上野原の戦い、飯山市静間田草川扇状地説

1、はじめに

  弘治3年とされている上野原の戦い、友人の飯綱町の「いいづな歴史ふれあい館」の小山丈夫氏より、
「松澤さん、上野原の戦い、どうしても長野方面では状況が合わない。飯山に該当地がないですか」と問
い合わせがありました。そのころ『信州の古城』の執筆で、野尻城を任せられ、琵琶島を野尻城、湖岸の
城を野尻新城とする通説に疑問をもっていました。監修の湯本軍一氏も湖中の島では敵に囲まれれば逃げ
場がないとされました。
  小林計一郎・米山一政氏の著述を見ても野尻城は湖岸の城で、琵琶島との総称が野尻城であるとされて
います。そこで問題となるのが永禄12年と推定の文書に登場する上杉方野尻新地の位置で、登場したの
が近年、中学校の先生と生徒達の発見と命名による土橋城(小丸山)であります。
 南北朝期の館城に当てられていましたが、全面切岸の戦国時代末期と思われる陣城であり、約100m
×350mの大城郭でした。池尻川の湿地帯を防御として、北方は北国街道につながっています。まさに
野尻新城にふさわしい丘城でありました。上杉方の拠点、飯山城にも似ています。ここの高さ4~8mの
切岸が私を圧倒し、さらに脳裏に浮かんだのが私の居場所付近にある飯山市静間、字荒船と上五位野(う
わごいの)にある舟山でした。はずかしいことですが、全長200m弱の大前方後円墳と少年時代は思っ
ていました。
 待てよ、舟山の急斜面は土橋城の切岸と同じではないか。土橋城に居て舟山を思い浮かべたのでした。
土橋城を反転し、独立丘の舟山(ふなやま)を観察しました。大人になって舟山を古墳ではないとしたの
で、既に丘の一部は開発されていました。それでも、桜のある東斜面は一部残され、ここに見事な切岸が
現存していました。記憶では切岸は全長200m弱にわたって、途切れながら数段になっていました。丘
の南も切岸があり、北面は3段になって見事に現存しています。
 ひるがえって、小山氏の上野原合戦の問いこそ舟山にあると感じました。そして、またまた上杉家『文
禄三年定納員数目録』に地侍衆の上倉・尾崎氏(尾崎三郎左衛門であるが世襲名)の配下に土地の名前を
名乗る舟山・上野・上原氏を発見しました。特に舟山氏は3人もいました。
 舟山の頂上と西側部分は緩やかな丘で、頂上南部に、約30m×約60mのやや高い(西側は高さ3m
の土手現存)本郭が以前ありました。この南端最高所に舟山古墳とされる径4m高さ0.5mの塚が現存
し、丸石も見えるが旗塚の可能性が濃いものです。舟山氏は舟山に常駐した城番であるかもしれませんし
以前から付近に土着していた氏人であったかもしれません。付近に物見塚の地名もあります。
 余談になりますが物見塚地名の直下に私の畑があり、妻とアスパラなどを栽培し、舟山を西方に仰ぎ、
南東に田上山(たがみやま)を見て、『軍記物』の戸神山ではないかとも想像をめぐらしています。田上
山は田神山ではないかとも想像し、有名な柳沢遺跡も望めます。また、舟山の北に魚の絵で有名な山の神
遺跡があり、遺跡に宮﨑市定先生のお墓があり、先生が永眠されているのはなんとも不思議なことであり
ます。




 舟山に立てば、武田勢の飯山進攻をすぐにキャッチできますし、千曲川を東に出て、飯山へ向かう敵の追い討ちをか
けることもできます。まさに絶好の監視所でもあります。中央森の手前辺りに飯山道(江戸時代の往還通り)がありま
す。



2、上野と亀蔵城との関係

 舟山の遺跡は恒常的な城郭とは違い臨時的な陣所としての機能がうかがえるので舟山陣所遺跡と命名し
ました。斜面下方の敵を食い止める東・南・北の三方に犬走りを伴った数段の切岸(きりぎし)があり、西
方は湿地帯の水田が古くからありました。
 飯山城の3.5kmの南に位置する田草川扇状地の扇頂に舟山の丘があり、荒舟断層と田草川の先行谷
によって独立丘となっています。ここに立てば、はるか眼下に千曲川が流れ、川の両岸に沿う飯山城に向
かう交通路を扼します。また、西方の斑尾山々麓を経て野尻城や越後樽本を経て春日山城に達します。
 また、東方眼下の300mには、中世以来の替佐峠を経てくる飯山道(善光寺道)があり、一方、高井
郡から腰巻(現在の中野市古牧)付近を経て、千曲川を渡り静間にて飯山道と合する道もあります。また
中野から高社山の東をへて、北方市川谷の古道や馬曲峠の古道をも併合し、田上で川を渡り田草川扇状地
の飯山道に達する道も推量できます。
 舟山の北を限る田草川は、今でこそ水量が細いですが、森林で覆われた中世には、侍達の格好な飲料水
となったでしょう。ここを遡ること600mで飯山城の支城群のうち最大拠点と推定の小田草城があり、
およそ450m×100mの遺構をもち、城域500m×200mの規模を有します。     


 



  私は飯山城支城群が地侍衆上倉氏を筆頭として守られ、武田信玄のいう亀蔵城(上蔵城)ではないかと
考えています。小田草城のさらに奥に田草城もあり、小田草城が望月肥後、田草城が望月伊豆、と書かれ
た江戸時代天明四年以前の静間村絵図(坪根秀一氏所蔵)もあります。山城に囲まれた田草村は武田氏の
飯山攻めの寄居集落ではないかと私の中学時代の教頭先生で、郷土史の恩師の石澤三郎先生が記述してい
ます(平凡社の『日本歴史地名体系20』)。なるほどあり得ることだろうと思います。
 但し、望月氏在城は根本史料には今のところ登場せず、また城が古い様相も残しているので、南北朝時
代の望月氏との関係も考慮に入れておきたいと思います。
 いずれにしても、田草川水系の一帯は越後勢とその傘下の地侍衆の最大拠点であり、その中でも小田草
城が中心拠点をなしたもの、つまり亀蔵城(上蔵城)の中心であると考えています。ここが甲越双方の争
奪戰が繰りかえされた激戦地となっていたのでしょう。まさに、城の前線の舟山付近が弘治三年の上野原
合戦の比定地に考えているわけです。この付近は武田方の陣地になったことも検討課題だし、永禄11年
には一旦は武田信玄の手中に入ったことは通説になっています。



 ここまで来ると、想像がすばらしいと半ばあざ笑う人もあると思います。ところが舟山の西、小田草城
の田草川対岸に上野(うわの)の俗称があり、江戸時代初期には成立していた古い新田であります。慶安
四年の静間村検地帳に上野があり、『秋津村誌』には「いわの」と発音していた記述もあります。また元
禄八年の静間村絵図に上野新田があります。本来は舟山周辺の字上五位野付近と字荒船と通称上野付近一
帯を上野原といったのでしょう。大久保区の草分けと称する上原家は上野原から下りたとし、上原(うえ
はら)を名乗ったと伝えていますし、先記のように『文禄三年定納員数目録』に、上原氏があります。
 上野新田の発生は小田草城の根小屋集落であったかもしれません。元禄八年静間村絵図には小田草城の
山麓に肥後澤が記載され、そこから下る『で』といわれている段丘はなだらかな斜面で現在畑となってい
ます。根小屋のあったところと推量します。また、小田草城から肥後澤にかけて立野の地名が元禄絵図に
あり、本来飯山城の直轄地であったところが、飯山藩の立野として残り、静間村に譲られました(文政八
年、中静間村萬覚帳=三井禎一郎氏所蔵文書と秋津村誌)。これは小田草城が飯山城の支城であった証拠
です。
 さて、上野原の戦については小林計一郎氏が『川中島の戦』で適切に述べられているので、これまで何
度も引用しましたが、ここに再度紹介します。




