銅戈より見た弥生時代中期の私的年代観と柳沢青銅器の時間的位置

 
 最近の科学測定により、弥生時代中期の始まりが、紀元前(以後は前と表記)の4世紀最古期とすることや、科学
測定にたよらずにしても、前2世紀最古期からとする説が、今、学界では大勢を占めています。これは、前100年前

後から弥生中期が始まるとする嘗ての定説を覆すものです。

 かつての説は、中国史とその文物に蓄積された考古学的考証によって、組み立てられたものであり、果たして、そ
れを覆すほどの、科学・考古学・文献史学的考察が可能であるのか、疑り深い私にとって、はなはだ疑問のことであ

るのです。

 歴博C14測定に対する科学者自体の反論もあり、今、C14測定は、再吟味の必要が出てきているのではないで
しょうか。事実、今年の箸墓古墳に絡むC14測定の較正年代が、今度は日本の年輪年代等を参考にしたと聞いて
おります。
 これは、弥生時代C14歴博測定が、世界的な年輪年代の較正曲線を加味したものであることに、極めて矛盾し
いるものです。古墳時代年代測定が、地球同緯度の日本の年輪年代を参考にしているのならば、弥生時代C14

定も日本の年輪年代をも加味した較正年代が求められるのではないでしょうか。

 私は科学については、知識がありませんが、科学測定自体が正しいかどうか、判断できるのが、従来からの弥生
代中期の考古学的考証と信じています。弥生時代中期は、中国漢代の文物によって、朝鮮半島や日本との関係
探ることのできる好個の時代であると思われます。



また、2・3は現在の北朝鮮咸興市付近にあたり、韓国の4・5と比べると胡が発達している地域色があります。

 朝鮮式最古式の銅戈の貞柏里式 ( 樋分離式の範疇で、平壌貞柏里採土場出土の、従来の貞柏里型を統一し
て式の名称を与えた)・梨花洞式(樋結合式の範疇で、朝鮮半島北東部北朝鮮咸興市梨花洞土壙墓出土)の内
ない=茎の部分)は、いずれもがっしりとした大きな内であり、日本ではあまり見られないものです。

 柳沢遺跡銅戈の内を見てください。貞柏里式・梨花洞式銅戈の内よりも、はるかに小さいことがお分かりかと
います。また、樋に文様があることも、後出的要素とされています。貞柏里式が遼西式以来の樋分離式であるこ

から梨花洞式にやや先行する要素があるものの、貞柏里・梨花洞式が併行関係のある時期があり、両型式の

行年代が前2世紀前後とする意見に賛同したいと思います。 

 なぜならば、梨花洞式銅戈を出した梨花洞土壙墓伴出の鉄斧が、北朝鮮龍淵洞積石塚古墳(明刀銭伴出によ
り戦国後期の前3世紀とされる)の鋳造鉄斧と同時かやや新しい形式であり、土壙墓では三鈕細文鏡などを伴っ

ているからです。また同遺跡では多鈕粗文鏡は伴っていません。

 梨花洞の三鈕細文鏡は、王建新氏分類の多鈕鏡のうち、B(細文鏡)U式で、文様の線は細かく立体感がなく、
鈕は丈短小細腰平帯状であります。九鳳里のBT式細文鏡の丈細形細腰平帯状鈕の存在や、文様の立体感が
ややある型式とは、明らかに異なっており、日本出土の多鈕細文鏡はすべてBU式とされています。
 梨花洞土壙墓は前2世紀中葉〜新期ごろの遺跡と推定され、当然、梨花洞式銅戈の盛行年代は前2世紀前後
と考えられます。その他、半島での梨花洞式銅戈の出土遺跡は、九鳳里・草浦里・素素里の遺跡があり、新しくは

前1世紀と考えられている大邱の新川洞遺跡で、樋結合式複合鋸歯文型銅戈と中細形銅矛の最古式前後のもの

をも伴っています。

 つまり、梨花洞式銅戈は前3世紀最新期に作られ始める可能性があり、前2世紀には盛行し、樋文様帯銅戈盛
行時期の前1世紀に、末期的なものが僅かにあるということになります。

