芙蓉(ふよう)湖の別称がある野尻湖の北岸に臨んだ峰が野尻城(信濃町大字野尻字城ヶ入)である。野
尻には古代東山道支道の沼辺駅(ぬのへのうまや)があったとされ、また室町初期には高梨氏が芋川荘内沼 尻(ぬじり)関所を領有していた。近世の通称北国街道(以下通称を用いる)成立以前は、越後関川沿いか ら信濃の熊坂を経る道があったらしく、これが、野尻湖北岸につながり、野尻城近辺の繁栄が推定されて いる。
ちなみに、南北朝時代には僧了妙が野尻弁財天(琵琶島所在)に、大般若経六百巻を奉納しているし、
中村由克氏によれば野尻城に隣接した旧野尻湖中学校の敷地からは、鎌倉時代末〜南北朝時代と鑑定付の 銅製御正体(みしょうたい)(懸仏)が発見されており、 中世の五輪塔群もあり、一帯の繁栄ぶりがうか がえるという。
正平5年に始まった観応(かんおう)の擾乱(じょうらん)で、正平6年(1351)、足利尊氏方の武田
弥六文元が野尻城より転じて、東御市和(かのう)内の地に出陣しており、この野尻城を現野尻城に当てる 説がある。但し現在の野尻城は戦国期に改造されたものと思われる。
時は永禄七年(1564)と推定される3月、上杉輝虎(謙信)の関東出陣の隙を突いて、武田方は飯
山口と野尻方面を攻め、野尻を陥落させ、越後の郷村に放火した。会津地方をも巻き込んでの巧妙な作戦 展開であったが、まもなく野尻島(文献の表現)は上杉勢が取り返し、輝虎も4月初旬関東より帰陣して いる。従って、武田方がいう野尻陥落は琵琶島とする説が圧倒的であるが、野尻城と琵琶島が対を成して 上杉方の要塞となっていたとする説も捨てがたい。琵琶島だけが城とすれば、逃げ場が無いので疑問であ る。
また、湖畔の野尻城が野尻湖と湿地帯に半島状に突き出ているので、その状況を野尻島と輝虎が言った
ものかもしれないし、『長野縣町村誌』によれば、野尻城と伝えているのは、湖畔の城である。
琵琶島を野尻城、湖畔の城を野尻新城とするのは最近の説で、野尻島(『上杉輝虎書状』の表現)=琵
琶島=野尻城と考えた事による。しかし、これは地理を知らない人の一説であり、地元を長く研究された 米山一政・小林計一郎氏は湖畔の城を野尻城として琵琶島と一体的な防御拠点とみている(『平凡社地名 辞典』・『上水内郡誌』・『牟礼村誌』など)。
地元で野尻城と伝えているものを、野尻新城にするのは歴史伝承の改竄である。野尻新城の呼称は、永
禄12年と推定の「八月二十三日付け上杉輝虎書状」に「野尻新地」の警戒を命じている文言があること から、それを野尻新城としたことによる。なお、湖畔の野尻城は確かに戦国期の改造が推定できるが、そ れは永禄7年前後まででも成立し得るのであり、戦国期改造があるからといって、野尻新地に湖畔の城を あてるのはよくない。 ![]() ![]()
野尻島が乗っ取られたが、まもなく取り返したとは、輝虎が言っているのであり、その辺に問題を解く
鍵がある。書状の場合、書状の表現そのままが事実ではない。敵におそらく、湖岸の野尻城と琵琶島を奪 い取られたが、そのまま、野尻城が取られたと表現しては、味方の戦意が失われるので、事も無げに野尻 島のみが敵に取られたように表現したともとれる。
ついで永禄11年夏から秋、武田方は越後本庄繁長、越中などの本願寺門徒衆と呼応し、飯山と野尻方
面を激しく攻撃、野尻では上杉方の陣地は後退して、 越後の関山の新地(田切城説あり)が最前線とな った。
上杉輝虎は永禄12年「飯山・市川・野尻新地」の警護を命じ、上杉方の陣は再び野尻湖付近に前進し
た。この野尻新地こそ、平成3年に遠藤公洋教諭と信濃中学校2年2組生徒達によって発見、命名された 土橋(どばし)城とみたい。 ![]() ![]() ![]() ![]()
新地とは新城と一般には理解されているが、今までの城に替わって新たな土地に城を築く意味がある。
野尻湖北岸の野尻城と琵琶島の陣地に対して、この時代交通が盛んとなってきた北国道(俗称北国街道) により近く、土橋城が新地として築城されたと見たい。
この城は大湿地帯を防御として、半島状に突き出た尾根の前面を切岸と郭で加工したものである。特に