 「弘治三年八月には上野原(長野市若槻地区上野付近?)で両軍の衝突があった。このころ謙信の軍の
根拠地は、飯山城と善光寺・旭山城だったから、信玄はこの二つの地の連絡を断とうとして、この合戦が
起きたのではあるまいか。この合戦は両軍の主力の衝突ではなかったらしく、越後方の大将は長尾政景だ
ったらしい。この戦についての感状(写)は長尾景虎(謙信)が南雲氏へ与えたものが一通、長尾政景が
大橋弥次郎・下平弥七郎へあてたもの、おのおの一通が残っている。 (中略) 『川中島五箇度合戦之
次第』の記載はたぶん上杉家の家に伝わった三通の感状をもとにしてデッチ挙げたもので、史実として信
用できない。上野原の所在地については戸隠村の上野(長野市)・飯山市常盤地区上野等の説があるが、
この戦のとき、謙信は善光寺付近を確保していたらしく、髻山(もとどりやま)城も越後方の城らしいか
ら、この戦が長野付近で行われたことは間違いないようである。」
 上野原の戦比定地については江戸時代から若槻付近(長野市)が一候補地でありました。それ受け継ぐ
各氏の研究には教えられることが多いのですが、当時飯山市静間の大久保~荒舟近辺に上野の地名がある
のが知られていなかったのです。尤も、筆者は『長野』110号に若干、静間の通称上野地名を語ったこ
とはあります。だが当時ほとんど問題にする研究者はいなかったし、筆者自身も『飯山市誌歴史編上』で
上野原合戦若槻付近説を紹介するに留まりました。
 最近に至って『戦國遺文』武田氏編(以下『遺文』とする)が発刊され、具体的に弘治三年の戦が探れ
る状態になり、飯山市静間説も候補であろうと考えるに至りました。小山丈夫氏の指摘もあり、明治以来
続いてきた先学の研究が、再考の時機にきていると考えたのでした。 
 歴史家の一部には上野原の正確な地名や呼び名を上野原合戦比定地の論拠にする人もいますが、慶安四
年静間村検地帳に「五位野、こいの」の地字があり、それが後世に五位野原と記されていたりし、現在上
五位野・下五位野の地字が存在し、また伍位野の集落が存在したりします。『軍記物』の類には、上野原
を岩野原と記すものもあり、そうかといって上野原が「うわのはら」と呼んだ証拠にはならないと思いま
す。
 上野原を現在上野、岩野と記しても、上野原、岩野原と記しても「うわの、うえの」と発音してもいず
れも候補地の一つであります。飯山市荒舟区と一部大久保区に亘る扇状地の扇頂・扇央を上野原に私は考
えているわけであり、物見塚や勘介山の地名、観音ひみず地籍の五輪塔・宝篋印塔出土地帯など、関連史
跡が多いのです。




             
 なお、田草には鎌倉時代後期ないし南北朝期~戦国時代の様相の五輪塔群が通称寺屋敷地籍に存在し、
今大久保の松澤登氏所有墓地やその付近に保存されています。地元の松澤三郎氏の御教示によれば田草集
落入り口の段丘端道路位置にも、五輪塔が多数発見されています。
 勘介山には筆者発見の県史跡の前方後方墳がありますが、これは古墳時代前期と推定の古墳であり、戦
国時代とは関係がありません。但し、その名前の由来についての古老の証言があり、年不詳、武田信玄が
飯山城を攻めるときに、蓮城に信玄が本陣を据え、勘介山に山本勘介が陣を張ったとし、元禄八年の静間
村絵図に、勘介山があります。勘介山東北部や山麓には、段郭や地山の掘り残し土塁、石塁二条などがあ
り、詳しい調査が必要であります。
  ちなみに、山本勘介が戦死したのは越後系『軍記物』の『川中島五箇度合戦の次第』では、弘治二年と
し、『甲陽軍鑑』(以後、『軍鑑』と記述する)では永禄四年の川中島合戦としています。弘治三年の六
月には、「市川良一所蔵文書」の発見により山本菅助の生存が明らかであります。あるいは弘治三年八月
の上野原の戦で勘介があえなく戦死したこともあり得るし、永禄四年の川中島合戦でもあり得ましょう。
供養塔などは、伝承や『軍記物』の記述により、その設置について影響を受けやすいと思います。  



     



                

 上野原合戦は、飯山城や支城の小田草城の攻防をめぐる前線の戦と推定した上で、甲越戦争の局地戦が
後世に付会されて、川中島地方に展開した戦のように各『軍記物』によって創作されたのではなかろうか
と、これまで何度か記してきました。このことを念頭に置きつつ、果たして飯山地方に戦が成立する史料
的解釈ができるかどうか検討を加えてみます。
 このころの飯山城は、常岩(ときわ)牧(常盤・常葉・常磐とも記す)の一部に繁栄した地侍泉氏の一
拠点であり、泉弥七郎(重歳)の館城(やかたじろ)です。また長尾景虎が善光寺平に出兵するための中
継地でした。永禄七年と推定の八月二十七日付け上杉輝虎書状案に「弥七郎は城ぬしであるから実城に元
のとおり居るように」という意味の文言があり、永禄七年、飯山城の本格的築城以前は泉弥七郎の館は丘
頂のみの館城程度の構えであることが分かります。 
 飯山城の丘の全域が泉氏の館でないことは、泉氏の所領が伝説ほど大きくないことで想像がつきます。
あるいは、館以外は配下の人達の居住区域として外郭をなし、全体としては、複郭式館の体裁をとってい
たのかもしれません。いわゆる飯山郷とか飯山村の中心集落と考えたいのです。
 泉氏については常岩牧のうち、中条付近に南北朝時代から今清水氏(泉氏を名乗ることもある)の居住
が知られており、今清水氏が泉氏の有力氏族であることは間違いないし、戦国時代に泉・尾崎・今清水氏
らが分派している記述があります。本拠は飯山市の外様平が中心で、飯山は常岩牧のうちの南端で、中世
前期には若槻新庄静妻郷とは、千曲川曲流により境をなしていたと考えています。
 甲越合戦時代の千曲川の位置は判然としませんが、のち、飯山城が後堅固の城として実城(本丸)を南
端に置いているなど、また、古くは大手が北にあったと考えられることから、飯山の丘の南端の岸を川が
洗っていたこともありうるし、だんだん地形が変化しても川と湿地帯を天然の要害としていたことは容易
に想像できます。 
 また、弥七郎の子息が尾崎三郎左衛門(重信でありますが、のち、三郎左衛門の世襲があるので注意が
必要)であり、尾崎を名乗ることから、重信は外様平(飯山市)の尾崎を本拠としていたことが分かりま
す。尾崎南西に同族今清水氏の中条があり、外様平が泉氏の本拠であることは間違いなく、先記のように
飯山丘頂に、泉弥七郎重歳の館城があることは本領(旧常岩牧内で、尾崎庄という俗称もある)の境目の
城としての意義があります。根本史料ではないが尾崎家の家譜に飯山氏を名乗る者がいます。     
 当時の飯山の丘は、後の本丸位置に館があったのみで、要害の城としての構造が不充分と考えられ、高
梨政頼が弘治二年ごろ飯山に入っていても、飯山城であるのか、あるいはその南にある高梨領の田草城・
小田草城近辺に入ったものか、実際のところ判断がつきません。












  但し、静間や蓮は以前から高梨氏その他の豪族の所領であることなどから、田草城・小田草城・蓮城に
ついても、戦国時代前期ないしそれ以前の前史があることを付記しておきます。
 のち、永禄三年(1560)九月、武田信玄は十日以内での亀蔵城の自落退散と越後勢への勝利を、佐
久郡松原社に祈っています。上倉氏を筆頭に泉氏一族を含む千曲川左岸(西岸)の地侍衆の自落退散を、
信玄は亀蔵城自落退散といっていたのでありましょう。もちろん、同一戦線の越後軍の敗退をも祈願して
います。十日以内退散を神に祈るということは、それ以上の手間がかかり、陥落させることが難しいとい
う意識があると思います。
 越後軍と地侍衆の根拠地の一つは田草・小田草城やとんば城・後谷(うしろだに)城(奈良沢城)・坪
根城で防御された、田草村や谷口の上野一帯にあることが考えられましょう。
 ちなみに、亀蔵城を須坂市近辺に当てる人がありますが、そこが当時、越後方の前線基地であったとは
考えがたいのです。弘治二年からは、須坂方面は武田氏支配下に入るものが多く、下高井地方も同様であ
り、飯山口こそが当時越後方の最大拠点であったことを銘記すべきです。亀蔵=上蔵とするのは、当時の
発音の具合であり、江戸時代に関東を「くわぁんとう」と発音していたのは明らかです。古文書は発音が大
事であり、当て字はいくとおりもあったのは周知されています。
 のち永禄十一年には、信玄は七月十日までに、上蔵(飯山市)まで一旦は制圧し、十一月十七日付け武
田家朱印状に、支障があれば縄取(飯山市安田)より下の替地として「亀倉近辺并登加り郷」を市川氏に
与えようと用意していた文言があります(『遺文』1329号)。
 この亀倉は飯山市上倉であることは、朱印状に並んで戸狩郷(飯山市戸狩)があり、この文書が、信玄
の飯山城攻めの状況下の、所領の宛行いに関するものであることから明らかでしょう。亀倉近辺と書いて
いるのは、一旦は制圧した上蔵郷の南の志妻郷(飯山市静間)を含んでいると推量します。
 なお、上倉氏自身の山城は飯山城の西の清川谷のとんば城であり、寛政八年の山論絵図に上倉城として
出ています。ただし、この城の規模は小さく、一地侍の要害であり、大勢の兵を入れることが出来ないこ
とは、先学の述べているとおりです。



