中野市高遠山古墳は東日本最古級の前方後円墳とされています。ただし、東国最古級の古墳ではありません。
筆者の考え方によれば、既に墳丘ある墓所、つまり古墳をつくる風習が大陸から日本に伝来し、弥生時代にも古 墳が存在しています。
北信濃北半でも、木島平村の根塚遺跡にいくつかの弥生古墳がありますし、この地方にもある周溝墓が墳丘を
もつことは明らかです。 周溝墓も古墳の一種の低墳丘古墳ですし、それが弥生時代に属するのならば弥生古墳 となります。
周溝墓は古墳時代にもありますが、それは古墳に間違いないのです。方形周溝墓ならば方墳ですし、円形なら
ば円墳です。ただし、周溝墓といわれているものに低墳丘古墳が多いことは事実です。
高遠山古墳は完存時の測量で全長55mでした。後年の緊急発掘報告書では全長51.2mと推定していますが
誤りです。どうして破壊された前方部の長さが分かるのでしょうか。完存時の測量値を尊重すべきです。
したがって、全長約55m、後円部長径32.8m 、短径25.6m、高さ4m、前方部高さ約2.5mです。 前方部
の前端は、完存時には明確な立ち上がりがあり、 高遠山古墳は、前方部付設型古墳のうち、前方部確立型古墳 (注1)に属します。つまり前方後円墳として墳形が確立した分類に属し、前方後円墳と呼べるものと思われます。
ここで注意しなければならないのは、前方後円墳は墳形の確立であって古墳の確立ではありません。この認識
がないと、前方後円墳の波及が古墳の波及と勘違いされ、 まことしやかに、畿内政権やヤマト政権との関係が論 議されることになりかねません。
中野市には高遠山古墳と同時期の布留0〜1式土器(寺沢薫案布留0〜4式のうち)併行時期の安源寺城1号
墳(全長約15m前後)があり、これは3世紀半ば〜4世紀前半の、いずれかに属する前方部祖形型古墳であり、 前方後方墳の兆しがあるもので、様式的には高遠山古墳以前のスタイルです。
間違えられやすいのは、安源寺城1・2号墳が墳丘墓であり、高遠山古墳が古墳であるという見方です。これは
世界性をもった古墳定義に合致しない、日本独自の一部研究者の論理からくる妄想です。 安源寺城1・2号墳は 完全なる古墳であり、とくに1号墳は低墳丘があることが確認されています。 いわば低墳丘古墳なのであり、弥生 時代にも属しません。
また、前方後円墳が畿内で成立し、前方後方墳が東海地方で成立したとする説も成立しません。滋賀県神郷亀
塚古墳など、琵琶湖沿岸地方では、弥生時代末期3世紀前半ごろともされる前方後方墳がありますが、今度は滋 賀県が前方後方墳の発祥の地だとする意見もある一方、従来の説を援用し、東海地方に関係ある狗奴国連合に 関係する古墳であるとの説も出ています。
本末転倒、東海地方以外でも最古級の前方後方墳が発見され、最古級前方後方墳の分布圏が変わったので
あり、それを何でもかんでも狗奴国政権に結びつける論理は成立しません。従来より知られていた福井県安保山 4号墳は、弥生時代末期の畿内第X様式後半土器(2世紀末前後)併行の前方部確立型古墳であり、前方後方 墳に含められるものです。それを見ても、前方後方墳が東海地方発信とは限らないと思います。
中野市域の前方後方墳の発祥を東海地方から波及したとする説が、妄想であることが分かりましょう。前方部
祖形型古墳の安源寺城1・2号墳では、地元の弥生時代後期箱清水式系土器・東海系土師器・畿内系土師器・北 陸系土器の諸要素が混在しており、一概に東海系文化の波及と片付けられないものであることは明白です。
ただ言えることは、国家統一の動乱期に各地各様の文物様式と古墳の諸形態が波及しあい、文化交流が助長
されたことであります。それが畿内政権の関与したものとは断定できず、人の動きによる自然発生的な文化の波 及と推定しています。ただし、三角縁神獣鏡などが埋蔵された古墳については、畿内型古墳であるかないかの論 議は必要と思っています。 ちなみに、高遠山古墳が前方後円墳であることのみで、畿内型であるとは断定できま せん。
高遠山古墳の後円部は楕円形の俯瞰形態をなし、通常の正円形の前方後円墳とは異なります。 後円部の中
央部に雑然とした礫を壁面とするやや方形(長方形状に広がる可能性もあるという)の土坑があり、さらにその底 面に前方後円形の主軸に直交して二つの埋葬施設があります(注2)。
このうち、切り合い関係から1号棺が古く、土壙内の粘土槨内の刳り抜き式木棺(注3)と推定され、 鉄剣3・銅
