北信濃北半古墳文化の真実の意義は何か

     
     古墳定義の誤解から来る古代史の危険性について




            
           


 前方後円墳を大和政権の影響下にあるものとし、前方後方墳を東海西部政権の影響下にあるものとする
ことに危険を感ずる。確かに初期前方後円墳など畿内の大前方後円墳の、箸墓古墳に似たものが各地にあ
る。それを畿内政権の影響下とし、それ以前の纒向石塚古墳に似た畿内以外各地の古墳を、纒向(まきむ
く)型古墳の波及とする説がある。これは弥生時代の大阪湾型銅戈の地方波及とおなじ論法であろう。
 纒向型古墳も箸墓古墳型古墳も、石塚古墳・箸墓古墳がその様式の最古の古墳である保障はない。大陸
の古墳の影響が弥生古墳を成立させ、連綿と続く中で、前方後円墳、前方後方墳が成立してくる。そのス
タイルを権力背景によって大型化したのが、大前方後円墳なのである。したがって、畿内の大前方後円墳
スタイルを地方に押し付けたのが前方後円墳の波及であって、畿内政権の波及とするのは極めて危険であ
る。
 また、東海西部政権のなんらかの影響が、前方後方墳を他地方に伝えたとするのも大きな誤りである。
どこが前方後円墳や後方墳の発祥の地であるかではなく極めて大きな枠のなかで同じような前方部の形態
変遷があるだけである。むしろ早くから弥生円墳がはやった地域で、前方後円墳が成立し、弥生方墳がは
やった地域で前方後方墳が成立してくるのである。そして、その様式が個々に、さらに周辺に影響を及ぼ
すことはありえよう。
 中野市高遠山(たかとうやま)古墳が東国最古級の前方後円墳であるのはよい。しかし古墳の最古では
ない。連綿と続いていた弥生古墳があるのである。木島平村根塚遺跡の葺石のある円墳が弥生古墳である
すれば、筆者には大陸文化の波及を語る資料として都合がよいが、内部の円形周溝墓と同じ墓域である
断定が出来ないので惜しい。
 しかし、今、出土品から考察し、大雑把にいえることは、根塚遺跡にいくつかの弥生古墳があり、次に
飯山市法伝寺前方後方墳(法伝寺2号古墳)が造られ、法伝寺と同時か、やや新しく高遠山古墳が造られ
たといえるであろう。古墳の形のみで畿内政権の波及、東海政権の波及というのは、とても危険である。

                         平成21年3月7日

            *参考文献など

松澤芳宏「古墳と古墳時代の定義設定の再考」『信濃』51−5 平成11年
松澤芳宏「古墳の定義と墳丘墓名称の廃止について(北信濃北半を例として)」、『信濃』59−2、平成19年
松澤芳宏「飯山・中野地方の前半期古墳文化と提起する諸問題」『信濃』35−3昭和58年
http://www.city.iiyama.nagano.jp/koho/pdf/18-06/26-27.pdf 文中の3世紀前は前半の誤植



    
 法伝寺古墳群には2号墳のすぐ南に26×22m、高さ5.2mの方墳(1号古墳)があるが、 周囲が墓地として削
されているので、前方後方墳であった可能性もある。 また、1号墳と2号墳の間のやや東に、小マウンドがあり、小古
墳が存在している可能性が高い。さらに、1号墳の西側に分岐した周溝の南にも小マウンドがあるが、そこは現在墓
地となっている。
 主墳の周囲に小古墳が存在する状況は、飯山市勘介山古墳・有尾古墳群にも見られ、会津坂下町周辺の古墳群
と似たような状況が将来確認される日が必ずあろう。
 周辺は飯山城前線の武田方への防御線とし
て機能していたと見られ、1号古墳の空堀が広がっている状況が以前
観察された。 ちなみに、近辺は断層帯に伴
う狭長な丘陵の突端に当たり、防御としての切岸が施されたと思われ、
旧法伝寺の敷地は膨大な削平地であり、急
斜面が取り巻いている。
 このような切岸の状態は、北畑館や飯山城目前の上倉諏訪社周辺と片山神社の丘にも見られ、飯山城攻防戦を
える上で重要な視点となる。今後の研究課題であろう。








































 法伝寺古墳群には次のような伝承がある。「朝日さし夕日輝く丘の上、烏のひょっくらとび、三足半中その下に黄
金云々」。また、大正2年刊行『下水内郡誌』には「朝日てり夕日輝く其下に、黄金千両、漆千盃」とした記述がある。
どちらが正しいか分からないが、全国至る所にある伝説であり、そのために盗掘が助長された感もあるが、1号墳は
薬師堂で守られている。 2018・7・1更新





飯山市静間の法伝寺2号古墳の年代推定

―東日本最古級の前方後方墳の可能性についてー

松澤芳宏


 長野県で最初に確認された前方後方墳は松本市の弘法山古墳である。それ以前は、県下で前方後方墳は実在しないもの
と考えられていた。弘法山古墳の確認によって、県史編纂事業の一環として秋津地区の勘介山古墳を測量調査し、中学生
時代に発見していた同古墳を前方後方墳と推定するに至った(注1)。