 なお、貞柏里式銅戈については、プロポ−ションが梨花洞式と同一であり、河北省燕下都辛庄頭30号墓式銅戈
の類似もあり、その発生については、中国中原地方北部から遼西地方のどこかに求められるかもしれません。
 中国では殷代以来の胡未発達型銅戈が残っており、それが遼西式銅戈に影響し、両者の特徴の中をとって、仮
遼西式直後型式が出現、辛庄頭30号墓式銅戈の祖形となると主張します。最も問題となる中国戦国期から前

(西漢)代の古式戈類似様式については、次の資料
(裏辺所長の北京弾丸旅行,09さんの写真が参考)
abc0120考古用語辞典様)・()があります。
  雲南省の長胡戈については、それこそ、私の言う仮称遼西式直後型式に親縁性が深いものですが、断定でき
ず、中国東北地方以外での胡発達型銅戈の好例といえましょう。

 中国東北地方近辺では春秋末期〜戦国時代に深樋式銅戈が発生し、中国南部地方では浅樋式か無樋式銅戈
が前漢代でも伝統であるようです。朝鮮半島や日本では燕の領域から伝わった深樋式銅戈の影響が強いと考え

られそうです。中国東北地方の樋分離式磨製石剣は遼西式銅戈の樋分離式に大いに関係するものです。



燕の明刀銭が伴出しているため前3世紀とされています。

 さて、王建新氏が前3世紀末前後(多量の小型X字形銅斧の形態から私はひとまず前3世紀前後と把握したい)
とされる、中国長白山地方の吉林省集安市五道嶺溝門積石墓(積石塚か?)では、龍淵洞積石塚古墳の鉄斧と
同様に、縦長の銅斧があります。ここでは甲CU式(図5−5の3)とされる銅剣(遼寧式銅剣系統のB]式)もあ
、多鈕粗文鏡の末期型式鏡や朝鮮半島〜九州の細形銅矛に先行する祖形細形銅矛も発見されています。

 朝鮮半島では、多鈕粗文鏡や縦長の鋳造鉄斧・銅斧は前2世紀にも残り、多鈕細文鏡や、短い鋳造鉄斧もあり
ます。まさしく、多鈕粗文鏡から細文鏡への交換、また細形銅矛の盛行してきた時期が前2世紀であり、貞柏里

・梨花洞式銅戈も盛行しています。

 なお、多鈕細文鏡については、韓国忠清南道の東西里石槨墓で、前3世紀後半前後に早い出土例があるもの
、多鈕粗文鏡を伴い、その共存状態は前2世紀古期前後に引き継がれているものと思われます。   
 韓国扶餘郡九鳳里石槨墓・咸平郡草浦里石槨墓・扶餘郡合松里積石石槨墓(木棺が内包か)は前2世紀古期
前後とされ、貞柏里式・梨花洞式銅戈等もあり、九鳳里では多鈕粗文鏡・細文鏡を伴出しています。

 ちなみに、北九州出土の吉武高木式銅戈は樋元に微隆起線文があり、内も貞柏里式・梨花洞式よりも小さく、
貞柏里式・梨花洞式銅戈以後に属すると思います
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page072.html。吉武高木
式銅戈を出した弥生前期末〜中期初頭の吉武高木3号木棺墓は前2世紀新期前後に、九州に流れた文物を副

葬しているのであり、 九鳳里墓よりも後出の遺跡であり、前100年前後の遺跡と思われます(拙著論文『信濃60

-7』)。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%BC%8F%E9%8A%85%E6%88%88&search.x=1&fr=
top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=0&oq=
 また、佐賀県武雄市釈迦寺遺跡http://www.city.takeo.lg.jp/kyouiku/bunkazai/pages/bunkazai/bunkazai-326.htm
では弥生中期初頭とされる甕棺から細形銅戈が出土していますが、その形状は、扁平で内(茎)が極めて小さく、
宇木汲田式銅戈と共通性もあります。この銅戈も貞柏里式・梨花洞式銅戈以後に属する新しい様式であり、弥

中期初頭がやはり、前100年前後からとする説を確定させる資料でしょう。

 たとえ、貞柏里式・梨花洞式銅戈が前230年前後から製作開始があったとしても、釈迦寺銅戈との時間的隔た
りは大きく、釈迦寺式銅戈の製作開始年代は100年前後は経過しているものと理解されるのです。

 さらに、朝鮮半島では、前2世紀新期前後に、鏡では多鈕粗文鏡は影を潜め、多鈕細文鏡のみが盛行するよう
になり、日本へも流れたと推定されます。日本では弥生中期初頭前後から中葉の墓所で細文鏡が副葬される例