 但し、のち、永禄七年と推定の四月二十日付「上杉輝虎書状」(山形県今清水昌義氏所蔵文書)には上
倉氏が筆頭に書かれており、上倉氏は泉氏らと同等かやや上位の身分です。とんば城はこれら地侍衆の平
均的城郭規模を示しています。飯山城・とんば城・後谷(うしろだに)城(奈良沢城)は泉氏・上倉氏・
奈良沢氏の根拠地であり、在所に当たります。同書状で、それぞれの地侍衆が在所にいて、共同で守るべ
き陣所を、武田勢に奪われてしまい、上杉輝虎(謙信)に叱られたことから見ると、共同陣所は、在所の
前面(南)でなければなりません。          
 この状況をそれ以前の年代に当てはめてみると、共同陣所は飯山城や、とんば城以南に求められます。
小田草城を中心として舟山陣所・田草城を含む一帯が、永禄三年の文書に登場する信玄の言う亀蔵城(上
蔵城)の中でも拠点的陣所の可能性は高いのです。




 



 
  田草城北方の空堀    
  宝蔵(旧法蔵)谷、清川谷に向けた塹壕と見られます。









      
とんば城(上倉城)
 清川谷の小さな城で、とんば(鳶ヶ沢)は古代の飛火(烽火台)からくる名称との説もあります。上倉氏自身の山城
としては適当な規模です。天正11年上杉家への信州での軍役が50人に満たない地侍ですが、上杉家では泉氏と同等
か、やや上位の身分です。
 
 







                            


        3、弘治二年の甲越合戦

 弘治二年は武田氏の軍事圧力が飯山地方にも及び始めた時代です。したがって、この年の戦況の真相も
解明しておかねばなりません。そこで関連する史料の再検討が必要となります(史料要約1)。

 史料要約1 直江實綱書状 ○〔高梨文書〕
(『信濃史料・第十二巻』)を改変

 お手紙のように、今度、不慮の題目により(高梨城が陥落したか、高梨氏の自落)、その地(飯山口)
に御在留の間、まず、ご返事を差上げるべきでありましたが、近日、東条(長野市松代近辺の雨飾城包含
圏)を、攻めることを(宗心様=謙信が)申されました。
  只今はその作戦の相談の最中であり、そのように取り乱れているゆえ、ご返事が遅れてしまったことは
疎略でご迷惑をおかけしました。然れども、お馬(宗心)が越中にお登りになり、直書(じきしょ)(過
書とも=『上越市史別編1』)の儀を差し越しなされました。それで、相調えて彼のお使いにお渡ししま
した。
 (高梨殿が)こちらに相応しい御用所(陣所=飯山館城の外郭か〈2014・10・25更新〉)の旨
を伝えてこられているので、どんなことがあっても、毛頭、御無沙汰をするつもりはなかったのです。さ
らに安部修理亮差し越され、ご口上の趣、これまた具に承りました。詳しいその旨承知しました。どのよ
うに申し述べてよいのか、この由、御意(ぎょい)を受けてください。恐々謹言。
            
(筆者推定の弘治二年)
七月三日           直江與兵衛尉
                     實綱(花押)
高梨殿人々御中
              


 この文書は『信濃史料』では弘治三年と推定しています。しかし、その後「市川良一氏所蔵文書」の発
見により、弘治三年の六月に、長尾景虎(のちの上杉謙信)が飯山に居ることが明らかとなりました。そ
こで私は史料要約1の書状を弘治二年と推定しました。文面では書状の返答が七月三日であることから、
すでに六月中より、高梨政頼が飯山口の危機を訴えて、春日山城へ向けて越後の援軍を何回も求めていた
ことが分かります。
 宛名の高梨殿は、高梨政頼ですが、返答は宗心ではなく、直江實綱であり、しかも、宗心が東条攻めの
策を練っていて忙しかったので高梨氏などに返答できず、さらに、宗心が越中に登ったと實綱が言ってい
ることに重大な意味があります(2011・10・11更新)
 先記のように、弘治三年の六月後半に景虎が飯山に居ることは、市河藤若宛の六月二十三日付の「武田
晴信書状」(『遺文』562号)で明らかとなっていますから、景虎と高梨政頼が飯山口近辺で行動を共
にしていることは明白です(2011・10・11更新)
 弘治三年の六月に景虎が春日山城に居るはずもなく、ましてや景虎に政頼が援軍を求めるはずもなく、
従ってこの書状が弘治三年ではなく、弘治二年のものであると筆者は推定しました。また高梨方が進言し
ている長尾方の御用所は泉氏の本拠飯山館城(やかたじろ)の外郭であり、まだ越後軍が到着していない
ことから、この書状が弘治二年であることは決定的でしょう。飯山城が越後軍の基地になることをも示す
重要な書状でもあります(2014・10・24更新)。また、越後春日山城では、武田方に占拠されて
いる東条(長野市雨飾城包含圏)の実情を知っていましたが、軍事行動が出来なかったのでしょう。
 これは、驚くことに景虎が出奔し宗心の号で直書を書いた事件と一致します。出奔のとき比叡山を目指
したとか、妙高山にこもっていたとか、諸説がありますが、宗心が越中を目指したことなど、比叡山説・
高野山説などが現実味を帯びてきます。
 さらに、隠遁をめざした出奔の事情ついては武田方に占拠されている東条(長野市松代町)を攻撃する
作戦の討議中、越後の独立性の高い豪族の足並みが乱れたことが出奔の直接的な要因と判明します。
 また、いきなりの出奔で、過書(過所=通行許可証)を調えられず、直江實綱などに、調達を求めたこ
とが、宗心(のちの上杉謙信)の居場所を明らかにし、長尾政景らが宗心を春日山城にお連れ戻した事情
が明らかとなってきます。
 この文書には、高梨政頼らに春日山城のお家の失態を知らせたくない事情が隠されていると見たほうが
よく、文面の背後の気配を、読み取らなければなりません。



 ついで弘治二年七月十九日付市川孫三郎宛「武田晴信判物」(『遺文』503号)によれば、安田高梨
氏(安田氏)の旧領「安田遺跡」を晴信が孫三郎に宛行っています。安田(飯山市)には、岩井城(中野
市・飯山市吉の城山)があり、高梨総領家傘下の安田氏・岩井氏・木島氏ともこの山城を共有していた可
能性が高いのです。静間の田草城・小田草城とともに、甲越合戦以前は抗争を続けていた市河氏らへの、
高梨氏の北の防衛拠点でありました。














