松澤芳宏美術館を開館
Art museum of Yoshihiro Matsuzawa

 松澤芳宏美術館を平成25年8月3日にオープンました。新築した農作業小屋の二階を改装し、ささやかな個人美術館としたものです。洋画と日本画
の融合技法を発案し、北信濃の風土を伝える、飯山市大字静間の大久保にある美術館で、入場無料です。ただし留守の時は閉館します。山野草 愛
好家である姉の松澤一江の見事な木彫作品も展示しています。 実は私が絵に興味をもったのは小学校一年の時で、家で姉が菊の絵をつきっきりで
指導した絵を学校へ持って行きました。 担任の先生はその絵が写実的で、大人びた表現でしたので、私が描いたものとは信用せず、特別に紙を与え
、みんなが映画鑑賞をしている間、私だけが先生の目の前で同じ菊の絵を描いたのを覚えています。現在、ここに美術館を公開できるのは、このよう
な姉の業績があるので、姉の作品も同時公開しました。 姉の作品は好きな山野草の写実表現に、バックに歩いた山のイメージを図案化したもので、
素材のよさも加わって迫力のある木彫レリーフとなってい ます。
 さて、私は小学校時代から絵に興味をもち、中学時代は当時飯山市奈良沢にお住まいの菊岡茂樹先生に絵の手ほどきを受けました。菊岡先生は私
の担 任の丸山力三先生とも懇意で、教頭先生の石澤三郎先生(郷土史家栗岩英治の弟子で市河氏の研究家)とも親しかったようです。各先生には中
学校卒 業後も色々ご指導を受けました。
 菊岡先生は有名な小林古径の弟子であることを語られ、画号は小林古径の実名の茂の字をもらって、菊岡茂と名乗っているとのお話でした。先生の
絵 はやはり懇意であつた飯山の片塩医院にあると情報がつたわっていました。中学の東京旅行の時、汽車の窓からトンネルの間の景色の印象を即座
に見 事なスケッチにされたその力量は今も記憶に新しいです。
 高校三年生の時、東京芸術大学の日本画科を受けたいと思い、先生を再び訪ね、色々とご指導を受けました。その当時の私の絵は、今見るとひどい
も ので、今の友人の木鋪利喜男さんの孫の小学生の絵よりもはるかに感覚的に劣るものでした。さぞや、先生はそのひどい絵をみて、これは受かるは
ず はないと思ったことでしょう(冷や汗)。
 しかし先生はだめだとは言わず、色々とご助言を下さいました。その一言、「将来展覧会は出さないほうが良いよ。そこに入選しようとして本来の良 さ
を失うことが多い」。当時先生は友人の長谷川青澄先生とは別の生 き方を考えていたようです。まもなく、教職もおやめになり、絵画に後半の人生 を
傾けられようとしたかのように私には思えました。その後静岡県に移住され音信不通となりました。
 かくして、私は芸大試験は3次試験までは行きましたが、当然のことながら不合格で、東京美術研究所で、土味川独甫先生や、その娘さんの一柳由美
先生のご指導を一年間受け、再度受験しました。しかし、これまた3次試験までしたものの不合格でした。当時、常識を持たなかった私は、挨拶もし ない
で郷里へ帰ってしまいました(反省するも遅い)。親との約束で、一年の浪人で入らなかったら家に帰ると決めていましたが、芸大を受ける人は 2〜3年
も志を捨てないとの常識も、あとで認識しました。
 東京美術研究所時代の教え「個性は作るものではなくその人の環境によって知らず知らずにじみ出るものだ。たいが いは 個性を出そうとして
から廻りし、皆同じような絵となっている」
は私の絵画姿勢に、大きな比重を占めています。流行の抽象絵画にむや みに染まらず、下手ながらも、写
実に徹するようになりました。その人の環境とは、私の場合、四季麗しい豪雪地帯の飯山地方であると確信していま す。
 先に記した菊岡先生の「展覧会の風潮に染まらず」という言葉も、個性環境説と相俟って、現在の私の指針であることに感謝しています。 もうお分か
りでしょう。未熟ながらも松澤芳宏美術館を開設した私の心境を。子供から大人、プロの画家まで多くの人の来館を願い、感想やご助言を いただき、研
鑽の場所としたいのが本音です。北信州の空気感を洋画・日本画の敷居を払って新しい耐久性のある絵具で表現するのが私の理想です。 (2015記)




 

















   