が多く、私はこの実年代が前1世紀を中心とする前後の時期とみたいのであります。なぜならば多鈕粗文鏡は日

本列島では未だに見つかっておりません。

 ここまで記したことから、中国戦国後期様式鋳造鉄斧やその残片(実際は戦国期様式をとどめた前漢期のもの
が多いことは他の章で後記します。)が、弥生中期初頭前後〜後半に、九州で確認されている例があることから、
弥生時代中期初頭前後を中国戦国時代後期にあて、前3世紀ごろとする意見があれば、私は賛成できません。
 一方朝鮮半島南部では、前2世紀になって、戦国様式鋳造鉄器が流入したと見られています。当然のことながら
日本に海を越えてそれらの鉄器の一部が流入したとしたら、日本の鉄器埋蔵時期はさらに時間差をおくべきもの
、私は考えます。

 一人の人間が斧を持ち歩いても、それが貴重品であるのだから、30年ぐらいは簡単に過ぎてしまいます。たと
、破損しても、貴重品を再加工します。再加工品は小型で破損しにくく、また、何年も使うことになるでしょう。人

ら人へ製品がわたればさらに時間差を生じることになります。

 製品の制作年代と廃棄年代は50年を大きく越えることは頻繁であり、100年を越えることもいくらもあると思い
ます。多少とも農業に携わり、身近に大工さんなど、職人に接した人であれば、このことは十分理解できると思い
ます。もっとも学究生活のみで過ごしている人達には理解できないかもしれませんが?。

 ちなみに、村上恭通氏の著書によれば、弥生時代中期後半においても、日本では鋳造鉄斧・鍛造鉄斧が共存
、鍛造板状鉄斧・鍛造袋状鉄斧等が、北九州その他で発見されています『倭人と鉄の考古学』。

 ひるがえって、青銅利器に目を転じると、夫租のワイ族に前漢の支配があり、夫租ワイ(草冠に歳)君銘の銀印
出土で前1世紀と確定されている北朝鮮平壌市貞栢洞1号墓からは銅鐸などと共に、多樋式の節帯二条型細形

銅矛T式が出土していて、朝鮮半島では、細形銅矛T式が前1世紀に下降していることは確実であります。

 さらに、王建新氏は、北朝鮮平安南道上里遺跡も貞栢洞1号墓と同じ頃の遺跡とされており、そこでは小型化し
た鉄斧(鋳造か鍛造か不明、教えを請う)もあり、朝鮮式細形銅剣U式(研ぎが関近くまで)や銅鐸も伴出していま
す。
 貞栢洞1号墓や上里遺跡は、日本では細形銅矛T式の残る弥生時代前期末〜中期半ば頃の文化に該当し遠
隔地の銅矛の文化波及の時間差を考慮しても、弥生時代中期の始まりが前1世紀最古期前後になるものと私は
考えています。前後ということは、これまで述べてきたように±約30年程度としておきます。
 つまり、前130〜前70年ぐらいに弥生時代中期の始まりがあると考え、10年以上前の先学の説が正しいと考
えています。

 弥生時代中期初頭こそが、朝鮮半島北部に前漢の支配が及び楽浪郡など四郡が設置された半島の激動の時
代に相当し、多くの難民が半島南部はもとより日本列島に渡来し、金属器文化が花開いたと考えられます。また、

やがて列島のそれぞれのクニの王が楽浪郡などを仲介して前漢と交易を開始し、前1世紀新期かそれ以降に前
漢鏡を含む中国系文物が弥生古墳やその他有力者墓所などに副葬されるようになったものと考えられるのです
(ちくしの散歩さんがヒントになります)

 ここで、かつて遼寧式銅剣の系統のB\式とされた遼寧式銅剣の退化型式が、日本の中細形銅剣a 類に影響
を与えていることを指摘した問題(拙著論文『信濃60−7』参照)について、考えてみたいと思います。実はそれと
同じような問題が王建新氏によって指摘されていたので紹介します。
 同氏は甲類CU式銅剣としてB\式に似た類を図示し、甲類C型銅剣は、前3世紀から前2世紀に流行したもの
であるとし、主に長白山周辺地域に分布しているとされています。また、遼西・遼東・長白山地方に文化源流があ
るというように述べています。甲類C型銅剣は日本の中細形銅剣a 類にほぼ該当する乙類B型銅剣分類の様式
に影響を与えたとして、日本の中細形銅剣の剣身関部の幅が広くなったことは、大陸の甲C型銅剣の影響によっ
て変化したものかもしれないとしています。
 さらにまた、剣身関部の双孔の類似も指摘し、中細形銅剣成立期に日本列島が長白山周辺地域と直接交流が
あったことを証明しているとされています。