 ところが、木島氏が武田方に付き、近隣の市川氏が武田氏に忠誠を誓う状況から、安田高梨氏も本拠を
奪われたか、自落したかのどちらかと推定されます。そして「安田遺跡」は晴信の領地としての意志表示
がありました。岩井氏は安田高梨氏と所領を隣接していたが、本拠を去り、後年、越後に所領を持つこと
になります。このような状況は史料要約1の年代比定と矛盾しません。
 史料要約1の書状の年代比定は重要な意味を持ちます。すなわち、高梨政頼が中野小館(おたて)を退
去し一族と味方衆を引き連れ、飯山に入ったのは弘治二年と推定されるのです。同年と推定されている七
月十九日には政頼は巻き返しを図り、今清水氏(泉氏一派)など飯山地方の地侍衆をも率いて、武田方と
なった井上左衛門尉らの守る綿内(わたうち)要害(長野市春山城が通説)を攻めて、一旦は陥落させて
います。
 この時は通説によれば、東条の雨飾城(長野市松代町尼巌城)は、最後まで武田氏に抵抗をみせた東条
氏が確保しており、武田方が攻撃にかかる直前という考え方があります。しかし、史料要約1の、宗心が
東条を攻める計画の文言があることは、弘治二年六月には東条が武田方の手中にあったことは動かしがた
いと思います。
 雨飾城が武田氏の手中に入っていれば、高梨勢は綿内城を到底攻撃することは出来ないものとも考えが
ちですが、かつて、『信濃史料』編纂に携わっていた米山一政氏は、あえて『信濃史料』の弘治二年雨飾
城攻撃説を覆し、真田弾正忠ら宛の、八月八日付の「武田晴信書状」(『遺文』507号)を、天文二十
二年の塩田城攻略の際のものとされました。
 晴信は八月八日塩田本城に飯富虎昌を入れ(『高白斎記』)、自身は塩田地の城にあって、村上義清の
旧領の処理を行っているので、真田氏宛の書状に「両日休人馬候間」とある文言は『高白斎記』の日付と
一致するので、米山説は信憑性が高いと思います。最近刊行された『北信濃の城』もこれを支持していま
す。武将が書状を書く時期は、軍事行動が一休みの状態に入っている時が多いのです。上杉輝虎(謙信)
も、後、永禄七年に武田信玄が姿を見せない対陣中に、多くの書状をしたためています。
 米山説を援用すれば、天文二十二年八月八日までには、武田方の真田幸綱らは雨飾城の攻撃にかかった
が、城を攻略したかどうかは判明しません。しかし、その後、年不詳八月二十五日までには、雨飾城が武
田氏の手中にあり、西条氏に、武田晴信が城普請を要求している晴信書状(『遺文』508号)に、「殊
更去年以来還付、未可有安堵候処ニ如此之儀誠以不知所謝候」とあるのは通説のように弘治二年のことと
しておきます。
 雨飾城を真田幸綱らが攻撃したものの、その普請については、天文二十四年(弘治元年)の川中島合戦
をはさんでからの、弘治二年からだということになるでしょう。仮に弘治二年八月、雨飾城攻略と同時に
城普請がなされたとすれば当然真田氏が関ってくるはずですが、城普請が別人の西条氏であることは、一
定期間をおいての普請であることの傍証となります。
 真田弾正宛の八月八日付の「武田晴信の書状」はその段階で真田氏らが雨飾城を攻撃している最中を示し
ていて、これが通説のように、弘治二年とすれば、史料要約1の直江氏書状の弘治二年六月に、既に東条
が武田氏の手中に入っていることに極めて矛盾しています。通説の再検討を求めます。
 もちろん、史料要約1の書状が天文二十二年とする説も、天文二十二年六月でも、先に示した米山説の
扱う武田晴信書状により雨飾城が武田方の手中に入っておらず、天文二十二年八月は真田氏らが東条の雨
飾城を攻撃している最中なのです。史料要約1の宗心出奔の状況語る直江實綱書状の天文二十二年説も成
り立たちません。
 また、天文二十一年三月二十日の「武田晴信感状写」に同日の地蔵峠(長野市)の戦が知られ、天文二十
二年前年の、雨飾城近辺の戦が明らかです。地蔵峠は小県郡真田から雨飾城のある東条近辺へ抜ける古道
中にあります。ここに前年に戦があったとすれば、天文二十二年八月の武田方の雨飾城攻撃説が有力であ
る証拠です。
 ついで、西条氏は弘治二年の十二月に、晴信より新領の宛がいの約束を受けています(『遺文』520
号)。また、牧野島の香坂筑前守は弘治二年五月十二日、雨飾城近くの埴科郡八郎丸名の郷内を与えられ
ています(『遺文』499号)。弘治二年六月には武田方が東条と綿内(『遺文』501号)を確保して
いた可能性は大であり、長尾方が東条を攻める計画の文言が載る史料要約1の直江實綱書状を弘治二年と
することに齟齬はありません。
 弘治二年と推定されている七月十九日、高梨方が気がかりとする雨飾城は、まだまだ弱小部隊であり、
それほどの脅威はなかったと思われ、隠遁騒動の渦中にある越後勢の応援の規模は、はっきりしませんが
高梨勢が武田方についた綿内城を急襲し綿内城は陥落しました。
 しかし、八月に武田方が、近隣の東条の普請が出来るということは(『遺文』508号)、綿内城も武
田方が再び取り返していたと思われます。弘治二年十二月十日、晴信は、仙仁大和守に綿内隣地の保科の
うち小井弖(小出)三百貫の新地を宛行っています(『遺文』517号他『武田・上杉・信濃武士』H19
長野県立歴史館秋季企画展)。小出(長野市)は綿内の南で東条との間にあります。
 特にその朱印状で「今度之忠信無比類候」とあるのは、その年の戦功を示します。まさしく地侍衆を含
んだ武田方による綿内要害などの奪還を示しているのでしょう。従ってそれ以前、武田方綿内要害の七月
十九日一時的落城を示す「今清水文書」にある「高梨政頼感状」を弘治二年とする通説は妥当です。




 善光寺平包含圏の史料に登場する主要城郭


  ちなみに、綿内城が春山城かと通説を何度か記してきましたが、綿内と井上にまたがる山上の井上城と
する説も早くからあります。いずれとも決しがたいですが、春山城の付近の犀川・千曲川合流地点付近の
千曲川右岸に亘の地名があり、渡し場を示すといわれています。「諏訪御符礼之古書」の中に、宝徳四年
(1452)に直里(亘里)があり諏訪上社関係文書に天正十四年(1586)直里郷があります。
 そうしてみると、春山城は南北朝期からの要害ですが、戦国時代にあっても渡し場警護の重要な役割が
あり、武田方利用の説は否定しがたいと思います。また地理的に東条に近く、東条の前線として重要な役
割があるとみたいのです。
 あるいは近隣の井上城、福島城(須坂市)と一体的に機能していたものか、今後の課題であります。福
島城は弘治三年四月に、長尾景虎が取り返しているので、それ以前には武田方の手中にあったことは間違
いありません。
 弘治二年の善光寺平包含圏の甲越合戦を概観すると、晴信・景虎が直接出陣することは無く、武田方・
越後方の信州地侍衆の対決となっていました。嘗ての同族や友好の士が、生き残りのために甲越二者択一
の苦渋の戦いを強いられたことになります。
 このころ、綿内城(春山城包含圏)と東条(雨飾城包含圏)とが、連動して、武田方の善光寺平河東部
の軍事拠点と成りつつあったと見られ、飯山口の飯山館城と亀蔵(上蔵)城(小田草城を中心とする陣地
と推定)と対峙する形となっていました。これが善光寺平包含圏の特に千曲川沿岸における状勢です。




      雨飾城(現長野市松代町尼飾城)
     
             急峻な山城です。   



        4、弘治三年前半の甲越両勢の攻防

 さて、弘治三年二月十五日、武田軍は越後軍が雪のために行動できないことを見計らって、善光寺平の
西部山地の景虎方の要衝、葛山城を攻撃、陥落させました。葛山城陥落の知らせは春日山城に届き、長沼
あるいは矢筒城(飯綱町)にいた島津勢は大蔵城に後退し、飯山もおそらく東条周辺拠点や高井郡の武田
勢に攻勢をかけられて、危機に瀕し、飯山に居た高梨政頼は三月二十三日以前、何回も景虎に援軍を要請
していました。景虎は長尾政景に、飯山応援の依頼をしています。
 政景は越後の上田庄坂戸城(南魚沼市)を本拠とする有力豪族で、既に景虎の姉仙桃院を妻としていま
した。飯山とは越後の豪族では最も地理的位置が近いのが上田庄の長尾政景です。
 また、上杉家『文禄三年定納員数目録』に直嶺衆の樋口伊豫守の妻は泉弥七郎重歳の娘であると記して
あります(信濃史料)。のち、景勝時代に活躍する直江兼続については、江戸前期成立の、『上杉将士書
上』(上杉史料集下巻262頁)に、越後三坂の城主樋口与三左衛門の二男が、与六(のち兼続)であり
直江實綱の名跡(みょうせき)を継ぐことが記されています(直江兼続の父が樋口惣右衛門とする通説が
ありますが、上杉将士書上の与三左衛門の方が、成立年代が江戸前期とされるし、与六の与の字がはいっ
ていることから、もっとも妥当なものと考えます。与三左衛門が惣右衛門に誤伝されたとは考えられない
でしょうか?=2009・9・10更新)。三坂は三国峠に因んでおり樋口氏は上田衆です。兼続の実父
はのち直峰城に移されたとされるから(『平凡社地名辞典』)、与三左衛門=伊予守、一般に言う兼豊と
なるのか、筆者には分かりません(また、飯山市の観光振興の立場からはきらわれるかもしれませんが、
樋口伊予守の泉氏出身の妻が、直江兼続の母であるのか義母であるのか不明です。=2010・5・1更
新)。
 但し、上田衆と飯山の泉氏のつながりは深く、泉氏と高梨政頼が親密な関係があるとすれば、飯山口に
入っていた政頼に対し、長尾政景は景虎要請でもある飯山口応援を断る理由は無いはずです。