 松澤芳宏美術館を訪れた女性。モナリザのように大自然を絵の背景にしたく、挑戦しました。






  この絵は長野県飯山市の山口集落に取材した絵です。もちろん実際の風景とは違い、実景を再構成した絵です。ただし、閑散とした山村の、春の
訪れの喜びを表現するために、色彩に留 意しました。土着の色彩によって、飯山地方の風土を表現することができたと確信しています。芸術とは何
か?。美術史を革命するような新しい表現が芸術とは限りません。平凡な中に も充実した芸術が潜んでいると考えています。
  題名の閑村は本当は「寒村」が正しいのですが、どうも寒々とした村のようになってしまい、田舎の良さが失われるのではないかと思い、閑村の字
を当てました。かつて日展作家の方も この字を当てた方がいたと記憶しています。



























 この絵は言わば漆画というべきものです。水性溶剤で青を表現し、次第に岩絵具で着色、最後に色漆と透漆で色の品格と透明感を出したものです。
清涼な空気感は50年以 上の絵画歴のなかで、やっと会得したものです。 題材は手前が小田草城、中央は廃村となった田草集落と田草城、背後は
斑尾山です。斑尾山東麓には長く越後への峠道として使われた古道がありました。この絵は、絵画としての心象風 景で、実際の形とはまるで違います
。ただただ、皆様に歴史的景観を提示し、荒廃してゆく里山の環境を訴え続けるだけです。
 なお、近来の政治は都会的発想で、森林環境は破壊の道筋をたどっています。日本国土の利用価値は下がる一方であり、古き昭和時代の政治を見
なおすことを為政者に望み ます。里山地帯の開発は江戸時代のほうが進んでおり、かつて隆盛をみた山間集落は昭和後期になって廃村となったとこ
ろが多いのです。その結果、里山には熊・猪などが出没し、人間 の居住 域を脅かしています。地震災害の多い昨今、行政の予算も被災地にむけられ
ている現状は当然であり、他方、里山環境は悪くなるのは当然でありましょう。





 

 飯山市菜の花公園からの眺望を再構成した絵です。こんな小さな絵の制作に数年かかってしまいました。黄色の菜の花はとても魅力的ですが、絵
具で表現するのには難し い色の一つです。






















 



目立たぬ花の応援歌です。わずかな光が木陰から漏れています。








栄村の志久見川上流地帯から新潟県側を見る景色に取材した絵です。豪雪地の春を待つ雰囲気を表現しました。






この絵は『松澤芳宏の絵画一覧』にも載せてあります。併せてご高覧下さい。
(追記)この絵「雪晴れる街」は2024年10月より飯山市美術館の所蔵となりました。ご鑑賞ください。































































飯山市の山口区に取材した絵です。春雨が上がる瞬間、一雨ごとに雪解けが進みます。









 飯山市菜の花公園に取材した絵です。ただし現実とは違い、現実をヒントに再構成しています。この絵は日本画と洋画の中間技法ともいえましょうか、
また漆画の技法も 少し採り入れています。水性溶剤はアクリル系塗料を改良したものです。春霞のころの菜の花が咲く景観は、菜種油をとるために、
必然的に生じたなつかしい空間です。昭和40年代ま で、この景観は続いていましたが、今は観光のために、野沢菜の品種が栽培されています。













































































































































この作品は同じ名前の2作目で、前の絵とは微妙に違っています。制作過程でのバランスの違いでこうなりました。




































 北陸新幹線飯山駅を下車された天皇陛下・皇后陛下は、平成28年6月4日午後1時50分ごろに飯山市大字蓮の北原地籍を御通過なされました。
長野市で行われる全国植樹祭他、北信地方の 各地に向かわれるため、3日間長野 県内に御滞在とのことです。背景の人家の在る辺りは飯山市大
字静間であり、松澤芳宏美術館があります。左端後方に、私のホームページの写真や心象風 景画に描かれている田草城が見えます。運よく両陛下
と共に写りました。
                                   











  飯山市大字蓮北原地籍を中心とする田草川尻遺跡で、中学生時代に採集したけつ状耳飾。縄文前期前半の関東の関山式併行の土器片も、
この遺跡で採集され、このけつ状耳飾も縄文前期前半前後 に型式上比定できます。石質は私の知能指数では判断しかねますが、緑がかった乳
白色をし、柔らかい光沢があります。けつ状耳飾のあるものについては大陸製の可能性との見解も出ているようですから(群馬県下仁田 町・下鎌
田遺跡)、皆様の研究の材料として写真を提供します。ご自由にお使いなさってください。なおお気付きの点がありましたらご指導願います。



                                     2015年編集開始。

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