松澤芳宏の絵画一覧 その2

Paintings List 2 of Yoshihiro Matsuzawa







 絵には二度と描けないという絵があります。雪国の風景を伝えたいと、地元の大久保の路地でキャンバ
スを立てて描いていました。すると、よく知っているおばあちゃんが、お孫さんを連れて自分の家に帰っ
てきました。近所のお店でお菓子を買ってきたのでしょうか?。
 一瞬これだと思いました。点景人物としてこんなに最適なものはないのです。それがごく自然に風景と
溶け合って、田舎の暮らしを表現することができたのです。私としては満足している絵の一つです。日本
水彩展に出品し、また、長野県展は県内に未発表という規定でしたので、同展にも出品した絵です。
 なお、この作品は2012年(平成24年)飯山市美術館開館15周年記念企画展「北信濃逍遥の画家
たち」−生きること描くこと−に招待出品しています。ぜひご鑑賞ください。




























 印象派に逆戻りしているといわれるかもしれませんが、印象派は超えることができない理想です。油絵ではなくア
クリル系絵具と岩絵具で印象派の真似をしているのが私です。春の千曲川の河岸の景色は、まるで印象派が描く
セーヌ川の景色とだぶって見えます。芸術論に加わらず画界から遠のいた私は、ただただ平凡に、川岸の春の雰
囲気を皆様に伝えるだけです。










 飯綱町方面からの北信五岳の眺めはすばらしい。とくに五月の新緑と妙高山の残雪は心が洗われます。私の
絵画姿勢は自然との対話です。芸術論も一切関係ありません。自然の美しさをいかに画面に表現できるかが課
題です。そのうえで皆様に共感いただけたら幸いです。









 新潟県妙高市関川沿いの新緑と妙高山の残雪は見事です。現場の五月の空気感を大切にしました。









  東日本大震災の犠牲者の方々に心から哀悼の意を表し、被災地の方々のお見舞いを申し上げます。絵を描く
者にとって、被災地の惨状を描き、世の中に訴える方法もあろうかと思いますが、大自然に畏敬の念を抱き、美し
さをも皆様に伝える役目もあろうかと思います。中野市硲界隈に取材した平穏な早春の高社山の絵ですが、輪廻
する春に、喜びと悲しみも備えていることをつくづく感じました。









 この絵の円・三角・四角の輪郭は、保育園の時の孫のなぐり書きです。そこにヒントを得て加筆したのがこの絵と
なりました。すべての造形の基本は円・三角・四角と線であると思いました。すべてをかなぐりすて造形の基本形態
を画面に構成したのがこの絵です。ただ春の色とか空気感とかは厳格に実行しました。









 廻る春とは昔からの歴史に春が廻るという意味があります。この絵はすべて空想ですが、上野原合戦の場所と
想定している飯山市静間田草川付近のイメージ図で、後方は斑尾山です。まるで騙し絵のように、春の山野草を
でっかく描きました。絵に理屈はいりません。この絵に春の季節のそれぞれの想いが感じていただけたらと思いま
す。
















 百花繚乱の言葉は飯山地方に似合っています。菜の花公園一帯でも雪解けを待って、一斉にいろいろな花が
咲き誇ります。桜も菜の花も同時に見られ、色彩の渦の中に春を楽しめます。








 飯山市瑞穂の菜の花公園の絵です。絵葉書のような絵だといわれそうですが、そのような絵が悪いとは思いま
せん。ただ風景の雰囲気が鑑賞者に伝わるかどうかが問題です。果たしてどうでしょうか。





 









 何度か絵にした構図ですが、秋の光を描きました。自身で混合した水性ウレタン系エマルジョン絵具で、水彩・岩
絵具を溶きました。この絵具は漆も混ぜることも出来、最終的に陰の部分に漆を使って透明感を出してみました。
この絵は日本画・西洋画の区別はなく、ただ絵画そのものなのです。









