四季の飯山地方の誇れる景観
 



  飯山市秋津の勘介山で秋津小学校の自然と遺跡の観察会にお招きいただきました。春の空をいっぱいに吸っ
て一気にヤッホ−、 若い大きな声が眼下の村々に響き渡り、すがすがしい気分にひたりました。真の教育はこんな
ところにあるのだと感心しました。






 飯山市街地近郊の千曲川、柳の新緑が売り物です。左方の桜が見える丘が上杉謙信が春日山城の防衛と信濃
経営の拠点にした飯山城です。背後の長峰丘陵と関田山地を越えれば新潟県です。





 今年は例年よりも花の時季が遅れています。この日も北風が冷たく、肌寒い一日でした。しかし、雨の後で、春霞
もなくすばらしい風景でした。牧歌的景観の菜の花公園も見ごろはあと僅か先ですが、若いカップルがベンチで語
らっています。なんとも絵になる飯山風景ではありませんか。






 親子連れが斑尾高原の沼の原湿原で自然に触れています。水芭蕉が今にも飲めそうな澄んだ雪解け水のなか
で、白く揺らめいています。     





 この日、沼の原湿原では残雪と水芭蕉がちょうどよい状態でした。多くのハイカ−が訪れて、斑尾高原の清涼な
空気を吸っていました。





 ミズバショウとリュウキンカの競演です。水面にゆらめく影が、なんともいえない雰囲気を作っています。






 突然、「菜の花畠に、入日薄れ‥‥」の歌声が聞こえました。駆けつけてみると、山ア浩氏の指揮で、 飯山市の
女声合唱団フィオ−レがそよ風のなかで、髪をたなびかせて歌っていました。いかにも歌詞のとおり春霞のかかっ
た風景で、柔らかな日差しの中、千曲川がきらきらと輝いていました。 実はこの日は菜の花祭りに合わせて、テレ
ビ信州の「ゆうがたGet!」の放送が行われていたのです。
 菜の花満開の景中に曲がよくマッチし、永遠の響きを奏でました。歌い継がれる歌詞に高野辰之先生の心情が
今も伝わってきました。






 飯山市菜の花公園では有名な撮影スポットですが、菜の花を囲む、それぞれの行動がおもしろいと思いました。
リックサックを背負い、はしゃぎまわる子供たち、菜園をバックに写真を撮り合う若い人、第二の人生か、写真の趣
味に打ち込む人々、まさしく、それぞれの春がやってきました。














 切り株にのって花の撮影をする女性がいました。それをなごやかに見つめる友。菜の花公園ならではの、香り漂う
涼風が吹き抜けます。






ちょっと一休み



    

 よく後姿の美人が登場する名画があります。 この方も菜の花にぴったりの美人で、淡いピンクの洋服が黄色に映
え、なにげない肩掛けバックも似合っています。飯山に来た意思のとおり、美しい風景がカメラに収められたでしょう
か。





 飯綱町で撮影の黒姫山です。






  どこか東山魁夷先生の絵に似た風景ですが、新緑と山桜のコントラストが見事でした。





 木島平村を流れる樽川の雪解け水がふもとの村々を潤します。あふれんばかりの水量に自然のエネルギ−を感
じます。





 有名な年に一日限りの樽滝が出現しました。五月快晴、大勢の観光客で賑わっていました。





 前日の雨で黄砂がすっかりとれ、この日は絶好の撮影日和でした。何度か足をはこびましたが、今日は至福のパ
チリでした。





 新潟県妙高市にて、こんなに可憐なニリンソウが撮影できました。朝の逆光も運がよかった。





 妙高市の関川沿いで撮影しました。こんなにくっきりとした妙高山はめったに見られません。





 飯山市の中央橋も老朽化し、建て替えの時機が来ているようです。菜の花に映えるこの景観も、まもなく見られな
くなるでしょう。





  山間の急傾斜地でりんごのワイ化栽培が行われていました。ここからの北信五岳の眺望はすばらしく、清楚なりん
ごの花と妙高山の残雪が印象的でした。





 中野市若宮の親戚のボタンです。ピンクの花と池の青と程よく調和していました。





 絵の大先輩の駒村久弥氏が、確かマムシグサの絵を描いたことを思い出しました。その描く意味が当時若輩の私
には解りませんでした。この花一生懸命生きているのに、蝮を想像させるグロテスクな風貌から、人々に嫌われてい
ます。駒村先生はその花の応援をしたかったのではないでしょうか。勝手な想像をしています。 今の私の心情に似
ています。





 飯山市瑞穂の北竜湖が新緑の最中です。柳がこんなに美しく投影される場所はこの場所以外にはありません。
背後の小菅山の杉林と藤花の対比も美しさを助長しました。この場所にくると心が洗われます。















