![]() 朝鮮半島系無紋土器については、現在年代観が遡る傾向がありますが、実年代の定点については細形銅 矛MTb 式(丈短小形多条尖帯細形銅矛)が出土した北朝鮮貞栢洞1号墓の紀元前1世紀が基準でありま しょう。 これまで述べてきたように、弥生中期前半前後に貞栢洞1号墓の時間的位置が求められると思いますの で、その時期が朝鮮半島系後期無紋土器の盛行時期内に含まれることは明らかです(半島では漢式土器も 共存する時期と考えられています)。 筑紫野市の隈・西小田遺跡など上図4・5・6に示す朝鮮半島系後期無紋土器でも、後半の年代観は、 科学測定を取り入れた考えで、開始年代を紀元前200年前後(前3世紀にもかかってしまう)やそれ以 前に求めるのではなく、考古学的方法年代で押さえておく必要があると思います。 私は前2世紀新期〜前1世紀半ばのいずれかに、韓国水石里式(円形粘土帯土器で後期無紋土器前半) から勒島(ぬくと)式土器(三角粘土帯土器で後期無紋土器後半)の転換期があるものと見ています。無 紋土器の編年については武末純一氏の編年研究【ホ−ムペ−ジ考古学と歴年代・奥野正男の参照図16】 などを参考にしてください。 済州島の三陽洞式土器も、その転換期か、それ以前か以降のいずれかの時期に該当するものかもしれま せんが、勉強不足であり、すでに研究が進んでいると思いますので、詳細は控えます。 いずれにしても、半島で多鈕粗文鏡・多鈕細文鏡・貞柏里式・梨花洞式銅戈・MTa式(丈短小形一条 尖帯)細形銅矛・細形銅剣・鋳造鉄斧等の盛行している前2世紀古期は、黒陶長頚壷がまだ盛行している 最中なのであり、韓国では後期無紋土器前半の水石里式土器が盛行している範囲内に入ると思われます。 その時期は弥生前期後半に含まれることは明らかでしょう。 ちなみに、韓国大田市槐亭洞石槨墓からも黒陶長頚壷と円形粘土帯無紋土器(水石里式)が出土してい ますので、紀元前3世紀古期前後も、後期無紋土器期間の前半に入ると推量されています。しかし、その 時期がそのまま日本に当てはまることはなく、若干年代を下げて弥生前期土器内の時間的位置を考えたい と思います。 また、上図2の尼崎市の東武庫遺跡の朝鮮半島系無紋土器(弥生前期)については、韓国松菊里式土器 の系統と考えられているとおり、つぎの大邱博物館所蔵の金泉松竹里遺跡例にもよく似ていますが、東武 庫例では口縁部の反りがあることが違っています。 ただ、松菊里式土器内でも、東武庫例に近い器形もあるようですが、東武庫例が確実に松菊里式の搬入 品であるとは限りません。また、たとえ同式の搬入品としても、文化が半島から日本に流れている以上、 松菊里式無紋土器とは日本では、若干の時間差を考えたほうがよいと思います。 王建新氏『東北アジアの青銅器文化』では、松菊里遺跡内の遼寧式銅剣を出土した松菊里石棺墓の年代 を、磨製石剣・石鏃・勾玉・管玉の型式によって、前4世紀と見ています。勾玉の型式は大田市槐亭洞・ 扶余郡蓮花里・中清南道牙山郡南城里の各石槨墓の前3世紀とされる遺跡例と共通しており、王氏の年代 観は妥当と思われます。遼寧式銅剣の型式はやや古いものの、金属器の100年以上の伝世はあたりまえ のことです。 必ずしも、松菊里式無紋土器との併行関係はつかめないものの、住居址地帯の土器に伴う有茎磨製石鏃 や磨製石剣は石棺墓文物の型式と類似しています(邪馬台国大研究ホ−ムペ−ジさん・百済の旅−松菊里 遺跡−)。慎重を期し年代を広げても、前4世紀を前後する時期に松菊里式土器(中期無紋土器)の一時 期がありそうです。 つまり、私は松菊里式土器の盛行年代を紀元前5〜前4世紀を含む時期に考える意見に賛成したいと思 います。但し、松菊里式無紋土器系統の日本への波及は、松菊里式系統末期のものがあり、当然、前3世 紀に下るものもあると推量されます。 また、松菊里式土器以後の朝鮮半島細形銅剣文化の第一段階・第二段階(前3世紀・前2世紀【王氏の 上掲書】)の時期の磨製石鏃は平面三角形断面六角形無茎石鏃となっているので、参考になります。無茎 磨製石鏃は遼東地方〜北朝鮮の抉りのある型式(抉入)から平面三角形の形態に変化しており、地域と時 間差がうかがわれます。ちなみに平壌市祥原郡場里支石墓からは有茎磨製石鏃と抉入無茎磨製石鏃が多量 に共存出土しています(『朝鮮民族と国家の源流』雄山閣の写真4)。 王氏の年代観は磨製石鏃・貞柏里式銅戈・梨花洞式銅戈や多鈕粗文鏡・多鈕細文鏡・明刀銭・半両銭な どの伴出状況によって、大略賛成できるものです。 ![]() また、杉原荘介氏『日本農耕社会の形成』によると、韓国釜山市槐亭洞T式から夜臼B式土器の線に沿 って日本最初の農耕文化が大陸から渡来したのではなかろうかとされています。現在では夜臼式土器は弥 生早期に含める意見もあります。 釜山槐亭洞T式は弥生前期直前に置かれるべきものであり、上図7の器形は先の東武庫遺跡の無紋土器 に似ています。韓国では無紋土器と丹塗磨研土器は共存する時期があり、一体的な文化であります。 上図6の磨製石剣は祭祀的意味合いの強い、末期的なものであり、断面菱形有茎磨製石鏃の類似から松 菊里石棺墓と釜山槐亭洞支石墓は同時期か、やや槐亭洞支石墓が新しい様相をみせています。 また上図7の伴出により、松菊里式土器の一部分が松菊里石棺墓に伴うことは明らかでありましょう。 杉原氏が推定するように、釜山槐亭洞T式が夜臼式土器に、影響を与えているのならば、それは弥生早期 という仮部分であり、従来の弥生前期の前にあたります。但し、槐亭洞T式の影響がいくらか弥生前期の 古期にも及んでいることも、当然考えられることになります。 こうしてみてくると、弥生前期にも東武庫例のように松菊里式土器の系統土器が存在する理由が解けて くるのであります。 済州島三陽洞式土器が、朝鮮無紋土器の変容したものとされるように、現段階では、東武庫朝鮮半島系 無紋土器は、周知されているとおり、あくまでも松菊里式土器の系統と推量されるのであり、そのものと は断定できないのです。また、釜山槐亭洞T式も松菊里式土器系統の一部分であることが分かります。 つまり、これまで主張するとおり、平面三角形断面六角形無茎磨製石鏃などの時期文化にも相当する弥 生前期は紀元前3世紀〜前2世紀中葉を確実に含めているとみられるし、前4世紀にも含まれる可能性は 検討課題と考えられるのであります。また、弥生早期については、前4世紀を中心に前5世紀を若干含め る範囲で、検討される意見に従いたいと思います。 韓国では、前4世紀かそれ以前に有茎磨製石鏃(断面菱形)があることは周知の事実であります。いず れにしても、弥生前期の私的年代観は放射性炭素測定値をはるかに下る年代と考えられるのであります。 ![]() とされ、6・7の貞栢洞1号墓例は前1世紀中葉前後、茶戸里遺跡11・12は前1世紀新期前後とされ ています。 これは考古学年代観ですが、熊本市の八ノ坪遺跡の5は把手の形状から4の壷と11の壷の中間型式と みられます。従って5は半島と日本との時間差を加味して、紀元前1世紀中葉前後とみられ、それが弥生 中期前半ごろの年代観となると思います。筆者のこれまでの主張を裏切らないと思います。 また、弥生前期後半〜中期前半とされる八ノ坪遺跡では円形粘土帯土器も出土しており、やはり弥生前 期後半〜中期前半の前2世紀新期〜前1世紀中葉期に円形粘土帯土器と三角粘土帯土器の転換期が含まれ る可能性があります。 さらに、円形粘土帯土器の韓国例の8が前1世紀中葉前後の6(貞栢洞1号墓)とやや共通性があり、 前3世紀の1の甕形土器から深鉢形類似土器に器形変化しています。 このことは、韓国で三角粘土帯土 器時期の器形が、鉢形に変わりつつある(『國立中央博物館』説明)時期にかさなり、円形粘土帯土器が 三角粘土帯土器への転換期であることも示しています。 また、貞栢洞1号墓の土器が漢式土器に共通性があることは、北朝鮮では前漢支配が始まった早い時期 に漢式土器文化が始まった可能性を示し、土着の土器文化と融合し楽浪系土器とも呼称されています。し かし、弥生時代に楽浪系土器が伝播する時期は、やはり時間差があり、半世紀前後の年代差をみたほうが よいと思います。 (2010・2・2記、2・12更新)
*松澤芳宏「考古学による弥生中期年代観の再考」―細形銅矛MTa・MTb式など、青銅器の再検討を中
*松澤芳宏「朝鮮半島系無紋土器について」−北信地方弥生時代実年代の理解によせて―『奥信濃文化』心に― 雑誌『信濃』第62巻第10号通巻第729号 平成22年10月20日刊行 (2010・ 10・21追記) 第32号 平成31年3月刊行(2019・4・3追記)。内容の一部を下記に写真掲載します。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 参考文献:松澤芳宏 2019『朝鮮半島系無紋土器について』―北信地方弥生時代実年代の理解によせ せて― 『奥信濃文化』第32号 tyousennhanntoukeimumonndoki.pdf へのリンク 総目次に戻る
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