名峰高社山は田神山か?銅戈・銅鐸埋蔵の謎





 北信濃の名峰高社山は古代に田神山と呼ばれていたのでしょうか?古く鎌倉時代に、この山麓に田上村
の地名がありました。その意義を私達は深く心に刻まなければなりません。古代史の復元は、考古学や文
献史学だけでは解けるものではありません。それを活用する大局的な史観が、今求められようとしていま
す。日本考古学界は九州や近畿地方だけが大陸文化の窓口のように、先入観を持って、用語の分類を行っ
ています。
 私たちは、今こそ、冷静に古代文物を見つめ、北陸、中部、北関東地方における大陸的文化の洗い出し
を行って、この地方の古代文化の先進性を考えなければなりません。 大陸における政治動乱の余波で、
朝鮮半島はもとより、日本海を越えて多くの難民が日本列島に渡来し、先住民と融合し、弥生中期の稲作
や金属器文化を育てたと考えて、まず、間違いないでしょう。半島経由だけではなく、高句麗地域や沿海
州を経てくる文化が、九州とは違った文化を生み出し、たとえば、樋結合式・樋分離式銅戈の形態の相違
がそこに現れているのかもしれません。



 樋結合式銅戈を九州型とするのではなく、樋結合式銅戈のこの地方に登場する時期が弥生時代中期の後
半前後かどうか、というような問題点の持ち方が、正論でしょう。あるいは、この地方で九州にやや遅れ
て樋結合式銅戈が製作されたり、銅戈そのものが持ち込まれたりしたのかもしれません。鋳型が今のとこ
ろ無いから善光寺平では青銅器は製作されず、近畿地方他から、入ってきたと結論するのは、古代文化近
畿優位の先入観によったもので、その考えこそ慎重であるべきでしょう。
 私は想像で古代史をみているのではなく、あらゆる可能性を想定しながら、発言を重ねているのです。
このホ−ムぺ−ジでは、決して暴論を吐いているのではなく、皆様の考え方の転換を期待し、皆様と共に
この地方の古代文化の解明を考えてゆくつもりであります。
 この地方の歴史の解明は、即ち日本の歴史の解明につながり、今、柳沢遺跡や根塚遺跡、勘介山・法伝
寺・有尾・蟹沢の前方後方墳や高遠山前方後円墳などの、冷静な見方が、日本の歴史の再検討に発展する
と確信しております。

(2009・10・25記、2010・8・22更新)


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長野県史跡勘介山古墳(前方後方墳)について
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