縄文中期・深沢遺跡の概要
                
 深沢遺跡は飯山市大字蓮にあり、深沢と茂右ヱ門新田集落の間に所在する遺跡である。周辺は千曲川の
上位段丘
に属し、遺跡は浅い谷に囲まれた舌状台地上にあり、美麗な高社山を東に望む。まさに、原始時
代の環境
を彷彿とさせる景勝の地に深沢遺跡がある。



 遺跡は台地全体を包み、その広さは、2haをはるかに超すことが、遺物の表面採集で推定できる。ま
た、台地の中央は遺物の散布が少なく、全体は環状集落をなしていたと推定される。
 昭和38~40年、飯山北高校地歴部を主体にした発掘調査があり(地主小山松太郎氏)、神田五六・
高橋桂・永峯光一・野口義麿(50音順)各氏の指導があった。
 発掘により、住居址及び住居址的遺構が4箇所発見された。深沢遺跡の特長は、出土土器が北信地方や
新潟県南部地方に広がる独特な特徴を有することで、その土器は深沢式土器(深沢Ⅰ・Ⅱ式のうち特にⅡ
式)として縄文中期前半(注1)における基準資料であることが判明しつつある。







 また、世界的に注目されている新潟県の火炎形土器の前兆となる波形文が深沢式土器に登場し、火炎形
土器の分布圏と一部重なることが、火炎形土器の萌芽であることを示している。
 また、出土遺物には、土偶40個体以上・土製耳飾・土製円盤・打製石斧・磨製石斧・石鏃・石匙・石
皿・扁平~饅頭形礫器などがある。土偶40個体以上は、単位面積では日本屈指の量であり、注目されてい
る。
 さらに、土偶の中には高さ30cmを超す中空大土偶があり、腕部に懸垂孔があり、肩部では内部に繋
がる穴が開いており、土偶の用途や原始時代の儀礼や祭祀を研究する上で、重要な資料として注目されて
いる。現在、遺跡の北端では開発が始まり、遺跡全体を史跡とすべき時機に来ている。  
        





注1 最近のAMS法(加速器質量分析法)によるC14年代測定では縄文中期前半は5000年以上前
  となるが、私は弥生時代のAMS法では、中国史に裏付けられる考古遺物の年代観との矛盾があまり
  にも大きく、AMS法自体、まだ研究の余地があると論文で発表している。*松澤芳宏2010「考
  古学による弥生中期年代観の再考」―細形銅矛MⅠa・MⅠb式(Ⅰは1の意)など、青銅器の再検討
  を中心に―(雑誌『信濃』第62巻第10号)。
   従って、最近のAMS法よりも、従来のC14測定法などが、弥生時代でも矛盾が少なく、それを
  考慮して縄文中期前半を今から4700年前を大きく前後する年代としておく。

参考文献

1松澤芳宏2016「縄文中期深沢式土器の再検討」―火炎形土器の萌芽・飯山市大字蓮の深沢遺跡発掘
資料を基準にして―『奥信濃文化第27号』飯山市ふるさと館友の会(2016・10・27追記)
2松澤芳宏2016「縄文中期・深沢遺跡の概要」『奥信濃文化第27号』飯山市ふるさと館友の会
            (2016・10・27追記)




                    (2016・2・11松澤芳宏記、3・4更新)