  
 上野原合戦比定地付近図(国土地理院25000分の1替佐を改変)飯山市大字静間~蓮の一部を含む田草川扇状地の扇央
から扇頂をそれに当てた。飯山城からは南に約3・5キロ㍍の位置に当たる舟山の周辺。





 続いて通説に従って記すと、景虎は長尾政景など、越後の諸将に参陣を促したけれども、色部氏など、
独立性の高い武将などは、深雪に躊躇したと思われ、なかなか出陣しません。それでも、二月二十五日以
前、越後方の先発隊が中野方面に入り、さらに三月上旬にも越後勢の進出の動きがありました。
 一方、武田氏に従属している木嶋出雲守・原(山田)左京亮らは武田晴信に越後勢の進出を注進しまし
た。晴信も甲府府中を出馬する予定で、詳細は陣前で様子を聞くと答えました。
 木島氏は四月上旬(小林計一郎氏は弘治二年ともとされる)までには善光寺平西山地域で大日方氏と警
戒にあたっていました。その頃、武田方の鬼無里(長野市)を島津勢が攻撃していました(同じく・弘治
二年とも)。
 さて、長尾景虎本隊は雪のためか進軍を阻まれ、四月十八日になって、信濃に入りました。この経路を
『上杉家御年譜』(『上杉年譜』)は越後上田庄(南魚沼市及び湯沢町)近辺を経由したルート(飯山ル
ート)であるとしています。
 上田庄付近を経由したと考えているのは、景虎が上田庄坂戸城主の長尾政景を飯山の援軍に要請してい
る書状の存在により、そのように考えたと思われますが、そのルートでは遠回りです。関田山地を経由す
る飯山ルートが自然です。
 景虎は、高井郡山田城(高山村)・福島城(須坂市)を取り返し、四月二十一日ごろ善光寺横山城に着
陣、二十五日敵陣数箇所を、根小屋以下悉く放火し、同日、旭山城を再興し、ここに本陣を据えました。
敵陣数箇所は葛山城・東条の城なども含んでいるのでしょう。景虎の大軍に武田軍は全面衝突を避け、一
旦、善光寺平南端に後退しました。
 ちなみに、山田要害と記される山田城は、枡形城(上高井郡高山村)とも云われ、城主の原(山田)左
京亮は弘治三年二月ごろより武田晴信に調略され傘下に入り、二月十七日、本領五〇〇貫文の安堵ととも
に新恩として大熊郷(中野市)七〇〇貫文の地を宛行われました。
 福島城については、『須坂市史』によると、「武田方に走った須田新左衛門の系統が支配するところで
あり、渡船場として交通の要衝であった。おそらく当時からも簡単な構えはあったであろうが、後に海津
城が一大戦略基地となるや、福島も長沼城と結ぶ軍事・交通上の要地となった。」としています。
 ついで弘治三年五月十日、景虎は飯山北東方の小菅神社に願文を捧げましたが、小菅神社には使者を使
わしたものでしょう。願文(写)中に「明日速赴上郡爲進兵馬」と善光寺平南部に進軍する意思を示して
います。戦を前にして、大軍を飯山に移動する訳はありません。「景虎暫立馬飯山地、欲散積年之憤」と
あるのはこの年、善光寺平進軍の基地として、飯山を大局的に位置づけているのであり、願文を捧げた日
に飯山に居たわけではないと思います。
 願文どおり、景虎は五月十二日、香坂(場所不明・牧野島と海津の二説あり)を攻め近辺を放火し、翌
日、坂木・岩鼻まで攻めました。しかし、晴信の軍は直接対決を回避しています。
 五月十五日には、景虎は高梨政頼に、草間出羽守同心の上、景虎のいる前線に加勢に来ることを頼んで
います。すなわち、このときから善光寺平の地勢に詳しい高梨氏らを本隊に呼び寄せたと推定され、ある
いはこの時分から飯山口の留守の守備を長尾政景に任せたものかもしれません。
 政景は在所の越後坂戸城に近いので、飯山口を任せられ、越後柏崎近辺に旧本領がある宇佐美氏が、野
尻城主の伝承があるのは合点がゆきます。ついで、六月十一日には景虎は本隊を飯山に移し、高梨政頼を
通じて市河氏の景虎方従属を促していましたが、六月後半には武田方に傾きつつある市河藤若を野澤の湯
(現在の野沢温泉村)に攻めました。しかし、本気で市河氏をつぶす意志はなく市河氏が奥深い山中にこ
もったからか、景虎は飯山に帰りました。なお、この動きを伝える六月二十三日付けの「武田晴信書状」
(『遺文』562号)に、山本菅助が使者として登場しているのは周知のとおりです。





 (写真解説)計見城については日向城として『長野縣町村誌北信篇』に「本村(旧往郷村)の東南にあり、一平地。
東西一町二十八間、南北五十八間、面積五千百四坪、今田となる。西北へ二町許りにして馬場と称する地名あり。城跡
より西五町許りにして、責場という字あり。井二所に存す。往古より往々城具を掘り出せり。市川氏の居城なり(以下
略)」と記述している。この他、地元の人に聞くと、付近の西北に干し場(鎧を干す意)・鍛冶屋敷などの地名がある
という。周辺の地名などから上掲写真の景観中に計見城(館)があったことは確かであろう。井戸一箇所は中央森より
も、70mぐらい上方のあたりという。



 また、計見(けみ)城(木島平村小路付近の平城で、別名日向【ひなた】城)はこのときは機能してお
らず、市川氏が毛見氏一党ともされる本栖(もとす)氏の旧館を整備拡張して計見城に入る時期は通説で
は永禄十一年以降です(『遺文』1329号に武田方の市川城築城の指示)。なお、この時の武田方の市
川城は越後方の市川城(栄村箕作近辺)とは違うので注意が必要です(『飯山市誌歴史編』筆者担当分参
照)。




 近年の川中島合戦の一般書に弘治三年に景虎が計見城を攻めているとしているのは納得が出来ません。
景虎はこのときは現野沢温泉の東方山中を目指していたとされています。弘治二年七月十九日、市川孫三
郎が晴信より飯山直前の安田高梨氏の安田遺跡を宛行われているのは、高梨氏が守る飯山に近く、約束手
形に近いものでした。
 弘治三年六月、武田方の拠点は飯富兵部虎昌が守備する塩田城(上田市)であるのは(『遺文』562
号)、四月末に東条近辺を景虎に破壊されたからと推量します。しかし書状で、武田方が中野筋へ後詰が
出来る状況であるのは東条(長野市松代町)や善光寺平には越後軍の大拠点がなかったことを意味しまし
ょう。
 中野への後詰は塩田城より真田、菅平、須坂地域のコースが最短距離として、また敵の攻撃を受けにく
いルートとして選ばれていたと考えらます。但し、景虎は市河氏攻撃をあきらめ、野澤の湯(現野沢温泉
村)から飯山に引き上げたので、武田氏の中野進出はなかったとされています。



       5、善光寺平河東部の武田方拠点形成と戦況の新展開

 次の史料要約2は『信濃史料』にはない新史料です。弘治三年の善光寺平の戦況を語る重要な問題を含
んでいるので、次に内容を掲げます。
 
       史料要約2、武田晴信書状 ○大阪城天守
       閣所蔵文書(『戦國遺文武田氏編』五六三号)を改変
 
  各々がよく働かれるので、そちらの備(千曲川右岸の東条と綿内)が、万全であるのは喜ばしい。当口
(千曲川左岸地帯)のことは、春日・山栗田が没落し、寺家・葛山は人質を出してきた。島津氏について
は、今日降参の趣を伝えてきている。もとより、同心が通ずられているので、心配はない。
 この上は、つまるところ相極め、東条と綿内、真田方(幸綱)衆と申合って武略を専一にしてほしい。
只今は時節到来とみたので、聊かも、油断してはならない。恐々謹言。
 追って、内々に□島(長野市綱島か)辺に在陣した
が、もしも越後衆が出張してきたならば、備えは如何
にと、各々が意見するので、佐野山(千曲市桑原付近)
に馬を立てた。両日人馬を休め、明日は行動を起こし
たい。
    (弘治三年)   (武田)
     七月六日    晴信(花押)
       (虎満)    
     小山田備中守殿

