同様に、飯山市法伝寺古墳群・有尾古墳群でも、主墳の周囲に小古墳が数基存在する可能性があります。 勘介山の名称は史実としては確認できないが、武田方が飯山城を攻める際に、山本勘介が陣をとった所 との伝承によっている。静間区蔵の元禄八年の静間村絵図に勘介山が明記されており、この古墳を発見し たとき、地字は勘助山となっているが、最も古いこの地名によって勘介山古墳と命名した。 この古墳は長さ約35〜40mの前方後方墳と推定される。現在のところ、長野県内の古墳の総数が3 500基を大きく上回る中で、前方後方墳は20基に満たないことからすると、きわめて特異な存在とい えよう。 しかし、時代を古墳時代前期(3世紀前半ないし中頃〜4世紀)に限定してみると全国的には前方後方 墳の数が多いし、全長20m以上の古墳にこの墳形が多く採用されていることは、身分の高い人達の墳墓 といえよう。それ以下の身分の人達は、弥生古墳以来の低墳丘古墳(墳丘墓名称は相応しくない)や墳丘 の無いお墓に葬られていた。勘介山古墳の南端に、この低墳丘古墳らしいものが見受けられる。この外、 さらに小さい古墳が埋まっている可能性もあろう。 勘介山古墳は前方部が未発達で小さく、様式的には、前期古墳と考えられる。ただし前期のどの時期に はいるかは発掘調査を経ていないので明らかではではない。3世紀中葉前後から4世紀の範囲内のいずれ かに該当しよう。また、内部構造も明らかではなく横穴式石室以外のものである可能性があるけれども、 竪穴式石室であろうと言ったことはない。私の発言のように記す文献が散見するが原著を見ていない事ゆ えの間違いである。内部施設は竪穴式石室・木槨・粘土槨・木炭槨・木棺直葬など、いろいろなケ−スが 想定される。 勘介山古墳は、山側すなわち北西側よりも南東側の高さが大きく、谷側から見るように造られた古墳で ある。ここから見渡せる千曲川の沿岸地帯に古墳の主や支配下の集落があったのであろうか?想像が膨ら むが、古墳の主が在地豪族のみとは断定できず、考古学の限界であろう。 古墳時代前期は『魏志』倭人伝の邪馬台(やまと)国や、その後身かともいう大和政権の草創期に当た る時代であり、飯山地方が邪馬台国の勢力圏内にあったのか、あるいは、対立する狗奴(くぇぬ・くぬ・ くな)国に属していたのか、古代史の重要な問題が飯山地方の古墳や集落遺跡が語ってくれるのである。 邪馬台国の時代以前から、千曲川流域から北関東には大陸や朝鮮半島の影響下にある金属器文化が育っ ていた。山々の重なる畿内からの遠隔地でこそ、長く独立を保っていた狗奴国があったのかもしれない。 今後の課題であろう。 *松澤芳宏「飯山・中野地方の前半期古墳文化と提起する諸問題」『信濃』35−3昭和58年 *「平成18年飯山市公民館報」 http://www.city.iiyama.nagano.jp/assets/files/shomu/koho/18/18-06 /26-27.pdf 文中の3世紀前は前半の誤植 *松澤芳宏「水梨子沢カタクリ鑑賞会・勘介山古墳学習会」『信州の自然に生き そして学ぶ2016』第64回長野県 公民館大会資料・社会教育実践集第35集掲載の参考資料、インタ―ネット本稿の内容をも網羅。(2016・11・2 追記)
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