1、はじめに
新潟県を中心として分布する縄文中期の火炎形土器とは聞きなれた言葉である。最近は火焔型土器と称
し土器様式として把握する動きがあるが、土器そのものは火炎の形を暗示させる意見があることから、形 の字を私は使っている。この土器の形は縄文時代のエネルギ−を感じさせ、美術的な評価は高まる一方で ある。
現在、火炎形土器の名称は、世間に一般化し、替えることが出来ない名称となっている。確かに雪国文
化圏から生まれた暖かさへの願望がこの土器にこめられているのかもしれない。しかし、悪い癖で、ここ でも私の中に、一つの疑問が湧き上がってくる。
この形はほんとうに火炎を表しているのだろうか?。私は直感的に、波を感じた。通常ならば口縁部に
平行して走る波形文様は波形隆起文とでも言うべきものだが、火焔型土器と称する研究者は鋸歯状突起と いう表現をしている。いうなれば火炎形という形にこだわり、波形という字を使いたくなかったのであろ う。
また、鶏頭冠把手とされる部分は波頭状把手と称してもよいと思う。信濃川の洪水時に現れる波頭、も
しくは日本海の波頭が縄文人の脳裏にきざまれ、東日本の隆起文土器とタイアップして、葛飾北斎の波の ような表現になったとも考えられる。このように波頭文と考える立場の研究者は多く、私が初めてではな い。たとえばインタ−ネット上の『万象酔歩』さんは波頭水紋土器と言っている。
波頭形隆起文が成立する時代背景は定住生活の助長からくる精神文化の高揚があろう。東日本の縄文中
期中葉の隆起文土器の成立背景のなかで、考えるべきことだ。
この波頭形土器(火炎形土器)の萌芽に関しては、飯山市大字蓮の深沢U式土器の口縁文様が重要な鍵
を握っていることはあまり周知されていない。故永峯光一先生は、すでに、昭和40年の深沢遺跡第3次 発掘調査の際に、講演会で火炎形土器との関係を話された。ただ、それが火炎形土器の萌芽か、影響か、 まだその頃の比較資料では断定できない状態であり、永峯先生は慎重な態度をとっていたと記憶する。
爾来、研究者の一部はそのことに注目していたが、具体的に火炎形土器の萌芽については語られること
はなかったと感じる。私は関東の五領ヶ台式土器の交互刺突鋸歯文が北信濃の深沢U式土器にも残存し、 文様の一部では渦巻文と重なって蛇身装飾文を成立させ、蛇のうねりを想像させる部分が波状にも見える ことに注目した(注1)。
その波形が深沢U式土器の深鉢形や円筒形土器の口縁部ではまさしく火炎形土器の鋸歯状突起(波形隆
起文)とされる部分に一致する。本稿ではこれらの関係を明らかにし、深沢式土器の再検討と併せて、研 究の視点として取り上げたい。
2、遺跡の発見と発掘・研究経過
本稿の表現に、いきなり深沢U式土器を登場させたが、それについては順をおって説明する。ただ、そ
の前に深沢遺跡の解説をせねばならない。飯山市大字蓮の深沢遺跡は小・中学生時代に私が考古学に係わ った思い出の遺跡である(注2)。まだ、そのころは『信濃史料』の『信濃考古総覧』にも記載がない未 知の遺跡であった。その遺跡の畑を、私を含めた飯山市立秋津中学校の生徒達が遺物の表面採集をしてい たのである。
そんな中で数年間過ぎると、中学生の猪瀬良平君が頭から胴部を完存する土偶を発見し、当時、長野県
立飯山北高校地歴部であった私も2点の土偶を発見した(注3)。私が飯山地方の考古学の先駆者である 神田五六・桐原健・高橋桂の各先生に紹介すると、先生方も大変興味を示された。
当時、発掘調査は地方では高校生が主力となっていた時期であったから、飯山北高校地歴部を主体に飯
山南高校生も加わり、神田五六・高橋桂先生を調査担当者として昭和38年から、3年間発掘調査が行わ れた(地主小山松太郎氏)。
調査期間中に神田五六先生が残念にもご逝去なされ、第3次発掘では永峯光一・野口義麿両先生も指導
に見えられ、国学院大学生の小林重義・土屋長久・木村幾太郎氏の参加もあった。その後、飯山北高地歴 部では調査概報が発表され(注4)、調査は一応の区切りを迎えたが、詳細な研究はその後にゆだねられ た。
深沢式土器には、多くの研究者がその設定の必要性を感じていたが、比較資料の少なさからくる分析の
難しさから、手をつけられずにいたが、『長野県史』の編纂によって考古資料の紹介があり、西沢隆治氏 が深沢遺跡を担当し、深沢遺跡出土土器を分析した(注5)。資料の提供については私も一役買っていた が、分析については西沢氏の見解がほとんどである。
その後、中野市姥ケ沢遺跡から深沢式土器の良好な資料が発見され(注6)、また、『飯山市誌歴史編
上』では黒岩隆氏が深沢式土器や飯山地方の縄文中期文化について詳述しており、特に深沢式の古い部分 に相当する中期前葉の土器群を飯山市域で見いだしており、深沢式土器の理解に役立つ(注7)。また、 寺内隆夫氏は北信州から北陸地方にかけての深沢土器様式の展開を試みた(注8)。
ただ、総じて思うことは、深沢遺跡の発掘資料の遺構群ごとの分析が不十分であり、その点、未熟な高
校生からではあるが、発掘当初から、研究に携わってきた経過から、深沢式土器の資料の扱い方について ここで明らかにしておきたい。そうした上に立っての深沢式土器の設定は、充分、意義のあるものであろ う。
3、深沢式土器の設定
なぜ、深沢式土器を設定するか、それは深沢遺跡の土器が関東地方の五領ヶ台式・阿玉台式・勝坂式や
中部地方の狢沢・新道式、北陸の新保・新崎式土器群とは多少の類似はあるが、まったく別世界の土器様 式であるからだ。
基本的には縄文中期前葉の五領ヶ台式の後半前後併行の土器(深沢T式)から前葉末〜中葉の初期、換
言すれば五領ヶ台式末期から狢沢・新道様式前後の時期に併行するものがある(深沢U式)。新道式につ いては狢沢式を包含するという見方あったが(注9)、最近は狢沢から新道式の編年案が一般化した。但 し、私は後述するように狢沢・新道様式と捉え、これを分離することを控えている。
深沢式土器は北陸地方の縄文中期前葉の新崎式土器の器形や文様を受け継ぎ、中部山岳地帯や関東地方
あるいは新潟県地方や東北南部地方といった土器群と間接的な影響関係にあり、深沢式土器の分析が、関 東・中部・北陸地方の縄文中期前半の土器の関係に多大な影響を及ぼすと思われる。
さて、最初に深沢式土器の分析をした西沢隆治氏は、深沢出土土器を1 〜3類に分類しているが(注5
に同じ)、2類3類は筆者も加わった第1次発掘の1号住居址的遺構や第2次発掘の2号住居址から一括 出土したものが含まれ、同一年代における器の種類による縄文の有無の違いだけで、2類3類は同一年代 のものがあると見たい。
従って、私は深沢式土器を設定し、先に記したように、T式U式と分類したい。深沢T式(第2図)は
西沢氏の深沢1類が下島式直後型式とする見解をはずし、関東の五領ヶ台式後半前後の併行期に該当する ものを充て、縄文中期前葉に所属するとみたい。その理由については後記する。
因みに五領ヶ台式土器は一般的には中期初頭の型式とされているが、多くの細分化が検討される今日、
中期初頭とは言い切れない部分もあり、私は中期初頭〜前葉と把握する見方に賛成したい。
