鋳造鉄斧から見た弥生時代の実年代 近時における弥生中期年代遡上論の引き金になったのが弥生中期の年輪年代測定であります。測定の信 頼性は私には判断できませんが、科学測定というと、なんだか正確であると一般には受け取られやすいと おもいます。しかし、木材が埋まったままであったり、廃棄されたりする以前の伐採年代と土器型式年代 を併行させるのは至難の業であると思います。 この問題については、既に識者によって考察されていますので、ここでは控えます。重要なことは、年 輪測定と、土器型式の中国史に基づいた文物による年代の割り出しが誰にもわからない時間差をどのよう に考えるかの個人差によって、左右されていることであります。 これから申します鋳造鉄斧より見た弥生年代論も、結局は大陸と日本における同様式鉄斧の時間差をど のように考えるかの個人的差異によって、時間的位置が異なってくることで、甲乙つけがたい年代論が浮 上してきます。 最近の学問的環境に恵まれた研究者が、著しく時間差を縮める姿を見るにつけ、百姓家に育った私はい ささか不安の念を禁じ得ません。私の家にある鍬やスコップ・ナタを見てください、新調したものもあり ますが、ナタ・斧の類は私の幼少時代からあったものもあり、少なくとも60年以上、場合によっては1 00年以上の長い間、使われてきたものもあると思います。 農具に限らず、漬物の瓶など、新旧様式のものが、記憶では取り替えた覚えがなく、これも60年をは るかに越える昔の製作であることを、ここに報告いたします。 今、財布の中にある硬貨の年代を見てみます。最も古いもので昭和46年の50円と100円硬貨一枚 づつがあり、最も新しいもので平成19年の500円銀貨でした。中間には昭和50年代の10円銅貨も 多くありました。 この場合、貨幣間の年代差が約30年、一番新しい貨幣から約2年経ています。但し、この場合、貨幣 は日本国内での製造であり、また、新貨幣を供給し、流通も高速交通機関を介在して、昔とは比べ物に成 らない速度で流れていることを考えねばなりません。 王莽の新の貨泉は1世紀前半前後に中国を中心に流通していますが、それが日本に伝わる時期に、日本 で貨幣として流通していたわけではありません。青銅器などの材料の一部になったかも知れませんし、当 然、流入開始の約半世紀前後以降に廃棄された年代は近畿・瀬戸内地方とそれ以東の地域では、弥生後期 初頭前後から、新しくは古墳時代の山梨県の遺跡からも発見されています。 私は紀元後1世紀末前後(±30年)を本州地方の弥生後期の始まりと考えています(橋口達也氏 の説の援用)。貨幣価値のない貨泉の日本への流入は、中国での流通開始年代よりも、年代を下げて考え る必要がありましょう。当然、1世紀半ばに弥生後期が始まる可能性は低いと思います。 いささか本論から外れた感がありますが、終始一貫して、大陸や朝鮮半島からは、時間差を与えた文化 の考え方が、私の基本であることを、ここに前提としておきたいと思います。 さて、日本の弥生時代盛行鉄器については、村上恭通氏の研究などを参考に勉強していましたが、最近 白雲翔氏の『中国古代の鉄器研究』(同成社刊行)を見ています。詳しいことは同氏の成果を見ていただ くとして、日本の弥生年代論に一石を投じた貴重な研究と感銘しています。 まず、中国の鉄器を見ながら、日本で舶載鋳造鉄斧の好例といわれる福岡県比恵遺跡の例(鋳造鉄斧各 種概念図の2)について考察したいと思います。これは前200年を大きく前後するとされる北朝鮮平安 北道の細竹里遺跡の同図1とよく似ていますが、河北省燕下都の遺跡他からもよく似たものがみつかって います。 しかし、似ているのは口部外側の二条突帯であり、口内部の形については違いがあり細長い六角形に近 づいていることが分かります。これは、湖南省朱家台鋳鉄遺跡鉄斧(図の3・4)の、前漢後期〜後漢前 期、即ち、ほぼ前1世紀〜後1世紀内とされるもの(口内部が六角形をなし外部も突帯がある)に近づい たものといえましょう。