上野原の戦い、飯山市静間説を力説する訳






 上野原合戦飯山市静間田草川扇状地説を唱える訳は、そこに上野(うわの)の地名があるからです。江
戸時代慶安4年の水内郡静間村検地帳に上野が見え、元禄8年静間村絵図に上野新田・上野割林・勘介山
が記載されています。このことは他章に既に記述してあります。
 また、古文書の弘治3年と推定の感状案(感状の写し)3通には信州上野原と書いてあるだけであり、
長野市若槻の上野(うわの)に当てる説が有力視されるのは、江戸時代後期の軍記物『甲越信戦録』に、
長野市の西部山中らしい記述があるからです。さらに、最近の有力研究家が皆そこを重視しているからで
す。
 しかし、それはまだ、静間の荒舟近辺の上野地名が流布していなかったからで、飯山城の南、約3・5
kmのこの位置は、飯山城の前線として重要な位置を占めています。また、付近に飯山地方最大級の大き
さをもつ山城、小田草城があります。私はこの小田草城を武田氏の言う亀蔵城の最大拠点と推定していま
す。一方、武田方からは飯山の軍勢の動きを一望に捉える絶好の場所であり、舟山の陣所らしい丘からは
飯山城をはるかに望めます。
 ただし、弘治3年の飯山城は自然丘の頂上に泉氏の館城(やかたじろ)があったのみで、広大な丘の周
りに堀をめぐらすことはなかったと推定され、永禄7年に数ヶ月を要して上杉輝虎が本格的築城を行って
います。永禄7年の上杉輝虎の川中島出陣は、飯山築城を擁護する意義もあると思います。
 つまり、永禄7年以前の飯山城は輝虎が善光寺平出陣の基地として利用するには便利だが、それ自体の
防御性は低く、周辺の山城群と一体的な防御体制と見られます。この周辺の山城群を上倉氏(泉一族とは
断定できない)を筆頭に泉一族も守っており、それを代表して亀蔵城自落退散の祈願を永禄3年9月に武
田信玄が佐久郡松原社に祈願しているわけです。
 願文で、ことに、10日以内の亀蔵城自落退散と越後軍への勝利を祈願しているのは、実際はそれ以上
の手間がかかると踏んでいるからで、私は越後方の陣地は飯山城一つではないと主張しています。
 
 次に、善光寺平包含圏の末端、飯山までも武田勢が攻め込んだかについては、すでに弘治3年と推定の
3月23日付け長尾景虎書状では、飯山に武田勢が迫っており長尾政景に飯山の応援を景虎(上杉謙信)
が頼んでいます。このころの飯山は飯山城とは断定できず、飯山付近一帯が飯山口などの表現に移行して
います。弘治2年に高梨政頼が飯山に逃げてきているのは、飯山近辺の志妻郷(飯山市静間)が高梨領で
あることからであり、そこともとれます。志妻郷の小田草城や田草城は高梨領です。

 また、このころの善光寺平の情勢については次の、『信濃史料』にはない新史料が重要です。

 史料要約2、武田晴信書状 ○大阪城天守
       閣所蔵文書(『戦國遺文武田氏編』五六三号)を改変
 
  各々がよく働かれるので、そちらの備(千曲川右岸の東条と綿内)が、万全であるのは喜ばしい。当口
(千曲川左岸地帯)のことは、春日・山栗田が没落し、寺家(戸隠山顕光寺)・葛山は人質を出してきた
。島津氏について
は、今日降参の趣を伝えてきている。もとより、同心が通ずられているので心配はない

 この上は、つまるところ相極め、東条と綿内、真田方(幸綱)衆と申合って武略を専一にしてほしい。
只今は時節到来とみたので、聊かも、油断してはならない。恐々謹言。
 追って、内々に□島(長野市綱島か)辺に在陣した
が、もしも越後衆が出張してきたならば、備えは如何
にと、各々が意見するので、佐野山(千曲市桑原付近)
に馬を立てた。両日人馬を休め、明日は行動を起こし
たい。
    (弘治三年)   (武田)
     七月六日    晴信(花押)
       (虎満)    
     小山田備中守殿

 これでみると、善光寺平すべてが、武田晴信の手中にあり、その後一時、長尾景虎が巻き返しを図ったが、まもな
く8月上旬に武田氏側からは、景虎本隊が越後に引き返したと見られる行動があり、善光寺平は越後勢が希薄とな
り、残すは飯山付近のみが越後勢の拠点となったのです。
 飯山付近は長尾政景が留守居役をしていましたが、 そこの守りが希薄とみて、武田方東条在陣衆が千曲川の東
から西に踏み込み、上野原合戦となったと推定します。詳しくは他章の本論に述べてあります。
 