この中で中期初頭にふさわしい口縁から頸部にかけての二段膨らみの深鉢形土器(梨久保式土器に特徴
的)が深沢発掘資料では見られないことから、深沢T式土器を五領ヶ台式の後半前後の併行期としたわけ である。また、その方が深沢U式への連続性を説明しやすい。
イ、深沢T式(第2図)
縄文中期前葉の関東の五領ヶ台式後半や、北陸の新崎式土器前後の時期に併行するものを深沢T式
とする。T式土器は深沢遺跡発掘資料では少量であり、器種の分化は明らかでない。現在は口縁付近がく の字形に折れる中型深鉢と小型の円筒形の器形が判明している。
このうち第2図の2は小型の円筒形で、文様観察では前期末の踊場式的な半截(はんせつ)竹管重構成
文の伝統を残している。横帯・縦帯の半截竹管複合文と縦帯羽状半截竹管文より成り、口縁部に微小突起 がある。
飯山市須多ケ峯遺跡でも、この土器に、口縁部の微小突起と横位の半截竹管文が類似する土器が見つか
っており(第3図の3)、そこにはU字形半截竹管文も付加されているし、他に撚糸文の平縁深鉢形土器 の完形品や木目状撚糸文土器深鉢もある(第3図5・6)。これらは、北陸の新保・新崎式(縄文中期前 葉)に類似すると指摘されている(注10)。
また、第3図の2に示す飯山市瑞穂豊の上の原遺跡例もやはり深沢T式の第2図2の部類に属するもの
であろう。2図の2とは施文構成は異なるが、前期末の踊場式的な羽状細密半截竹管文をびっしり施文し ている(注11)。ただ深沢T式・須多ケ峯・上の原例の時間的前後関係を短絡的な文様変化のみで詳述 することは、慎まなければならず、これらの類は他の新保・新崎式類似土器と大きな意味では同一時期と 考えられるものであり、大きな枠のなかでの文様の変化を求めるのが良策だと思う。深沢T式の第2図の 2は一見、前期末に近いようにみえるが、2図の3のような五領ヶ台式の後半前後の文様構成と近似し、 口縁部の片側急傾斜微小突起も新崎式に類似し、新崎(にんざき)式併行と考えられる。
深沢T式の第2図の2は、1・3・4にも通用する文様構成の横帯・縦帯の規格化があり、口縁から頚
部にかけての横帯や胴部の縦帯構成の規格化は深沢式を通じての大きな特徴であり、北陸や中部・関東の 中期中葉前後の自由闊達な文様構成とは明らかな違いがある。ここに、深沢式を設定する第一の意義があ る。なお、横帯・縦帯文の規格化は五領ヶ台式後半期や新崎式にも見られるが、それを顕著に表している ものが深沢T式土器といえる。但し、横帯・縦帯文様構成の規格化は、飯山市須多ケ峯遺跡では、それほ ど顕著ではないことは、深沢T式の古相と須多ケ峯例が併行関係にあり、深沢T式新相から横帯・縦帯文 様構成が増加し、それらの規格化が深沢U式に盛期を迎えることは後記する。
次いで、第2図の1は深沢4号住居址床面密着で、同じ床面から手を省略した完形小土偶が出ている。
2図1は五領ヶ台式U期(注12)とされる山梨県上平出遺跡例の横帯・縦帯文の構成と器形に似た例で はあるが(注13)、横帯・縦帯の半截竹管半隆起線文が始まっており、さらに羽状の沈線文が付加され るなど、上平出遺跡例よりも新しい五領ヶ台式の後半に併行するものだろう。
この羽状の沈線文は、先の2図の2の土器の細密半截竹管文の構成と似ており、その影響下で生まれた
土器で新しい要素であるが、横帯・縦帯構成と羽状文の構成が近似しており、両者の時期はそれほど遠い 時期とは思われない。
また、2図の4は4号住居址の覆土の高い位置で出土したもので、横帯・縦帯の半截竹管文の間には単
節斜縄文が施される。口縁部では新崎式の蓮華文から変化し、半截竹管縦列文となっており、この文様は のち、深沢U式に盛期を迎える。また、交互刺突鋸歯文を密に配置し、一見すると深沢式土器のなかでは 最も五領ヶ台式に近い例にも見える。
ただし、交互刺突鋸歯文は北陸の前期末には多用される文様で、地理的位置が近い深沢式土器にも多用
されることは、むしろこの地方の特徴であって、新潟県津南町上野(いわの)式土器も五領ヶ台式に近い ように見えるのは、中部・関東地方にも多用された、交互刺突鋸歯文の使用地帯にあるということであろ う。
また上野式には深沢T式の新相ともとれる完形土器に近い例もあり、横帯・縦帯文様構成の中に 深沢
型隆起垂下文(6字形付隆起垂下文=しの字形継手付隆起垂下文・渦巻き付隆起垂下文・くの字形付垂 下文が付くものを呼称する)のうち、しの字形継ぎ手付隆起垂下文を基軸とした文様構成と、胴部以下 の縄文がある(第3図8、第7図の6)。横帯半截竹管文には交互刺突鋸歯文が多用され、一見、五領ヶ 台式に見えるが、文様構成は深沢式土器であり純粋な五領ヶ台式土器ではない。五領ヶ台式後半〜末期 に併行しよう。
上野遺跡では、他にいくつかの深沢型隆起垂下文土器があることからすれば、深沢T式新相では、すで
に、深沢型隆起垂下文の萌芽が若干あるとみられる。6字形付隆起垂下文は五領ヶ台式・新崎式の6字形 文や6字形隆起文との関連があり、6字形文は深沢型隆起垂下文の萌芽と見られるものである。
すでに富山・新潟県の新崎式に、6字形文から発展したところの、隆起していない深沢型垂下文と付随
する文様もあり(第4図7・第7図1〜3)、新崎式文様が深沢式文様に発展していることは明らかだ。 新崎式の発展文様は深沢U式にも見出される(第6図4)。
上野式土器群は新崎式土器様式を含みつつも、新崎式から脱却し深沢T式新相に移行する過程の土器群
も含まれるとみたい。まさに、深沢T式と併行するのが上野(いわの)式土器である。
因みに、五領ヶ台式土器は、V期ぐらいに細分されてはいるが(注14)、U期とされる器形が北信か
ら新潟県南部ではV期以降に残り、V期とされる文様の一部が当地方では見いだせないという珍現象が生 じている。現段階では五領ヶ台式の細分化は当地方にあてはまらず、単に式の前半とか後半という表記に とどめておく。
なお、深沢4号住居址では床面に密着して第2図の1の土器と共に高さ5.6pの完形土偶が出土して
いる(第2図の5)。縄文中期前葉の土偶ということは、縄文中期に急増する土偶の初期のものである。 この土偶が、手を省略し、乳房と妊娠状態の腹部、さらに、正中線(せいちゅうせん)を表現しているこ とは、本来の土偶の用途を解く上で重要な資料であろう。
関東地方では、五領ヶ台式の新しい段階から土偶の数が増えるという傾向が指摘されることから(注1
5)、深沢T式土器の所属時期と一致し、土偶祭祀の流行時期の始まりや用途を考える上で、深沢4号住 居址の完形土偶は重要なものである。
以上、深沢T式は、横帯・縦帯文の規格化が始まる時期で、深沢型隆起垂下文はまだ多くはなく、その
前兆の直線的隆起垂下文が多く見られる時期である。
ただ先記したように、第2図の2のように踊場式的な細密半截竹管文の残存があるものの、2図の3が
東京都秋川市の前田耕地遺跡7号住居址出土土器の五領ヶ台式後半の土器群の横帯・縦帯半截竹管文の構 成(注16)と親縁性があることなどと併せて考えるべきだ。
すなわち、2図の2と3は横帯・縦帯半截竹管文の構成と口縁部の微小突起に類似性があり、五領ヶ台