 史料要約2を天文二十四年のものとし、小山田氏と真田幸綱(のち幸隆)が景虎方の東条(雨飾城)と
綿内城(春山城か)を攻略することを、晴信に命ぜられたものとする説もありますが、そうではなく、既
に、東条と綿内城は武田氏の手中にあり、真田氏と小山田氏が城将となっていることを示しているものと
いえます。東条と綿内のどちらの城将かは分からないが、この書状は、一方を守る小山田備中守に宛てた
ものと推定します。
 この書状の年号は、『遺文』を支持し弘治三年とし、東条と綿内城の真田氏と小山田氏が武略を専一に
して行動するように、晴信が指示したものと推定したいのです。景虎が飯山に帰っている六月中旬~七月
初旬、既に東条と綿内城が武田方により取り返されていたのでしょう。
 この書状は、善光寺平河東守備衆が守備万全の報告をしたのち、武田晴信が返答したものであるとすれ
ば、文言の理解が出来ます。
 また、追而書の文言から推察すると、晴信は川中島の綱島あたりまで進軍したが、越後方の脅威がある
ので、一歩後退し、七月六日善光寺平南部の佐野山城(千曲市桑原付近)に居て、信州全体の指揮を執っ
ていました。つまり直接的には千曲川左岸(西岸)の越後方陣地の攻略を晴信本隊がつかさどっていたの
であります。
 島津氏降参は、島津泰忠(孫五郎・左京亮・常陸介)の系統であり、島津忠直(月下斎)は景虎配下を
押し通し、長沼近辺(長野市)を退去します。島津氏分裂は実は弘治三年七月であったのです。しかし、
分裂以前の島津氏の守城は矢筒城か大蔵城か明らかではありません。
 史料要約2のこの文面で見ると、七月初旬、善光寺平西部地域は平野部・西山地方すべて、晴信が調略
あるいは軍事行動によって、征服しつつあることが分かります。葛山降伏は、還住していた葛山城周辺の
越後方衆の投降を示し、以後、葛山衆として武田方に属することになります。なお、晴信は七月五日と六
日の両日、佐野山城で人馬を休息して、明日は次の行動に出ようとしています。
 また晴信はこの段階で、すでに安曇平北方に別働隊を遣わしており、晴信が善光寺平の後詰をする一方
で、七月五日小谷城(小谷村平倉城)が陥落しました。糸魚川から日本海側を春日山へ進む要地を、制圧
してしまったことになったのです。その後、晴信は佐野山から深志城(松本市)へ入り、七月十一日、小
谷城攻略の感状を与えていたことが確認できます(『遺文』549号)。
 景虎は糸魚川方面の脅威も増したことになりますが、この頃の越後方の動きを伝える史料要約3があり
ます。この文書は従来、永禄三年の景虎関東出陣の際のものとされていましたが、『上越市史別編1』で
は弘治三年に置きました。文言では景虎は留守居役の長尾政景と交信できるところに居るし、永禄三年八
月四日現在では景虎は出陣していないし、八月二十五日付の春日山城留守居役の武将には政景は名を連ね
ていないので、弘治三年説に従いたいと思います。
      
       史料要約3、長尾景虎書状 ○上杉家文書
      (『上越市史』別編一・一五〇号)を改変
 
 この度安田方( 長秀) を以って、条々を仰せ越されてきました。内容を御存分のとおりに具に承りまし
た。然れば(信州に)出陣されて、御留守(留守居役)に至り、自然の義(自然と不満)があり、ご進退
の義見捨てないでほしい由、くれぐれ承りました。これまた仕方がないことです。
 既に、信州の面々衆には、一旦申すとおり、義をもって数年加勢に及び、今日に至るまで苦労してきま
した。ましてや、一方ならぬ子細は、共にあるので、貴所のことだけを、見逃すわけには行かないでしょ
う。
 詳しいことは安田治部少輔(長秀)が説明しますが、御心服ならば頼もしいがこのうえ、もし御疑心が
あるならば、誓書を以て申し述べましょう。委細は彼の方(安田氏)が話します。恐々謹言。
 
    (弘治三年カ)     弾正少弼
     八月四日          景虎(花押a)
    (長尾政景)
     越前守殿

 このとき、景虎自身が信州のどこかの陣所にいて、前線に各武将を配していたと考えられます。景虎は
善光寺平での武田方への巻き返しを図っていたのです。長尾政景が留守居役をしていたのは飯山口でしょ
う。先に五月十五日の段階で、景虎は飯山口の高梨政頼らを善光寺平本陣に呼び寄せた経緯があり、それ
以前かまたはその頃から、長尾政景は飯山口の留守居を仰せ付けられたと見られます。このころ前線に景
虎の大軍がいるので、飯山は安全圏でした。
 このとき、晴信は深志で指揮を執っていたことは、先に記しましたが、善光寺平で作戦の要にいた人物
は誰であったのでしょうか、次に史料を掲げます。

      史料要約4、武田信繁書状○尊経閣文庫所蔵文書
      (『戦國遺文武田氏編』四四九号)を改変

 御書を披見しました。敵は相揺るぎの由注進がありました。□至ってその儀は無くなりました。景虎は
越後へ罷り越しました。ここ元の普請は、大方出来ました。駿・遠の義承りました□。別儀あれば仰せ下
さい。この旨宜しく披露してください。恐々謹言。
    
  (筆者推定の弘治三年)     左馬助
   八月十日             信繁(花押)
   
   大井弥次郎殿

    
 史料要約4は、『遺文』では天文二十四年(弘治元年)と推定していますが、文中景虎が越後へ帰って
いるという文言があります。天文二十四年は対陣が長く続き、八月に景虎が帰っていないことは、明白で
す。信繁が景虎の動きを熟知しているのは、信繁が善光寺平にいる証拠ではないでしょうか。
 つまり、この書状は弘治三年であると推定したほうが自然であり、弘治三年八月、善光寺平の千曲川左
岸地帯で晴信の代わりに指揮をとっていたのは晴信の弟の武田信繁の可能性がでてきました。
 信繁が御書を披見した内容で、駿遠の儀は、駿河と遠州の儀でしょうが、その詳細は明らかではありま
せん。但し、武田氏の直接関与する戦闘状況に関するものではないことは当時の状勢から明らかです。
 ちなみに、平山優氏は東海地方の情勢について「今川義元も永禄二年(1559)以前に家督を嫡子氏
真に譲り、隠居していることが明らかにされている。義元の場合は氏真が本国駿河・遠江両国支配を、義
元が三河支配を行って、さらに尾張侵攻を果たすための役割分担を、構想してのものであることが指摘さ
れている。」と紹介しています。
 したがって、信繁は善光寺平の状勢、東海状勢について問う内容の御書を受けたのち近辺の状勢につい
て、越後方の軍勢が揺るぎだし、景虎本隊が越後に帰ったことを大井氏に返答し、さらに城普請をしてい
ることを伝えています。
 東条は真田氏らが守備しているので、信繁普請の城は千曲川左岸の塩崎城か佐野山城が候補となるでし
ょう。陣中にもかかわらず普請が大方出来たといっているのは海津城のような大規模な城ではないと思い
ます。
 史料要約4では晴信の代わりに、信繁が越後勢の押さえに活躍していることが判ります。八月初旬、景
虎は糸魚川方面の脅威と、将軍足利義輝の甲越和睦斡旋のこともあって、飯山口に、留守居役の長尾政景
と信州衆を主力とする軍勢を残し、あるいは善光寺平北部にも軍を裂いて、大軍は春日山城に返したと推
量します。武田信繁が、敵の備えが揺るぎ、景虎は越後に引いたと注進を受けた状勢が明らかに読み取れ
ます。
 なお、これを景虎が作戦上、引くそぶりを見せたのだと解釈する見方もあります。信玄が深志城にいる
のは、やはり足利義輝の和睦斡旋があったからであることは周知のごとくです。
 重要なことは、斡旋により、景虎・晴信の本隊が双方とも善光寺平を退去し、一部要の城に、それぞれ
副将格の長尾政景・武田信繁を残したと推定されることです。いよいよ本題の上野原合戦に近づいた感が
ありますが、合戦に間近く次の史料(史料要約5)があります。
  

     史料要約5、武田晴信書状写
     (竪切紙)○「古文書簒」二十九所収
     沖野安次郎氏所蔵文書(『戦國遺文武田氏編』五七四号)を改変

 今日の各々の働きは(勝利して)心地よい。今後は、千曲川の浅い深いを見届けられ、川を渡ったなら
ば、今日の戦いようには行かないので、気をつけた方がよい。相談して失敗がないように、てだてを考え
よ。恐々謹言。
  
    (弘治三年カ)  (武田)
    八月十五日   晴信(花押影)
    