鏃4・鉄鍬鋤先1・鉄槍鉋1・管玉4・ガラス小玉5が出土しました。2号棺は土壙内の礫床上の木炭槨で、割竹形 木棺と推定され、鍛造有袋鉄斧1・鉄槍鉋1・鉄刀子1が出土しています。土壙の一方の小口に平石を立て、両小 口上を複数の平石で覆っています。平石は槨の側面上にも少し覆われており、たぶん木棺の押さえか、土壙上の 木蓋があったと推定します。
この古墳の主体部直上の盛土内から、葬送儀礼に伴う土器が、破砕散布された状態でたくさん発見されていま
す。その土器をみると、在地の箱清水式系土器と、外来系の古式土師器があります。
古式土師器は安源寺城1号墳(注4)と同様な時期かとも思われますが、仔細にみると、円孔のある高坏または
器台の脚部は直線的に開くものと、外反しながら開くものがあります。 これは安源寺城1号墳と共通性をもちます が、坏部の器形が不明であり、詳細な時期が分かりません。
壷も頸から肩にかかる位置に細い突帯があるものも共通性を持ちます。この突帯はパレススタイル土器や庄内
式垂下口縁壷に見られる古い要素ですが、突帯付近の文様が消えていることなど、やや下降した年代が与えられ ましょう。総合すると、概ね布留0〜1式併行に該当します。
外反脚の高坏あるいは器台は、この地方では後代まで残り、これだけで時期の決定はむずかしいと思います。
しかし多量の箱清水式系土器が残ることは、箱清水式期に続く時期と推定されます。 布留0式〜1式の年代を3 世紀半〜4世紀前半とみると、高遠山古墳の築造年代は、前代の根塚遺跡B区の箱清水式期の年代を参考にし て、3世紀半〜4世紀前半と考えています(注5)。高遠山古墳銅鏃については、通有な前期古墳の銅鏃型式に共 通するものであり、奈良県ホケノ山古墳のものよりも新しい型式が多く、それを勘案すると定説の4世紀前半前後 が妥当であるかも知れませんが後考を待ちます。このことは、近畿土器編年よりも、東国の土器形態の実年代が 下降するかも知れないという重大な問題をひかえています。
高遠山古墳が前方後円墳であること、また、割竹形木棺が採用されていることなどから、畿内の影響とみる人が
多いですが、 古墳時代初期、北陸では割竹形木棺は畿内型古墳に先行する墓制とされ(注6)、この種の木棺が 畿内型古墳の影響のみとはいえません。
前方後円墳の墳形自体も畿内からの影響のみとはいえず、 内部主体の礫床上の木炭槨土壙も畿内では稀有
のものであり、高遠山古墳は完全な畿内型古墳といえないことは明白です。高遠山前方後円墳の成立に、この地 域の円形弥生古墳の影響もかかわっていると私は考えています。
つまり、私は、ここに大きな提言を行うことになります。すなわち、古墳の墳形は前方後円墳・前方後方墳などが
それぞれ独立して成立するのではなく、 古墳築造過程や祭祀からくる前方部の変遷は、 日本列島で主体部墳形 にこだわらず、同じような変遷があるということです。 私の言う前方部付設型古墳の諸段階が、古墳形態の変遷であり、そのどれをとっても古墳であり、定型化した
前方後円墳や前方後方墳の出現時期からを古墳とする20世紀古墳定義に異議を申し立てます。 そのような観 点において、高遠山古墳を含む東日本の、弥生古墳以来の古墳の変遷を観察することが、今後の課題であると 信じます(注7)。 注1 ホームページ『松澤芳宏の古代中世史と郷土史』の「古墳の定義への疑問」を参照。他、松澤芳宏「古墳の 定義と墳丘墓名称の廃止について(北信濃北半を例として)」『信濃59の2』2007年
注2 高遠山古墳の概観については中野市教育委員会『長野県中野市高遠山古墳発掘調査概報』2000年を参
考にしています。
注3 報告書では組み合わせ式箱形木棺を思わせる記述もありますが、細長い粘土槨の断面形状はU字型であ
り、土屋積 「高遠山古墳の現在と将来(1)」『信濃考古170号』、2002年の説に従いました。ただし断定できる ものではなく、今後の類例を待ちたいと思います。 注4 中野市教育委員会『安源寺城跡遺跡発掘調査報告書』1999年
注5 注1の『信濃』掲載論文に、この地方の古墳出土土器年代観を述べてあります。
注6 藤田富士夫「富山県における古墳発生期の調査とその成果」『古代学研究76』、1975年
注7 松澤芳宏「中野市高遠山古墳と前方部確立型古墳の展開」『高井208号』2019・8・1(2023・1・22追記) 安保山4号墳は全長23.5mで後方部12×15.5m・高さ1.3m、前方部11.5×12.5mで高さ0.6mとさ
れています。 もちろん土砂の流失があり古代にはもう少し高さがあったと考えられます。主体部は後方部にあり、 方形土壙であり、箱形木棺などが考えられるとされています。主体部土壙や墳裾などから、大量の弥生時代後期 後半の土器が見つかっています。