式の後半期に併行し、北陸の新崎式の一部の時期に併行するものだろう。
新潟県上越市吉川の長峰遺跡(注17)では新崎式の蓮華文に付随して口縁部の微小突起がみられ(第
4図1・2)、やはり深沢T式は関東の五領ヶ台式後半と北陸の新崎式の併行時期前後にあたると考えら れる。飯山市瑞穂の上の原遺跡例(第3図の2)のように口縁部に馬蹄形文様がある例は、のちの深沢U 式に通有であるかぎり、その萌芽であり、文様の系列は踊場式的でも、踊場式から下降した年代が求めら れる。縄文中期前葉の新崎式の範囲内併行と考えられよう。
このように、深沢T式は新崎式の一時期併行と思われるが、深沢遺跡発掘資料では主体的ではない。飯
山市では新保・新崎式類似土器群は、須多ケ峯遺跡の楕円形住居址から出土し、深沢T式古相前後に併行 し、その須多ケ峯住居址からは深沢T式の新相から深沢U式古相に架かる土器の出土はない。
従って、先に記したように、五領ヶ台式前半の梨久保式前後の口縁以下が2段膨らみの土器が深沢では
みられないことと相俟って、深沢T式は関東の五領ヶ台式の後半前後の併行時期に求められ、縄文中期前 葉に所属する。北陸では新崎式、新潟県南部では上野(いわの)式の時期内に深沢T式が該当するとみた い。
北陸や北信濃の地域相から見る限り、新保・新崎式期は煩雑な文様構成のものが大部分であり、深沢T
式の古相は新崎式期の盛期であるが、第2図1・4の土器のように、T式新相になると、煩雑な文様構成 から抜け出す。その点、深沢T式土器は文様構成の規格化が始まり、後記する深沢U式に至って規格化が 大きく浸透することが大略的に重要なことだ。なお、慎重を期すと、深沢T式古相と新相が同一時期とし て、伴う可能性も遺構によっては現れることを予期したい。
北陸地域が深沢T式新相の時期に、そのまま新崎式を継続しているのかについては、北陸では上山田・
古府式といった中期中葉の土器型式があり(注18)、その中には新崎式文様を受け継ぐものもあり、深 沢型隆起垂下文構成に近い部分もあるので、深沢T式新相が新崎式後半に併行しよう。
新潟県南部地方では津南町上野遺跡・上越市長峰遺跡の例から深沢式土器の分布範囲にあることが明白
であり、長野県北部と新潟県南部地方が深沢式土器の発祥と繁栄に係わる地域であろう。
なお、何といっても、深沢式土器を象徴するのは深沢型隆起垂下文であり、これが繁栄するのは深沢U
式土器ではあるが、深沢T式の新相段階に深沢型隆起垂下文の初出があることは先記したとおりである。
ロ、深沢U式(第5図・第6図)
深沢U式は西沢氏の深沢2類3類に該当し、縄文中期前葉末から中葉初期に架かる時期と推定するも
のを充てる。関東でいえば五領ヶ台式末期〜勝坂式様式初頭の時期である。所属時期推定の理由について は順次説明してゆく。深沢U式は第1次・第2次発掘の1号住居址的遺構・2号住居址(第1図)に良好 な一括資料があり、住居址廃絶後に遺物群が廃棄されたものである。当然、それは、厳密にはやや年代幅 があるが、1型式を超えるような年代ではないと考えられる。床面に近い例、また1号住居址的遺構に明 らかなように廃絶住居址的遺構の窪地の斜面に廃棄(第1図)された例も含めて、ここでは一括資料とし て扱うことにする。
なお、筆者が参加していたのは第1次と第3次の発掘調査であり、第2次の2号住居址遺物群について
は『深沢遺跡研究概報』と第2次発掘調査の調査者からの聞き取りを参考とした。
まず、深沢U式の古相と思われる土器群が多いのは第2次調査の深沢2号住居址に一括廃棄された遺物
群であろう。2号住居址は径6m前後の円形系住居址で、ロ−ム層まで床面が達していないので壁面は明 らかでない。その床面からやや浮いた面に多量の土器片・石器・土偶が出土している(第1図写真)。
第6図1に示す口縁くの字形の深鉢形土器は、胴部から底部は1号住居址的遺構から出土し、口縁から
頸部は2号住居址から出土し、1号址・2号住居址は同一時期の遺物廃棄が想定できる。また、2号住居 址の蛇身装飾文(5図の9)は、1号址の蛇身装飾文(6図の3・5・6)と共通したものである。従っ て、深沢U式の第5・6図は大きな意味で同一時期と目されるもので、さらに細分化し、U式・V式とす べきではない。
深沢U式は高さ50cmを超える大型の深鉢形やカメ形土器が出現しているなかで、小型のコップ状土器
や、隆起線・半截竹管半隆起線・半截竹管文で飾られた小型深鉢もある。大型の土器群は斜縄文や羽状縄 文が多用されるものと、横帯・縦帯の隆起線や半截竹管半隆起文と半截竹管文で飾られ、胴部以下に単節 羽状縄文や単節斜縄文を施すものがあり、概して粗製のものが多い。
これに対し、小型の深鉢形土器は土器底部まで隆起線・半截竹管半隆起文・半截竹管文などで、びっし
りと埋め尽くされたものが多い。これらは飾られた土器であり、器種の分化が強くなっている。
深沢T式の時期は新崎式とも関連し、深鉢形土器では高さ30〜40p前後のものが多いのに、深沢U
式では高さ50〜60p前後のものがある。ただ、小型深鉢の縄文を消失し、半截竹管文他が多用された 有様は、新崎式の伝統を受け継いだもので、深沢式U式土器の新旧を決定するものではない。文様自 体は新崎式よりも隆起渦巻文が増え、且つ縦帯・横帯の文様構成の規格化があることは、深沢U式の大き な特徴である(第5図10・14、6図5・7)。
第6図の5などは、中部高地の新道式前後の小型深鉢の器形と類似したものだし、後代の火炎型(形)
土器の飾られた深鉢の器形に受け継ぐ要素が始まっている。第5図9や6図3・5・6に示す蛇身装飾を 含んだ波形文も火炎型土器の萌芽の文様だ。この時期に隆起文が増える傾向があるのは関東や中部高地の 勝坂式文化圏の隆起文の萌芽と期を一にしたものだろう。
大型・中型の深鉢形やカメ形土器における横帯・縦帯の半截竹管文構成のなかに数条の半截竹管半隆起
文や隆起線文が基軸となっていることは深沢U式の大きな特徴であり、そこにいくつかの6字形隆起文(5 図の5・6)や深沢型渦巻文(5図の2・4・9・13他)がアクセントとして加わっており、統一感が あり、美術的なセンスが縄文時代にあったことを示す。
頸部の横帯無文帯も器面の文様構成の複雑化を防ぐ心憎い配慮である。第5図の5や6の6字形隆起文
は新崎式系土器(7図の4)や五領ヶ台式土器の6字形文の伝統を継いだもので、深沢U式では隆起が進 み、深沢型隆起垂下文の6字形付隆起垂下文や渦巻き付隆起垂下文の出現に6字形文がヒントになってい ることは明らかである(5図の4が参考)。また、これら渦巻き文は口縁部や頸部では横帯するものもあ り、深沢型渦巻き文で総称したい。
ところで、第5図の3については、器形や文様構成が深沢T式的だが、U式新相的な9と伴出し、U式
であり、2・5・8と共にU式古相とする。5図3の隆起垂下文に付随した半同心円構成半截竹管文は第 6図の4(1号住居址的遺構出土)と類似したものであり、さらに、5図3に似た例として中野市姥ヶ沢 遺跡例(第18図1)では蛇身装飾をも伴っており(注6に同じ)、両者は深沢U式であろう。
