小田草城(こだくさじょう)
    
                                       
 

 飯山市大字静間の荒舟から田草に向かう途中にある中世の山城である。全長450mにわたる田草川沿
いの急峻な尾根地形を利用し、たくさんの段々になった郭(くるわ)や、多数の堀切をもつ巨大な山城で
ある。
 特に本郭の背後の二段に掘られた堀切は、幅約21m深さ約8mの大堀切であり、さらに連続して二つ
の堀切がある。この付近の造りは、戦国期の様相であろう。しかし全体的に古い様相も見せ、この城は、
南北朝あるいは室町初期から使用された可能性がある。                    





 

 また、小田草城は、その名称から、田草城の支城であったことが想像できる。静間区蔵の元禄八年静間
村絵図には、小田草城主望月肥後守の名称が見え、小田草城の南の谷に肥後澤の地名がある。望月氏がい
たのは南北朝時代か戦国時代の甲越合戦時代か分からない。             
 小田草城のある静間については、『市河文書』によると、 室町時代の応永年間ごろに、小笠原但州(小
笠原但馬守)が志津間の地頭職(じとうしき)をもっていた。さらに、戦国期の天文21年ごろになると、
志妻・蓮とも高梨氏の領地となっているから、田草城・小田草城とも、高梨氏の要害となっていた可能性
もある。
 その後、弘治三年八月の甲越合戦上野原の戦が、舟山陣所遺跡を含む田草川扇状地で行われた可能性が
最近の史料確認により、判明しつつある(松澤芳宏、「弘治三年における甲越合戦の戦況」『高井』16
5号)。
 田草城や小田草城が、越後方飯山城の前線として重きを成し、武田信玄の言う亀蔵城(上蔵城=飯山支
城群の守備隊長の上倉氏の名前で代表させたと考えられる)最大拠点となっていた可能性もある。また、
永禄11年、静間や蓮は武田信玄が飯山城を攻める際の前線となっていた可能性があるが、武田勢の中に
望月氏がいたのか、これらの城を利用したかどうかは明らかではない。  
 










 

 北方から見た小田草城は本郭西方の大堀切は隠れているが、尾根上に並んだたくさんの郭の連続(段郭)は見事なも
のである。切岸(きりぎし)がさほど発達していない点は、古い様相を見せ、築城時期については替佐(かえさ)城や
壁田(へきだ)城よりは、古い時期のものと推定される。但し、背後の中核土塁を伴う大堀切の存在は、甲越合戦時代
に引き続き使用され、そのときの修築とみてよいかもしれない。


 
堀切の突き当たりが本郭東方の土橋

 田草城・小田草城はその名前から本城と支城の関係が推定され、江戸時代後期の絵図には、田草城主望月伊豆・小田
草城主望月肥後の名前が見える。栗岩英治氏は田草の谷を囲う頑強な城の存在に注目し、南北朝時代の宮方の拠点であ
るかもしれないと述べ、室町時代初期、応永年代の芋川動乱にも関係する史跡でなかろうかとも言っている。
 天文7年、 田草には浄土真宗の道場があり、 天文21年ごろは志妻・蓮とも高梨氏の領地となっていた。田草には
室町期の五輪塔が多数存在しており、室町時代(戦国期を含む)高梨氏の要害である田草城などの城番に当たる人達の
住家があったものと推定される。小田草城の城番は南方の谷を肥後澤というので、その出口辺りに住んでいたかもしれ
ないし、その田草川対岸の江戸時代にいう上野新田の場所に城番が住んでいたのかもしれない。


   







(2009年記、2010・8・22更新)

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元禄八年静間村絵図(静間区所蔵)写真集
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