  この絵は1990年に川口昇氏と飯山市の長峰丘陵へ写生に出かけた際のものです。しばらくこれを完成させる
勇気がありませんでしたが、やっと得とくしたアクリル系調合絵具で加筆できました。この絵具は、岩絵具を発色さ
せることもできます。約20年、アクリル絵具に悩んだ結果、簡単な調合作業で解決できました。















 中野市の北部には、低い長丘丘陵が千曲川を西にして連なっています。その中でも壁田城(へきだじょう)はひと
きわ高く、飯山・中野・替佐方面を一望する山頂にあります。山麓の壁田集落については、鎌倉時代末期の「守矢
文書」に「部木田」と記載されていることから、日置田が集落名の始まりであるとも考えられ、古氏族の日置氏との
関係も注目される土地でもあります。山頂からの眺望がよいので、上代には「越」との連絡にあたる烽火(とぶひ
=のろし)があったとも考えられています。
 その後、壁田城は高梨氏の支配下にあったと推定されていますが、戦国時代末期の甲越合戦時代になると、上
杉方の飯山城に対する武田方の最前線として重要な役割があつたと推定され、永禄9年(1566)9月、武田信玄
は山田飛騨守・山田左衛門尉に壁田・田麦・寿徳寺を宛がっています。つまり、彼らが壁田城の守りの一端を担っ
ていたものと推定されています。
 もちろん、そのころから城普請があったと推定されますが、永禄11年春に武田信玄は越後境の新地(新城)築
城の無事を祈っていますから、長沼城・替佐城・壁田城などの複数の地元衆の城を、武田氏の最前線として、堅
固(けんご)な要塞にしたてていたと推定しています。(『日本城郭体系8』・『角川地名大辞典長野県』・『北信濃の
城』・『信州の古城』などの松澤芳宏記述分参照)。
 武田信玄は春日山城や飯山城に対する防衛線の城郭群を千曲川の東西に築き、善光寺平の確保をはかり、
今川氏討伐作戦などを初めとする西上作戦に政策を転換していったのです。           
                                            (2011・1月記)









 長野県展に初入選した絵の下絵にしたスケッチです。初入選の絵はその後色彩が気に入らず、会場で見知らぬ
人がその絵の批判をしていたこともあって、焼却してしまいました。今思えば、もったいないことをしたと思いますが
当時は絵がうまくいかず、破くことが多々ありました。今でもその癖がなおりません。








 日本水彩画会長野県展に賞をいただいた絵の下図です。このあたりは現在、上信越自動車道が通り、景観が
変わってしまいました。昔がなつかしい絵の一つです。








  飯山市大字静間に法花寺という地籍があります。元禄八年の静間村絵図では法華寺という地名になっています
から法華寺という寺が昔存在したのでしょう。この一帯の里山は新緑が大変美しいところです。














 飯山市神戸付近の情景を絵にしました。新緑の中の民家のたたずまいは飯山地方随一の名所と感じまし
た。








 銅戈・銅鐸を出した柳沢遺跡を中央にふくむ景色です。私は青銅器が埋蔵されたことを、高社山を田神
山(田上山があります)にたとえて、農耕神に関係ありとする説を唱えています。雨上がりの高社山は雲
中に顔を出し、逆光の朝は、神秘的で、すがすがしく、まさしく神の山の雰囲気です。

プ―チンよ聞け、
君は会議で皆と大きな距離をおいて話をしている。
命が惜しいのであろう。
ウクライナとロシアまた世界の兵士・一般市民もまた命が惜しい。
君の命と万民の命は同等である。
万民を虫けらのように扱うな。
また、虫も命が惜しい。
考えればプーチンの命と万生物の命は同等である。
プーチンよ聞け、
君の思考一つで、万民・万生物の膨大な命がかかっている。
君の重さを悟れ、そしてこれから世界平和への発想の転換を図れ。
(突然湧いた神の声2022/3/25)。











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