ここで、深沢U式土器の説明に関連し、1号住居址的遺構(出土土器などは第6図)としたのは、『概
報』に昭和38年12月8日に見つかった約6個体横体土器群とした地点のことをいう(位置は本稿第1 図)。6個体以外、西端(『深沢遺跡研究概報』7頁に遺物群両端としたのは西端の誤植)から斜縄文・ 羽状縄文のカメ形土器と深鉢形土器片や底部破片、先端を欠いた定角式(ていかくしき)磨製石斧が出土 している。これら横体土器群の南端から乳房の明瞭な土偶が出土し、北か東方の土器群端部で5cmに満 たない小土偶の下半部が、うっかりスコップで掘りあげられた。ただし、二つの小土偶がこの土器群に伴 うことは明らかである(第6図)。なお、6個体としたなかで復元が難しく完了していない土器があり、 図示されてはいない。
1号址を住居址的としたのは柱穴や焼土が明確でないものの、径4m前後の遺物密集地であり、柱穴や
焼土がロ−ム層まで達しなかったものと判断したためである。そこが竪穴遺構の窪地となっていたことは 明らかで、西端に投げ込まれた傾斜した土器群はそのことを示している。あるいは貯蔵施設のようなもの かもしれない。この他、4号住居址の北端については貯蔵施設の可能性がある。
再び、6図の1については2号住居址の5図の2・3と共通する典型的深鉢形土器でくの字形隆起垂下
文が頸部以下に施される。隆起垂下文の周りの、半截竹管文の施文構成は、6図4の深鉢の構成と似てお り、馬蹄形文もあるが、この文様については新崎式のU字形文が変化したものとも思われる。馬蹄形文に ついては6図の6に顕著である。
6図4・6も円筒形の深鉢形土器で、4はややカメ形に近い例だ。共に横帯・縦帯の文様構成があり、
胴部以下に単節斜縄文が施される。6はS字状結節斜縄文となっている。ともに頸部に横帯の無文帯があ り、文様の煩雑さを救っている。
4の深沢型隆起垂下文に半同心円構成半截竹管文が付随する例は、5図の3のU式古相ともとれる深鉢
形土器のそれと近似し、両者が深沢U式の範囲内にあることを示す。第6図6については深沢型渦巻き文 と交互刺突鋸歯文が合体した蛇身装飾文が顕著であり、蛇の下半身を思わせる波形文は口縁部で発達し、 のちの火焔型土器様式の鋸歯状突起の萌芽であろう。鋸歯状突起は波形文と私は呼称する(第8図)。
6図2・3は縄文土器の分類では深鉢形土器であるが、この場合むしろカメに近いので、カメ形土器と
呼称する。2のように羽状縄文で埋め尽くし、横帯の深沢型渦巻き文は蛇身装飾のように変化しているも のもある。
6図3はやはり横帯・縦帯の文様構成の規格化があり、頸部と胴部の無文帯の設定は深沢U式では煩瑣
に行われる。3の頚部に交互刺突鋸歯文があるが、それが隆起線と重なると、波状になり、深沢型渦巻き 文と重なって、やはり蛇身装飾となっている。口縁部にその典型が現れている。
6図5・7は5図10・14などと同じ小型の深鉢でこれらの深鉢は器面全体に隆起線や半截竹管文で
埋め尽くすものが多い。これらは飾られた器であり、新崎式土器が総じて小型・中型の深鉢が多く、器面 全体を縄文以外の文様で埋め尽くす例が多い(第7図2・3及び16図など)ことなどの系譜であろう。
従って、深沢U式において、大型の深鉢形土器については縄文が多く、小型の深鉢形土器については、
縄文以外の文様でびっしり施されることは型式の違いではなく、一時期における大型・小型土器のそれぞ れの文様構成の違いであることを再確認したい。深沢式土器を大きく、T式U式とする大いなる理由であ る。
なお、第5図15・17・18は五領ヶ台式後半併行でもよさそうであるが、新崎式の玉抱き三叉文が
発展した穴抱き・渦巻き抱き三叉文があり、三叉文の小尾が長く引きずり、直線化する特徴もあり、新し い要素である。第9図5などの、深沢U式と推定の上越市長峰遺跡例などの関連性があろう。
これに反し第3図7のような五領ヶ台式後半併行の新崎式盛期の土器には原初的な玉抱き三叉文がみら
れる。これは深沢T式の併行時期であるので、第5図15・17・18は深沢T式新相から深沢U式と考 えておく。
なお、深沢遺跡では阿玉式系の前半前後の併行時期の高さ30cmを超える深鉢形土器が出土してい
る(第10図)。『深沢遺跡研究概報』では第5トレンチ1区から2区にかけての傾斜した茶褐色土層か ら、阿玉台式土器が出土したとされている。茶褐色土層は乾くと灰褐色になり、第5トレンチの南壁の断 面図に灰褐色土とあるのがそれである。
この土層は3号住居址の東端に西に傾斜した斜面を作り、流入土と考えられる。この土層中の上面に傾
斜したまま発見されたのが阿玉台式系土器である。柱穴出土の土器(第2図の3)により、3号住居址は 深沢T式の時期と推定され、住居址廃絶後の流入土の時期に投入されたのが第10図の土器である。
さらに、第11図の3号住居址と記入した拡張区の黒色土層(3号住居址覆土)より第5図11の深沢U
式の円筒形土器が出土した。この黒色土層は灰褐色土層の上の層であり、阿玉台式系土器とは若干の時間 差がある。
従って第10図の阿玉台式前半系土器は五領ヶ台式後半併行の深沢T式時期住居址の廃絶後、深沢U式
に架かる時期のいずれかの所産であるとしておきたい。縄文中期前葉〜中葉初期と把握したい。それ以上 は学問的影響が大きいので断定できない。
ハ、深沢U式と狢沢・新道式土器の併行関係
因みに、中野市姥ヶ沢遺跡B地区では深沢U式土器も出土する一帯に、多くの阿玉台式系土器が出土し
ており、その中には深沢式にみられる口縁部文様が見られるものがあり(第18図の6)、深沢式に伴う 阿玉台式系土器がこの地方で変容した種類であるという説(注5に同じ)を支持するものかもしれず、胎 土成分などの分析が待たれるところである。
阿玉台式系土器は中部高地では狢沢式土器との関連性が求められるが、狢沢式は新道式に包含されるか
もしれないという意見があり、簡単に新道式から狢沢式に編年する危険性を指摘した意見は、尊重される (注19)。同じ土器型式の時間帯にあっても、新旧の住居址の前後関係は成立することを念頭に置くべ きだ。狢沢式から新道式に逆転するという意見も、両者が近い年代にあり、切りあい関係でたまたま逆 転したような感じに土器群の構成がみられているにすぎないのかもしれない。
第14図のように山梨県酒呑場遺跡では、上段は中葉T−1期、下段は中葉T−2期のいずれも狢沢式
期と説明されている土器群がある。2は新崎式類似と指摘されている。私見では、2は新崎式末期系で、 深沢T式の新相前後に併行し、五領ヶ台式末期併行でもある。4は五領ヶ台式的残影土器で、深沢U式併 行。6は連続三角区画文構成があり、五領ヶ台式的残影文様でもある。4・6は新道式的文様構成の始 まりでもある。14図1の段階は区画隆起連続文がなく、狢沢式に含めず、単に阿玉台式系というのみで あろう。5の狢沢式の波形状口縁も五領ヶ台式的残影に過ぎないが、一般的には、狢沢式の典型とされて いる。
第14図付図の原村大石遺跡22号住居址出土土器も、現在ならば、狢沢式と片付けられる資料である
