳では、 「上田」として、一等地の由が記されている。また、字中町の下方に町尻がある。これも区画された田や 土地の尻という意味か、あるいは町屋の尻であろう。 こうしてみると、中町一帯は、本来田であったものだろうが、しかし、それは豪族の土地開発と無関係 ではなかった。静間神社館は、まさしく中町堰(洪水で昔と今では、多少違うかもしれないが、その前身 的なもの)を管理する領主の屋敷であり、屋敷の直下には、領主の直営田があり、その下方には家臣や、 支配する庶民の耕作する田畑が広がっていたのである。 想像をたくましくすると、こうした区画の一部に、家来たちの屋敷が入り込む形となり、幾分街路化し て、市も立ち、城下町のようになったものではなかろうか。 私は次のように思う。平安末期、静間館(静間神社館)に静妻氏が住んだことはあったであろう。そし てその城下は静妻氏時代か、後の時代か分からないが、幾分街路化して町が発生した。これが中静間村の 母体である。また、近世末期、以前から存在していた中町という地名が次第に中町組という集落名になっ た。なお、中町東方の郷谷と車清水周辺は静妻氏時代の集落跡も含まれると推定される。 次いで北静間村の発生は、中静間と同時か少し新しいものだろう。それは北畑堰の開削とも考えてもい いし、北畑館跡の考察からも傍証される。黒坂周平先生は、神社の館も、かつては館のすぐ下を清川が流 れていたが、ある時、洪水で流路が変わってしまい要害ではなくなった。そして新たに清川の断崖を利用 した北畑館が築かれたものだろうとご指導下された。 そして、北畑館が北静間村発生の母体となっていることは明らかである。また、北畑館の周辺には屋敷 沿いという地名が慶安四年の検地帳にあった。これは北畑の館が、江戸時代前半まで、富農層の屋敷地で あったこと物語っており、出土品の数々もそれを証明している。 また、南静間村は川入地点から長々と引いてきた横目堰といわれるものの開削により、水田が開かれ、 その後に集落が出来たことは明らかである。大久保の集落の家々は従来田であったところに建てられたも のであることは疑いないし、まだ大久保には、館跡が確認されていないことからも、中静間・北静間より も、少し遅れて村が出来たことを思わせる。しかし、少なくとも江戸時代初期にはこれらの村々が悉く存 在したことは、慶安四年の検地帳における農民の屋敷地の分布や、元禄八年の絵図によりほぼ明らかであ る。 書き遅れたが、狭義の静間村(郷)のほか、かつての若槻新庄静妻郷には蓮・北蓮・田草・奈良澤・上 倉の郷が含まれていたことは、先学の研究により明らかとなっている。しかも、これらの村々の多くは、 平地の水田地帯と同時に 、西の山岳地帯にかけて広大な広がりを見せている。 中世近世を問わず、村々は馬草や水田の施肥に草刈り場を必要としていた。また燃料としての薪や、建 築材木など、山は欠かせないところであった。江戸時代にひんぱんに起こった山論は、農民にとっていか に山が大切か物語っている。静妻郷の在地領主静妻氏も、あるいは後の地頭や代官も、おそらく斑尾山麓 に勢力を延ばし、あるいは私牧を経営し 、修験の寺院を建立し 、また、戦時にたてこもる要害の山をも っていたことが想像されるのである。私たちの郷土研究は、平地の耕地や集落と共に、山の問題を含めて 考えてゆく時機が来た。 なお、室町時代の市河文書に、若槻新庄内として、静妻郷と並んで登場している加佐郷の開発者は誰で あったのだろうか、視点は大きく、斑尾山麓一帯に向けて、今後、究明されるべき問題であろう。また、 若槻本庄との関係、静妻氏とのかかわりあいは、どうであったのだろうか。新庄成立の時期は平安末期で あろうか、鎌倉時代であろうか、今後検討されるべき問題は、数多く残っているのである。 ( 平成21年6月修正) *参考文献 『高井40号』や『日本城郭体系8』の松澤芳宏担当分、飯山市教育委員会の静間館発掘報告書、そ の他石臼博士の石工太良兵衛を参考にしてください。北畑館も同様です。 総目次に戻る
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