 これについては、まったく同感であり、日本の銅剣文化が南韓から九州文化源流一辺倒で語られていたことに
を打ったものであります。また日本の中細形銅剣成立期が弥生時代中期前半である以上、その年代は当然前

世紀から下降し前1世紀前半から中葉にあることが考えられると思います。

 
 さて、この問題は中細形銅剣だけの問題ではないことを、皆さんお気づきでしょう。筆者提唱の柳沢式銅戈が、
中国東北地方や北朝鮮、沿海州に源流があるのでは、というこれまでの説を後押しするものと考えます。

 これまで述べてきたように、柳沢式銅戈は胡長(関部の幅)が、列島と朝鮮半島で最大級であり、しかも樋分離
式であり、仮称遼西式直後型式銅戈の影響下にあると推量します。つまり、遼西式銅戈そのものではなく、胡長

胡幅)が小さくなり、朝鮮式銅戈に近づいた形態の影響を受けているのではないかという考え方です。



1996刊行  中国東北地方で遼西式銅戈から、年代差で変化した一型式と考えたいのです

 前3世紀〜と考えられる燕下都辛庄頭30号墓式銅戈が、さらに朝鮮式銅戈に近づいた姿といえましょう。柳沢
式は辛庄頭30号墓式併行時期か、それ以前の形態の影響を受け、日本で文化が温存され、内地間文化交流も

あって、弥生時代中期前半ごろから製作されたのではないかということが、検討課題となっているのです。柳沢式

自体も数型式あるので、一部は日本以外で製作されているかもしれません。

 弥生時代中期前半ごろからとしているのは、柳沢Ta 式が細形樋分離式格子目文帯型銅戈に分類され、内の
小ささから、樋結合式の宇木汲田式・鎌田原式銅戈等とさほど違わない時期の盛行と考えられるからです。

 柳沢青銅器一括埋納品のうち、1号銅戈は、中細形樋結合式綾杉文型銅戈の最新式の一点であり、いわゆる
九州型ではありますが、私は名称が不適切だと記してきました。この盛行年代は韓国坪里洞式銅戈とのプロポー

ションの類似から、紀元後1世紀前半〜の年代観があると推定してきました。正確な年代は、調査者の正式報告
が待たれます。但し、近畿地方包含圏とそれ以北の後期初頭の開始年代は貨泉などの出土例から、大陸との時
間差を加味し、1世紀末前後とすることが妥当でしょう(拙著論文『信濃60−7・60−12』に、橋口達也氏の説の
持を説明してあります)。


 上図7の宇木汲田式銅戈は弥生時代中期前半とされています。極端扁平な作りであり内(茎)も小さく、梨花洞式銅戈などのがっしりとした作りから判
断すると、明らかに後出的要素と見られます。梨花洞式を前2世紀前後とすれば、宇木汲田式は、前1世紀内に盛行したものと
考えられます。 5の秦
始皇25年を前222年とするのは即位の翌年から元年としたとする『宮ア市定全集』を参考にしています。



  従って柳沢青銅器が埋納された時期が、土器片を含む土層観察により、弥生時代中期後半〜末を大きく前後
する年代かと理解される、これまでの調査者の発表に照らせば私の実年代推定はつぎのようになります。

 柳沢遺跡埋納土坑内銅戈は、前1世紀中頃前後に製作され始めた可能性のある銅戈もあるが、総じて、前1世
紀新期から紀元後1世紀末を前後する範囲内の、いずれかに製作され、新旧型式の入り混じったものが、後1世紀
前半〜末を大きく前後する(±30年)頃に埋納されたと推定したいのです。
 当然、柳沢銅戈が前2世紀から製作されたとする最近の見解は、朝鮮半島の貞柏里式・梨花洞式銅戈の年代
に相当し、私の見解とは大きく異なることになります。ましてや前4〜前3世紀から製作されたとする意見があれ