  上記は中野市姥ヶ沢遺跡完形土偶(愛称:姥ヶ沢ビーナス)と猪瀬氏発見土偶との類似や、深沢式土器との併行
関係を述べ、土偶姥ヶ沢ビーナスの年代的位置をも考察したコメントである。猪瀬良平氏発見土偶と姥ヶ沢ビーナス
スは、今から4700年前を大きく前後する年代の縄文中期前半に所属すると考察する。
 国宝の棚畑遺跡 土偶(縄文のビーナス)は縄文中期中葉に所属するとされるから、深沢4号住居址完形小土偶
や猪瀬氏採集土偶や姥ヶ沢ビーナスは、それより早い土偶盛行期初頭のものである。
 特に深沢Ⅰ式新相期の深沢4号住居址土偶は腕部を省略している点で、妊娠状態を強調し、写実土偶黎明期土
偶の逸品である。深沢Ⅰ式新相は新崎式や五領ヶ台式土器の後半ごろに併行し(縄文中期前葉内)、この土偶も
そのころのもので、今のところ、深沢遺跡では最古の土偶である。
 ちなみに、縄文草創期や早期の希少な土偶は、顔部・腕部・脚部が明確ではなく、乳房と腹部だけが強調されて
いる。深沢4号住居址土偶は腕部を省略する点で、縄文草創期以来の伝統を受けついでおり、顔と足が表現され
たことは写実土偶への過渡的様相を示す貴重な例であり、学術上の価値が極めて高い。
 このことは、飯綱町上赤塩遺跡板状小土偶(高さ5cm)が解明の鍵を握る。上赤塩遺跡は深沢Ⅰ式~Ⅱ式期の
遺跡で縄文中期前葉~中葉初期の縄文中期前半に比定され、深沢遺跡とほぼ同時期である。板状小土偶は、12
個体出土品のうち、特殊なもので、陰部を穿孔で表現した女性像と思われ、正中線を示した列点文が表・裏に見え
る。わずかな膨らみで表した頭部には目口と思える刻みがあり、陰部より下は脚部の表現とも観察される。
 深沢4号住居址小土偶との時期的前後関係は明らかではないが、深沢より古い様相であろう。だが、いずれも腕
部を省略する点では、共通性があり、写実土偶萌芽期、土偶盛行期初頭の重要資料である。数は少ないが縄文前
期の素朴土偶の発展した姿とみることができる。
 しかも2点とも女性像とみられ、深沢遺跡例は妊娠状態を示すことから、土偶盛行期の最初頭から、通説どおり、
安産・多産・繁栄・豊穣などが土偶信仰の根幹をなすものと私は考えたい。縄文時代を通じ、破損土偶の多さにつ
いては諸説あるが、安産・多産・繁栄・豊穣儀礼に関する土偶破損とも考えられるのである。そうでなくては妊娠女
性像の多さの意味がなくなるであろう。
 最も重要なことは、深沢遺跡では、こうした縄文前期以来の携帯用の小土偶に加え高さ30cmを超える中空大土
偶が出現することで、日本でも古い時期の中空大土偶である。もちろん、携帯用ではない。腕部に懸垂孔があり、
屋内等につるされて、祭祀儀礼が行われた可能性がある。中空内部につながる肩部の穴は胎盤・幼児骨・堅果類
・その他種子などを入れることができる。まさに土偶の用途が探れる重要文化財級の資料である。定住生活が本格
化し、生業の画期的変化もあったと推量される(松澤芳宏2016)。繰り返し言うと、縄文時代の中空大土偶としては
古い時期のものであり、頭部がないことが、何の欠点でもないことは、指定文化財に向けても支障がない。時期は前
後するが、新潟県津南町上野遺跡中空大土偶は津南町指定文化財である。





                              令和元年(2019)7月11日記、7月23日更新。




 当該の上野遺跡の中空大土偶(石沢寅二氏所蔵と記す)を上図に掲載したが、これも深沢式土器文化圏を代表
する重要資料である。深沢遺跡中空大土偶と類似するが、頭部との接合状況は不明である。深沢Ⅰ式新相(縄文
中期前葉)かⅡ式土器(縄文中期前葉末~中葉初期)を前後する時期で縄文中期前半であることは報告書のとお
りである。深沢遺跡包含文化圏で、5点(津南町北林C遺跡、上越市和泉A遺跡と長峰遺跡の破片例もある)の中
空土偶が確認されていることは、至近距離の遺跡だけに、日本でも、珍しい現象である。このことの学術的価値は
衆目の一致するところである。因みに和泉A遺跡例は中期初頭の土器を伴うとされ、懸垂孔の位置からして鳥の羽
を刺したとは考えられない。深沢例とともに懸垂孔が注目されよう。