       東条在陣衆各

 晴信は深志城に居て、東条在陣衆より千曲川右岸の戦勝の報告を受けていることが判明します。東条在
陣衆はおそらく綿内城の北方、中野・飯山方面から来た飯山守備衆と戦ったのでしょう。河東に入った越
後勢を一掃したと見られます。
 ちなみに、中野市田上の観音寺には甲越戦争の兵火を被った伝承があり、実際鎌倉初期と鑑定されてい
る仏像三体には火災痕跡があります(『田上区史』)。あるいはこのときの戦火を受けたとも考えられま
す。
 さらに、『下水内郡誌』には、小菅の記録「当山興廃の事」に、「弘治三年、武田氏の軍隊が侵入し来
り、堂塔伽藍を焼却せし」とあると記し、そして長尾景虎が越後へ帰るや否や武田軍が怒涛のごとく高井
郡に押し寄せ、小菅の伽藍に放火したことを補足し、さらに、同文書に「水内高井両郡人民悉離散、徒為
荒原凡十五六年」とあるのを記しています。
 思うに、越後側の江戸前期の『軍記物』では、弘治三年の戦は弘治二年としているので、小菅の記録に
弘治三年の武田氏の侵入を記すことは、この地方の伝承によったもので極めて信憑性が高いものと思いま
す。むしろ、よくある永禄四年の合戦後の武田氏による放火記述は、『甲陽軍鑑』などの記述の影響を受
けたもので、弘治三年の事件とするほうが、真実味があるのではないでしょうか。
 晴信が八月十五日に、今日の各々の働きは心地よいと言っているのは千曲川右岸の焼き討ちを伴う戦勝
のことを指すと推量されます。この時、飯山方面の千曲川右岸地帯まで完全制覇したものと推測したいの
です。右岸に越後勢が残っていれば、左岸をうかがうことは出来ないと思います。ついで、同じく史料要
約5に晴信が、今後は千曲川を越えての合戦を注意深く行うように指令しているのは、上野原合戦の直前
と思われる日付であり、注目に値します。


 

            長野市綿内南西の千曲川
      犀川、千曲川合流前の川は浅瀬が多い。渇水期であれば一気に善光寺
     方面に進軍することが出来ます。





 上野原合戦は千曲川の左岸で行われ、しかも東条在陣衆を、今までは川の深浅状況の把握していない下
流域に派遣したものと推測されます。通説どおり長野市の西部地域を武田軍が攻めるのならば、後の海津
城近辺か、そうでなくとも綿内近辺で川を渡るはずで、そこは浅瀬が多いし、いつも川の深浅状況を確認
できる状況であります。史料要約5の千曲川の渡し地帯は、地理的には長野市豊野以北となり上野原の戦
いについては、現在残る上野地名から飯山市静間の田草川扇状地が有力候補地となるのです。
 さて先に史料要約3のところで、飯山口の留守居役は長尾政景であろうとしました。それに関連して次
に長尾景虎方で出した感状(案文)を掲げたいと思います(史料6~8)。

史料6、長尾景虎感状案 ○〔歴代古案〕一(『信濃史料』第十二巻)
                      
今度於信州上野原一戰、動無比類次第ニ候、向後弥之事肝心候、謹言、
   (弘治三年)              (長尾)
    八月廿九日             景虎
    
     南雲治部左衛門とのへ 




史料7、長尾政景感状案 ○〔歴代古案〕四(『信濃史料』第十二巻)

於今度信州上野原一戰、動無比類次第候、向後弥可相事簡心候、謹言、
      (弘治三年)                 (長尾)
    八月廿九日              政景    
       (藤能)    
     大橋弥次郎殿




史料8、長尾政景感状案 ○〔歴代古案〕四(『信濃史料』第十二巻)

於信州上野原、對晴信、遂合戰、得勝利候剋、神妙之動無比類候、向後彌被稼事專要候、謹言、
    (追筆)   (丙辰)
      「弘治二年戌午」          (長尾)
      九月廿日              政景     

    下平弥七郎殿

 長尾政景の上野原合戦の感状(案文)が以上のように二通も残ることは、政景が信州に出陣していた証
拠であるし、先記のように留守居を仰せつかったならば善光寺平の後詰の飯山留守居役の可能性が高いと
思います。政景は善光寺平の前線に立った高梨政頼と交代して、飯山口の主将であったのでしょう。  
 
 ところが、その後、長尾景虎が越後へ帰り、戦況が一変し、飯山口の守備が弱いと見て、武田方の東条
在陣衆が千曲川の左岸に出て、飯山の攻撃にかかったのではないでしょうか。それが、いわゆる上野原の
戦であったのだろうと推定します。政景にとってはそれ以前に、前線に立てないことの不満がありました
が、自軍が矢面に立つ展開となったことは皮肉です。
 場所・勝敗・規模など不明の上野原の戦については、長尾政景隊が越後勢の主力であったことは小林計
一郎氏が考察しており、それに従いたいと思います。しかし、これまで記したように、それ以上に戦況が
推定できるようになり、弘治三年八月、武田方はほぼ善光寺平を制圧し、残すは飯山のみとなっていたと
考えられます。善光寺平の西部山地で両軍の主力衝突がある可能性は低く、これまでの各説は成立しがた
いと思います。但し、若干の越後勢が善光寺平の北部に残っていたと仮定すれば、武田信繁勢がその押さ
えの役割を担っていたのかもしれません。







 信繁勢が善光寺平西部の押さえに当たれば、武田方河東勢は背後に敵がいないのであるから、一気に飯
山口への攻撃が可能です。これは先に武田勢が小谷城を攻略した状況と似ています。東条在陣衆の飯山攻
めはあり得ないことではないと思います。史料6・7の感状については八月二十九日直前に戦闘があり、
文面が似ていることから、もとは右筆など同一人物の作成した感状と推定されます。但し、案文であるの
で、一通が果たして景虎が関与した感状であるのか、厳密には不明です。
 史料8は6・7と違って二十日以上たった感状で、後日の戦功確認です。晴信に対し合戦を遂げと書い
てあるのは、晴信方の軍勢に対しと理解されています。晴信は深志城(松本城の前身)にいるはずです。
 長尾景虎が越後へ引くと見せて、敵をおびき寄せたという説はありそうな話ですが確認は取れません。
しかし、上野原合戦の武田方の感状が皆無であるのは、この戦が景虎方勝利に終わったことの証左です。
 小林計一郎氏が『長野県史通史編』で言うように、武田方は越後陣営に深入りしすぎたと、考えられま
す。進攻を聞いて景虎本隊が再び信州に戻り、飯山口で戦功の確認をしたことはありえましょう。
 本稿では飯山城前線の小田草城目前の戦が上野原合戦と主張し、飯山市静間上野地籍一帯の、田草城・
小田草城・舟山陣所付近を亀蔵城(上蔵城)諸城の中心拠点と考えました。
 のち、晴信は永禄元年秋に越後侵入を図り、同二年五月にも佐久郡松原社に信玄の号で戦勝を祈願しま
したが、飯山にあっては亀蔵城などの堅い守りに越後方戦線を突破できなかったと思われ、再度永禄三年
に亀蔵城の自落と越後勢への勝利を祈っています。これは上野原合戦の敗北と永禄初年の戦いの失敗によ
り、飯山城南部の戦略上の重要性を、十分承知していたからこそと思えるのであります。


史料9、長尾景虎感状案 ○〔歴代古案〕八(『信濃史料』第十二巻)
                             (儀)
今度信州於河中島高名、殊面白者討捕、無比類事神妙候、以来義可嗜候、依之小島分一騎前出置也、
 
      (天文二四年)
    八月廿二日            景虎御書判
         (孝重)
     福王子兵部少輔殿

 なお、史料9は最近、弘治三年に当てる動きがありますが、既に武田氏の陣営がある東条の目前で越後
方の陣営が張られていたり、戦があるはずがなく、これを日付が近接している理由で、上野原合戦と混同
し、弘治三年にあてることは出来ないと思います。今後の検討課題でしょう。



       6、まとめ

 近時の『遺文』の編纂などにより、この時期の史料を時系列に知ることが出来るようになり、北信濃の
戦国時代史も、再考の時機を迎えているようです。この地域における川中島合戦の回数は、上野原合戦を
どの場所に当てるかで違ってくるし、合戦規模や対陣をも含めるかの、概念規定の個人差もあり回数説は
無意味となりましょう。




