飯山では誰でも知っている綱切橋の由来、その真実を誰でも考えたくなる。橋が架かる以前、俗称「綱 切の渡」があったことは周知されており、その渡しは綱を川面に渡して、舟の往来をたやすくする方法が とられていた。それを、江戸時代には「くりつな渡」と呼んでいた(『木島村誌』より類推)。 綱切の渡しの伝承は江戸時代を通じて在ったものと推定される。縄切の渡の初出は、下木島新田の開発 に絡んで、慶長16年頃に作成された4月13日付けの堀丹後守直寄書状 (『飯山町誌』111頁)で ある。その書状にまだら山(斑山=斑尾山)からとい板(樋板)の材料を「縄切渡」に着くように、人足 に申し付けている内容が記されている。 もっとも、綱切の渡し伝承が具体的に探れるのは、江戸後期の文化年間以降に成立した軍記物『甲越信 戦録』である。もとより、これは確実な史料ではないが、つぎのような内容の大意が記されている。 永禄四年の川中島の戦いで謙信公は、和田喜兵衛と主従二騎で高梨山を左に見て、落ちのびられ、下木 島に出た。そこで、一人の翁に出会った。翁は敵が後から来たら、小菅山に行ったと欺いてくださいと言 って立ち去った。謙信公らは、この人は小菅権現であろうと拝み、安田の渡しを渡られた。家来の喜兵衛 が水面に張り渡した大綱を切り落とし、追っ手を防いだ。これより安田の渡しを「綱切の渡」というよう になった。 この『甲越信戦録』の記述は、『甲陽軍鑑』(以後『軍鑑』と記述する)にも影響を受けており、『軍 鑑』には、謙信が和田喜兵衛という侍と主従二騎で、高梨山(中野市方面)をめざして退いたという内容 が記されている。 但し、江戸前期成立の越後系軍記物の『川中島五箇度合戦之次第』には、謙信は長沼まで引いて越後に 帰ったと記すから、これは俗称北国街道筋の退却ル−トである。謙信の退却ル−トは甲越双方の軍記物類 の記述が違っており、また上杉政虎(謙信)に関する退陣の根本史料がないことから、高井郡から飯山そ して春日山城への謙信の退却は、今のところなんとも言えないのである。 永禄11年11月17日付け「武田信玄朱印状案」に、信玄は市川信房に先約により「縄取より下(高 井郡安田以北)」を宛がい、御地利(とりでのこと)を築かれよと命じている内容が載っている。縄取は もちろん綱取で、繰り綱渡しの意味であろう。 因みに、先に弘治2年には市川孫三郎は安田氏(安田高梨氏)の安田遺跡を武田晴信より宛がわれてい るが、これは敵方の飯山の目前であり、いわば約束手形に近いものであり市川氏がそこに居住することは 不可能である。 やや脱線するが、市川氏が現木島平村の計見城に在陣するようになったのは、先の文書にあるとおり永 禄11年以降であり、武田氏との軍事的緊張がやや緩和してくる時代である。 計見城(日向城)は木島 平村字小路付近にある平城で、『長野縣町村誌』によると、付近に馬場・責場という地字があるという。 また、付近の「たな」と称するところに山城があり、付近の平沢城も規模が大きい。その地域はかつて の毛見氏一党の遺跡であったとされる。計見城は毛見氏一党ともされる本栖(もとす)氏の旧城館を整備 拡張したとも考えられている。平城の計見城については、現在は、宅地や耕地整理された水田になってお り、残念ながら、その跡を探ることは出来ない。 さて本題にもどり、安田の綱取の呼称については、「正徳三年(1713)水内郡飯山町諸式差出帳」 (『木島村誌』608頁)に「綱取上綱取場」とあり、『甲越信戦録』にも今は誤って綱取の渡といって いるとの記述があるから、実は江戸後期にも綱取の渡は正式名であったのである。綱切の名称は俗称とし て江戸前期から見られたが、江戸時代を通じて綱取の正式名があった。それが一般的に綱切の渡となるの は『甲越信戦録』が流布するようになった江戸末期からのことであろう。 そこで、問題となるのが綱取の名称で、本来は繰り綱渡しであるのに、綱を取り除く意味に理解されて しまったことから、『軍鑑』の、謙信が主従二騎で高梨山を目指して落ちのびたとの記述に影響されて、 『甲越信戦録』などにみられる綱切の渡し伝説が江戸時代を通じて出来上がったのではないかとも考えら れることである。筆者などはそのように考えるが、真相は不明である。 ここまでくると観光振興の立場からは阻害視される考えかもしれないが、事実を究明するには根本史料 の不足があろう。 参考文献 *金井喜久一郎 「綱取より綱切へ」『飯山市誌歴史編上』第二編第四章第三節所収、飯山市刊行19 93年 *岡澤由往訳『甲越信戦録』龍鳳書房刊行2006年 *江口善次「綱取上船場渡」『木島村誌』所収 飯山市公民館木島分館刊行1972年 *松澤芳宏「飯山市綱切橋の由来を考える」『奥信濃文化第41号』所収 飯山市ふるさと館友の会刊行 2023年http://www17.plala.or.jp/matuzawa/ へのリンク 総目次に戻る
|