 次の文書は合戦目前の日付で、注目に値します。

  史料要約5、武田晴信書状写
     (竪切紙)○「古文書簒」二十九所収
     沖野安次郎氏所蔵文書(『戦國遺文武田氏編』五七四号)を改変

 今日の各々の働きは(勝利して)心地よい。今後は、千曲川の浅い深いを見届けられ、川を渡ったなら
ば、今日の戦いようには行かないので、気をつけた方がよい。相談して失敗がないように、てだてを考え
よ。恐々謹言。
  
    (弘治三年カ)  (武田)
    八月十五日   晴信(花押影)
    
       東条在陣衆各

 武田晴信が特別に千曲川を渡ることを強調していることは、その対象が綿内以北であり、善光寺平包含圏北半の
千曲川沿いで上野原合戦があったことを意味しています。飯山へは延徳沖の大湿地帯が難所ですが、その東をめ
ぐる道もあり、逆に千曲川の自然堤防をたどれば一気に北進が可能です。
 当時、高井郡内では武田方についた土豪が多く、高梨氏の中野小館残留勢力も、あくまで江戸時代の伝承であ
り、僅かな勢力では武田氏に到底抵抗できるものではありません。

 以上、私が上野原合戦を飯山市静間上野付近に当てる訳が理解できると思います。決して無謀とは思えません
が、断定は差し控えます。長野市若槻上野に断定することこそ、合戦が川中島の近くで行われているという、先入
観によっていることを自覚すべきです。
 このころの晴信の所在については、『千野文書』に「小谷城御本位の時分(中略)、高白斎をもって深志の対面所
へ召し出し、比類なくぐの由、御褒美候事(信濃史料第12巻175頁)」とありますから、 晴信が深志城にいる
ことは確実であります。 また、先記した史料要約5の晴信書状写よって、8月15日にも晴信が深志城から指令を出
していることが解ります。従って、上野原の戦いは、武田方東条在陣衆と長尾政景等飯山口在陣衆との戦い、すな
わち甲越戦争の局地戦であると私は考えています。長尾景虎についても一旦越後に帰った後、再び参陣したか、
戦いの後に飯山口に入ったかは明らかではありません(2014・10・25更新)。
  なお、私の上野原合戦静間説の原点は小学生のころ祖父が私に語ったことにあります。「昔、舟山と田草川を隔
てて戦争があり、 武田方は舟山に上杉方は山の神に立てこもって戦いをした。 だから山の神には矢の根石がたく
さん落ちている。この一帯は上野原(うわのはら)といって、大久保集落の草分けである大下の家は、昔、上野原か
ら下りて、大久保に住した。それで、姓を上原に名乗っている。」
 矢の根石は縄文時代で時代が合わないと、中学生の時には、この話を馬鹿にしていたが、還暦をすぎて真剣に
上野原合戦静間説を唱えるようになったのは、単なる伝承も馬鹿にしてはならないという戒めと感じております。
                        (2010・8・17記、8・27更新。2014・10・25更新。)

 なお、上野原合戦静間説の場所は現在の飯山市秋津農村公園の辺りを含む所であり、江戸時代に上野新田と
う集落があり、現在も上野堰の名称が付近にあります。近隣には、田草城・小田草城という大規模な軍事拠点があ
り、何千という軍勢をおける場所です。上野からは飯山城を眼下に望むことが出来、この地域の確保が長尾景虎方
(上杉方)にも、武田方にも、最重要なことであり、武田勢も田草城・小田草城を通り抜けて飯山城に迫ることはでき
ません。また、飯山城自体も当時どの程度の防御能力があったかは不明です。
 あるいは、田草・小田草城あたりが越後方の最大拠点であったかもしれませんし、高梨政頼の支配地域であるこ
とは判然としています。高梨氏が、弘治2年に飯山地方に入ったのは、早くからの領地である田草城・小田草城の
あたりとも考えています。越後方の最大拠点である両城の前線地帯の戦いが上野原合戦である可能性は大でしょ
う。
 以上の状況から、上野原合戦静間説を力説するわけがお解りかとおもいます。皆さんも秋津農村公園を一度訪
ねられてはいかがでしょうか。
                       (2016・7・16追記)


















参考文献

*松澤芳宏「上野原の戦、飯山市静間説の新展開」(上)(下)―弘治二~三年甲越合戦の真相―雑誌 
 『信濃』第61巻第9・10号 通巻第716・717号 平成21年刊行 (2010・10・21
 追記)
*松澤芳宏「上野原の戦い、飯山市静間上野説を唱える訳」―長野市岩野での天文二十二年説の検証―
  雑誌『高井』第220号 高井地方史研究会 令和4年8月1日発行。(弘治3年長尾政景の飯山口在陣を証拠とし
  て、 上野原合戦を川中島付近ではなく、飯山地方に言及しました.。)2022・8・2追記。
 

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