大阪湾型・九州型銅戈への疑問
 
 
  樋(ひ)分離式、樋結合式銅戈の提唱と大陸分布

 長野県中野市柳沢遺跡の銅戈・銅鐸の青銅器発見により、一般に大阪湾型・九州型銅戈の名称が流布
し、柳沢遺跡の銅戈6点が近畿地方製作、1点が九州地方製作とされました。しかし、そうでしょうか、
もっとも慎重を期する製作地の問題が、いとも簡単に結論されていることに疑問を感じます。




 私は飯山市でも南端に近いところに住み柳沢遺跡と約3kmの至近距離にいる地方研究者です。遺跡に対
する愛着はひとしおです。隣の宮ア市郎家は東洋史の大家故宮ア市定(通称宮崎市定)先生の生家であり
先生が存命中ならば弥生時代青銅器の発見を大いに喜ばれ、東洋史との関係を追究されるでしょう。私は
先生の業績には足元にも及ばない者ですが、近所付き合いの縁で先生に代わって、東洋史との関係を追究
し、さらに学びたいと思います。
 ちなみに、宮ア市郎氏によると、宮ア家は江戸末期に御先祖が私の本家、現松澤平七家から婿養子に入
られたとのことで、実は私は宮ア市定先生と同族であることに気がつきました。私の祖父は幼少のころの
市定先生の美談を絶えず孫の私達に話してくれたものでした。市定先生は物を大切になさる方で、学校の
一年生のランドセルを高学年まで使用していたとのことであり、勉学に励み、また家の農業にも精を出し
ていたとのことでした。兄の市平さんと仲良く鍬を担ぎ、野良稼ぎに出かける姿を見たとのことでありま
した。
 田舎に浸り、これといった肩書のない私にとって、市定先生の業績は誇りであり、私の発言も先生のお
力にすがるほかはありません。先生と私は面識がありませんでしたが絶えず祖父や父、市定先生の同級生
の伯母さんから情報が入っていました。
 市定先生は京都大学で多くの古代史学者を育てられ、現在もご活躍なさっている方が多いと聞きます。
つたない私の発言を市定先生の縁者のつぶやきとして、心の片隅においてもらえれば幸いです。 