 飯山市瑞穂小菅の浅葉野庵のオ−ナ−は、私が高校生のころ、中学生で、地元の北竜湖々畔の土器石器を研
究されていました。その土器などを私に見せていただいた覚えがあります。 なつかしくお店に立ち寄ってみましたと
ころ、 お店の従業員の方がお庭のことなどを話してくれました。 窓辺にあっさりと活けられた花が涼しげで、茶処ら
しく、小菅神社付近景観にマッチしたすばらしいお店でした。





 お庭にささやかな清流がありました。緑陰に咲くクリンソウがかわいらしく、ほのかな赤がいっそう緑を引き立ててい
ました。絵心を誘う一景です。












 関田峠に程近く、茶屋池があります。関田峠は中世・近世には使われていた道であり、上杉謙信が飯山経由で善
光寺平に出陣する、有力候補の道の一つです。茶屋の名のとおり、旅人の喉を潤していた池でしょうか?。 周囲を
ブナ林に囲まれ、満々と水を湛えた池は真に神秘的で、池畔にはミツバツツジやタムシバの花が咲き誇っていまし
た。





  飯山市温井の田茂木(たもぎ)池は、越後への峠道の関田峠(大明神峠)の登り口にあります。田茂木池を含む
一帯が字田茂木平であり、傾斜地の中で平かな場所は池付近のみで、田茂木平の地名は池付近から出た地名に
まちがいないでしょう。
  田茂木の語源については、田麦や峠と同じく手向け(たむけ)からきたものとも推量しています。何かしら古代の道
にちなむ地名のように思えてなりません。
 池は築堤され、農業用水に使われていますが、地形からみると、もともと湿地帯があった場所のように思えます。
峠への祭祀の場所であったかもしれません。山間のひっそりとした池に、昼下がりの山影が映り、暗部とあざやかな
新緑が魅力的でした。





 屋台曳きで有名な飯山市静間神社の秋季例大祭が9月18(土)・19日に行われました。神社への道中、区民
や観客が総出で屋台を曳きます。途中の各所で薙刀も舞います。 




  静間神社境内は、『保元物語』や『平家物語』に登場する伝静妻(志妻・志津間・閑妻他)氏館跡とされる場所で
あり、小高い丘にあります。 神社入り口の急坂を屋台を苦労して引き上げます。よいしょ、よいしょの掛け声が周
囲に響き渡り、祭りは最高潮に達します。





 3台の屋台を実際に祭りで使用しているところは珍しいでしょう。明治中期以来各集落の氏神に屋台を奉納して
いましたが、大正13年の静間の各社の合祀で、静間神社と改称しました。その場所がもともと中町組氏神の伊勢
社があったところで、本殿・拝殿もそのまま使われ同年に祝詞殿(幣殿)が追加されました。境内は伝静妻氏館跡
とされ、後年江戸初期には伊勢社・諏訪社が並立していました。(詳しくは松澤芳宏『静間神社合併史』平成18年
=飯山市立図書館蔵を参考にして下さい。)










 拝殿の左手に祭りのときだけ舞台が組み立てられます。夜宮と大祭当日に薙刀・獅子舞・神田囃子(かんだば
やし)などが奉納されます。




 大久保区の静観庵の前で屋台曳きが終わり、祭りが終了します。若連がご協力ありがとうございましたで、飴を
まきます。大人も子供も我先にと飴を拾います。





 灯台基暗し、観光地に行かなくとも静間には、こんなすばらしい風景があります。蕎麦とコスモス畑を栽培してい
るのは東洋史の大家・故宮ア市定先生の生家の方です。中央の山は高社山の支脈である田上山です。




















 最も秋らしい高社山の写真が撮れました。地元冥利に尽きます。






2009〜撮影





 飯山市菜の花公園 (h21.4/19撮影)



                     










































 柳沢遺跡から下流では、飯山北方あたりまで、千曲川はゆったりとした流れを見せています。川の岸辺
は特に流れが緩やかで、現在、カヌ−で遡ることができます。古代においても川面の舟運が行われていた
ことはもちろんでしょう。なぜならば、この地方では漁業も、重要な生活の糧であったと思われるからで
す。
 上図の田上山(田神山?)はいかにも信仰の山らしく、美麗な三角形の山容を呈しています。中野市田
上の長福寺の寺伝に、高宮山長福寺とあり、高宮山は田上山(たがみやま)を指しているものでしょうか
ら、たがみ山から高宮山そして高社山に名称が変化している可能性もあります。
 想像の域を脱しない考えかもしれませんが、このようなとんがり山は、農耕神のシンボルでもあり、全
国各地にたがみ山・たなかみ山があり、あるいは転じて戸神山に名前が変化しているところもあるかと思
います。
 飯山市の秋津地区(静間・蓮)では、田上山は笠原嶽とは言わず、あくまでも田上山であり、田上山に
雲がかかると、雨になるとも昔からいわれています。まさしく、農耕神のシンボルとして、たがみ山があ
り、田上山を含む一帯が高社山(正式には、たかやしろ山)であるのです。
(2009・11・13記)






































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名峰高社山は田神山か?銅戈・銅鐸埋蔵の謎
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松澤芳宏の古代中世史と郷土史