また、同図4については、河北省満城1号漢墓 http://abc0120.net/words/ abc2007101308.htmlに、類似品があるとされています。 つまり、中国では前100年前後(±30年)には、口内部六角形外部突帯の鋳造鉄斧も、盛行してお り、これにより、やや古い様相の同図2の比恵鉄斧は前2世紀古期を大きく前後する頃の製造としてよい ものでしょう。 これが舶載品であるならば、弥生中期後半に埋蔵されるには、1世紀を大きく越える伝世があったと推 定されます。どうしてかといえば、弥生中期後半には、新式鍛造鉄斧の袋状鉄斧も盛行しており、比恵鉄 斧(土坑SK−201・鉄斧30005)は、新旧鉄斧の交換期の最古品とみられるからです。また、 既 に弥生中期前半には宇木汲田式・鎌田原式銅戈などがあり、それが朝鮮半島の前2世紀前後の梨花洞式銅 戈よりも後出的様相のものであることも、比恵鉄斧の伝世を証明するものでしょう。 さらに、埼玉県朝霞市向山遺跡の弥生中期後半の住居址から出土した鉄斧は、丈短小形二条突帯鋳造鉄 斧であり、口内部が長方形である点が違う以外は、下記に掲げた吉野ヶ里遺跡の鋳造鉄斧と近似していま す。 向山鉄斧は比恵鉄斧よりも後出の様相であり、これも比恵鉄斧の伝世を証明するものでありますし、吉 野ヶ里の丈短小形二条突帯鋳造鉄斧(図の6)が弥生中期かそれ以降に舶載されたものがあることが分か ります。なお、向山遺跡例は次のホ−ムぺ−ジ(野島永氏論文掲載)に紹介されています。http://home. hiroshima-u.ac.jp/~kouko/book/noji-kaken/chap_01.pdf#search='熊本斉藤山遺跡'。 斧の口に木柄を嵌めるこの形態は中国では空首斧といわれており、空首斧自体も時代が下がると、縦長 から次第に丈が短い形態も多くなるようです。もちろん、前2世紀には多くの縦長の鋳造斧が盛行してい ます(白雲翔著・佐々木正治訳『中国古代の鉄器研究』参照)。 こうしてみると、弥生中期前後の突帯付鋳造鉄斧片の再加工品もその原形が前4〜前3世紀のものだけ ではなく、中国前漢〜後漢前期併行のものまで含まれているものと、理解できると思います。 鋳造鉄斧の日本例の図5・6の類は、朱家台鉄斧の3・4と同時期か、さらに下る鋳造鉄斧の末期的な 型式の一つであり、さらに若干趣が違うが長崎県原の辻(はるのつじ)遺跡他でも発見されております。 これらの類の鋳造鉄斧は、弥生中期のどの時期から盛行したものか、一部は弥生後期にも盛行したものか 鳥取県青谷上寺地遺跡の八禽鏡(はっきんきょう)の伴出関係などを含めて、弥生中期の年代を判断する 有力な材料となるでしょう。 日本において、これらの丈短小形鋳造鉄斧が多いことは、朱家台遺跡・満城1号漢墓の鉄斧の類似を援 用して、大略、前100年前後以降に舶載されているものが多いことは間違いないでしょう。 そして、弥生中期初頭前後の、愛媛県大久保遺跡の二条突帯鋳造鉄斧の破片が、丈短小形の可能性が高 く、しかも口内部六角形類に属すること、他にも丈短小形の可能性が高い、二条突帯鋳造鉄斧の破片があ ることなどから、大略、弥生中期の開始年代が、前100年前後(±30年)以降にあたるものとい えましょう。 大久保遺跡の鉄斧がたとえ前2世紀古期前後の製作の可能性を残したとしても、日本に渡る伝世期間を 考慮すれば、私の言う±30年の誤差内に弥生時代中期の始まりが収まることになろうかと推量します。 このようなことから、弥生中期の始まりが、現在一方の説の、前2世紀古期になる可能性は低く、まし てや前4世紀とする科学測定に準じた考えも、まったく成り立たないと考古学で考えます。 このような舶載鉄斧形態の推移や伝世を考えると、弥生時代の始まりが、前4世紀〜前3世紀ごろとす る旧説を、積極的に覆す理由はどこにもないと結論するわけであります。 科学測定は今後の発展が望まれ、現在の測定に近づけようとする考古学は今の段階では邪道であると思 います。ちなみに、鉄器ではないが、河北省燕下都辛庄頭30号墓銅戈はその後の遼西式銅戈の紹介によ り、遼西式が朝鮮式銅戈に近づいたもので、中国東北地方や河北省で変化している一型式とみたほうがよ いと、これまで何度も申してきました。 