 なお、先述の猪瀬良平氏表面採集土偶については、本人が宝物として所蔵されていたが、文化財を一般に提供
したい旨の絶大なる決意から、令和元年(2019年)7月12日(金)飯山市に寄贈された。飯山市教育委員会は指
指定文化財に向けて熱意を示し、とりあえず飯山市ふるさと館で管理し、一般に公開したいとのことであった。
 猪瀬氏採集土偶は深沢遺跡文物では、貴重な位置を示す。深沢式土器や土偶すべてを一括して、指定文化財
に向けて、関係各位のご配慮をお願いしたい。
 先に記したように、深沢遺跡土偶は、今から4700年前を大きく前後する縄文中期前半に属し、土偶盛行期初頭
のもので、写実土偶萌芽期の様相や縄文文化そのものを探るうえで、学術的価値は計り知れない。文様や伴出関
係で、深沢式土器との併行時期も明らかであり、重要文化財級の中野市姥ヶ沢ビーナスの位置づけにも深沢遺跡
文物が基準となる。
 更に、深沢遺跡では結髪状土偶が数点あり、山形県寒河江市の石田遺跡例など、縄文晩期の結髪土偶は有名
であるが、縄文中期前半の深沢遺跡例は日本でも古いころの結髪状土偶である。このころの縄文時代時代の習
俗を探るうえでも深沢土偶は極めて貴重な資料である。深沢遺跡文物がいかに重要か、各位が誠意をもって、探
究していただけるなら、筆者の言が荒唐無稽でないことが、お分かりいただけるであろう。深沢遺跡文物が長野県
宝級のものであることは間違いない。
 深沢遺跡は、一部がすでに発掘調査無しで破壊された。ただし、地主さんらの好意で主要部分は残っている。猪
瀬良平氏の土偶寄贈をめぐる筆者らのパフォーマンスは、遺跡の重要性を周知していただけるために出過ぎたも
のではないことを自負している。今は過去の宣伝が足りなかったことを反省し、開発が及んだことを後悔している次
第である。
     (2019・7/22記、8/6更新、8/11更新、8/15更新)


参考文献:松澤芳宏2019・10月「写実土偶萌芽期の飯山市深沢遺跡土偶の意義」-仮称・深沢型土偶の提唱ー
       syazitudoguu.pdf へのリンク
 土偶の用途として、育児祈念も含める意見に同調し、深沢式土器と深沢型土偶の製作集団の同一性などについ
ても考察した。


          深沢遺跡中空大土偶の顔無し土偶説は早計
 深沢遺跡中空大土偶の頭部無し土偶説は早計である。肩部の穴が中空内部につながることは明らかだが、首と
の接合部分が欠けており、胴部以下が独立体のものか否か不明である。
 頭部の候補としては、深沢遺跡第3次発掘調査で、中空土偶破片と同層位で、しかも至近距離で発見された本稿
深沢遺跡土偶図の7番土偶頭部がある。赤褐色で焼成良好、雲母を若干含む胎土などは中空大土偶と同じである
。土偶の大きさから見ても、両者が一体であった可能性はあるが、胎土成分などの調査が未定であり、断定はでき
ない。将来の調査が待たれる。
 あるいは胴体と頭部が別個体で作られ、中空内部の用途が満たされたうえで、はめ込まれたことも念頭に置きた
い。あれだけ立派な土偶体部を考えると、それだけで土偶が存在したとは考えにくい。しかも深沢土偶ではすべて
の小土偶が頭部がついた土偶であったことが今までの資料では歴然としている。
 ちなみに、新潟県津南町上野遺跡土偶の貯金箱状の穿孔は、のちの復元によるもので、本稿に掲げてもある当
初の報告書の図面や写真によると、やはり頭部との接合状況は不明と言わざるを得ない。
 両遺跡中空土偶の頭部無し説は、学問的影響が大きいので、現段階では断定できないだろう。ただしそういう視
点もあることは注目べきことだろう。  (2020・3・14松澤芳宏追記)




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