安保山4号墳は筆者提唱の前方部確立型古墳に属し、前方後方墳と考えられます。低墳丘をなすこと、弥生時
代に属することなど、墳丘墓に属するという見解もあると思いますが、それは世界性をもった古墳定義に反し、不 適切です。低墳丘の古墳とすべきです。 安保山4号墳は前方部確立型古墳であることは間違いなく、日本最古級の前方後方墳と断定します。弥生時代
後期の畿内第X様式新相土器(2世紀末前後±30年)併行の築造と考えられます。最古級の前方後方墳の墳 形の成立ですので、やや異形の形を成していますが、このような異形のものをも経過しながら、後代の典型的な 前方後方(円)墳が成立するのです。なお、4号墳の後方部隅にも陸橋があることは、通有な前方部確立型古墳 の形態に準拠しています。また、4号墳は古墳時代に属さないので、弥生古墳としてよいでしょう(2020・7・2更新 )。
安保山4号墳の存在は、東海・畿内のみならず北陸地方でも前方後方墳が早く成立していることを示し、その成
立が前代の弥生方墳(方形周溝墓・台状墓も含む)の流行地域で、陸橋部の変化に関連していることを重視すべ きです。決して東海地方の狗奴国政権(もっとも東海地方が狗奴国の中心と断定されたわけではない)が、前方後 方墳の成立と関係あるわけではではないのです。
私は、前方後円墳も前方後方墳も四隅突出型古墳も同じような前方部の変遷があるだけで、連動した前方
部付設型古墳の発展形態とみて、しだいに前方後円墳が多く登用されるようになったと考えています。前方後円 墳が多くなった理由については、朝鮮半島の円墳の流行とも文化的に連動していますし、日本の円墳の流行とも 関係しています。古墳時代中期には圧倒的に円墳系古墳が盛行しています。
前方後円墳など円墳系古墳が増えたことは決して畿内政権が関与したものではなく、古墳が大型になるにつれ
て、設計と造成技術のたやすさから前方後円墳などが便利になり、大和政権なども権力背景をもとに、巨大前方 後円墳を次々に造っていったのです。そうしたなかで畿内型古墳が成立し、各地の古墳形態にも影響を及ぼした こともあり、古墳形態の規制もあったと考えるのです。しかしその時期以前に、弥生時代以来の中小古墳(弥生古 墳)があったことはうごかしがたいのです。
以上、特別に安保山4号墳をクローズアップしましたが、信濃の高遠山古墳の見方に参考になれば幸いです。
決して高遠山古墳が畿内政権の関与で墳形が確立したのではなく、弥生古墳以来の古墳築造の流行のなかで、 前方後円墳として墳形が成立したのが高遠山古墳なのです。 (2010・9・8記、9・23更新2018・7・2再更新) 日本の古墳の定義の矛盾については下記掲載の論文にも記しておきました。奈良県瀬田遺跡円形周溝墓( 弥生末期)や同県の前方後方墳・メクリ1号墳(古墳時代初頭前後)などの例をあげ、すべて古墳として論じました 。併せて纏向型前方後円墳の波及についても反論いたしました。また奈良県ホケノ山古墳銅鏃の古墳時代初頭 位置の正当性を説き、長野県中野市高遠山古墳銅鏃はそれ以後の時期として、高遠山古墳の年代観を述べまし た。 また、福井県安保山4号古墳が日本最古級の前方後方墳(前方部確立型古墳)であるのに、それを墳丘墓とし て論じる誤った判断を下し、北陸の前方後方墳の出現の速さを否定する説があるとすれば、それは大きな間違い であると思います。 世界における古代社会の、すべての墳(墳丘墓所)を古墳として扱い、日本の前方後円墳等の発生を、前方付 設型古墳の発展形態の内としてとらえる方法は、最も解りやすく、合理的な方法と思います。それに関連して纏向 型前方後円墳の波及など、ありえないとする意見が尊重されるかと思います。 纏向石塚古墳等畿内の纏向型古墳(名称自体も不適切)よりも安保山4号古墳築造の方が古いことは土器型 式で判然としているのです。畿内での前方部確立型古墳出現以前に、今のところ北陸では前方部確立型古墳が すでに出現しているのです。纏向型古墳波及という妄想以前に、前方部付設型古墳の発展形態の諸段階がすで に周辺地域にあるという現象に、皆が気付くべきなのです。下記論文のご批判をよろしくお願いします。 松澤芳宏「中野市高遠山古墳と前方部確立型古墳の展開」『高井208号』2019・8・1 (2019・8・1記)
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