この銅戈が、通説のように朝鮮半島から流れたものと断定すると、朝鮮半島の同様式銅戈の盛行年代を 前3世紀(紀元前3世紀)新期前後と極論する説が出てくるわけで、弥生中期初頭前後の銅戈が、辛庄頭 銅戈よりも様式が下がるとしても、弥生中期初頭を前2世紀古期前後とする現在の説も登場してきたわけ です。 しかし、これまで述べてきたように辛庄頭30号墓銅戈が樋分離式であることにより、遼西式銅戈から の流れはスム−ズであり、遼西式銅戈の胡が退化する傾向の銅戈(仮称遼西式直後型式)を経過し、辛庄 頭30号墓式銅戈に変化していると考えられるわけです。 辛庄頭30号墓式銅戈は朝鮮式銅戈分類の最古式ではないとする意見がありますが、微妙な銅戈のふく らみが果たして新旧を決定できるか、研ぎの存在も含めてみても、それは成り立たないと思います。あま りにも考古学徒が机上の細かな編年にまどわされて、大局を失っているのではないでしょうか。 逆に言えば、中国戦国期にも残る殷代以来の古式銅戈には援がやや膨らみがあるものがあり、その文化 的つながりが辛庄頭30号墓式の援の膨らみに関係しているともとれるわけです。 話をもとにもどし、前3世紀といえば中国では当然、鋳造鉄斧が盛行し、秦漢代でも鋳造鉄斧が盛行し ています。中国でたとえ辛庄頭30号墓式銅戈が前3世紀新期前後にみられるとしても、前2世紀にも盛 行年代が下がることはありうるのであり、その場合でも前3世紀様式鋳造鉄斧が残存し、朝鮮半島では前 2世紀に、朝鮮式銅戈の貞柏里式、梨花洞式銅戈が鋳造鉄斧と共存していると見る意見が多いのです。 つまり、日本弥生中期遺跡出土鋳造鉄斧が中国戦国期のものだけではなく、前2世紀とそれ以後に下が るものもあると、ここで再度確認しておくことになるわけです。 さらに、日本出土の下図5・6のような丈短小形突帯付鋳造鉄斧の源流についても、従来のように、中 国東北地方や北朝鮮に源流を求めるだけではなく、湖南省朱家台遺跡例・福建省城村漢城遺跡例から察し て、中国本土から直接、東シナ海を経て舶載されることもあると思います。 先記の野島氏論文では、弥生中期中葉〜後半に属する京都府日吉ヶ丘遺跡の鉄器が紹介されており、槍 鉋に転用された鉄片の一つが多条突帯を残し、朱家台遺跡の上図4の類似品(河北省満城漢墓付近でも候 補で、広く朝鮮半島までも、分布を考えることも必要)の再加工と私はみたいのであります。もちろん、 この類の原品の時間的位置はやはり前100年を大きく前後(±50年)する時代以降に求められると思 います。 ちなみに、銅戈における胡未発達の形状が韓国に発端し、九州にも分布することも、中国本土より、戦 国期以前、又は戦国期とそれ以降の胡未発達型銅戈が流入している影響があると推量しています (abc0120考古用語辞典様)。九州の出土例は次のとおりであります。http://www.city.imari.saga.jp/ icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1181119853463&SiteID=0&ParentGenre=1000000000704。 いわゆる大阪湾型や柳沢式銅戈が胡発達型であることは、これまで主張しているとおり、中国東北地方 や北朝鮮に文化源流があると考え、それが韓国東部を介在する例もあるとしても、直接日本海を経由する 文化と、東シナ海を経る文化の相違が、日本における銅戈形態の古い時期における形態の違いを表出した と考えています。 以上、拙著前項の「銅戈より見た弥生中期の年代観−−−」をも合わせて、ご批判いただければ幸いと 存じます。
*松澤芳宏「考古学による弥生中期年代観の再考」―細形銅矛MTa・MTb式など、青銅器の再検討を中
心に― 雑誌『信濃』第62巻第10号通巻第729号 平成22年10月20日刊行 (2010・ 10・21追記) 総目次に戻る
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