同時に、以前から帆立貝式古墳と考えていた飯山市有尾古墳や当該の法伝寺2号古墳を前方後方墳ではないかとの可能性
を論文等に発表した(注2)。その後、法伝寺の墓地整備事業に2号墳が関係するかもしれないとの考えにより、飯山市教
育委員会に調査の必要性を報じ,当古墳の範囲確認調査が実施された。その結果、2号墳は前方後方墳であると確定された
(注3)。すでに昭和25年前後の時期に、墳頂下30pで、中学生により鉄剣が発見されてはいるが、それが原初の埋葬主
部からの発見であるかは明らかではない。さらに深部に埋葬主体部があることもあろう。

http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/img063.jpg発掘報告書では推定の全長23mとし、後方部幅135m高さ26m、また、前方
部長さ95m端部幅8m、後方部との比高差が1m下がるとされる。周溝の部分的調
査で、前方部の陸橋の有無は分からないが、前方部が未発達で前端に溝が巡る前方部
確立型古墳(注4)で、前方後方墳であると断言できる。ただ、前方部前端で、撥形
に開くかどうか確かめてもらいたかった。

発掘による土器の破片が少なく、器形が判明する高坏脚部一ケが、墳裾から発掘さ
れている。北陸の月影式後半と思われる小型化した高坏である。3世紀前半〜中頃が
土器の示す年代だが、中野市安源寺城1号墳のように月影式器台が布留0式前後併行
土器に伴う例もあるから、3世紀前半〜4世紀初頭のいずれかが築造年代と考えておく
(注5)。東日本最古級の前方後方墳の一つである。 

この年代推定を補強するものとしては青龍3年(235年)銘の方格規矩四神鏡が出土した京都府京丹後市の大田南5号墳の
出土土器がある。森井貞雄氏は「この土器は丹後の地域色をもつが、弥生終末期から古墳前期初頭にかけての庄内3式あるい
は布留0式に相当する。この資料は弥生終末期の終わりが3世紀中頃を上限としていることを教えてくれる。」と述べている
(注6)。

私の考えでは、235年銘鏡が大陸や日本で伝世するのを勘案し、70年を加えると西暦305年となり、慎重を期して±3
0年を考えておくと、大田南5号墳土器群は3世紀後半〜4世紀初頭を前後する年代となり、古墳自体も、その年代に収まる
と思われる。佐藤晃一・杉原和雄氏は大田南5号墳を4世紀の早い段階と考えており(注7)、ほぼ私の年代観と一致する。

http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/img066.jpgimg185[1]大田南5号墳出土土器の高坏や器台の坏部・脚部の接着部は
細首状であり、その点は、法伝寺2号墳高坏と類似し脚部の
開き具合も酷似している。なお、法伝寺2号墳出土土器には、
円孔のある高坏か器台の脚部破片もあるが、それについては、
弥生時代末期〜古墳時代前期に通有なもので、細かい年代は不
明であるが古墳時代前期の古式土師器の土器面の感触がある。        





  
 月影式後半土器の年代については、科学測定により年代を上げる意見もあるが、ここまで述べてきたように、中国の魏年
号の青龍3年(235)銘鏡が基準となり、月影式後半(畿内庄内式後半)の下限については3世紀後半に入る可能性もあり、
伝世により4世紀初頭まで使われる可能性もある。

ただし鏡の伝世が100年以上にわたることになれば庄内式後半〜布留0式(北陸の月影式後半〜白江式)の年代観がさらに
下降することになろうが、それには幾多の銘文鏡と土器の同時出土例が増すことが前提となる。

 重要なことは月影U式〜白江式土器が過渡的時期に混在状態にあり、そのような時間帯に法伝寺2号古墳があり、やはり、
筆者は3世紀前半〜4世紀初頭のいずれかが法伝寺2号墳の年代としたい。飯山市文化財専門委員会の4世紀後半に下る見解は
否定しないが、その場合は出土土器の年代観が私とは異なることを示している。

注1松澤芳宏「北信濃北半における前方後方墳の発見とその意義」『高井52号』1980

  松澤芳宏「有尾古墳群・勘介山古墳」長野県史『主要遺跡(北東信)』1982

 2松澤芳宏「飯山・中野地方の前半期古墳文化と提起する諸問題」『信濃35−3』1983

松澤芳宏「有尾古墳群・勘介山古墳」長野県史『主要遺跡(北東信)』1982

 3望月静雄他『法伝寺2号古墳』飯山市教育委員会1997

 4松澤芳宏「古墳の定義と墳丘墓名称の廃止について(北信濃北半を例として)」『信濃59―2』2007

   「前方部付設型古墳の発展形態」の内として、「前方部確立型古墳」からを前方後円墳・前方後方墳・四隅突出型
古墳等として墳形が確立したと論じた。世界的見地から、従来の古墳定義や墳丘墓名称の矛盾を突き、言語学上の
の文字を尊重した論文であり、弥生時代の墳丘墓も弥生古墳とした。日本の古墳時代は、全長80m以上の古墳の複数
登場をもって位置付けた。世界の古い時代の墳丘のある墓所も古墳とした。

5注4の文献の中で、この年代観を示した。

 6金関恕監修『卑弥呼誕生』大阪府立弥生文化博物館編・東京美術1999

 7石野博信編『全国古墳編年集成』雄山閣出版1995

                         平成30年6月記  

その他の参考文献:松澤芳宏「飯山市静間の法伝寺二号古墳の年代推定」ー東日本最古級の前方後方墳の可能性についてー『高井第205
号』2018・11月1日刊行で、このホームページを再編し、紙上に掲載した(2018・11・2追記)


    



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