飯山市戸狩の岡峰遺跡出土の皮袋形土器













 飯山市大字照里・戸狩の岡峰地籍(岡峰遺跡と命名)では、昭和50年に、飯山市勤労青少年ホームの
建設に先立って、緊急発掘調査が行われました。その結果、弥生時代中期後葉〜末期と推定される住居跡
が多数発掘され、同時代の44号址とされる住居址的あるいは祭祀的遺構から、当時オカリナ形注口土器と
呼称された特異な土器が発見されました(注1)。
 報告書によると、44号址は3.8m四方・壁高20cmの正方形プランを為し、北壁中央よりやや東よりに焼
土が堆積し、付近に若干の川原石が散乱していたとされています。焼土の西で焼土が途切れた地点で北壁
及び床面に密着して口縁部を北側に向け、オカリナ形土器が横位に出土したそうです。
 この遺構の覆土からは弥生中期第T類A式土器(この遺跡での分類で、私見では栗林U式新相前後)の
壷形土器口縁部・底部破片,甕型土器破片3点(内2点は赤色顔料塗り土器)、高坏の破片など多量の土器
片が出土しています。焼土の堆積については炉と断定するには位置が偏りすぎ、オカリナ形注口土器や赤
色塗りの土器片、及び高坏の出土などにより、44号址は祭祀的性格が濃いものと考察されています。
 なお、高坏とされたものは台部のみであり、台付甕であるかもしれず、いずれとも決しがたいと思いま
す。高坏は百瀬式土器にも見られるものでありますが、百瀬式とは断定できず、後考を待ちたいと思いま
す。なお、この遺構に伴うかどうかは明らかにされていませんが、高坏とされる台部の内面の接着部に近
く、小さな円盤状突起をつくり、中央に孔を穿っているものがあります。そうなれば、台付甕ではなく高
坏と認められるものでしょう。
 この遺跡全体での所見として、栗林U式の新相か直後時期にかけての年代が求められようと思います。
私見では、弥生中期後葉〜末期の紀元1世紀半ばから後半前後の時期に相当すると思っています。




 さて、皮袋形注口土器については、高さ9.8cmの小型品で、私はこれを縫い目の表現はないものの、こ
れより新しい時代にある皮袋形土器に関連性が求められるため、岡峰例を皮袋形土器と呼んでいます。皮
袋形土器は鳥形土器とも関連性があるといわれ、朝鮮半島でもこの系統の三国時代陶質土器などが発見さ
れています。
 岡峰遺跡発掘調査団長の小林幹男氏は岡峰遺跡皮袋形注口土器について次のようにのべています。
 「器形が楽器のオカリナに類似していることから、この名称を用いた(オカリナ形注口土器)。この土
器は、胴部の器形が断面菱形を呈し、その先に注口をつくり、最大径が20.2cm(実際は19.8pで以下実測
値を示す)、器高が9.8cmを測る大変珍しい器形を呈する。胴部の側面はやや下胴部に張りのある甕形を
呈し、下腹部の最大径が8.3cm(7p)である。底部は、菱形胴部の下端を切って平底につくられ、底部両
端の稜角からやや反り気味に下胴部に続いている。口縁部は平縁で、末端がやや尖り、口径が8.1cm(6.
9cm)、口縁端から頚部に向かってゆるやかに外反りし、頸部で強いくの字形を描いて、菱形胴部に続い
ている。頸部の所見から、口縁部は別個につくり、菱形胴部の上端を穿って接着したものである。」
 ここで私見を述べますと、頸部から胴部にかけての刷痕は一見粗い刷毛状に見えるところがありますが、木製箆工具による重複痕とも見える部分もあります。図にみるとおり、真ん中やや右に、幅7oの箆状刷痕らしいところがあります。頸部と胴部の接着部を箆等の工具で何回もこすりつけた跡であるかもしれません。しかし重複刷痕の上端部分は粗い刷毛状にも見えます。粗い刷毛状に見えるところは箆の木目痕あるいは箆と刷毛状工具の併用があったかもしれません。
 なお、刷毛状と言いましたが、植物繊維の束ねたものとも考えられ、弥生中期に日本に刷毛があったかどうかの問題を含めて、今後の課題でしょう。また、胴部下腹部の縦長のくぼみの列は丸みがかり、指頭による重複刷痕と考えています。また、口縁部が平縁で頸部からラッパ状に開く形態はこの地方の弥生中期壷形土器の特徴として間違いないものです。
 皮袋形土器は近畿地方や西日本の弥生時代末期〜古墳時代初期以降のものが多く知られていますが、弥生中期後葉あるいは末期と推定する本例は西日本例の先駆的要素をもつ貴重な資料であります。この飯山市岡峰遺跡例が皮袋形土器の古い時期の系列に入ることから、皮袋形土器が単に西日本からの文化の波及と妄想することは危険と考えます。
 祭祀的要素の強い皮袋形土器が、大陸の影響かと見る意見に従って、柳沢式銅戈の私見と同じく、朝鮮半島や沿海州を介しての大陸文化のなんらかの影響が中部日本にもうかがわれる一つの例として、この皮袋形土器を位置づけたいと思います。そうした中にあって、列島地域間の文化交流もあろうかということになります。
 また、賢明な考古学者からは、反発があるかもしれませんが、長野県の庄の畑式・阿島式土器をはじめとして東日本の弥生時代中期の古期にみられる頸の細い壷形土器も、大陸のパジリク古墳(墳丘墓とは言いません)出土の革製品水筒の器形と瓜二つであります( 図解考古学辞典193頁参照 )。 


