弥生時代中期後半期になると、実年代の考古学上の定点は、五銖銭や貨泉と前漢鏡などであります。こ こでは、そのうち前漢鏡について大局的史観でみてゆきたいと思います。 前漢鏡については、周知のように、精緻な研究が多数あり、筆者の考えが入り込む隙はありません。し かし、その活用方法については、中国と日本の時間差がどの程度あるのか、個人差があり、弥生時代年代 研究の弊害となっております。 私は、中国と日本の文物文化の時間差は、通常で半世紀以上、まれには1世紀以上に及ぶ例があるとみ ています。これは日本古墳時代における、貨泉や後漢鏡の出土の例で推察できます。 最近は、大阪府池上曽根遺跡での掘立柱建築物の柱材の年輪測定値が、弥生中期後半の一時期で、紀元 前52年に伐採されたと発表されたことから、一気に弥生年代に幅を持たせる考えが浮上しました。 このことについては、私も衝撃をうけましたが、冷静に考えてみると、建築材の再利用や、建築材とし て使用する以前の泥中の寝かせの年代幅、乾燥時間、土器型式の幅の時間的間隙など、考えることが多く あると気付きました。 なお、年輪測定は多くの遺跡での資料や、多くの研究者の競合で、今後より正確に実年代が探せるもの と思います。また、特に井戸材の測定では何年にもわたる使用期間があり、共存土器が必ずしも、井戸材 の伐採年代に近いものではないという、厄介な問題があります。 以前、私は井戸材年輪測定値の場合に、通説よりもやや年代を過ぎた考えで、利用させていただくこと もありました(金沢市大友西遺跡・石川県二口かみあれた遺跡の、井戸材年輪測定値利用を『信濃59− 2』論文で扱う)。もちろん、まだ多くの、測定値が期待されることは言うまでもありません。 また、弥生中期の年代は、まだ、研究途上にある年輪測定や、放射性炭素年代測定に準拠するのではな く、考古学は考古学で、毅然として研究を進める必要があると思います。 科学資料の時間幅の難しさは、考古学で扱う文物の空間幅の時間差と同じような難しさがあると思いま す。科学測定もまた、個人的な思考により実年代がゆらぐのです。 さて、中国鏡類については、中国洛陽焼溝漢墓の分類では草葉文鏡1・星雲鏡4を主体として清白鏡・ 昭明鏡などを含まない時期のものを第1期としています。第1期は、五銖銭(武帝の元狩5年【前118 年】五銖銭鋳造開始)の早い型式の時期にあて、およそ前1世紀古期前後の時期と理解できます。 これに対して、第2期は五銖銭U型の時期で、星雲鏡3・日光鏡3・昭明鏡3を含み前1世紀中葉に当 てています。そして第3期前期は、日光鏡8・昭明鏡10・変形四ち文鏡【日本では、き龍文鏡と呼称】 9・四乳鏡3で紀元前32年〜紀元6年(前1世紀新期〜紀元前後)を当てています。3期後期は日光鏡 5・昭明鏡6・変形四ち文鏡2・四乳鏡1・連弧文鏡1・規矩鏡4で紀元7〜39年(1世紀前半)をあ て、第4期は四乳鏡2・規矩鏡3で紀元40年〜75年を当てています(邪馬台国の会第273回活動記 録さんを参考にしてください)。 この年代を現在の日本の先生方の一部は日本での時間差をあまり考えず、僅かの時間差で、弥生中期後 半の年代位置の研究を続けているのには、納得できません。 私は半世紀以上の年代差をあてる考え方ですので(70年の年代差で用心のために±30年)1期に時 間差を与えた位置で、韓国茶戸里1号墓の星雲鏡1面が当たるかどうか問題になりますが、それは日本以 外のことであるので、ここでは扱いません。 さて、甕棺型式は特定されないが、およそ中期後半を前後する福岡県春日市須玖岡本遺跡D地点(王墓 とも)では、草葉文鏡・星雲鏡・重圏四乳葉文鏡・重圏精白銘鏡・重圏清白銘鏡・重圏日光銘鏡・連弧文 清白銘鏡など前漢鏡30面余が発見されています。 また、福岡県前原市三雲遺跡1号甕棺墓(k1)では、重圏素文鏡・四乳雷地文鏡・重圏渦文帯精白銘 鏡・重圏清白鏡・連弧文清白鏡など35面が出土しています。これら須玖岡本遺跡・三雲遺跡の鏡の構成 を洛陽焼溝漢墓の第2期に橋口達也氏は当てています(『甕棺と弥生時代年代論』)。 しかし、三雲遺跡K1甕棺については、草葉文鏡・星雲鏡(K2甕棺で一点のみ)を伴っておらず、新 しい要素の方格規矩鏡をも伴っていないので、洛陽焼溝漢墓第2期後半〜3期前期移行期の構成に、私は 当てたいと思います。 また、福岡県飯塚市立岩遺跡K10号甕棺墓では、連弧文清白鏡1・連弧文日有喜銘鏡2・重圏清白鏡 1・重圏精白鏡1、重圏銘帯鏡類1を伴出し、星雲鏡などを伴っていないので、同じく洛陽焼溝漢墓の第 2期後半〜3期前期移行期の構成に当てたいと思います。 つまり、中国と日本の時間差(年代差)の考えで70年ぐらい年代をずらして【中国では五銖銭の初鋳 年から起算しているので実際は60年前後ずらしたことになる】、須玖岡本遺跡D地点が紀元1世紀初頭 〜半ば前後の時期を含み(伝出土、き鳳鏡一面については通説に従い検討課題です)、三雲K1と立岩K 10は紀元後1世紀中葉に当たると推定します。そしてそこに、慎重を期して、各遺跡に±30年を加え ておきたいと思います。 従って立岩式甕棺の弥生中期後半後期は、紀元1世紀中葉±30年にあたることになり、弥生後期初頭 とされる橋口氏のKWa 式(桜馬場式甕棺)に貨泉6〜8枚が出ている伝承により【東宮裾k1】、私見 では弥生中期は紀元90年±30年の時期で終了すると考えざるを得ないことになります。 また、桜馬場遺跡のKWa 式より後漢早期前後の方格規矩鏡が2面出ていることも、桜馬場式甕棺期の 上限が紀元90年±30年とすることに、矛盾しないのであります。 九州の弥生後期の始まりが近畿と同じか早いかは、今後の貨泉出土の甕棺、出土土器型式の動向をみた いと思います。 しかし、現段階では、大きく見て両地方はさほど違わない時期の弥生後期の始まりとなると推量してい ます。 また、立岩式以前の須玖式甕棺が、弥生中期半ば以前に一部食い込むことはありそうであり、およそ弥 生中期後半古期前後が須玖式甕棺とみて、その時間帯は紀元前1世紀最新期〜紀元後1世紀半ばの±30 年の範囲のどこかにあり、今後の編年研究の一助にしたいと考えます。 結論として、前漢鏡埋蔵地の検討からも、弥生中期を紀元前100年±30年〜紀元後90年±30年 とするこれまでの主張は崩せないのです。この見解は、杉原荘介氏の『日本農耕社会の形成』1977な どに近いものとなります。
*松澤芳宏「考古学による弥生中期年代観の再考」―細形銅矛MTa・MTb式など、青銅器の再検討を中
心に― 雑誌『信濃』第62巻第10号通巻第729号 平成22年10月20日刊行 (2010・ 10・21追記)
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