私の好きな絵の雑感
『以前私が飯山からの帰りがけに−雪の道を橇(そり)で帰ったとは反対の側にある新道に沿うて−黄ばんだ稲
田の続いた静間平を通り、ある村はずれの休茶屋に腰掛けたことが有った』これは島崎藤村の『千曲川のスケッ チ』に書かれている文章です。このことから明治30年代に、島崎藤村は飯山町からの帰路に橇に乗ったことが分 かり、其の場所が千曲川右岸(東岸)の現在の中野市岩井方面にあたることが判明します。
故長谷川青澄先生の『雪国』の中の青年画家(自画像か?)がポケットに本を忍ばせていることから、私は先生
が文学にも造詣が深く、もちろん島崎藤村の本を愛読していたことは、間違いないと信じています。想像をたくまし くすると、『雪国』制作の発想の原点が岩井方面を橇に乗る藤村の姿に青澄先生の自身の姿を置換したことにあ ると考えるわけであります。
私は以前、絵の仲間とともに、郷土の芸術活動の先駆者である文房具店ノタヤ店主の故東忠男氏に親しくご指
導ご鞭撻、会話に応じていただいていた時期がありました。その東氏が青澄先生と飯山中学校(現飯山北高校) 以来の友人であったことから、青澄先生のお話を東氏からたびたび聞かされ、私は先生自身にも何度かお目に かかりました。
其のときに、ほんとうは『雪国』の発想について、先生にお聞きしておけばよかったのですが、それがなんとなく私
が遠慮しておったので、ついに聞かずじまいとなってしまいました。そこで今、この絵の発想について、私自身のか ってな妄想をしてみたいと思います。
橇については、昭和20年生まれの私が幼少のころ、雪道を行く馬橇を見たことがあります。狭い雪道は近隣の
住民の勤労奉仕によりカンジキにより踏み固められたものであり、雪原よりも低く、小川のように掘れた道でした。 橇が通ったあとは2本の筋となって雪が氷状態になり、そのうえで滑って転んだ覚えがあります。『雪国』の絵には この掘れた雪道が描かれており、なつかしく感じますが、牛橇については私は知りませんでした。
青澄先生と親交のあった春陽会会員の駒村久彌(通称駒村久弥)先生は、『画人長谷川青澄追悼展図録(平成
17年飯山市美術館刊行)』の「青澄先生の思い出」の中に、次のように述べています。「昭和25年当時、私は食 料公団に勤めていました。その頃、米の運搬には公団専用の牛車が使われていました。雪道では牛のそりとな り、先生はスケッチに通われ、作品『雪国』をお画きになりました。牛に引かれたそりに乗って青年画家がスケッチ ブックを胸に故郷の風景の中に画かれて居ります。」
『雪国』の絵をみると、その構成の見事さに心を動かされます。画面の向かって左側に牛橇に乗った群像が描か
れ、遠くに高社山山麓の岩井や田上方面を思わせる山並みがあります。考えようによっては、牛は広大な雪原を 分け入っているようにも見え、それが私には若き青澄先生の心境にも思えてなりません。
長谷川青澄(1916〜2004)年譜(前掲追悼展図録)によれば、昭和19年、青澄先生は郷里の下水内郡飯山
町に疎開し、昭和25年ごろまで飯山で、絵画活動を行っていました。そして、昭和26年35歳のときに、恩人照林 富久子氏の世話により、大阪市に転住しています。
つまり『雪国』の絵は昭和25年前後に描かれた可能性が高く、大阪市に転住する直前であることに重大な意味
があります。この頃以降、先生は院展を中心に活動をされるようになり、画人としての大成をなし遂げるべく、決意 の程がみなぎる時期であったと思われます。
ここで、ふたたび『雪国』の画面を見ますと、西日を受けた山並みは、簡略化された造形表現となり、やや前に故
郷のリンゴの木をイメージした表現があります。これに対して手前の群像は写実を極め、その内面をも語るように もみえます。
遠くを見つめる初老の女性は飯山町からの買い物の帰りでしょうか、温和な顔立ちは故郷の人情味あふれる素
朴な人柄を示しています。あるいは、母親のような女性をイメージしたのでしょうか?想像を掻き立てます。骨折の 少年も飯山町のお医者さんからの帰りでしょうか、分厚い手袋が冬の厳しさを表しています。
私が最も気になるのは、うつむいた芸者さんらしい女性です。寒さに凍えているというよりも何か悲しみに打ち臥
しているようにも見えます。青年画家の前には、旅行カバンが描かれ、旅立ちを示しています。青年画家に心を寄 せる女性もあったのでしょうか?。無限に想像を掻き立てるのが、この絵のすごさでしょう。なんとその女性の美し いことか、人間味あふれる女性像の傑作となっています。
青年画家はこの絵を見つめる人を見つめ、自分の画人としての意思をうったえています。まさに、この絵は画家
の厳しい世界に突入する青澄先生自身の若き日の決意の絵だと私には思えてなりません。その後の苦難に満ち た院展作品の数々は、壮絶な人生の証でもあり、これについては既に有識者により、評価があるところです。
会うたびに、先生に厳しさを問われた私は、先生の絵を語ることはタブーとなっていましたが、どうしてもこの絵に
ついては感想を述べたくてたまりませんでした。先生が故人となられた今日になっては、この一文を先生への追悼
文とさせていただきます。もう一度いいますと、『雪国』は昭和前期の庶民の暮らしを描いた不朽の名作であり、青
澄先生自身の姿をも照らした貴重な絵だと私には思えてなりません。
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