、その年代はおよそ中国の戦国時代に当たる時代になり、私見では、つじつまの合わない年代となります。

 銅鐸については、詳細な報告が無いため、考察をさけます。但し盛行年代は銅戈に準ずるものであることはもち
ろんであります。銅鐸の詳細が解れば多少の年代観の修正もあると思います。



 以上弥生中期の実年代を整理すると、紀元前100年(±30年)〜紀元後90年(±30年)の間をもって、近畿
地方包含圏と、それ以北の年代観に当てたいと思います。弥生時代中期私的年代論はあくまでも科学測定を参

考資料とし、考古学、文献史学の成果によるものです。

 結果的には現在の段階では、10年以上前の先学の説の支持となりました。しかし、科学測定を無視しているの
ではなく、今後の方法論を期待しているのです。炭化物のまわりの土質成分存在状況が測定に影響をあたえてい
ないか、私は素人的考えで疑問をもっています。
  測定方法だけではなく、炭化物の存在状況も問題だと馬鹿なことを考えています。土中に密閉された炭化物で
、絶えず水分が浸透し、塩化ナトリウム他、金属イオンや有機物等の影響を受けていると考えています。あるい

解決済みだと私は恥をかきます。


(2009・11・10記、2010・8・15更新)


参考文献

*梅原末治・藤田亮策『朝鮮古文化綜鑑第一巻』養徳社1947
*王建新『東北アジアの青銅器文化』同成社1999
*村上恭通『倭人と鉄の考古学』青木書店1999
*白雲翔著・佐々木正治訳『中国古代の鉄器研究』同成社2009
*樋口隆康「弥生時代青銅器の源流」『古代史発掘5』講談社1974
*拙著論文『信濃60−7・60−12』2008
*橋口達也「炭素14年代測定法による弥生時代の年代論に関連して」『日本考古学第16号』2003 
*長野県埋文センター『北信濃柳沢遺跡の銅戈・銅鐸』信濃毎日新聞社2008
*河北省文物研究所編『燕下都』文物出版社1996
*松澤芳宏「考古学による弥生中期年代観の再考」―細形銅矛MTa・MTb式など、青銅器の再検討を中心に
― 雑誌『信濃』第62巻第10号通巻第729号 平成22年10月20日刊行 (2010・ 10・21追記)

 


上記記事の参考図各種と参考記事


北朝鮮では前3世紀〜前2世紀ごろの年代が当てられています。






 上図の6・7は鎌田原(かまたばる)式で伴出状況から弥生時代中期前半とされています。宇木汲田式銅戈と内(茎)の大きさが同じ比率であり、両者
を弥生時代中期前半前後の盛行とする通説は妥当と思われます。







 朝鮮式細形銅剣U式(BU式)・尖帯(節帯)多条型細形銅矛T式(MTb 式)が共存しています。日本の弥生時代中期前半前後の文化に該当するこ
とは動かしがたいと思います。樋口隆康氏は銀印銘(図中には無い)から貞栢洞1号墓を紀元前1世紀中頃としています。弥生
時代中期の年代を考える
うえでの定点でありましょう。(ウェブ転換不能につき草冠に歳はワイと読む)        (2010・2・2更新)












 図5-6 乙類B型銅剣の4は、広島県福田、木の宗山遺跡としてホ−ムペ−ジに掲載されています。銅鐸・銅戈
を伴出しており、銅戈は他の資料から補足し、私の分類では中細形樋結合式綾杉文型銅戈(従来の九州型の範

疇)の古式に属し、扁平なつくりで、内(茎=なかご)も小さい形態であります。

http://www.kyouiku.town.fuchu.hiroshima.jp/sho_rekisi_16.htm
 図5−6の4の銅剣(福田式銅剣とします)の、この上なく、重要なことは、図5−5の2の甲CU式銅剣とされてい
る、吉林省懐徳県大青山土壙墓の紀元前3世紀末(前3世紀前後と把握したい)前後とされる銅剣よりも、形態が
変化しており、はるかに時間差があることであります。

 時間差は、銅戈に目を転ずると、甲CU式大青山式銅剣以降に内が大きい貞柏里式・梨花洞式銅戈(朝鮮半
)が盛行し、それよりも新しく日本の吉武高木式銅戈(樋文様帯出現の始まり)、さらに、福田の木の宗山銅戈と