が、14図付図4のように五領ヶ台式的な三角区画連続隆起線文があり、この文様は新道式土器の特長的 文様とされてきたものである。
また、1は新崎式末期前後土器の影響がみられ、6とともに波形突起文口縁をなすことは、深沢U式の
前兆文様である。7も新崎式の影響がみられる。1の横帯する平行半截竹管半隆起文構成は新道式の特徴 でもある。2と5は22号住居址期の平出第V類A式土器である。3の種類を除けば積極的に狢沢式と 分類されるものは無い。22号住居址土器は全体的には、まだ、隆起文の度合いが少なく、新道式的要素 でも古段階にあたるものである。
22号住居址例を、狢沢式として新道式の新段階要素(隆起文が発達してくる)の新道式を比べたら、
机上では、狢沢式から新道式に編年が成立するし、住居址の切りあい関係も当然そうなるであろう。しか し、新道式を三角区画連続隆起線文で特長づけるならば、その要素はすでに五領ヶ台式後半からの連続性 があるのである。
また、楕円形区画連続隆起線文を狢沢式の特長とするならば、その傾向は次期の藤内式土器にも多く現
れている。新道式的とされる三角区画連続隆起文も藤内式に残存している。こうしてみれば、三角区画・ 楕円区画隆起線文とも、共存する時期は必ずあり、共存状態の中でも、隆起文の度合いが深まるのが狢 沢・新道様式の新相(新段階)であると解釈すべきである(山梨県身延町お宮横遺跡1号住居址例)。
狢沢式・新道式を正確に分離することは難しく、たとえ住居址の切りあい関係で、狢沢式・新道式要素
の前後関係がみえても、狢沢式から新道式を唱えるのは危険である。すべての遺構の土器がその時期のす べての構成要素を満たしているわけでもないことは周知されているはずである。
なお、狢沢式が新道式に先行するという一つの現象ついては、狢沢式古段階として、阿玉台式に特徴的
な襞(ひだ)状圧痕(整形痕跡)を有するものをも拾い出したものであって、確かに五領ヶ台式の末期 併行ごろから認められるものである。一見、狢沢式が新道式に先行するような錯覚 に陥るが、まだ狢 沢式に特徴的な楕円形区画隆起連続文が登場していない。これらの類は狢沢式に含めず、単に阿玉台式的 土器整形痕の出現とすべきである。14図1のような、コの字形連続文の例も狢沢式に含めるべきではな い。
一方、狢沢式に併行して、依然として五領ヶ台式的文様の残影があり、むしろ新道式の三角区画連続隆
起文と三角印刻文・玉抱き三叉文などに、五領ヶ台式的残影が強く存在するのである。五領ヶ台式的残影 は第19図1の深沢遺跡表面採集資料中の三角印刻文土器にもあり、深沢T式新相からU式にかけての時 期に伴うものであろう。
その他、長野県飯綱町の上赤塩遺跡でも深沢T式新相ごろから襞状文が逆6字形隆起文と同一個体で認
められるものがある(注24文献)。それらは五領ヶ台式末期前後の時期、いうなれば新崎式末期前後の時 期である。また、第14図付図のUには上赤塩遺跡SB5号住居址出土土器の図を転載してあるが、やはり 新崎式末期併行の時期である。
この土器には深沢U式の前兆とも思える6字形付隆起垂下文があるが、深沢U式ほど整っておらず、深
沢T式新相前後に比定できるものである。他に、口縁部の微小波形連続文(深沢U式の前兆文様)と襞状 圧痕を有する土器、五領ヶ台式的な椀形区画連続隆起文が、楕円形区画連続隆起文に変化してゆく過程の 土器片群などがあり、貴重な資料である。
SB5号住居址例は、一見、狢沢式古段階に含められそうではあるが、まだ完成した連続区画文になって
おらず、狢沢・新道様式直前併行としたい。ただ、阿玉台式古段階の様相が及び始めたことは、間違いな く、単に中部高地からの影響とするか、関東圏からの影響とみるか、それとも中部関東圏一体的な現象か 直ちに即断できない状況となっている。
また、上赤塩遺跡の例では区画文帯があり、隆起文の度合いが増す土器がある。深沢U式かそれ以降に
併行するものであろう(第23図の30・31・34)。その中には深沢型6字形隆起文や、深沢型渦巻 き文が見えるものがあり、狢沢・新道様式併行期の深沢地域圏での変容例と思われる。特に31の口縁を をみれば、中部高地を経ないでくる関東圏の阿玉台式前半系土器の影響が色濃い。
ついで、30などは狢沢式とも新道式とも判断しかねるが、31・34を含め狢沢・新道様式の新段階
併行と解釈すれば間違いないのではないか?。30を狢沢式と仮定すると、器形や隆起文の度合いが新道 式新段階に似たものがあり、新道式古段階様相を認めれば、狢沢〜新道式編年が逆転することになり、大 きな矛盾を生じる。
また、阿玉台式様相の襞状文土器を狢沢式土器というのであれば五領ヶ台式残影文様の土器もすべて新
道式に包括されるべきであろうが、そうあるべきではない。私は初期段階襞状文をも狢沢式にすべて包括 する意見に強く反対である。つまり、狢沢式・新道式は共存状態があり(山梨県長坂町・石原田北遺跡な どが好例)、狢沢・新道式混乱状態は、すべて大きな枠で捉えるのが良策であろう。深沢U式が狢沢・ 新道様式内の1時期に比定するこれまでの見解は正しいと思っている。
従って、やはり狢沢式・新道式を積極的に分離することは出来ず、狢沢・新道様式として、現在は扱
うことがよいと思われる。隆起文に沿った角押文・三角押文・キャタビラ−文などは副次的な意匠で あり、狢沢・新道様式の各段階の傾向とみれば問題がない。それを、狢沢式・新道式の特徴として分ける のは本筋ではない。
ニ、深沢U式の土偶
深沢U式に伴う土偶は、2号住居址より半截竹管文と渦巻き沈線文の土偶胴脚部各1点とハ−ト形の土
偶頭部1点が出土し、3号住居址覆土(黒色土層)から渦巻き沈線文土偶脚部1点が出土している(第5 図)。土偶2点の渦巻き沈線文は5図15・17に示す土器の、渦巻き抱き三叉沈線文の一部と文様意匠 が同一であり、この種土偶の時期も深沢T式新相からU式の時期とみられる。
2号住居址は深沢U式期であり、3号住居址の覆土(黒色土層)からも深沢U式の円筒形深鉢(第5図
11)が出土していることは前にも述べた。2号住居址の土偶頭部は、住居址南隅の深い溝の底から出土 し、土偶の儀礼を探る上で、藤森栄一氏が注目されたこともある。この他、1号住居址的遺構から妊娠状 態の小土偶が2個発掘されたが(第6図)、文様は簡素なものであった。しかし、それが、深沢U式期す べての様相を示しているわけでもない。
また、4号住居址の覆土(黒色土層)上面、耕土層直下より、ばらばらな状態で、中空大土偶が発見さ
れたが、当時、筆者が土偶と指摘したが、大勢は土器片と判断されたため、取り上げられた。
但し、深沢T式新相の、4号住居址の覆土の、かなり高い位置の出土であることは間違いなく(第11
図の土層断面図)、深沢U式を前後する土偶であることは理解されよう。この土偶の妊娠状態腹部の文様 構成(第15図)は深沢U式期の2号住居址出土の土偶下半身(第5図)と類似することからも、この想 定が許されよう。
中空大土偶は、津南町上野遺跡出土の縄文中期前半とされる中空大土偶(注20)と文様構成が似てお