切岸がふんだんに使われていることは、野尻湖畔の野尻城とは格段の差がある。北国街道の防御のためと 関所的な意味をも加えて、野尻新城が築かれたと考えられる。あるいは永禄年間ごろまでには、信濃の熊 坂から野尻湖北岸を経る道(野尻城付近を通る)にかわって、後世の関川の、関所付近(新潟県妙高市関 川)を通る道が既に整備されていたとも考えられる。
さらに、越後では、天正3年に上杉氏が新井宿を伝馬宿に定め、同8年関山・田切が伝馬宿送りを勤め
ていたことを実証する史料もあるから、元亀・天正年間ごろには、大田切・小田切の難所を越える北国道 (北国街道)が繁栄していたことは周知されている。
野尻新地築城からまもなく、天正十一年九月の嶋津淡路守(忠直)宛て「上杉景勝朱印状案」に「野尻
新町郡司不入、諸役可為皆免者也、仍如件」(以下略)として、諸役を免除しているのは、上杉景勝が野 尻新城の城下町の育成を長沼城主の嶋津忠直に命じたものと理解される。
この野尻新町こそが旧野尻城付近の城下集落から転じて、野尻新地の包含圏に入る、新たな町が形成さ
れていたことの証明であろう。野尻新町こそが以降の野尻宿の形成に関る町であり、野尻新城の城下町で もあったのである。北国街道の新路線の研究に、野尻新町の存在する意義は深い。野尻新町は決して後世 のいわゆる野尻宿の新町であったのではなく、野尻宿の発祥の地であった可能性は高い。そうでなければ 野尻新町のみが郡司不入の地に定められた意義はなくなるだろう。あるいは、後世江戸期の野尻宿の中心 街辺りまで、野尻新町と天正年間ごろに呼んでいたのかも知れない。今後の研究課題である。
なお野尻新城は天正11年ごろに、上杉景勝支配下の長沼の嶋津氏の管轄下にあったと考えられるが、
まもなく、城としての意義が薄れ、残された遺構も臨時的な陣所としての簡略な施設であったので、長く 人々に忘れ去られたものと考えられる。
野尻新城に比定される土橋城は、池尻川の湿地帯に臨む尾根突端にあり、北国街道より大手道を設け、
大堀切の推定箇所(道がある)を経て主郭のある小丸山に達する。幾重の郭と切岸(きりぎし)で尾根を加 工し内部に空堀が無いことは、味方の動きを考慮した縄張で、自然地形も残すことは臨時的要素が強い。 城域が約100×350mもある大城郭で、本郭は約20×56mの大きな削平地で、低い土塁を伴う。
大湿地帯を防御とする立地は、この時期の飯山城に似ているし、丘の内部には空堀をあまり設けない方
式は、上杉謙信の関係する城の特徴的な構造であり、飯山城もこの部類に入る。輝虎は郭の空堀による分 断は、味方の逃げ道の確保や、味方同士の応援に、不必要とみたのかもしれない。
さて、その前の時代からの、野尻湖々岸の野尻城については、城域長さ250mの尾根の西側を大手と
する。大手の内部はなだらかな自然丘陵で、この付近に多くの人数を入れることは可能だ。峰の奥の縄張 は複雑で、約34×23m(最高所)と約22×29mの土塁に囲まれた郭がある。これらを深さ約6〜 7mの深い堀切と切岸・竪堀が取り巻き、若干の小郭を伴う。最奥の入念な構えと大手側の簡略な施設が この城の歴史の長さを語っている。
この城の甲越合戦時代の改造は否定しがたく、永禄7年以前の普請の可能性は十分あろう。野尻城の重
要性は輝虎が承知していたはずである。 深い空堀と若干の切岸や低い土塁を伴う構造は、その時期の普 請を感じさせる。但し本郭付近の城域は狭く、先記したように、度重なる武田方による野尻城の占領と、 北国街道の防御の必要性から、永禄12年かその直前に、新たに野尻新地(土橋城)が築かれたものと考 察したい。
野尻新地に比定の土橋城の方が本郭は広大であり、高さ約4〜8m、長さ100m以上にわたる長大な
切岸を幾重にも造成している点は、新しい要素とみたい。この地方の城郭は新しい時期ほど切岸が発達す る。
参考文献
*米山一政 「北国街道宿駅の成立」『信濃第13巻第8号』昭和36年
*湯本軍一監修 松澤担当分野尻城『信州の古城』郷土出版社刊行 平成19年
*『信濃史料補遺巻上』622頁 信濃史料刊行会 昭和44年*松澤芳宏 「信濃町野尻城と野尻新地比定地の新説」『高井第206号』平成31年2月1日発行 このホ―ムペ―ジを再編したものを紙上に掲載(2019、2・20追記) ![]() ![]() 総目次に戻る
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