村だ。しかし、次第に平野部に住居を移すものが増え、昭和40年代に高度成長経済の影響を受け、平地 への移住が加速され、集落は廃村同様になった。田草の人達がいつも誇りとしていたのは、宝蔵の谷を背 負って聳え立つ田草城のことだった。また、村の東方入り口をふさぐように支城の小田草城がある。 田草城は主要部分が全長約400mで、北方の横空堀地帯を含めると、全長約800mにもなり、屏風 が切り立ったような尾根をたくみに利用した山城である。坪根貢一氏所蔵江戸時代後期の絵図に、田草城 主望月伊豆、小田草城主望月肥後とあるのを故江口善次先生が秋津村誌編纂時に発見した。江口先生は後 世の好事家が書いたものかもしれないとしたが、静間区所蔵元禄八年の静間村絵図に、小田草城主望月肥 後守や肥後澤の記述があるのに気付き、江戸時代の伝承として存在したものと確信した。
ちなみに坪根貢一氏所蔵(現秀一氏所蔵)の静間村絵図については、天明4年の袋に入っていたため、
そのころの絵図と以前記述したが、同図の現静間神社敷地の諏訪宮・神明宮の存在により元禄八年〜明和 六年の作成である。諏訪社は江戸初期にはあるが元禄八年まで一時社殿がとだえていたらしく、元禄八年 に現静間神社敷地(静間館跡)に再興して、明和六年に東方(下方)の大正十三年までの、村社諏訪社の 敷地に社地替えをした(有尾の飯笠山神社の古文書)。 のだと思われる。だが、ここで思い出されるのは栗岩英治氏が「観心寺を中心の金剛山一帯の城郭環を縮 めた観に於いて、吉野朝あたりの一つの根拠地を聯想せしめ来るものがある。市河文書に志妻郷に宮方関 係の香りを漂わせて居る一通がある。或ひは其の時代の遺跡ではあるまいか(下水内郡史料写真帖)。」 としていることである。 望月氏伝承は、栗岩英治氏が生きていれば、小躍りして喜んだに違いない。田草城・小田草城とも後代 の修築があるけれども、今日の城郭研究の成果から見ると熊本県の山田城に似た構造をなし、南北朝時代 の築城と、考えられないこともない。栗岩説は一層強まったのかもしれない。 しかし、静間には立派な館が二つもあり、田草城などがこれらの館のある時期の詰の城となっていた可 能性は大であり、南北朝期に志津間の地頭職は小笠原但馬守(赤沢小笠原氏か?)であったと考えられる から、小笠原氏の関係も考慮すべきと思う。だが、その後宮方が占領していたことはありうることである が、確証はない。 また、かつて田草の寺屋敷にあった五輪塔が、現在大久保の勘介山山麓の墓地に移転されており、その 様式が、鎌倉後期〜戦国時代に当たり、しかも天文7年の阿弥陀如来画像がもと田草村に在ったことから すれば、田草城・小田草城の室町後期の高梨氏の利用も考えられよう。 ちなみに、「高梨文書」天文21年12月19日付けの「在京百日の夫」(案文書)によれば、志妻・ 蓮とも高梨領であつたことが知れる。下っては戦国末期、田草・小田草城においては上杉・武田両軍の争 奪戦があったものとも推定される。 田草城の特徴としては、本郭は小さいが切岸が伴わず、古式の様相を見せることが第一に挙げられる。 堀切の末端が長く延びていることは南北朝期末期に認められ、戦国期にも多用された様式だ。しかし、城 南端の田草谷に面した帯郭は、あるいは横空堀の埋まったものかも知れず、城北端の横空堀の存在を替佐 城や山口城の類似性から甲越合戦時代の使用を考える説(中学時代恩師、故石澤三郎先生)もある。これ は妥当かもしれないが、一概に横空堀を新しいと見る意見には慎重でありたい。発掘調査の事例は少ない のである。 ただ、城の北端の宝蔵(ふるくは法蔵)谷に長々と掘られた2本の横空堀は驚くべきことであり、新し いと思う人は多いかもしれない。いずれにしても、やや長期にわたる田草城の使用を考えるべきかもしれ ない。甲越合戦時代の使用も充分あり得よう。 より、元禄8年〜明和6年の間の作成。望月伊豆・望月肥後の名が見える。 総目次に戻る
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