り、両者は近い年代が推定されるが、深沢大土偶は深沢U式期と推定される。上野遺跡には深沢T式新相 の土器様式も含まれるので、上野例は深沢T式新相前後が妥当かもしれないが、この大土偶は発掘調査時 の資料ではなく既出資料であり、上野遺跡自体が深沢U式を含むか判明していないので、深沢U式である 可能性も残される。五領ヶ台式後半から直後時期の併行であり、上野遺跡大土偶の中期前半との位置づけ は妥当であろう。
ただし、深沢大土偶は深沢U式としたので、これらの中空土偶様式は深沢T式新相からU式を前後とす
る時期に盛行したものと理解しておく。縄文中期前葉末から中葉初期に架かる時期と推定され、縄文中期 前半であることは間違いない。
深沢中空大土偶は土偶研究には極めて貴重な資料であり、腕部上面から下面にかけて径4mmの懸垂孔
があり、しかも腕部付け根から首にかかる部位に中空の内部に繋がる穴がある。とすれば、頭部との接続 はどうなっていたのか、はめ込み式であったのか、想像の域を出ないが、内部の中空に重要な用途があっ たことは否めない。胎盤・へその緒・幼児骨・堅果類などの納入は可能であり、今後の課題である。
なお、土偶の製法は輪積法であり、内部ではその跡が顕著である。外面には乳房剥落の痕跡があり、腹
部が膨らみ、妊娠女性像であることを示す。赤褐色で焼成良好、雲母を若干混入する。文様は半截竹管文 で飾られ、手のような文様もある。側面には半截竹管による渦巻き文もある。半截竹管文の諸所に飾られ る列点文は深沢U式土器でも通有文様となっている。
以上、深沢式土器の記述から脱線し、土偶について詳述したが、深沢式との関係について、あまり語ら
れることがないので、この際、愚見を述べたまでである。
4、深沢式土器要約
前項で深沢式土器の設定理由や時期・土偶との併行関係など詳述してきたが、やや煩雑であるためにこ
こに要約する。
深沢T式は縄文中期前葉の関東地方の五領ヶ台式後半や北陸地方の新崎式土器前後の時期に併行する
ものを充てる。T式土器は深沢遺跡発掘資料では少量であり、器種の分化は明らかでない。現在は口縁付 近がくの字形に折れる中型深鉢と小型の円筒形の器形が判明している。
このうち小型の円筒形深鉢では、前期末の踊場式的な半截竹管重構成文の伝統を残しているものがある
が、横帯・縦帯の構成であり、口縁部に微小突起があることなど、縄文中期初頭ではなく、縄文中期前 葉の新崎式土器に類似すると推定した。この他、中期前葉の五領ヶ台式後半に類似する横帯・縦帯構成 の半截竹管文と単節斜縄文がある土器もあるが、同じく口縁部に微小突起があり、新崎式土器と同時期で あることは明らかである。これら2点の土器は深沢T式でも古相とした。
近隣の飯山市須多ケ峯遺跡でも、これらの土器に、口縁部の微小突起と横位の半截竹管文が類似する土
器が見つかっており、そこにはU字形半截竹管文も付加されているし、他に撚糸文の平縁深鉢形土器の完 形品や木目状撚糸文土器深鉢もある。これらは北陸の新保・新崎式(縄文中期前葉)に類似すると指摘さ れている。よって、深沢T式古相は須多ケ峯遺跡例の1時期に併行する。
横帯・縦帯文様構成の規格化は、飯山市須多ケ峯遺跡では、それほど顕著ではないが、新潟県下の新崎
式土器では横帯・縦帯構成をとるものがある(第16図)。
つまり、深沢T式の古相では、横帯・縦帯文様構成は始まってはいるが、まだ盛期を迎えず、深沢T式
新相から横帯・縦帯文様構成が増加し、それらに隆起線を基軸とした規格化が深沢U式に盛期を迎える。
深沢T式新相では深沢では2点の口縁がくの字に開く深鉢形土器があり、横帯・縦帯の文様構成による
隆起線文・半截竹管文や羽状の沈線文が施され、同部以下に単節斜縄文が施されるものがある。
半截竹管文上に交互刺突鋸歯文が頻繁に使われる種類もあり、これらの類は新潟県津南町上野遺跡でも
散見され、そこでは横帯・縦帯構成文と深沢型隆起垂下文のうち、しの字形継手付隆起垂下文が始まっ ている例があり、深沢T式新相と考えられる。上野遺跡では発掘資料による限り、深沢T式の古相・新相 を網羅し、むしろ上野式が深沢T式を代表するものと考えられる。
深沢T式・上野式とも、千曲川(信濃川)流域包含圏であり、新潟県北部までも広がる新崎式文化圏で
は、関東の五領ヶ台式土器の影響を受けやすい地理的位置にあり、深沢T式・上野式こそが、五領ヶ台式 後半と新崎式との併行関係を実証できるのである。
深沢U式は深沢T式の発展したもので、換言すれば、新崎式土器から発展したものと言えるし、関東
的な五領ヶ台式後半土器からの発展もみられる。概して、横帯・縦帯の文様構成の著しい規格化が深沢U 式土器の特徴であり、半截竹管文の引き続きの使用とともに半截竹管半隆起線文や隆起文が発達してくる 時期である。隆起文・半截竹管半隆起線文は文様構成の基軸となり、6字形文から発展した深沢型渦巻 き文がアクセントとして諸所に配られる。。
縄文式土器の分類上の深鉢形土器は、深沢遺跡では深鉢形・円筒形・カメ形土器に呼称したほうが便利
である。大型の土器は深沢U式では円筒形・カメ形をなすものが多く、中型土器は口縁がくの字形に反る 深鉢形が多い。
中型や大型の土器類は口縁部から頸部に文様が集中し、口縁部付近ではT式新相から蓮華文が減り、
U式にかけて縦列半截竹管文が多くある。頸部以下に単節斜縄文や単節羽状縄文もあり、口縁から頸部 の隆起線には6字形文やその発展形の渦巻き文がある。大型の円筒形やカメ形土器には単節斜縄文や羽状 縄文で埋め尽くされる種類もある。
文様のある種類では、口縁部付近は横帯文様があり、頸部以下には、深沢型隆起垂下文(6字形=し
の字形継手・渦巻き形・くの字形付の各隆起垂下文)が配られる。土器文様は3単位・4単位・その他で 配られ、概して小型・中型は3単位、大型は4単位の繰り返しの文様帯が多い(注21)。これらは時代 差ではなく、器種による違いである。
概して、やや小型の深鉢形土器では器面全体を半截竹管文と半截竹管半隆起線文や隆起線で飾られる例
が多いのは、大型深鉢形土器類との時間差ではない。因みに深沢T式と併行関係にある新崎式土器は中型 の深鉢形土器が多く、器面全体に半截竹管文で、充填されるものがあり、その影響下で深沢U式では、引 き続き小型の深鉢形土器類に縄文以外の文様で充填された例が多く、隆起文の度合いが増える。
深沢U式新相では、交互刺突鋸歯文も残存し、それが隆起線文に加わると、渦巻き文と連結して蛇身
装飾文に見えるところがある。蛇身装飾の末端は波形文のようになっており、のちの火焔型土器様式の 鋸歯状突起とされる部分と同じ意匠である。深沢U式新相では、特に土器口縁部に発達したものがあり、 大型・小型に係わらず、施文されている。
深沢式以降では、本格的火焔型土器様式には、まだ数型式を経なければならないが、火焔型土器様式
のうち、その特徴的文様の鋸歯状突起の萌芽が深沢U式土器の新相にあることは間違いなさそうであ る。小型深鉢の、くの字形に外反する口縁部を有する例も、隆起線や半截竹管文で埋め尽くされ、のちの 優美な火炎形小型深鉢に通ずるものがあり、飾られた特殊土器の萌芽であろう。
なお、深沢T式新相から深沢U式にかけての時期内に、関東の阿玉台式前半土器に類似する深鉢形土器