 





 文化は人間の脳裏にある映像を媒介しますので、土器は土器の形、銅戈は銅戈の形、鉄戈は鉄戈の形だ
けで変化するだけではないと思います。渡来人も関係する大陸文化の流れが、日本の弥生式土器の形態に
も影響を及ぼしているかも知れません。今後の大きな研究課題でしょう。




 西日本の弥生前期の遠賀川式土器の形態が大陸的要素が強いものされることは周知されており、以降東
日本にも影響もあるが、そのまま日本列島の土器が国内で自発的に発展したものとは断定できないと思い
ます。西日本を経由しないで、日本海を直接経てくる大陸的文化が東日本の弥生中期の文化に影響を及ぼ
すことはあると思います。
 弥生中期初頭の長野市松節遺跡21号木棺墓出土土器群には、大陸の角杯形容器か動物の胃袋を利用し
た皮袋が変形したと推定の土器や、パジリク古墳群出土の革製品水筒の水を入れたスタイルに似た数々の
細頸壷があります。以前述べたとおり、礫床木棺墓が、高句麗域初期積石塚古墳の内部構造と類似性があ
ることなどと相俟って、大陸の皮袋製品のスタイルが中部日本や東日本南半の弥生中期の土器に影響を及
ぼしているのか大略的史観で検討すべきかと思います。金属器スタイルの西日本を経ないでくる文化もす
でに指摘され始めているわけです。

 なお、奈良県田原本町の羽子田遺跡では、井戸遺構の底から完形の皮袋形土器が出土しています。その
年代は弥生時代末期の3世紀前半前後とされています。形態は、飯山市岡峰遺跡と非常によく似ています
が、口縁部の形がやや異なります。岡峰遺跡のものは羽子田遺跡例よりも、古い時期と推定され(筆者年
代観は紀元後1世紀半ば〜後半前後)、形態発展をたどれる皮袋形土器として両資料は極めて貴重な学術
資料であります。なお、インターネットに羽子田遺跡の土器が掲載されていますので参考にしてくださ
い。

                    (2009・9・19更新、2015・7・15再更新)

 さらに、縄文中期と目される例として、仙台市上ノ原遺跡の皮袋形土器が知られており、器形の基本的
要素は飯山市岡峰遺跡皮袋形土器と変わりがないことは重要です。2千年をはるかに超える長い間、基本
器形が変化していない事実は、そのイメ−ジ原形が皮袋容器にあることは、明らかでしょう。
 広く、北アジア・東アジア内の大きな文化圏の枠のなかで、皮袋容器や皮袋形土器が使われていたこと
の研究が今後必要となります。なお仙台市例が、直接岡峰遺跡例に変化したものとは、あまりにも時代が
離れており、今のところは断定できないと思います。その時代それぞれに、大陸的要素の文化が日本列島
全域でうかがわれるかどうか、今後注意して行きたいと思います(注2)。

                               (2009・9・22更新)

参考文献
注1、小林幹男・児玉卓文他1976「岡峰遺跡発掘調査報告書」飯山市教育委員会刊行
 2、松澤芳宏2016「飯山市戸狩の岡峰遺跡皮袋形注口土器の重要性」―弥生中期における大陸的文
   化の追求―『奥信濃文化第26号』飯山市ふるさと館友の会編集・発行。
   本稿の内容を検討修正したものを紙上に掲載しました(2016・3・14追記)。




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