 この点に関しては筆者の『飯山市誌歴史編』内での指摘とともに、古くは栗岩英治氏最近では柴辻俊六
氏によって指摘されてきた問題です。本来、江戸時代の『軍記物』から発生した回数説は近時の戦況の検
証によって、破棄されるべきであり、回数説を基準にして戦国史を語るべきではないと思います。
 また、『軍記物』にある戸神山など、戸隠山信仰の根源を、江戸期に日本神話のなかに変形してしまっ
た感もあり、筆者比定の旧高井郡田上山(たがみ山)との関係も『軍記物』形成過程での検証が、必要に
なってきています。
 上野原の戦いについても、『軍記物』の記述が戸神山(戸隠山と混同か?)と川中島中心に語られ、後
世の歴史家の一部にも、それを鵜呑みにする傾向もあります。信州の戸神山は江戸期成立の『軍記物』の
記述にのみ登場し、中世文書には管見に触れた例はありません。全国の天の岩戸伝承のないところにも、
戸神山があるのは、語源として田神山(たがみやま・たなかみやま)があるのではないでしょうか。戸神
山には三角形の山容が多いと聞きます。
 これまで述べて来たように弘治三年の戦は、善光寺平包含圏を縦横に駆け巡った局地戦の繰り返しであ
り、甲越双方の善光寺平の覇権争いでした。弘治三年末~永禄初年、結果的に武田氏は、狭義の善光寺平
(中野以南)をほぼ手中にし、残るは飯山と野尻地域だけになってしまったことは周知されています。




          昭和40年代の田草川扇状地 中野市田上から撮影











 
     
  最後の越後方の砦、飯山城と亀蔵城の攻略が武田方の東条在陣衆を主力として仕掛けられ、失敗したの
が、上野原合戦であると筆者は認識しました。のち、永禄三年九月、武田信玄は亀蔵城(文献で最初の確
認)の十日以内の自落退散と、越後勢への勝利を神に祈っていますが、かかる状況は東条が海津城拠点に
移り、善光寺平を手中にしたうえで、先に失敗した飯山地方の制圧を信玄が再びもくろんでいたことを示
しています。
 弘治三年の戦は、長尾景虎にしても、高梨氏を初めとした信州衆の救援のように史料に登場しています
が、内心は、武田氏の信州完全制圧の脅威があり、春日山城の防衛こそが、善光寺平包含圏の出陣の理由
にほかならないと思います。
 弘治年間の飯山城は土豪泉弥七郎(重歳)の館城が丘頂にあったのみと推定され、広大な自然丘は、景
虎が善光寺平出陣の基地として利用したが、まだまだ、城としては不完全でありました。そこが城として
完成するのは、後年の永禄七年であります。それ以前の飯山城の防御性は低く、飯山城以南の旧城を利用
した支城網の意義が深まり、田草城・小田草城周辺の一帯が上倉・奈良澤・泉氏(泉氏は泉・尾崎・今清
水氏らに分派している)ら地侍衆の集結する亀蔵城の中心拠点であったと推定したわけです。のち、安土
桃山時代に、上倉氏や尾崎氏の配下に舟山氏・上野氏・上原氏などがいることは、前にも記しました。 
 いずれにしても、善光寺平包含圏は永禄年間初頭には、東条付近に海津城が、飯山に、飯山城と亀蔵城
(上蔵城)諸城が存在し、甲越双方の信濃経営と軍事基地的中核となっていたと想像されます。    
 
 以降、甲越戦争は飯山及び亀蔵城と海津城の争奪をめぐっての戦が主となり、海津城が早く完成したの
を受けて、永禄七年に飯山城が本格的普請の第一歩を踏み出すことになります。
 ここで、庶民史との関りについて、若干視点を注ぐと、綿内や東条在陣衆などが問題となります。ここ
は小山田備中守など甲州衆も目付け役を兼ねて派遣されていますが、真田氏西条氏など武田氏に従った信
州衆が中心となった武田方大拠点です。もちろん、当時の武士は百姓でもあり、駐屯した下級武士たちは
庶民です。信州衆は武田晴信(信玄)の傘下になっても、いつも前線に立たされるという、苦労と悲しみ
と出世の狭間にありました。


 

           飯山城  昭和55年4月撮影

       飯山城の西北部分は、当時、緩やかな傾斜の畑部分がありました。

 長尾景虎(上杉謙信)方の信州衆についても、景虎に失地を回復してもらっても、ひとたび景虎本隊が
前線を下げると、武田方先方衆と交戦状態となったと推量されます。弘治三年七月における島津氏の甲越
所属の分裂や葛山衆などの武田氏への投降も時代のなせる業であります。  
 弘治三年八月下旬の、上野原の戦いがどこで行われたかは、筆者も断定できません。しかし、見えてき
たのは、越後方は長尾政景など有力武将も入るが、その配下の武士と大半は信州地侍衆と考えられ、武田
方の、主に先方衆との戦闘こそ、上野原の戦ではなかったかということです。その中には嘗て在所をとも
にした同族が含まれていたかもしれません。庶民の悲しい歴史が、上野原の戦に表出したというべきでし
ょう。
 なお、根本から上野原の戦を否定する説もありますが、現在残っている感状がすべて案文(写)である
以上、確かめる術もなく、案文を信用するしかないと思います。将来これらの案文が偽文書であると証明
されれば、筆者を含め、これまでの各説は海の藻屑となります。  
 以上大胆に通説を打破し考察を重ねましたが、永禄元年以降の善光寺平の武田氏の進出を見れば、あな
がち荒唐無稽の妄想とはならないと自負しています。しかし、史料の解釈で、拙論が成り立たないことも
あり、皆様のご指摘とご指導をお願いする次第であります。
 
                *参考文献 
*松澤芳宏「飯山市静間、舟山陣所遺跡と上野原の戦」『信濃』59巻第11号、平成19年
*松澤芳宏「弘治三年における甲越合戦の戦況(上野原合戦飯山市静間説の補足)」 『高井』165
号、平成20年
*佐藤源次郎「第三回川中島合戦 上野原の戦い 古戦場考」『文化財信濃』34巻2号、平成19年
*小林計一郎『川中島の戦』(春秋社、昭和38年)
*松澤芳宏「水内郡賤間郷田草村をめぐる古城址とその史的背景」、(『長野110号』昭和58年)
*松澤芳宏「第二編第三章―上杉氏と飯山」(『飯山市誌歴史編上』 飯山市、平成5年)
*柴辻俊六・黒田基樹編『戦國遺文』武田氏編第1巻、東京堂出版、平成14年  
*江口善次編『秋津村誌』(飯山市公民館秋津分館、昭和41年)660頁 
*静間区蔵『元禄八年静間村絵図』
*井上鋭夫校註『上杉史料集(上)』に所収(新人物往来社、昭和41年)
泉弥七郎=重歳は「尾崎重信等連署証文写」「奥信濃古文書所収」、尾崎家文書『遺文』1333号を参
考。その他尾崎氏系図類も弥七郎は重歳。
*『文禄定納員数目録』(『上杉家文禄三年定納員数目録』)(栗岩英治集録伊佐早氏本、昭和9年)
*「市川良一氏所蔵文書」武田晴信書状(山本菅助登場)は 金井喜久一郎氏の発表による。同文書はそ
の後釧路市坂井進蔵。
*湯本軍一・徳永哲夫「第四章」、須坂市史編纂委員会刊行『須坂市史』、昭和56年。
*平山優『川中島の戦い(下)』学研文庫、平成14年
*小林計一郎・湯本軍一監修『北信濃の城』郷土出版社、平成8年
*湯本軍一監修『信州の古城』郷土出版社、平成19年
*海上知明『信玄の戦争』ベスト新書124、平成18年に景虎の引くそぶりを見せたとの説
*栗岩英治編著『下水内郡誌』47頁、下水内教育会刊、大正2年
*柴辻俊六「川中島合戦の虚像と実像」『信濃』第52巻第5号、平成16年
*平凡社『長野県の地名・日本歴史地名体系20』石澤三郎・金井喜久一郎分担分昭和54年
*『上杉年譜』などにある柳原ノ河岸の地名については、田中秀穂「近世千曲川における中洲争い」『高
井』73号、昭和60年に柳原新田
*松澤芳宏「飯山市静間の二つの館跡」『高井』40号、昭和52年
*米山一政「第五章第三節―長尾景虎と武田信玄の攻防」(『更級・埴科地方誌第二巻』更級・埴科地方
誌刊行会)昭和53年
*松澤芳宏「上野原の戦、飯山市静間説の新展開」(上)(下)―弘治二~三年甲越合戦の真相―雑誌
『信濃』第61巻第9・10号 通巻第716・717号 平成21年刊行 (2010・10・21追
記)



          (2009・3・5記・2010・9・28更新。2014・10・25更新。)

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上野原の戦い、飯山市静間説を力説する訳
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