が僅かに伴うが、はっきりとした所属時期はつかめなかった。こうした関東的土器様式は、他に、五領ヶ 台式後半土器の影響下にある土器も散見され、深沢T式に伴う部分は明らかであるが、深沢U式に伴うも のが五領ヶ台式の以後の時期か否か指摘される向きもあるかもしれない。
因みに、深沢U式の第6図2・4の器形やT字形橋状交差隆起線文・半截竹管文・半隆起線文の文様構
成は五領ヶ台式後半土器の関連性もあるが、五領ヶ台式後半の時期以後でも残りうるものである。また、 飯山市内の遺跡既出資料には五領ヶ台式的口縁部を有する土器に長手の楕円形区画隆起文が付随する例も あり(19図4)、狢沢・新道様式に併行し、深沢U式前後のものと考えられる。
また、深沢遺跡の五領ヶ台式的な、6図2・4の土器に深沢U式新相的な大型・小型の深鉢形類(6図
3・5・6・7)を伴っており、そこの波形突起文は勝坂式様式初期の狢沢式と次期の新道式とされるも のにも東京都の例で認められるものがある(注22)。深沢U式は勝坂式様式初期前後の併行時期内に求 めることは妥当である。ただ、狢沢式か新道式併行かの問題は、狢沢・新道式間の1時期併行として把握 して、両型式が分離できるかは、今後の課題としておく。なお、慎重を期して、五領ヶ台式末期も深沢U 式の古い範囲内に入れておきたい。
狢沢式は深沢T式新相かU式に伴う阿玉台式前半系土器のような関係であり、狢沢式を新道式に伴う阿
玉台式系影響下の土器と考えたい。長く美術家としても係わってきた私の目でも、狢沢・新道式の区別は 極めて難解である。なお、新道式的様相も五領ヶ台式末期以降に散見されるものがある。
ここで結論として、深沢T式は五領ヶ台式後半〜末期と新崎式、各前後時期併行に考え、U式は五
領ヶ台式末期〜狢沢・新道式前後、換言すれば北陸の新崎式末期から上山田式内のいずれかに併行す ると考えたい。但し、狢沢・新道様式の後半期まで、深沢U式が併行するか否かは明らかではない。深沢 T式は縄文中期前葉に、深沢U式は縄文中期前葉末から中葉初期に架かる時期のいずれかとしたい。
上山田式については中野市姥ヶ沢遺跡A地区の深沢T式新相期住居址に前兆的文様のものがある(第1
7図の6)。やはり、深沢U式に上山田式が主に併行すると考えられるが、上山田式の後半まで併行する か否かは明らかではない。
なお、北陸地域を取り巻く型式の煩雑さを防ぐとすれば、深沢T式は上野式に包括され、深沢U式こそ
深沢式土器を代表するものと把握したい。その分布は、今のところ長野県北部の千曲川流域包含圏から 新潟県南部地方に多く認められる。変容した種類は、長野県内・新潟県・群馬県まで広がっているとさ れる(注23)。
5、おわりに
深沢遺跡発掘からすでに50年以上を経過し、調査にあたられた先生方にはすでに鬼籍の人となられた
方々があり、それらの先生方の恩に報いることも出来ず、浅学非才も恥じる次第である。また、調査にあ たられた学生さんや地主さんや地元の関係者各位、学校関係者、学校先輩各位など、多くの人の協力で深 沢遺跡の発掘が行われた。
その成果は『深沢遺跡研究概報』としてすでに報告された。ただ当時は、地方ではまだ市町村による文
化財保護の機運が少なく、研究者が高校生を主力として発掘調査し、指導にあたる体制がほとんどであり 高校生による調査報告となった。その内容は学校教育の枠を超えた高度の内容であることを現在でも示し ている。
しかし、実測図や調査所見など補充すべき点が多々あり、筆者もその協力にあたったが、なお、補充す
べきことが山積している。深沢遺跡では、土偶が表面採集3個以外に、約40個体以上発見され、単位面 積では日本では珍しいことと注目され、出土土器も縄文中期前半における深沢式土器として位置づけが可 能な重要資料として注目されている。
深沢出土土器については、すでに深沢式土器としての認識で、幾多の研究者の論文が発表されたが、調
査遺構ごとの分析がまだ不十分であり、その点は中学・高校生時代から深沢遺跡に係わってきた筆者の責 任が多々あり、反省している。
このようなわけで、深沢式土器の理解に、愚見を披露した次第である。本稿は、すでに述べられている
研究を撹乱したかのような印象を免れないが、僅かながらも調査所見を知る一人として、あえてこの難問 に挑んだわけである。先学研究者各位の論文に重なる同一見解を明記できない恐れを残しつつ、大方のご 叱正を承りたい。
なお、深沢遺跡の範囲は、2haをはるかに超すことが表面採集で感じており、舌状台地の中央は遺物
の分布が希薄で、台地の縁辺に集落址が広がる環状集落の可能性がある(注24)。発掘区はこの北端 にあたり、集落址は南方に拡大することが調査区全体図でも明らかであろう。縄文中期前半における定住 生活の痕跡がここに残されていることは、そのこと事態が重要な学術的価値をもつといえる。
青森県三内丸山遺跡や長野県阿久遺跡の例で、縄文前期に、集落の定住化が進むかのような印象が強い
が、それらはごく限られた拠点的遺跡であり、実際は縄文前期から中期初頭にかけて、山間や川沿いの小 規模遺跡が多く、定住化というよりも、猟場を求めての移動生活もあることは周知されているはずである (注25)。
縄文中期前葉の新崎式土器については北陸地方のみならず、長野県内から新潟県北部地方にまで分布域
が広がっている。その中で、新崎式の後半ごろから深沢遺跡は早く定住化が定まった遺跡で、土偶も深沢 T式新相〜U式期では確実に増加する傾向が認められる。
深沢T式新相からU式にかけて、この地方独特の深沢式土器様式が確立することも、定住化の促進
と関係があろう。定住化はクリ・クルミなどの堅果類の管理栽培の可能性も論議されることになり、実 際深沢遺跡の発掘ではクルミの炭化物が多く出たと報告されている。深沢遺跡で、深沢式土器を出す竪穴 が焼土を欠く例は、本稿でも指摘した貯蔵施設の検討が望まれる。これも定住化のゆえの現象かもしれな い。
土偶の縄文中期前半に増加する傾向は、やはり定住化に向かう集落が多いことに起因しよう。大型中
空土偶の存在も定住化のゆえの存在であり、中小土偶と併せて複雑な祭祀・信仰があったと推察で きる。狩猟(注26)・採集・場合によっては管理栽培の生活と地母神信仰が重なったものとも思われ、 深沢遺跡の重要性はその点にもある。
深沢U式土器の分布主要範囲は現在のところ、北信地方と新潟県南部地方に中心があり、それは、とり
もなおさず縄文中期前葉末から中期中葉初めにかけて定住化の拠点集落がふえ、人の行動もその地域圏に 収まりつつあり、地域圏独特の深沢式土器様式が確立したといえる。千曲川中流域包含圏に花開いた文化 が深沢式文化圏ともいえようか。
因みに、かつて、同じ新崎式の文化圏にあった北陸地方中心域では上山田・天神山式といった深沢U式
とは異なる土器様式が確立してくる。他方、関東や中部高地でも勝坂式土器様式の地域圏が確立し始めて いることは周知の事実である。
縄文時代を通じての全体像のなかで、中部高地とその外郭圏で縄文中期前半から定住生活の兆しが現れ