遷が認められるからです。

 福田銅戈は中細形銅戈の古期であるから、弥生中期中葉前後に製作年代があり、柳沢式銅戈と重なる時期が
あると思われます。つまり、それに伴出した福田銅剣の盛行実年代は、前1世紀古期〜後1世紀前半のいずれか
に求められると、考古学で推察します。
 このような大陸からの文化伝播が、大きな年代差で見てゆかねばならない問題は、最近の日本の考古学が、あ
まりにも年代上限をあげて考える傾向に警鐘を打ち鳴らすものといえましょう。


 ここで、春成秀爾氏の扱うホ−ムペ−ジ『平章里遺跡の鏡と弥生中期の年代』
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/sousei/yayoinoukou/comment2.htmlについて、浅学ではあります
、学界にしがらみのない立場で、若干申し述べたいと思います。この遺跡の鏡が[蟠ち文鏡]でも末期に近い前

初めごろのものとする全栄来氏の説に対し、春成氏はその鏡がそれより古い戦国末期ごろからとする、他の人

説を取り出し、弥生中期前半から中葉に併行時期を求めて、弥生中期の始まりの実年代は紀元前4世紀のう
ちと
するこれまでの主張を述べられています。

 岡村秀典氏は、前108年に設置された楽浪郡(現平壌付近)では、前1世紀前半の墓所に中国系文物が副葬さ
ることは少なく、紀元前後に半世紀以上前の銘文漆器などが、新しい文物に混じって副葬されるという現象があ
と紹介されています(『弥生文化の研究6』)。この状勢を援用すれば、墓所の構築年代から、100年を大きく前

する古い文物もあると推量します。

 平章里鏡が前漢初めの製作であれば、前2世紀古期前後の製作とみられ、それが前3世紀の新期に遡るとして
も、前2世紀古期から前1世紀古期を大きく前後する、いずれかの時期に埋蔵されたと考えてよいものと考えてい
ます。 
 また、平章里の銅矛は細形銅矛U式であり、日本では宇木汲田遺跡など、弥生中期前半前後に見られるもの
であり、私の実年代観によれば、九州では、前1世紀前半〜中頃に盛行したものであります。また、先記した北朝

鮮貞栢洞1号墓の銅矛は前1世紀にも盛行している細形銅矛T式(片面4条の多樋式により、やや新式)であり、
銅矛自体からみれば、平章里銅矛は前1世紀の貞栢洞1号墓(夫租ワイ君の銀印出土)銅矛と同時期前後か、
や新しい形式となります。
 ここで、細形銅矛T式の朝鮮半島の盛行時期について考えて見ますと、伝平壌石巌里古墳出土の秦始皇(帝を
つけるのは好ましくない)25年(前222年)在銘丁字型銅戈は前3世紀新期製作であるが、当然、前2世紀前後

の盛行もあることはもちろんでしょう。

 この銅戈と同一型式の銅戈が、細形銅矛T式の最初期に近い型式で、漢代以前の紀年名をもつ銅矛に伴って
います(『朝鮮古文化綜鑑1』の33頁)。細形銅矛T式は朝鮮半島では前3世紀新期の製作銅矛があるものの、
前2世紀〜前1世紀半ば前後に盛行したものと考えられましょう。当然、細形銅矛U式は前2世紀新期に作られ
始める可能性があるものの、前1世紀内にも盛行したものと考えられます。
 ちなみに、吉林省集安市五道嶺溝門積石墓では、長い銅斧・短いX字形銅斧・祖形細形銅矛・多鈕粗文鏡・遼
寧式銅剣類B]式などが伴出しています。王建新氏は、この年代を前3世紀末前後(私は前3世紀前後と把握し

たい)としています。祖形細形銅矛の時期が多鈕粗文鏡の時期に重なり、多鈕粗文鏡と多鈕細文鏡の交換の時

期が前2世紀古期前後であることは前にも記しました。

 また、平章里の銅戈について見ると、樋分離式であることは明らかであり、貞柏里式かそれ以降の吉武高木式
銅戈など樋文様帯出現時の銅戈の可能性もあります。この銅戈は前2世紀からの盛行の可能性が高いと考えま

す。
 
 ここで、整理をすると、平章里遺跡では、銅鏡が最も古く作られ、伝世された可能性が高く、最も新しい型式が細
形銅矛U式であります。朝鮮式細形銅剣T式(研ぎが中間まで)はやや長期の年代観があり、銅戈の年代観も不
明であります。細形銅矛U式は、前3世紀新期から製作のT式とはかなりの時間差があり、ぎりぎりで、前2世紀
半ばからであり、貞栢洞1号墓銅矛から推察すると、前1世紀に下る可能性もあります。