 さて、大阪湾型銅戈については、樋の先端が交わらなく、樋に複合鋸歯文があることが前提でありまし
た。しかし最近は、樋先端が交わらない中細形以降銅戈全体を大阪湾型に定義が拡大しましたが、これは
ただの樋分離式です。大阪湾や近畿地方を特徴づけるものではありません。近畿地方に出土するものを、
近畿製作と概念づけたものに相違ありません。今後この地方でも樋結合式銅戈も出る可能性もあります。
それをまた九州製作とでもいうのでしょうか?。
 和歌山県有田市箕島式と兵庫県桜ヶ丘式とは、肉厚、極端扁平の違いがあり、極端扁平の複合鋸歯文銅
戈の鋳型が大阪湾周辺で発見されているのみです。中野市柳沢遺跡では、箕島式(山地出土で数型式ある
が、ここでは複合鋸歯文+斜格子目文融合型)にやや近いものがありますが、桜ヶ丘式・瓜生堂式は一点
も出土していません。柳沢1号銅戈が、中細形の最新式である以上、桜ヶ丘式の時期に柳沢銅戈盛行時期
が含まれることは明らかです。
 桜ヶ丘式・東大阪市瓜生堂式は近畿に分布圏があり、箕島式は柳沢式銅戈に近いが胡の張りは柳沢式の
ほうが大きく、それぞれ、日本や他の近隣地域で製作されたものかもしれません。
 また、中国東北地方の遼西式銅戈(前5世紀〜)、河北省辛庄頭30号墓式 ( 前3世紀〜) 、半島の
貞柏里式・梨花洞式(前2世紀前後)は、無紋段階で、 いずれも内(ない)のがっしりした古形を示す以
上、内(茎)が小さく文様の多い柳沢銅戈は弥生中期の前1世紀とそれ以降に盛行したものと考えます。
 弥生中期は銅戈の樋の文様帯が出現する時期からで 、 弥生中期の文様のない細形銅戈も、前2世紀の
貞柏里式、梨花洞式(北朝鮮〜)の残像とみた方がよいと思います。
  余談になりますが私は弥生中期を紀元前1世紀(±30年)〜紀元後1世紀末(±30年)とする旧説
に近い説を採ります。科学測定自体も研究の途上にあるので、考古学の上では中国史とその文物に蓄積さ
れた研究を崩すことはないと思います。
 中国史と比較研究ができる時代こそが弥生時代、ことに弥生中期以降なのであり、断じて科学測定に近
づける曖昧さは必要ないと思います。現に、河北省辛庄頭30号墓銅戈を半島からの流入品と断定、同様
プロポーションの貞柏里式・梨花洞式を前3世紀とし、型式下降年代の前2世紀を考えに入れないことは
無理に科学測定に近づけようとした年代観であります。
 また、近時の遼西式銅戈の紹介により、樋分離式銅戈が中国東北地方の古い形態で、樋結合式(梨花洞
式など)は新たに生まれた形式であることは明らかであります。また、私は遼西式がそのまま辛庄頭30
号墓式になるのではなく、胡が退化する兆しの仮称遼西式直後型式が必ず存在するとみています。その期
間は1世紀以上に及ぶと思います。遼西式直後型式の次型式が初期朝鮮式銅戈類似の辛庄頭30号墓式で、
朝鮮半島からの流入品ではなく、中国東北地方で変化している一型式と見たいのであります。
 柳沢式については、柳沢銅戈のうち樋分離式を柳沢式とし、細形斜格子目文型銅戈を柳沢Ta式、中細
形斜格子目文型銅戈をTb式、中細形複合鋸歯文・斜格子目文融合型をU式、中細形無紋型をV式として
います。各型式の盛行年代は重複するでしょう。柳沢式の多くが胡(こ)の発達が日本最大級で、援(え
ん)の刃長の半分近くか、半分以上の比率を有しています。これが型式設定の理由です。柳沢式は遼西式
以降銅戈のなんらかの影響があるでしょう。
 柳沢式以外のいわゆる九州型の柳沢1号銅戈は樋結合式綾杉文型銅戈であり、中細形の最新式の一点で
す。樋分離式無紋型の韓国坪里洞式は小型ながらも中広形銅戈に近いもので、四乳き龍文鏡などの伴出関
係から、1世紀前半〜2世紀前半内の盛行と考えられ、プロポーションは柳沢1号銅戈に近いと思われま
す。韓国ではこのほか、日本の樋結合式綾杉文型銅戈の源流と思われる入室里式銅戈や、飛山洞・晩村洞
で中広形や広形樋結合式綾杉文型銅戈が発見されており、韓国でもいわゆる九州型銅戈の形態変遷があり
九州型銅戈が九州製作とは限らない可能性もあります。
 つまり、九州型・大阪湾型の名称はその地域の製作を連想させ、一般への影響は大であり、私の樋結合
式綾杉文型銅戈・樋分離式複合鋸歯文型銅戈などの名称が、適切と思います。文頭に細形・中細形・中広
形・広形を加えればよいのです。
 また、銅戈に関連して、樋分離式の石戈が東日本の特に信州に多いことも既に周知されているにもかか
わらず、旧態依然として近畿型石戈の名称が使われているのは不自然でしょう。これは簡単明瞭、樋分離
式石戈でよく、大阪湾型・近畿型石戈の名称を用いる必要がないと思います。
 それでも、近畿型石戈の名称がよいと思う方はそのま使用されてよいと思いますが、私はたった一人で
あっても樋分離式石戈の名称を断固使いたいと思います。考古学界の用語は時代とともに不自然であるこ
とが分かれば、よい用語に自然淘汰されるべきものと思います。
 近畿型銅戈も近畿型石戈も近畿地方製作とは限らないことは、周知されているはずですが、一部報道に
惑わされて、いまだに、すべて近畿地方製作と考えている人が多いことに驚きます。発言は慎重であるべ
きです。
 同時に、九州型銅戈の名称も適切ではなく、樋結合式綾杉文型銅戈でしょう。東日本における樋結合式
銅戈の存在は、九州より搬入されたと断定できるのでしょうか、それほど考古学や古代史は簡単ではあり
ません。
 現段階では、むしろ弥生中期後半以降に樋結合式銅戈も東日本で増えていく前兆が、柳沢遺跡銅戈のう
ち、樋結合式綾杉文型銅戈である1号銅戈に見えてきているのかもしれません。九州型・近畿型(大阪湾
型)銅戈・石戈の名称は不自然この上もないと私は感じています。ご批判をよろしくお願いします。


*参考文献、松澤芳宏「柳沢式銅戈の提唱と青銅器文化流入経路の予察」『信濃』60の7、2008。同著「柳沢銅
戈のうち樋結合式綾杉文型一本の推理(柳沢式銅戈仮分類との関連性)」『信濃』60の12,2008。
               
           

           






  (2009・2月記、2010・8・18更新)


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鋳造鉄斧から見た弥生時代の実年代
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