る遺跡の一つが深沢遺跡なのであり、深沢遺跡の重要性はそこに強調されよう。深沢式土器の設定は遺跡 の実態を解くうえで必要不可欠なものであり、必然性は理解されたと思う。但し、あくまでも筆者の見解 であり、識者のご検討を願う次第である。
それにしても、著名遺跡が次々に開発の波に消えてゆく現在、深沢遺跡の中心部はまだまだ、その原形
をとどめており、高社山を望む緩やかな台地の景観は原始生活を彷彿とさせるに充分であり、その点から も遺跡の重要性が増す。現在、遺跡の北端において、開発の波が押し寄せており、早急な保護対策が必 要である。早く史跡指定なりの動きが出ることを望む次第である(注27)。
なお、本稿提出にあたってご協力をいただいた『飯山市ふるさと館』の皆様に御礼を申し上げる次第で
ある。遺跡の出土品は現在ふるさと館が管理しており、筆者が所蔵しているのは表面採集品のみであるこ とを付記しておきたい。
参考文献
注1松澤芳宏2015「飯山市静間山の神遺跡の魚形線刻画土器の魚類観察」インタ−ネット『松澤芳宏
の古代・中世史と郷土史』の一項
松澤芳宏2015「飯山市静間山の神遺跡の魚形線刻画土器の魚類観察」『奥信濃文化第25号』飯
山市ふるさと館友の会(前掲論文を整理し、提出したもので、深沢式土器の新案を若干提示)
2松澤芳宏 2009「深沢遺跡のあれこれ」『高井169号』
3(注2)の文献に土偶の表面採集品と発掘品の区別をしておいた。
4飯山北高校地歴部1966『深沢遺跡研究概報』
5西沢隆治1982「深沢遺跡」『長野県史』考古資料全一巻(2)主要遺跡 北・東信
6金井汲次・檀原長則・田川幸生・池田実男・小野澤捷・岩戸啓一1983『姥ヶ沢』中野市教育委員
会。特に檀原氏が深沢型土器について縄文中期前葉として詳述している。
7黒岩隆1993「第1編原始・古代のうち第2章第2節3・深沢遺跡」『飯山市誌歴史編上』
8 寺内隆夫2006「飯山市・深沢遺跡出土土器研究の現状」『長野県考古学会誌111・113・
115・116号』は長野・新潟県に亘る深沢土器の分類と分布を網羅した労作。但し、深沢式の分 類については私と異なり、西沢隆治氏や黒岩隆氏らと同じく文様推移論を採る。早くから文様推移論 か一括資料時間的位置論か論議の的となっているが、両者を総合した議論が必要となる。
ただし、机上の文様推移論を詳細展開すると、原始時代の実際の時間的位置に矛盾が生ずる。現に
深沢遺跡遺構群ごとの土器型式と文様推移論では時期が合わないことが判明する。これは机上の文様 推移論が細かすぎることに起因する。現段階では大きな枠のなかで型式設定をすべきと考えている。 文様推移も、さまざまな地域で混沌とした枠のなかで展開し、現在に生きる我々が、少ない資料をも とに、土器型式を暗中模索している次第である。このようなわけで、私は3氏の深沢式3類以上の編 年とは異なり、深沢T・U式とする単純案を提唱したわけである。
9福島邦男1980「縄文時代中期」千曲川水系古代文化研究所『編年』
10常盤井智行・黒岩隆1995「縄文時代土器」飯山市教育委員会・長野県北信地方事務所『須多ケ峯
遺跡』
11(注7)に同じ。この例は中期前葉の半ばごろか、やや前か後考を待つ。
12(五領ヶ台式V期分類の内のU期)雄山閣1996『日本土器辞典』
13雄山閣1996『日本土器辞典』267頁
14谷井彪1996「五領ヶ台式土器」『日本土器辞典』雄山閣
15宮崎博1981「[1978年度調査のまとめ」前田耕地遺跡調査会・秋川市教育委員会『前田耕地
V』
16前田耕地遺跡調査会・秋川市教育委員会1981『前田耕地V』
17室岡博・関雅之他1974『長峰遺跡発掘調査報告』吉川町教委委員会
18南久和1996「上山田・古府式土器」『日本土器辞典』雄山閣
19(注9)に同じ。
20江坂輝也・石沢寅二・可児弘明・益田和彦1962『上野遺跡』津南町教育委員会
21(注7)で展開写真図を入れて説明し、便利である。
22谷井彪1996「勝坂式土器」『日本土器辞典』雄山閣269頁
23(注8)文献で詳しく触れられている。
24 深沢遺跡近隣の飯綱町上赤塩遺跡でも、定住化ゆえの環状集落の可能性が記述されている(小柳義
男他1997『上赤塩遺跡発掘調査報告書』三水村教育委員会)。上赤塩遺跡は深沢T式・U式期の 遺跡で、客体として、五領ヶ台式系、新崎式系、阿玉台式系、狢沢・新道式系、上山田式系の良好な 土器資料がある。深沢遺跡・姥ヶ沢遺跡と並んで、深沢式土器や生活様式を究明する貴重な遺跡であ る。
3遺跡共に発掘面積が狭いにもかかわらず、土偶が多量に発掘されていることは深沢式文化圏の大
きな特徴である。深沢式地域圏の定住集落化が進んでいることや、狩猟・採集以外の生業、すなわち 堅果類の管理栽培や栽培植物の検討も研究課題として挙げられる。
25 千曲市蝶葉遺跡などは縄文中期前葉における山間の小規模遺跡の例である。関孝一1966「長野
県埴科郡戸倉町蝶葉遺跡の調査」第V次『信濃』18の4。
26 松澤芳宏1969「縄文中期におけるある種の礫器」『長野県考古学会誌7号』にある礫器につい
ては、深沢遺跡発掘の際、小林重義氏が指摘されたものであったが、(注4)では採用されず、その 後表面採集資料を小生が報告したものである。ここで名称を扁平・饅頭形礫器と命名し、皮なめしな どに適した狩猟生活の副次的道具である可能性を提起したい。中野市姥ヶ沢遺跡・飯綱町上赤塩遺跡 ・東京都秋川市前田耕地遺跡7号住居址(五領ヶ台式後半期)などでも報告されている。
27 地元の人達によると深沢遺跡の西側の谷に湧水帯があり、付近の耕地から土器片がかなり出たとさ
れるから、斜面を流れた遺物群があると思われ、さらに湿地帯であることにより、木製遺物の発見が 可能な場所である。谷底まで遺跡範囲に含むべきかもしれない。
その他の参考文献
1高橋桂1966「深沢遺跡」『秋津村誌』飯山市公民館秋津分館
2高橋桂1971「深沢遺跡及び出土品」『飯山の文化財』飯山市教育委員会編
3飯山市教育委員会1994『南原・深沢遺跡』飯山市埋蔵文化財調査報告37。国道117号線静間・
替佐間のバイパス道路事前調査によって、深沢遺跡最北端の一部を発掘調査、落とし穴状の土坑1箇所な どが発見された。南原は飯山市内の別遺跡。 4松澤芳宏2016「縄文中期深沢式土器の再検討」―火炎形土器の萌芽・飯山市大字蓮の深沢遺跡発掘
資料を基準にして―『奥信濃文化第27号』飯山市ふるさと館友の会(2016・10・27追記) hukasawasikidoki.pdf へのリンク 5松澤芳宏2016「縄文中期・深沢遺跡の概要」『奥信濃文化第27号』飯山市ふるさと館友の会(2 016・10・27追記) 6松澤芳宏2020「火炎型(波頭型)土器の萌芽は深沢式土器(十日町市にも分布する深沢U式土器の 意義)『奥信濃文化第35号』飯山市ふるさと館友の会発行雑誌kaenngatadokinohouga.pdf へのリンク (2020・12・2追記)
(平成28年2月2日記、3月7日更新)
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