 ひとまず、平章里遺跡の年代は、前2世紀新期より前1世紀中ごろまでの、いずれかとし、その中でも古い時期
の可能性が高く、通常では、多鈕細文鏡が伴う時期ではありますが、今のところ韓国では、最も早く前漢鏡か、や
遡る鏡を埋蔵した遺跡といえると思います。
 この場合、蟠ち文鏡の製作年代の新旧をもって、平章里遺跡の年代を求めるべきではなく、他の文物の時代観
も含めて考えるのがよいと、わたくしは考えています。ちなみに下図に平章里遺跡の次の時期に属する九政里遺

跡の一括文物を掲げておきます。前1世紀代と考えられており、多量の鉄器が盛行しています。

 

 また、平章里遺跡の文物構成が、細形銅矛U式以外は古い様相をみせていることは、細形銅矛U式の流行の
はじまりと理解される人もあるかもしれません。
 日本では弥生中期前半前後に流行している細形銅矛U式(大きさについては、全長約45センチ前後未満のも
ので、それより長大なものについては中細形以降に含めると理解したいが、それ未満でも切っ先が膨らむ傾向が
あれば中細形としてもよい)が韓国では前2世紀新期に製作が開始されている可能性もあります。
 つまり、韓国では日本の弥生前期末期併行の時期に製作され始めているものが、日本では半世紀以上遅れて
弥生中期前半前後の墓所に副葬されている現象もあるかもしれないという史観も成り立つといえるでしょう。

 なお、私が、大陸や朝鮮半島の影響を受けた文化文物の日本の時間的位置を、若干下げて考えているのは私
の史観によるものです。これをほとんど年代差がないように記述している人が多いかと思いますが、それもその人
の史観であります。
 科学測定に対する考古学的考証もこのような時間差の考え方の相違が大きく左右しており、問題の解明の弊害
となっていることを承知しておく必要があろうかと思います。
 北朝鮮では、平章里より新しい時期の黄州郡黒橋里遺跡において、細形銅矛T式類似型式が、朝鮮式細形銅
剣V式や穿上横文五銖銭に伴って発見されていることは、紀元前後の時代における、細形銅矛T式類似様式の
い伝世が認められる好例であると思われます。
 
 結論として平章里遺跡年代の私の考え方は、日本の先生方の弥生中期前半〜中頃の時期に該当するという
え方を修正することになります。

 つまり、大略、細形銅矛U式の朝鮮半島での製作の開始が前2世紀新期に当たるとみて、前1世紀にも盛行し
たと考えられるのであり、平章里遺跡は細形銅矛U式製作開始年代ごろからU式盛行年代の時期に位置づけら
れ、時間的には、弥生前期末期〜中期前半に該当すると考えています。
 平章里銅矛が、今のところ日本出土の細形銅矛U式の弥生中期前半よりも古い時期に埋蔵された可能性は高
く、平章里遺跡=弥生中期前半〜中葉と機械的に考えるのは、極めて危険と考えます。最近の一部の先生方の
考え方はそういう機械的な考え方なのです。
 古代史的観点から見れば、朝鮮半島で製作された青銅器を渡来人が持ち込み、日本で埋蔵されるには、通常
20〜50年ぐらいはかかり、あるいはそれ以上及ぶこともあるかと思います。また、日本で細形銅矛の製作が一

で開始されたと仮定しても、半島製作開始時期よりも年代が下がると見ています。


 重要なことは、日本で多鈕細文鏡・細形銅矛T式などが、埋蔵された吉武高木3号木棺墓を含む時期かそれ以
前に、すでに韓国では中国鏡の蟠ち文鏡類と細形銅矛U式を含む平章里土壙墓が存在した可能性もあることで

す。これこそが、文化の時間差であり、日本の学者が平章里土壙墓=弥生中期前半〜中葉の時間的位置とみて

いるのは絶対におかしいと思います。いたずらに、自国の文化を古くしようとする意識はもたないほうがよいと考え

ます。


(2009・11・19記、2010・8・15更新)

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大阪湾型・九州型銅戈への疑問
大阪湾型・九州型銅戈への疑問